ぼくは友達の家に漫画を返してもらいに行く気軽さで、神社に向かった。

 秘密のおまじないを試すような感覚で、あきらめていた漫画が返ってくるかもとワクワクさえしていたと思う。

 外は夕陽に包まれ、景色のすべてが金に染まっていた。眩しさに目を細めながら、ぼくは通いなれた路地を駆ける。

 神社にはすぐに着いた。子供が一人行方不明になる事件があったというのに、まるで変わった様子はなかった。いつもの立入禁止の立て看板がぽつんと置いてあるだけである。

 ぼくは息を弾ませて鳥居を見上げた。

 山を背にした神社は陽があたらず、そこだけが切り取ったように黒ずんで見えた。

 その風景は前に来たときと何一つ変わっていないはずなのに、違和感を覚えた。この神社、こんなに異様な感じだっただろうか。

 ものすごく嫌な感じがした。不吉な――。

 前に来たときは友達と一緒だったから、気づかなかっただけなのか。

 黒々とした鳥居に渡された、注連縄の紙垂しでが風で揺れている。たくさんの白い手がおいでおいでをしているようで、ものすごく不気味だった。

 そわそわした不安感が足元から忍び寄ってくる。

(やっぱり今日はやめようか。……でも、せっかく来たのだし)

 後日もう一度ここに来るなんて、誰かと一緒にだってとうていできそうにない気がした。

(ちょっと行って、百数えるだけだ。この前なんて一時間以上いたのに、ぜんぜん怖くなんかなかったじゃないか)

 後退りたい気持ちをこらえ、鳥居をぐぐった。ぐっと闇が増したように思え、ぼくは寒気を覚えて身震いした。


 境内に入る。前に来たときと同じように、ぼうぼうの雑草の中に朽ちた神社がぽつねんと建っていた。

 腰までの草をかき分けるように進み、神社の裏手に回った。そこにコウちゃんが隠れるのを、ぼくは見ていたのだ。

 神社の軒下のすぐ側。そこだけ草が折れ、穴のようにぽっかりと空洞があった。コウちゃんはここに身を潜めたに違いなかった。

 ぼくはそこにしゃがみこみ、百を逆から数え始めた。

「百、九十九、九十八……」

 早く終わらして帰ろう、そのことばかりが頭を占めていた。漫画が返ってくるといいなあと始めたことなのに、今や何のためにやっているのかわからなくなっていた。

 やがて額にじんわりと汗が浮いてきた。

 草むらにじっとしていると、蒸し暑さと草いきれで、息苦しくなってくる。コウちゃんはよくこんな場所で我慢して隠れていたものだと思う。

 そこでふと、神社の軒下に目をやった。塗りつぶしたような闇が広がっている。

(コウちゃん、もしかしたらこの縁の下に入ったんじゃないかな……)

 こんな暑くて苦しいところより、よほどいい隠れ場所だ。涼しそうだし、なにより見つかりにくそうだった。

(それで、地面の穴か何かに落ちちゃって……)

 あの日はそろばんがあったから、時刻も遅くてもっと暗かった気がする。地面に穴が開いていても、気づかない気がする。

 めちゃくちゃに折れ曲がったコウちゃんが、狭い壺のような穴にぎゅうっと詰まっている姿が浮かんだ。首や手足の関節を逆にした、おもちゃのロボット人形みたいに――。

 ぞわっと身の毛がよだち、慌てて頭の中の映像を消した。

(……それか、縁の下に棲みついている何かに、捕まったとか……)

 唐突に、物凄く怖くなった。軒下から目をそらせ、自分のスニーカーをじっと見つめた。

 そういえば――どうしてここは草ぼうぼうのままなのだろう。捜索をしたなら、刈られたり、踏み荒らされたりするはずだ。

(もしかして、神社ここは探してない……?)

