●第4章:過去という名の壁

 真夏の陽射しが照りつける七月末の土曜日。彩花はエアコンの効いた自室で、古いアルバムを開いていた。久しぶりに実家から持ち帰った思い出の品々が、床に広げられている。


 アルバムの一枚目には、幼い彩花が写っていた。両親に挟まれて笑顔を見せる写真。けれど、その笑顔の裏には、すでに「良い子でいなければ」という重圧が隠されていた。


「お父さんとお母さん、いつも忙しかったわね」


 両親は共働きで、彩花はいつも一人で留守番をしていた。自分の感情を押し殺すことを覚えたのは、その頃からだったのかもしれない。


 ページをめくると、高校時代の写真が出てきた。クラスメイトたちと肩を組んで写る集合写真。そこには、彼もいた。


「佐伯くん……」


 高校二年生の時、彩花が初めて本気で想いを寄せた同級生。クラスの人気者で、誰とでも分け隔てなく接する明るい性格の持ち主だった。


「あの時、もう少し違う方法があったのかしら」


 放課後の教室で、彼に想いを告げた日のことを思い出す。夕暮れの橙色の光が差し込む中、彩花は精一杯の勇気を振り絞って言葉を紡いだ。


「ごめん、そういう目で見たことなかったんだ」


 あっさりとした返事。その言葉は、彩花の心を深く傷つけた。けれど、それ以上に彼女を苦しめたのは、その後の日々だった。


「大丈夫?」「気にしないで」


 周囲からの同情的な言葉。それは優しさのつもりかもしれなかったけれど、彩花にとっては自分の失敗を際立たせるだけだった。


 アルバムの次のページには、大学時代の写真がある。キャンパスで友人たちと笑顔で写る彩花。表面上は、誰もが羨むような充実した大学生活を送っていた。


「でも、本当の自分を出せなくなっていたのよね」


 佐伯との一件以来、彩花は恋愛に対して消極的になっていった。「どうせ私なんて」という言葉が、いつしか彼女の心の奥底に根付いていた。


 社会人になってからの写真を見つめる。入社式での凛とした姿。チームリーダーに昇進した時の記念写真。仕事の世界では、彩花は確かな成功を収めていた。


「仕事なら、結果で証明できるから」


 けれど、それは同時に、人間関係における彼女の壁をより高くしていった。「完璧でなければならない」という強迫観念が、彼女を縛り付けていく。


 そんな中で出会った元彼・水島との写真が目に入った。真剣に付き合った唯一の男性。三十歳を過ぎて、ようやく心を開こうと思えた相手。


「君って何でも一人で抱え込むよね。俺、必要ないんじゃない?」


 別れ際の彼の言葉が、今でも耳に残っている。その時の痛みが、彩花をさらに殻に閉じこもらせた。


 写真を一枚一枚眺めながら、彩花は気づいた。自分がいかに人を遠ざけ、心の壁を築いてきたかを。


 その時、スマートフォンの着信音が鳴った。颯真からのメッセージだった。


『結城さん、明日の打ち合わせの資料、確認していただけましたか? 気になる箇所があって……』


 仕事の内容に関する真摯な問いかけ。けれど、その文面からは、いつもの颯真らしい優しさが感じられた。


「神崎くんは、私の殻を少しも気にしないのよね」


 彼との会話を思い出す。颯真は決して強引に彩花の心に踏み込もうとはしない。けれど、その分、確実に彼女の心の奥底に触れてくる。


 返信を書きながら、彩花は複雑な感情に包まれた。これまでの恋愛とは、何かが違う。颯真との関係は、彼女の築いてきた壁を、少しずつ、でも確実に溶かしていくような感覚があった。


