第一章

 ◇

 知っている人間はごくわずか、というより一般人で知っている人間はいないのだが、実は日本には地図上から抹殺されている島が存在する。その島の名は才華島。外界から完全に閉鎖されたその島に住む人間のほとんどが感覚共有や身体強化などの異能力を持ち、本土よりも進んだ生活を送っている。使用言語は日本語で、文化も日本文化と変わりない。隠密で本土から届く物資により生活している。島民たちのほとんどはその島で生まれ落ち、死ぬまで本土の土を踏むことがない。

 ではなぜ、島民たちはそのような島に一生涯幽閉されるのだろうか。

 その理由は簡単だ。

 表向きの理由は、能力が開花するその特殊な血が能力を持たざる血と交じり、薄まるのを防ぐため。

 そして裏の理由は、危険な能力を持つ者が本土に悪影響を及ぼすのを防ぐため。


 「奏汰、いよいよ明日が能力発覚の日だね。心の準備はできているかい?」

 生まれた時からずっと一緒にいる親友の玲央――香野玲央――に顔を覗き込まれ、奏汰――真宮奏汰――はニヤリと笑った。

 「心の準備も何も、僕は感覚共有だから。父さんも母さんも感覚共有なんだ。強いて僕が考えるべきことがあるとすれば、弱か中かだけだぜ」

 玲央がおどけた顔をする。

 「もしかしたら重力操作かもしれないよ? 確率的にはわずかだけども、万が一っていうのがあるからね」

 ふは、と奏汰は吹き出した。

 「まさか。感覚共有の親どうしからは確かに重力操作が生まれる可能性があるけど、その可能性なんて0,1%かそこらだろ? そんな映画みたいなこと、簡単には起こらないって」

 奏汰の言葉に玲央が苦笑いする。


 才華島の島民たちの能力は四種類、厳密に言えば五種類の属性がある。

一つ目は島民の90%が持つ共感覚。自分の思考を相手に送ったり、逆に相手の思考を読んだりすることができる能力だ。二つ目は7%の島民が持つ身体強化。身体能力が比較的高いという特徴を持つ。そして三つ目は元素操作。全体の3%の島民が持ち、その名の通り元素を操作する。最後に、重力操作。これはわずか0,1%の島民が持っており、重力を操作するというもの。例外となる五つ目として、無能力がある。島にはほとんど存在しない、能力を持たない人間だ。

また、能力にはそれぞれ弱、中、強、極という強さの種類があり、強ければ強いほど人口は反比例して少なくなっていく。

どの属性の能力を持つか、またどの強さになるかというのは血液型と同じく親からの遺伝によって決まっており、一度決まった能力は属性も強さも一生変わらない。そのため、能力発覚の日に驚く人間はほとんどおらず、もっぱら興味は自分の能力の発動条件や使い方などの部分に向けられる。


今度は奏汰が玲央の顔を覗き込んだ。

「玲央こそ心の準備はできてるのか?」

玲央は首元のチョーカーに触れたあと、フッと笑った。島民は全員が同じチョーカーをつけている。それは、能力発覚前は制御装置として働き、発覚後は能力ごとに決まった色に変化することで他の人に自分の能力を知らせることができるという優れものだ。

「おれは予想がついてるからね、特に何とも思わないよ」

奏汰は目を丸くした。幼馴染なのに、聞いたことがなかった。玲央の父親は玲央が生まれる前に蒸発しているので、遺伝で能力の属性を推測するのは不可能なはずだ。

「何の能力なんだ?」

 奏汰の質問に、玲央は唇に人差し指を当てた。

 「今知っちゃったら面白くないから、明日のお楽しみだよ」

 「それって、共感覚じゃないってことか?」

 「内緒」

 今奏汰に言うことができないということは、よほど強力なものなのだろうか。そもそも、能力発覚の日までに遺伝以外の能力がわかった人間など聞いたことはないので、単なる玲央の冗談なのか。

 「玲央は普段から、冗談か本当かがわかりにくいところがあるしな」

 心外だよ、とでもいうように玲央は片眉を上げた。

 「奏汰が本当だと思うものは全て、本当だよ」

 「そういうところだって」

 「あはは」

 煙に巻かれ、もうこれ以上詮索できないと思った奏汰は「そんなものか」とだけ返して角を曲がった。もうすぐで奏汰の家に着くというのだが、今日一日中玲央にまとわりついていた違和感が拭えない。