 まさか。ぼくは、親やお巡りさんに、コウちゃんがこの神社いなくなったのだとちゃんと伝えたのだ。

 それとも――大人たちは、あえて探さなかったのだろうか。

 神社ここ侵入はいってしまったら、大人たちでさえいなくなっちゃうかもしれないから。

(そ……そんなことあるわけない。大人が子供を見捨てるなんて……)

「八十一、八十、七十九――」

 自然と数をかぞえるのも早くなる。

 蒸し暑くて汗がだらだらと滴っているのに、寒気で震えがとまらなかった。

 呼吸がしにくい。風でも吹けば少しは違うのに――。

 その時、はたと気づいた。無風であるのに、なぜ紙垂しでは揺れていたのだろう。あの場所だけ一時いっとき、風が吹き抜けていたのだろうか。

 そもそも紙垂はばらばらに蠢いていた。そう、まるでそれぞれ独立して手招いているかのように。

(……風じゃ、あんなふうには動かない)

 こめかみに汗が伝う。目から流れているのは、汗だろうか。涙だろうか。

 そもそもどうして逆数えなどやってしまったのか。

 漫画なんてどうでもいいじゃないか。もう散々読んだのだ。そもそも、また買えば済む話だったのに。

「五十五、五十四、五十三」

 口内がひどく乾いていた。喉がひりひりして、声はすでに掠れている。

 そして。――さっきから、ねっとりとした圧のようなものを左頬に感じていた。それは軒下の闇からじわじわと押し寄せてきているのだ。

 怖い。でもぜったいに見ちゃだめだ。

 だって、頭の中でがんがんと警鐘が鳴っているもの。

 まばたきすら禁忌に触れる気がして、ぼくはスニーカーの靴紐の穴のひとつをじっと見つめたまま、ひたすら数をさかのぼった。

「四十一、四十、三十九、三十八」

 もう半分を過ぎた。ぼくは数えるスピードを上げた。まるで早口言葉を強いられているようだった。

 しかも、数え間違ったらきっと恐ろしい目に遭うのだ。さらに、途中でやめたりなんかしたら――。

 恐ろしい予感に押しつぶされそうになり、ぼくは渾身の思いで自分の声だけに集中した。

 十。

 九。

 八。

 七。

 六。

 五。

 四。

 三。

 二。

 一。

(終わった――)

 ぼくはやっとまばたきをした。

 急いで逃げよう。漫画なんてどうでもいい。早くしないと、コウちゃんが来ちゃう。

 ――その時。むっとするほどなまぐさい臭気が鼻をついた。

 ずりっ。

 とつぜん音がして、ぼくは思わず振り向いてしまった。そして見てしまった。神社の軒下を。

 塗りつぶしたような暗闇の中で、何かが動いた。べったりと地に伏せていた何かが、持ち上がったのだ。

 人のようだった。肩肘で体を支えるようにして、土に爪を立てながら這うように前進してくる。

 恐ろしさのあまり、凍りついたように動けなかった。全身が震え、冷たい汗が眉間を滑り落ちていく。

 ずりっずりっと肌が地面をこすれる音とともに、が近づいてくる。骨ばった大人の肩幅。長い髪。

(……コウちゃんじゃない)

 はどう見てもコウちゃんじゃないのに、コウちゃんの服を着ていた。ゲームのキャラクターの描かれた明るいオレンジ色のTシャツ――土で真っ黒だった。

(逃げなきゃ……!)

 頭ではそう叫んでいるのに、体は金縛りにあったように動けなかった。

 化け物はどんどん近づいてきて、とうとう軒下からぬっと頭を出した。

 おどろおどろしく乱れた髪が顔にうちかかり、その間から落ち窪んだ目が覗いた。老人の顔だった。見たことないほど皴だらけで、百歳にもなってそうだった。

 化け物は、もの言いたげな目でぼくをじっと見ている。

「……コウちゃん?」

 思わずつぶやいた。

 化け物のしわくちゃの口がぱっくり空いて、真っ赤な口内が覗いた。

「たかとくん」

 ぼくは「ひいっ」と跳びすさった。

 化け物はぼくを追うように、草を引きつかみ、ずるりと軒下から身を乗り出した。

 そこでぼくは息を飲んだ。

 軒下の闇の中から骨と皮ばかりの腕が伸び、オレンジ色のTシャツの裾を後ろからがっしりとつかんでいたのだ。

「助けて……」

 落ち窪んだ目から血の涙がどろりと流れ落ちた。

 ぼくは弾かれたように立ち上がった。草むらを足掻くように一目散に駆けた。

「孝人くん、待ってよお」

 後ろからか細い声が追ってきた。

 ぼくは鳥居を駆け抜け、夕暮れに沈みつつある住宅街を力の限り走り、逃げ帰った。


     了

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逆数え うろこ道 @urokomichi

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