「私、変われるのかしら」


 呟いた言葉が、静かな部屋に響く。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。



そんな矢先、彩花の携帯電話が鳴った。父からの着信だった。


「お父さん? どうしたの、こんな時間に」


『彩花、母さんが倒れたんだ』


 その一言で、彩花の頭の中が真っ白になった。


『今、救急車で総合病院に向かっているところなんだ。検査が必要だって』


「わかった。すぐに行くわ」


 電話を切った彩花の手が震えている。いつも強がっていた自分が、この時ばかりは取り乱しそうになった。


「結城さん?」


 颯真が心配そうに声をかけてきた。


「母が……急に入院することになって」


 声が上擂っているのが自分でもわかった。一人で抱え込むことに慣れていた彩花だが、この時ばかりは違った。目の前が霞んで、足がすくむ。


「すぐに病院に行きましょう。僕が運転します」


 颯真の声が、冷静かつ温かく響く。


「でも、これから重要な会議が……」


「そんなことより今は、お母様のことが先決です」


 颯真は即座に上司に連絡を入れ、状況を説明した。そして、彩花の荷物を手際よく整理すると、彼女を社用車まで導いた。


 車の中で、彩花は必死に涙をこらえていた。窓の外の景色が流れていく。


「結城さん」


 颯真が静かに声をかけた。


「泣いてもいいんですよ」


 その言葉で、彩花の堰が切れた。


「私、母のことをちゃんと理解していなかったかもしれない」


 震える声で彩花は話し始めた。


「いつも厳しくて、感情的になることを許してくれなくて。だから、どこか距離を置いてきた。でも、それは間違いだったのかもしれない」


「どうしてそう思うんですか?」


「昨日、久しぶりに電話で話したの。母が『あなたも無理しすぎないでね』って。初めて、母の優しさに気づいた気がした。なのに、こんな形で……」


 颯真はハンドルを握りながら、静かに聞いていた。


「私、人との距離の取り方を間違えていたのかもしれない。仕事でも、プライベートでも」


「それは、結城さんなりの精一杯の生き方だったんじゃないですか?」


 颯真の言葉に、彩花は顔を上げた。


「完璧を求められる環境で育って、自分を守るために作った殻だったかもしれない。でも、それは結城さんが強かったからこそできたことです」


「強かった……?」


「ええ。でも、強さって、時には弱さを認めることでもあると思うんです」


 彩花は黙って颯真の横顔を見つめた。


「結城さんのお母様も、きっとそれを伝えたかったんじゃないでしょうか。完璧な娘である必要なんてない。ありのままでいい。そう」


 彩花の目から、また涙が溢れた。けれど、今度は違う種類の涙だった。


「神崎くん、ありがとう」


「何がですか?」


「私の本当の気持ちを、こんなに聞いてくれる人は初めて」


 颯真は優しく微笑んだ。


「僕は、結城さんのことをもっと知りたいんです。強い部分も、弱い部分も、全部ひっくるめて」


 病院に着くと、颯真は彩花に言った。


「僕はここで待っています。必要な時は、いつでも呼んでください」


 その言葉に、彩花は深く頷いた。初めて、誰かに心から頼っていいんだと思えた瞬間だった。


 数時間後、戻ってきた彩花に、颯真は温かいコーヒーを差し出した。


「母の容態は落ち着いたわ。検査入院になるけど、大事には至らなかった」


 安堵の表情を浮かべる彩花に、颯真も安心したように微笑んだ。


「これからは、もう少し実家に顔を出そうと思う」


「それはいい考えですね」


「神崎くん」


「はい?」


「今日は、私の新しい一面を見せてしまったわね」


「いいえ」


 颯真は真摯な眼差しで彩花を見つめた。


「結城さんの大切な一面を、見せていただいたんです」


 夜の病院の駐車場で、二人は長い間、言葉を交わした。それは上司と部下という関係を超えて、一人の女性と一人の男性として、心を通わせる時間だった。



日曜の午後、彩花は母の入院する病室を訪れていた。手術は無事に終わり、母は窓際のベッドで静養していた。夏の陽射しが白いカーテン越しに差し込み、穏やかな空気が流れている。