 本当は玲央が言い出すまで待とうと思っていたのだが、なぜか今聞いた方が良い気がして奏汰は足を止めた。

 奏汰に合わせて歩くのを止めた玲央が、後ろを振り返って不思議そうな顔をする。

奏汰は玲央の瞳をじっと見つめた。

 「玲央、今日変じゃないか?」

 逆光の中で、深い藍色をした玲央の瞳孔がキュッと大きくなる。

 玲央は肩をすくめた。

 「変って何が?」

 うーんと唸った奏汰が玲央の瞳をもう一度捉える。瞳孔は通常の大きさに戻っていた。

 「言葉にはできないんだけど、何かを心配しているというか、焦っているというか。やっぱり、明日のことで何かあるんじゃないか?」

 「心配、か」

 ふと玲央が空を仰いだ。夕日に雲がかかり、玲央の頬が陰る。

 「まぁ、おれがしくじった瞬間に詰みだからね」

 「詰み? 何のことだ?」

 奏汰の問いに答えることなく、玲央は再び歩き始める。

 「ちょっと、玲央、」

 「はい、着いたよ。前から言ってた通り急ぎの用事があるからもう行くけど、また明日いつもの時間に迎えに来るから。」

 そう言った玲央は奏汰と目を合わせることなく、本人の家とは別方向に歩き出す。奏汰は引き留めようとしたが、玲央の背中はすぐに見えなくなってしまった。余程急いでいるのだろうか。

 奏汰は玄関先でしばらく考えたあと、今回は玲央が話したくなるまで待つべきだという結論に達し、家へと入った。

 「ただいま、母さん」

 「おかえり、奏汰。今日は玲央君は来ない日だったわよね」

 靴を脱ぎ鞄を下ろしながら、奏汰は「うん」と頷いた。

 「なんか今日は忙しいって言ってた」

 父親は蒸発しており、母親もほとんど家にいない玲央は幼い頃からほとんどの時間を真宮家で過ごしており、夕飯を一緒に食べるのは日常だった。

 「明日はいよいよ能力覚醒の日だもんね。きっと玲央君なりに何かあるんでしょ」

 おおらかな性格の母の言葉を聞き、奏汰は「そうだな」と笑った。

 学校では一日中能力の話でもちきりだったが、家族歴代共感覚の弱か中かしかいない奏汰にはあまり興味のないことだった。

 「そういえば、玲央の用事って何なんだろうな」

 二階にある自分の部屋へと行くための階段を上る奏汰の後ろで、壁にかけてあるタペストリーがカタリと小さく動いた。




 ◇

 「おはよ」

 奏汰がドアを開けると家の前にはすでに玲央が立っており、ひらりと手を振ってきた。ふと吹いた春のそよ風が、セットされた玲央の前髪を軽やかに揺らす。長いまつ毛が切れ長の目に影を落としていて、整った顔立ちをさらに際立たせていた。

 本当に、ただ立っているだけでも絵になる男だ。

 「おはよう」

 玲央にはもう、昨日の不穏な雰囲気が漂っていない。むしろ、何かが吹っ切れたかのような晴れやかな表情をしている。

 「じゃ、行こうか」

 「そうだな」

 何度共に通ったかわからない、学校までの道のりを二人で歩く。

 人口が一万人に満たないこの島には、高校は三つしかない。

 奏汰と玲央は高校はもちろん、保育園から中学校までも一緒だった。

 いつもと変わらないような会話をしながら信号が変わるのを待っていると、「カナくん! れーくん!」と背後から声をかけられた。

 聞き覚えのあるあだ名で呼ばれ、奏汰たちは後ろを振り返る。

 「京一か、おはよう」

 「英もいるじゃん。今日はいつもより遅いね?」

 四人の中で一番身長が小さい少年、九重(ここのえ)京一(きょういち)は満面の笑みを浮かべている。くせ毛でくるくるとした黒髪に黒曜石の色の大きな瞳は、まるで子犬のようだ。

