後日談③ バレンタイン

 ◇


 二月の寒さは、なんだかチクチクしている。


 空気に氷の棘が生えているみたいだ。


 それでも、私はこの季節がわりと嫌いじゃない。


 1月は冬。3月は春。冬から急に春になったら驚いちゃうでしょうって事で、用意された猶予の2月。


 なんかこう、新しい季節が始まる心の準備をする季節というか。


 うまく言えないけど、配慮があるなぁって思う。


 まあでも、私のこの「2月論」は誰にでも理解はしてもらえないんだけれど。


 ──亜里香以外は。


 いつもどおりに学校へ向かう電車の窓から外を眺めていると、ふいにバレンタインの大きな広告が目に留まった。


「ああ、もうそんな時期か」


 自然とそんな言葉が口をついて出る。


 ◇


 バレンタインといえば、チョコレートや甘い香り、そして少し浮ついた雰囲気が毎年の風物詩になっている。


 クラスでも「今年は友チョコ何個用意しよう?」とか「本命チョコは……」なんて話題が増え始め、少なからず私もソワソワしてしまう。


 だけど、私自身は“好きな人”にチョコを渡すという感覚がいまひとつピンとこなかった。


 去年までは、親しい友達にお菓子を配る“友チョコ”文化に乗っかって、それなりに楽しんでいた程度。


 でも今年は違う。


 ◇


 その“違う”の正体は、おそらく亜里香の存在だと思う。


 私の幼なじみであり、今でも大切な友達。


 でも、同時に最近はちょっとだけ意識してしまう部分がある。


 とはいえ、周囲から見ればただの仲良し同士だし、私自身も「女の子同士で恋愛なんて……」とどこか違和感を抱いているのは事実だ。


 だから、“恋”という言葉を簡単には使いたくない。


 それでも、亜里香の隣にいると妙に落ち着くし、逆に離れているときに彼女が誰かと仲良くしているのを見ると、少しだけ胸がざわつく。


 そういうモヤモヤした気持ちを、私は整理しきれないまま冬を過ごしていた。


 学校に着くと、クラスメイトたちはバレンタインの話題で盛り上がっていた。


「友里はどうするの? 今年も友チョコ配る?」


 誰かがそう声をかけてくる。


 私は「まあねー、去年と同じくらいかな」と曖昧に笑って答えた。


 実際のところ、まだきちんと考えていなかったからだ。


 ◇


 授業が始まっても、心はどこか落ち着かず、板書をノートに写しながらも頭の隅で別のことを考えている。


 ──亜里香にチョコを渡すとしたら、どんな形がいいんだろう。


 しかも“女の子同士”というのが、私の中ではまだ踏ん切りがつかない問題だった。


 本当に恋愛感情なのか、それともただの友情なのか。


 考えすぎるほど混乱してしまいそうだから、なるべく深く考えないようにしているのに、もうバレンタインは目と鼻の先に迫っている。


 放課後、部活が終わって校舎を出ようとしたとき、ちょうど亜里香が昇降口で待っていた。


「友里、お疲れさま。今日は一緒に帰れそう?」


 その問いかけに、私は「うん、帰ろうか」と答える。


 二人で並んで校門を出ると、夕暮れの冷たい風が頬をかすめた。


「寒いね」


「うん……本当、寒い。手が冷たくなる」


 そんな何気ない会話を交わしながら歩いていると、私はふと胸が温かくなるのを感じる。


 ◇


「そういえば、もうすぐバレンタインだけど」


 私が思い切って振ってみた話題に、亜里香は「うん、だね」と穏やかに頷く。


 彼女の声に特別な変化はなく、いつもどおりの自然体。


「友チョコとか作るの?」


「少しだけ、文芸部の友達に配ろうかなって。……友里は?」


「私も、クラスメイトと部活の先輩にいくつかあげようと思ってる。でも、今年はどうしようかなって、なんとなく悩んでて」


「そっか。どうして悩んでるの?」


「うーん、わかんない」


「友里って文系の素質ないよね」


 文系の素質ってなんだろう? と思いながら、私たちは一緒に帰路についた。


 ・

 ・

 ・


 そのまま何気ない会話で盛り上がり、いつもの分かれ道に差しかかる。


「じゃあ、また明日ね」


「うん、風邪ひかないようにね」


 手を振って分かれた後、私は心の中でそっとため息をつく。


 ──どうして私はこうも中途半端なんだろう


 女の子同士でこんな気持ちを抱くのは、ちょっと変かもしれない。


 でも、亜里香が相手だからこそ、私は自然にそう思えるのかもしれない。


 ──「私が私だから”好き”と思ってくれるわけじゃなくて、女の子だとか男の子だとか、そういうことじゃないのかも」


 頭の中にそんな言葉が浮かび、しばらく足を止めたまま考え込んでしまった。


 ◇


 翌日、教室の隅でノートを整理していると、亜里香が「土曜日、暇?」と声をかけてきた。


「土曜日? 午前中は部活あるけど、午後は特に予定ないかな」


「そっか、じゃあさ……一緒にチョコ作らない? 文芸部の子への友チョコとか、自分用とか」


「え……」


 思わぬ提案に一瞬驚く。


「もし友里も良かったら、友チョコ作り手伝ってほしいな、って思って」


 正直、私は“二人きりでチョコを作る”というシチュエーションを想像して、少しドキドキした。


 でも、女同士でお菓子作りをするのはよくある話だし、特に変な意味はないだろう。