「お母さん、具合はどう?」


「ええ、だいぶ良くなったわ。彩花が来てくれて嬉しいわ」


 母はそう言って、ベッドの横の椅子を示した。彩花が腰を下ろすと、母はじっと娘の顔を見つめた。


「最近、表情が柔らかくなったわね」


「え?」


 思いがけない言葉に、彩花は驚いて顔を上げた。


「そうよ。何かいい出会いでもあったの?」


 母の問いかけに、彩花は言葉に詰まる。その様子を見て、母は優しく微笑んだ。


「母親はね、子供の小さな変化にも気づくものなの。特にあなたは、いつも自分の中に何かを抱え込んでいたから」


「私が……?」


「そうよ。小さい頃から、『いい子』でいようとし過ぎていた」


 母の言葉に、彩花の胸が締め付けられる。


「私たちが共働きで、あなたを一人にすることが多かったから。あなたはきっと、私たちに心配をかけまいとして、自分の気持ちを押し殺すことを覚えてしまったのね」


 母の声には、深い後悔の色が滲んでいた。


「違うの、お母さん。それは私が選んだ道だから」


「でも、その選択が、あなたを孤独にしてしまった。恋愛でも、人付き合いでも、いつも一歩引いて、自分を守ることを優先してきたでしょう?」


 その言葉に、彩花は黙り込んだ。母は娘の手をそっと握った。


「あの子、毎日のようにメールをくれるのよ。私の容態を気遣って」


「神崎くんのこと?」


「ええ。純粋で、でも芯の通った青年みたい。あなたのことを、本当に大切に想ってくれているわ」


 彩花は俯いた。


「でも、私には資格がないと思うの。十歳も年下で、これから伸びていく人だから。私みたいな不器用な女が、彼の人生の邪魔をしてしまうんじゃないかって」


「彩花」


 母の声が、優しくも力強く響く。


「誰にも、他人の人生を決める資格なんてないの。あなたにも、彼にも。ただ、二人がお互いを想い合って、支え合おうとする。それだけで十分なはずよ」


「お母さん……」


「私ね、あなたの笑顔を見たくて、ずっと祈ってきたの。仕事で成功することも大切だけど、それ以上に、あなたが誰かと心を通わせて、本当の幸せを見つけることを」


 母の瞳には、涙が光っていた。


「完璧な大人である必要なんてないの。時には弱音を吐いて、時には甘えて、それでいいの。あなたの不器用さも、優しさも、全部含めてあなたなのよ」


 その言葉に、彩花の頬を涙が伝う。


「私ね、神崎くんと話していると、自然と素の自分が出てしまうの。怖いような、でも心地いいような……」


「それが恋なのよ。誰かを好きになるということは、自分の殻を少しずつ破っていくこと。だから怖いし、だからこそ美しいの」


 母は柔らかな笑顔を浮かべながら、彩花の頭をそっと撫でた。まるで小さな頃のように。


「これからは、もっと自分に正直になっていいのよ。幸せになることを、恐れないで」


 夕暮れが近づき、病室の窓から差し込む光が橙色に変わっていく。その光の中で、彩花は長い間、閉ざしていた自分の心が、少しずつ開いていくのを感じていた。


「ありがとう、お母さん」


 帰り際、彩花は心からの笑顔で母に告げた。それは、まるで少女の頃のような、純粋な表情だった。



 その週明け、彩花は早朝のオフィスで資料を確認していた。


「結城さん、おはようございます」


 いつものように颯真が現れる。彼の自然な笑顔に、彩花は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「神崎くん、おはよう」


 週末の間、自分の過去と向き合った彩花。その目には、いつもとは違う何かが宿っていた。


「資料、確認させていただきました。素晴らしい内容だと思います」


「本当ですか? ありがとうございます」


 颯真の嬉しそうな表情に、彩花は思わず微笑んだ。


「ただ、ここの部分をもう少し……」


 二人で資料を見直しながら、彩花は決意を固めていた。これまでのように、ただ仕事だけの関係に留めておくのは、もう違うような気がしていた。


 颯真の真摯な眼差しに触れるたび、彩花の心の壁は少しずつ崩れていく。それは怖くもあり、けれど、どこか心地よい感覚でもあった。


「結城さん?」


「ごめんなさい、ちょっと考え事をしていて」


 はっとして我に返る彩花。颯真の心配そうな表情に、胸が熱くなる。


「大丈夫ですか?」


「ええ。ただ、少し……いろいろと整理できてきたような気がして」


 その言葉に、颯真は静かに、しかし確かな温もりを持って微笑んだ。彩花は気づいていた。この人となら、少しずつでも、自分の心を開いていけるかもしれないと。


 オフィスの窓から差し込む朝日が、二人の姿を優しく照らしていた。過去という重い壁は、まだそこにある。けれど、それを乗り越えていく勇気が、彩花の心に芽生え始めていた。

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