 「いよいよ能力覚醒の日だね! みんな準備は良い? ぼくはもちろんオッケーだよ」

 「良いも悪いも、俺は英家の人間として元素操作・極だという結果を確かめるだけだ」

 さらさらとした亜麻色の髪に淡い水色の瞳をした、顔色の悪い長身の少年――英雅樂(はなぶさうた)――が平然とそう言う。

 京一と雅樂の二人は、奏汰や玲央と中学校から一緒の親友で、全員性格や考え方は違うが暇さえあれば四人でつるんでいた。

 「昨日玲央にも聞かれたけど、玲央以外はもう能力の属性も強さもある程度予測できるじゃん。雅樂は元素操作だし、京一は身体強化、そんで僕は共感覚。雅樂と京一は強か極で、僕は弱か中ってね」

 「確かにそうかもしれないけど、いくらぼくが九重家の人間だからといって確定してるわけじゃないもん。それに、身体強化に関しては強さよりセンスがモノを言う世界だし」

 京一がぷくりと頬を膨らませた。

 「センスなら有り余ってるだろ」

 京一に視線をやった雅樂が、半ば呆れながらそう言う。

 「あはは、体育の授業で京くんよりも輝いてる人っていないからね」

 「二人にそう言ってもらえると嬉しいな、ありがと!」

 そうやって四人で会話をしていると、後ろから歩いてきた人物が突如雅樂にぶつかった。

 「いよいよ能力覚醒の日だな。調子に乗っていられるのも今のうちだけだぞ、英。今年こそは我ら貴船家が英家を超える」

 雅樂はぶつかってきたクラスメイト、貴船をじろりと見下ろした。

 「そうか。そういうことは一度でも俺に勝ってから言うんだな。きゃんきゃんと吠えて惨めな気持ちにはならないのか?」

 「チッ」

 低い舌打ちをした後、貴船は速足で学校に向かっていく。それを追いかけることもなく、雅樂はただ制服の肩をパンパンと払った。

 「ちょっと、うーくん。そんなんだから怖がられちゃうんだよ」

 「怖がられるっていうよりは嫌われてるけどね」

 「そんなの関係ない。たかだか俺ごときに勝てない人間が、英家に勝てるわけがないという事実を述べただけだ」

 いつもと変わらない雅樂の様子に奏汰は苦笑いした。根は良いやつなのに、この高圧的な態度のせいで雅樂は悪い印象を持たれることが多い。しかし、雅樂が英家の人間として生きるため尋常でない努力を重ねてきていることを知っているため、一概に雅樂の性格には言及できなかった。

 「全く、本当に御三家は仲が悪いよね」

 玲央が呆れたように溜息をつく。


 能力の属性と強さは遺伝によるものが多いため、名門や御三家と呼ばれる家系が存在する。

まず、元素操作の御三家である英家、四条家、貴船家。どの家系も代々続いており、過去に著名な人物を多く輩出しているが、ここ数十年は英家が頭一つ抜き出ているため、四条家や貴船家との仲が険悪だ。

そして、身体強化の名門九重家。能力の強さよりもセンスが重視される身体強化で、数々の天才を生み出す名門。他にも身体強化に強い家系は存在するが、古くから九重家の一強となっており、島の警察の上層部はほとんど九重家とその親類で構成されている。

 共感覚に関しては強さがばらばらであるため、有名な家系はない。また、重力操作は共感覚の親どうしから稀に生まれるものであり、意図して存在させることができないため、そもそも重力操作の家系というものがない。


 奏汰は両腕を頭の後ろにやった。雅樂と京一は能力覚醒によってこの先に変化が起こるだろうが、共感覚がほぼ確定している自分には何の緊張も心配もない。強いて言えば、玲央の出生についての手がかりが得られるかもしれないという期待だけだ。

 他のクラスメイトについての話を四人でしていると、いつの間にか学校に着いていた。世間は昨日も今日も春休み真っ只中だが、奏汰たち高校三年生だけは能力覚醒のためだけに登校するという、特別登校日となっているのだ。

 相変わらず突っかかって来る貴船をあしらい、雅樂が靴を履き替えている。

 「朝から香野くんと会えるなんてラッキー」「ほんとイケメンだよね」

 不意に女子の会話が聞こえ、奏汰は音のする方をそっと盗み見た。奏汰たちとは違うクラスの女子生徒だ。あえて自分たち――というより玲央――に聞こえるように会話をしているのだろうか。