「うん、いいよ。じゃあ、うちのキッチン使う? 母さんはたぶん気にしないと思うけど」


「ほんと? 助かる。私の家はあんまり調理道具なくて、狭いし」


「じゃあ決まりね。土曜日、午前中の部活が終わったら、うちでチョコ作ろう」


「うん、楽しみ」


 ◇


 そんなやりとりをしてから、数日があっという間に過ぎ去り、気づけばバレンタイン直前の土曜日がやってきた。


 部活を早めに切り上げ、私は急いで帰宅してキッチンを整える。


 母さんは今日は遅くなるらしいから気兼ねなく使えそうだ。


 ──どうせ作るなら、私も部活の先輩とかに渡す分を作ってしまおう


「でも、本命……とかじゃないしなあ」


 小さくつぶやきながら、自分の“本当の気持ち”について、まだはっきりできずにいる。


 ・

 ・

 ・


 ピンポーン、とチャイムが鳴って玄関を開けると、亜里香が「お邪魔しまーす」と笑顔を見せる。


「いらっしゃい。材料いろいろ買ってきた?」


「うん、クッキー用の粉とかチョコチップとか……よくわからないからたくさん買っちゃったかも。ああでも予算の範囲内だよ」


「大丈夫。余ったらこっちで適当に使うし」


 そんな気軽な会話をしながら、二人でキッチンに向かう。


 ◇


「結構広いんだね、友里んちのキッチン」


「まあ母さんが料理好きだから、道具だけは無駄に揃ってるよ。さ、作ろうか」


 亜里香は楽しそうに「うん!」と答え、エプロンをつける。


 私もエプロンを巻きながら、なぜか少し胸が高鳴っているのを感じた。


 ──本当にただのチョコ作り。それ以上でも以下でもないはずなのに


 ◇


 まずはチョコレートを砕く作業から始める。


 板チョコを包丁で刻むのは、意外と力がいるし、手にチョコがくっついて思いのほか面倒だ。


「もう手がベタベタになるね」


 亜里香が小声で笑う。


「でも、こういうのも楽しいよね。友達どうし、わいわい作る感じでさ」


「うん。女子だけの特権かもね」


 何の気なしに口にしたその言葉で、少しだけ胸がチクンとした。


 “女子同士”というのは、この気持ちにブレーキをかける理由の一つでもある。


 次に生クリームと合わせて湯せんにかけ、トリュフのベースを作る。


 ボウルにチョコを入れて、熱湯を張った鍋に浮かべるようにしてヘラで混ぜる。


「溶けるときの匂いって、なんでこんなに幸せなんだろう」


 亜里香が顔を近づけて、甘い香りを吸い込むように深呼吸する。


「ほんとだね。お菓子作りって、鼻まで楽しいんだよね」


 それぞれが好き勝手に話しながら作業していると、自然と緊張がほどけていく。


 ◇


 トリュフ用のガナッシュ生地を冷蔵庫に入れたあと、クッキー生地を作り始める。


 バターと砂糖を混ぜ、卵を加えて小麦粉を少しずつ合わせ、好きな形に成形する。


「何作るの? ハートとか?」


「うん、ハート型もいいし、普通の円形でもいいと思う。いろいろあっていいんじゃない? ああでもハートは友チョコにはちょっとアレかぁ」


「そうだね。じゃあ私は星型とか作ってみようかな」


 そんなふうに盛り上がりつつ、オーブンの余熱を設定し、生地を並べた天板を入れて焼き上げる。


 甘い匂いがキッチン中を満たした。


 私たちはボウルや道具を洗いながら、オーブンの前で待つ。


 少しすると、チョコの焼ける匂いとクッキーの香ばしさが混ざり合って、ただ呼吸するだけで幸せな気分になる。


「これはもう大成功だね、匂い嗅ぐだけでわかっちゃう」


 亜里香の呟きに、私も小さく頷く。


 ◇


 こんな風に話をしていると、私の中にあった“違和感”も、少しだけやわらいでいくのがわかった。


 女の子どうし、そう呼ばれることに最初は抵抗を感じていた。


 でも、亜里香が“女の子だから”私を好きになるわけじゃない。


 “私だから”気にかけてくれるのかもしれない、と考えると、不思議とあたたかい気持ちになる。


 私自身も、亜里香が“女の子だから”という理由で好ましいわけじゃない。


 “亜里香だから”落ち着くんだ。


 作り終わったトリュフやクッキーを、ラッピング用の小袋に詰めたり、リボンをかけたりしていると、いつの間にか夕方になっていた。


 母は仕事で帰りが遅いらしく、今日の夕飯は自分で用意する予定だった。


「お腹空かない?」


 私が訊ねると、亜里香は「そういえば、あまり昼食べてなかったかも」と苦笑する。


「じゃあ、軽く夕飯食べていく? 適当に作るけど」


「いいの? お母さん帰ってくるんだよね?」


「うん、遅いから多分気にしないし。むしろ歓迎だと思う」


 ◇


 そうして急きょ、二人で簡単なパスタを作ることにした。


 バレンタイン用の甘い香りでいっぱいだったキッチンが、今度はトマトソースの匂いに満たされる。


「部活で走った後だからか、すごくお腹空いてる……」


「わかる。私も何だかんだ立ちっぱなしで疲れたし」


 パスタを茹でながらトマト缶やニンニクを炒め、急ごしらえのソースを完成させる。


 塩コショウを少し多めにして、味をしっかり濃い目にした。


 テーブルに並べて「いただきます」と手を合わせたとき、私は何とも言えない幸福感に包まれていた。


 ひょっとすると、こんな風に亜里香とご飯を食べるだけで、私は満ち足りた気持ちになれるのかもしれない。


 ──これって、恋愛なのかな?