「あー、私香野くんの彼女になれるなら何でもするのに」「なんで香野くんってあんなにモテるのに彼女作らないんだろうね」「年上年下問わずいろんな人が告白してるのにね」

熱い視線を送られながらも玲央は知らんふりをしている。

同性から嫉妬を集めるほどに美形なうえに、多くのことをスマートにこなす玲央は当たり前のようにモテる。ただ女癖が悪く、それにより敵を作っている玲央のことを奏汰は本気で心配していた。

玲央のことを話していた女子が中々動かないのを見ながら、奏汰は靴を脱いだ。

 「今日って特別会館集合だよな」

 奏汰がそう聞くと、「そうだよ」と玲央が答えた。特別会館とは能力覚醒の日だけ使われる、文字通り特別な会館のことだ。

 いつもと違う道を通って特別会館に入り、端から順に着席していく。

 指定された時間になると先生が点呼をとり、欠席者がいないことを確認して壁際に並んだ。

 そして、政府の人間たちが特別会館に入って来る。その中で代表と思われる男性が校長先生からマイクを受け取り、口を開いた。

 「今日きみたちに集まってもらったのは、皆が知っている通り能力覚醒の日だからだ。我らが才華島では、十八になる年の四月一日に能力を覚醒させるという決まりになっている。この後きみたちにはチョーカーを外してその裏面の色と詳細を確認してもらうが、その能力の属性や強さがチョーカーの表面に浮き出てくるのには一週間がかかる。虚言により他者が混乱するのを防ぐため、一週間は能力を公表しないようにしていただきたい」

 代表の男性が口をつぐみ、大きな深呼吸をした。

 「また、所有しているだけで指名手配犯となる能力についても再確認しておこう。能力はその発動条件や使い方は人によって違うが、属性と強さによってある程度内容が決まっているため、他者に悪影響を及ぼす者は即刻指名手配犯となり、死するまで政府の人間になるか死刑執行されるかの二択となっている。

まず、自分の思考を他者に送ることで相手を操ることができたり、相手の思考を逆流させることで精神を破壊させることができる共感覚の極。全人口の90%となる共感覚のうち0,05%の人間だ。そして、重力を自在に操ることで自然災害並みの被害を創り出すことができてしまう重力操作の強と極。全人口の0,1%となる重力操作のうち強は1%、極は0,001%であるため、我々政府の人間ですら重力操作の極は書類上でしか見たことがなく、極の存在は神話になりつつある」

 真剣になって話を聞く人が多いなか、奏汰はぼんやりと会館の壁を眺めていた。指名手配犯となる人間などごくごくわずかだ。どうにも他人事のような気がしてならなかった。中には、生まれ持った能力のせいで自由が奪われるのは人権侵害だと訴える団体もあるそうだが、公共の福祉としての安全性を求める声の方が圧倒的に多く、政府も法律を変えるつもりはないようだ。確かに、いつでも自分を操ったり精神を破壊することができたりする人間、自然災害の具現化のような人間が横にいたら安心できないだろう。

 「それでは、チョーカーを外してみてほしい」

 ようやく話が終わり、奏汰は自分の首に巻かれてあるチョーカーに手をかけた。この特殊性のチョーカーは一生着けておかなければならないもので、一時間以上連続してチョーカーを外しておくと政府に連絡が届くという仕様になっている。そのため、お風呂に入ったりチョーカーを洗ったりする時以外は常に着けておかなければならなかった。

 緊張をしながらチョーカーを外す者、興味なさげに外す者、自信たっぷりに外す者など人によって外すときの表情はそれぞれだ。会館内は生徒たちの話し声でざわざわとしている。能力の公表ができずとも、言いたいことは多いのだろう。

 奏汰はちらりと横の三人の顔を見た。玲央は無造作にチョーカーを外し、裏面を気にすることなく手に持って雅樂の方を眺めている。横顔しか見えないが、その表情はいつも通り涼しいものだ。京一は少し悔しそうな顔をしたが、すぐに決意を秘めたような表情に変わった。

 雅樂はゆっくりとチョーカーを外し、驚愕の表情を浮かべたがすぐにいつも通りの真顔に戻った。

 三人の反応が予想と違うもので気になるが、自分も結果を見なければと思い奏汰もチョーカーを外した。

 最も、奏汰の場合は雅樂や京一とは違って背負うものもないし、玲央のように出生の手がかりになるほど大切なものでもない。ただ両親の共感覚を受け継いで生きていくだけだ。

 決まり切った事実を確認しようとチョーカーの裏面に目を通し、奏汰は絶句した。

 『重力操作・極』

 無機質で残酷な文字が奏汰の思考を襲う。心臓がバクバクと早鐘を打ち、口の中がからからに乾きだす。耳元では血が流れるざーざーという音が響いており、体中からはどっと冷や汗が噴き出した。

 嘘だ、そんなはずがない。だって、父さんも母さんも共感覚で、自分の家系をいくら遡っても重力操作なんて弱ですら存在しなくて、

 思考がぐちゃぐちゃになって声を上げようとした瞬間、奏汰の脳内に自分の声が響いた。

 ⦅僕の能力は共感覚・中⦆

 ごちゃごちゃだった奏汰の思考が一掃され、自分の能力が共感覚・中であるという思考が脳全体を支配する。

 奏汰は何事もなかったかのようにチョーカーを再び首につけた。

 そうだ、何を驚いているのだ。自分の能力はかつてから予想していた共感覚・中ではないか。

 その後奏汰は動じることもなく政府の人間たちの話を聞き、会館から出た。


 「奏汰、奏汰」

 ゆらゆらと玲央に肩を揺すられ、奏汰は目をぱちくりとさせた。

 「あれ、ここは?」

 いつの間にか、自分たちのいる場所がいつもの小さな公園に変わっている。郊外にひっそりと設置されているこの公園は、昼間に時折幼い子どもたちが姿を見せる以外にはほとんど人が来ず、奏汰たち四人の秘密基地のようになっていた。

 奏汰は何度か瞬きをした。能力覚醒の日だったはずだが、集会の記憶が全くない。

 能力、そうだ自分の能力は、

 「じ」

 奏汰が自分の能力名を言おうとした瞬間、⦅静かに⦆という『声』が脳内に響き、自分の声が出なくなった。

 焦る奏汰の前で、玲央が自分の唇に人差し指を当てる。

 「だめだよ、それを人前で言ったら。おれたちが犯罪者ってことがバレちゃうじゃん」

 奏汰は自分の頭が混乱してきているのを感じた。どうして玲央は奏汰の能力が重力操作・極だということを知っているのか。それに、どうしてさっき自分の声が出なくなったのか。そして、おれ「たち」とはどういう意味なのか。

 目を白黒させる奏汰を見て、玲央は苦笑した。その横にいる雅樂は心ここにあらずといった顔をしている。

 「ねぇれーくん、本当に二人に話すの? ただでさえ二人とも今はキャパオーバーになっちゃってるのに、これ以上何か言っても大丈夫なの?」

 心配そうな表情を浮かべた京一が玲央の顔を見上げる。玲央は迷うことなく「うん」と頷いた。

 「京くんが心配する気持ちもわかるけど、おれたちに残された時間はほとんど無いからね。それに、今更作戦変更をするわけにはいかない」

 京一は「そうだね」と言ったあと、隣にいる無言の雅樂にそっと視線を向けた。

 大きく深呼吸した玲央が、奏汰と雅樂に視線を合わせる。

 「おれの能力は共感覚・極。奏汰と同じ、指名手配犯とされる能力の持ち主だ。それに、おれの能力はチョーカーを外す前から部分的に発動できていたほどに強い」

 玲央の藍色の瞳には奏汰が写っている。

 「単刀直入に言うよ、おれたち四人でこの島から脱出する」




 ◇

 「四人でこの島から脱出……?」

 状況を全く整理できていない奏汰の横で、雅樂は「俺は、英の人間としてどうすれば……」とずっとぶつぶつ呟いている。

 玲央は力強く頷いた。

 「そうさ、脱出するんだ、みんなで。おれと奏汰はそれぞれ指名手配犯になっちゃったから一週間後には死刑か実質的な終身刑かを選ばなければならないし、英も多分、このままだとこの島にいられない」