 でも、女の子同士で恋だなんて、まだしっくり来ない。


 ただ、そのあたりの疑問が不思議とどうでもよくなるくらい、“亜里香だから”嬉しいのだ。


 ◇


「おいしいね。……友里は料理上手だよね」


 亜里香がフォークをくるくる回しながら言う。


「いや、適当だよ。母が用意してる食材をただ炒めただけだし」


「でも、私一人じゃあこんなにうまくいかないと思うし。ありがとう」


「どういたしまして」


 そんな何気ない会話のキャッチボールが、妙に愛おしく感じられる。


 食べ終わって片付けを済ませると、外はすっかり真っ暗になっていた。


「もうこんな時間か。私そろそろ帰るね」


「うーん、母さんもまだ帰らないし……途中まで送るよ」


「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて」


 ◇


 リビングを出て、玄関でコートを羽織るとき、私の胸にまたモヤッとした感情が湧き上がる。


 ──もう少し、一緒にいたい


 でも、口には出せないまま「行こっか」とドアを開けた。


 家を出ると、夜の冷たい空気が頬を刺す。


 並んで歩く道は、街灯がまばらで少し暗かった。


「寒いね」


「うん……」


 そんな当たり障りのない会話をしながら、私はふと彼女の横顔を盗み見る。


 月明かりの下で見る亜里香の表情にどこか心を揺さぶられる。


「ねえ……」


 衝動的に口を開いてしまった。


「ん? どうしたの?」


 言葉がうまく紡げない。


「えっと……今日はありがとう。楽しかった」


「こちらこそ。たくさん作れて嬉しかったよ」


 そこで会話が途切れる。


 駅まであと数分というところまで来たのに、足が進まない。


 ──もう少しだけ、何かを伝えたい


 そう思った瞬間、私は亜里香の手を軽く掴んだ。


 彼女は驚いたように目を見開くが、抵抗しない。


「あ、あの……」


 言葉を探すようにして俯いたまま、私は彼女の手の温もりを感じ取った。


 キッチンの暖房が効いた暖かさとは違う、夜の冷え込みの中の体温。


 ──私は何がしたいんだろう


 瞬間的にそんな疑問が頭をかすめたが、それでも私は手を離せなかった。


「……亜里香は、私が女だから好きになったんじゃなくて、私が私だから好きだって言ってくれたんだよね?」


 突然の言葉に、彼女は戸惑ったようだ。


「え? えっと、うん……多分そうだと思う。私、女の子を好きになったのが初めてだから、正直よくわからないんだけど」


「そっか。……私も、同じかな。女の子にこんな気持ちになるなんて思ってなかったけど、亜里香だから変じゃないというか……」


「変じゃないよ」


 言葉が夜気に溶けていく。


 私は少しだけ顔を上げ、彼女の瞳を見つめようとする。


 月明かりだけでは表情がよく見えない。


 でもきっと、私と亜里香は同じ表情をしている──そんな事を思った。


「そっか。変じゃないんだよね。……それなら一緒にいてもいいのかな。どんな形でも」


 その言葉に、亜里香は目を細める。


「うん。私も、もっと一緒にいたいと思う。どんな形でもね」


 そう言い合ったら、急に肩の力が抜けるように楽になる。


 隣を歩いているだけで、こんなにも胸が温かくなるのが不思議で仕方ない。


 ──女の子どうしの恋愛って言葉がまだしっくりこない


 でも、亜里香と一緒にいたいって素直に思える。


 だから少しだけ勇気を出して、彼女との距離を縮めてみたい。


 思うやいなや、突然の衝動が私を突き動かした。


 夜の街灯の下で、私は亜里香の頬にそっと唇を寄せた。