 奏汰は下を向いた。この島から脱出? そんなことができた人間の話なんて聞いたこともないし、あまりにも突拍子が無さ過ぎて現実味がない。

 「大丈夫だよ、かなくん。れーくんは何年も前から脱出計画を練ってきてたから。それに、脱出するための用意はもう、れーくんとぼくで終わらせてる」

 玲央が奏汰と雅樂の肩に優しく手を置いた。

 「今すぐに答えを出してほしいとは言わない。命が懸かっていることだからね。今日の夜、おれが共感覚を使って二人の意見を聞くから、その時に答えを教えてほしい。脱出計画については、二人が脱出を選んだときにだけ話すよ。政府に情報が筒抜けになっちゃったら困るからね」

 茫然自失の状態になってしまっている雅樂を見て、玲央は「京くん、英のことは頼んだよ」と京一の背中を軽く叩いた。それに対し、京一は「わかってるよ、れーくん。ぼくに任せて」と返す。

 玲央が奏汰たちに背を向けた。

 そして、もう何千回見たかわからない顔で振り向く。

 「さ、帰ろうか、奏汰」

 まだ頭がぼんやりとしたまま、奏汰は反射的に「そうだな」と返して玲央の横に並んだ。


 「頭の中を整理できないよね、ごめんよ」

 帰り道で玲央にそう言われ、奏汰は「うん」と返した。

 正直、自分が重力操作・極だという実感はない。しかし、自分の体の全細胞が自分の能力の使い方を心得ていた。

 奏汰は歩く足を止める。それに気づいた玲央も立ち止まり、何も言わずに奏汰のやろうとしていることを見守る。

 奏汰は道端に転がっている石に手を伸ばした。念じるだけで、石はふわりと浮かび上がる。

 重力操作・極。重力のベクトルの向きと大きさを自由自在に変化させることができる。奏汰の場合は念じるだけで発動させることができ、制限なども存在しない。ただ、出力は感情の影響を強く受けるので、常に平常心を保っておかねば自分や周囲の人間を傷つけかねない。

 奏汰が石から視線を外すと、石はぽとりと地面に落下した。

 石を動かすなんてことは、重力操作・極の能力のほんの一パーセントにも満たない。

 ただ存在するだけで犯罪者となる能力。自然災害と同じほどの被害を引き起こす能力。

 そのような能力がこの身に宿っているということを考えると、ただただ恐怖だった

 肩を落として黙り込む奏汰の背中に、ひんやりとした玲央の手が置かれる。

 「おかしいよね、ただ生きているだけなのにいきなり犯罪者にされちゃうなんてさ。おれたちには命も人権も必要ないみたいだ。最強がちやほやされるのは物語の中だけ」

 奏汰はぼんやりと玲央の顔を見た。玲央はなぜこんなにも平然としていられるのだろうか。

 玲央はチョーカーを指さした。

 「おれの能力はチョーカーでは全てを制御できないらしくてさ、物心がついた時から自分以外の人の心の声が聞こえてたんだ。何度調べてもおれのチョーカーに異常は無かったから、おれの能力は共感覚・極なんだろうなって予測できたんだよ」