「……え?」


 彼女の驚いた声が耳に届く。


 私だって驚いている。


 なんでいきなりこんなことをしちゃったんだろう。


 ◇


 女の子どうしでこんなこと、やっぱり普通じゃないのかもしれない。


 ──女だから男だから、そういう次元じゃなくて、亜里香だからしたいと思った


 唇を離すと、彼女は目を丸くして頬を手で押さえている。


「あ……ごめん。ちょっと……気持ちが抑えきれなかった」


 私は慌てて言い訳のように呟くが、心臓が爆発しそうなくらい高鳴っていた。


「い、いや……私も、驚いたけど……」


 亜里香は顔を赤らめ、でも笑っているようにも見える。


「嫌……だった?」


 恐る恐るそう尋ねると、亜里香は首を振った。


「ううん、……むしろ、嬉しいかも」


 ◇


 その言葉に、私は安堵の息をつく。


「そっか。……よかった。私、どうしても伝えたくなっちゃって」


「うん。伝わったよ」


 亜里香は少しはにかむように、まぶたを伏せた。


 それから私たちは無言で歩き続け──


「じゃあ、またね。……バレンタイン当日は、ちゃんとチョコ渡すね」


「うん、待ってる。私も渡すから」


 そう言い合って、私たちはほほ笑みあった。


 駅に向けて去っていく彼女の後ろ姿を見送ると、私は何とも言えない気持ちでその場に立ち尽くす。


 頬に残る温もりと、自分の唇が触れた感触が脳裏に焼き付いて離れない。


 ◇


「……亜里香が亜里香だから、好きになったんだな」


 静かな夜風が頬をかすめる。


 周囲の人々はそれぞれの帰路を急いでいるけれど、私はしばらくその場を動けなかった。


 後悔はない。


 これが本当に恋なのかはわからない。


 だけど、女だからどうとかいう理由じゃなくて、私は彼女が好きなんだなと思えてしまう。


 ──少しだけ、距離が縮まった気がする


 そう思うと、心がかぁっと熱くなった。


 こんな寒い夜でもへいちゃらだと思えるくらいに。


 ◇


 家に戻り、自室の窓から夜空を見上げる。


 月は雲に隠れたり顔を出したりを繰り返している。


 まるで私が亜里香へ抱く想いみたいだなと思った。


 さっきの出来事を思い出すだけで、顔が熱くなって仕方ない。


 でも心は満たされている。


 ──私が私だから亜里香は私が好き、亜里香が亜里香だから私は亜里香が好き


 それでいいのかな? 


 私は自分に尋ねてみた。


 答えは返ってこなかった。


 当たり前だ、とっくに答えは出ているのだから。


 ◇


 当日、どうなるのかな。


 わからないけど、たぶんチョコを渡すときに「これからもよろしく」とか、そのくらいしか言えないと思う。


 でも、それだけで十分伝わる気がする。


 まだはっきりとした形は見えないけれど、同性っていう違和感をかき消すほど、彼女を近くに感じたいと思うようになった。


 “恋”というより、“私が私だから”“亜里香が亜里香だから”そばにいたい。


 人が人を想うときの一番大切な事──そんな気がする。


 ──これから先、どうなるんだろう?


 それは、きっとこれからの私たち次第なんだろう。


 胸の奥が甘く疼く、バレンタインの前夜だった。

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好きのカタチ 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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