 そう言う玲央の目には仄暗いものが渦巻いている。

 時々玲央の苦しみが奏汰に流れ込むことがあったが、今まで奏汰にはその苦しみの理由がわからなかった。

 だが、今ならわかる。知らない方が良かったことだって数えきれないほどにあっただろうし、ネガティブな声を聞き続けるのは想像を絶するストレスになっていただろう。

 奏汰の目に涙が浮かぶ。

 「ごめんな、玲央。ずっと、こんなにも近くにいるのに、そのことに気づいてやれなかった」

 奏汰が泣いているのに気付いた玲央が、仕方ないなというような顔をしてハンカチを差し出す。

 「逆に気づく方が怖いよ。それに、おれのこの能力のおかげでこうやって島の脱出計画のための準備を整えることができた。だから、おれはこの能力を恨んじゃいないよ」

 「けど、その能力が無ければ玲央はこの島から脱出する必要はなかったんじゃないか?」

 奏汰の問いかけに、玲央は「そうかもね」と曖昧な表情を浮かべた。

 玲央が地面に落ちている小石をつま先で蹴った。小石はころころと道端へ転がっていき、見えなくなる。

 玲央はグッと握りこぶしを作り、奏汰の目の前に差し伸べた。

 「奏汰、おれと一緒にこの島から脱出しよう。奏汰だけは、おれの命に代えてでも守ってみせる」

 「どうして、」

 玲央の決意を聞いた奏汰の口から、疑問の言葉が零れ落ちる。

「?」

 首を傾げる玲央を見て、奏汰は一度口を閉ざして唾液を飲みこんだ後、再び口を開いた。

「一体何が、玲央をそこまでさせるんだ?」

一瞬だけ不思議そうな顔をした後、玲央はふっと笑った。影になっていてその表情はわからない。

 「おれはただ、本当に優しい人がしあわせになれないこの世界を許せないだけだよ」

 それでも、命まで懸ける必要があるのだろうか。その奏汰の心の声を読み取ったのであろう玲央は、奏汰から視線を逸らして前を向いた。

 「何を信じて良いかわからないからこそ、自分の中の正義を守りたいんだ」

 何も言えない奏汰に、玲央は「はい、着いたよ」と奏汰の家を指さした。

 「じゃあね、奏汰。ゆっくり考えて、自分の答えを出して」

 そう言って、くるりと踵を返して去っていく。

 奏汰はその背中に「ありがとう、玲央」と声をかけた。玲央は奏汰の方を振り向かないまま、ひらりと手を振った。


 まだ昼過ぎなので誰もいない家の中に入った瞬間に全身の力が抜け、靴を履いたまま玄関で座り込む。念のため、再度チョーカーを外して裏側を確認するが、「重力操作・極」の文字は変化していなかった。

 「なん、で、」

 人が誰もいなくなって、無意識に抑え込んでいた感情が溢れ出した。手がかたかたと小刻みに震え、息の吐き方を忘れたかのようにぜいぜいと呼吸する。

 「僕が、重力操作・極なんだ」

 ぼろぼろと零れ落ちる大粒の涙を拭うことなく、奏汰はチョーカーを睨みつけた。

 自分の家系はずっと共感覚だったじゃないか。確かに重力操作は共感覚の親同士からしか生まれることはないが、その可能性は低いし、自分は平凡な男子高校生だ。そんな、物語の世界でしか起こらないようなことが自分の身に起こるなんて、何かの間違いなのではないか。

 何度チョーカーに目をやっても、何度その文字を指でこすっても、現実は変わらない。それどころか、自分の本能を誤魔化すことすらできなかった。

 チョーカーを思い切り投げつけようとするもできず、手がだらりと下がる。

 「なんで……」

 自分の生活は、この能力のせいで完全に崩れ去ってしまった。もう二度と同じ生活をできないのだと知って初めて、これまでの日常が尊いものだったということに気づく。

 「ごめん、母さん、ごめん、父さん、ごめん、鈴……。僕は、犯罪者になってしまった……」

 どれぐらい泣いたのかはわからないが、泣きすぎて涙が出なくなり、ようやく奏汰は立ち上がった。制服のシャツはぐっしょりと濡れて変色しており、腫れあがった目のせいで視界がぼんやりとする。

 「大丈夫、僕だけじゃない……。玲央がいる……」

 うわ言のようにそう呟きながら、奏汰は二階にある自分の部屋へと上がった。

 

 ぼんやりと窓の外が赤く染まっていくのを奏汰が眺めていると、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。妹の鈴は朝から部活の遠征があるため今日と明日は帰ってこないとげんなりしながら言っていた。つまり、今帰ってきたのは母親か父親のどちらかだろう。

 「自分の能力のことを言わないと」

 奏汰はふらりと立ちあがった。ベッドを整える余裕もないままに、自室を後にする。

 ゆっくりと階段を下り、リビングの部屋のドアを開けると、ちょうど仕事から帰ってきた父親――真宮友樹――がスーツの上着を脱いでいるところだった。

 「そういや今日は能力覚醒の日だったろ、奏汰はどうだったんだ? まぁ父さんと母さんの子だし、どうせ共感覚だろうけどな。弱だったか? それとも中だったか?」

 奏汰に目を向けることなく、ネクタイをほどきシャツのボタンを外している。

 父親の軽い口調に、奏汰の気がますます沈んでいく。

 「違うよ、父さん」

 沈み切った奏汰の声に、友樹は心配そうに奏汰に顔を向けた。泣きはらした目をしている奏汰を見て、驚いた顔をする。

 今から自分が告げる内容を考え、奏汰の視界が再びぼんやりとしていく。

 「まさかお前、無だったのか?」

 この島における無能力者とは、最悪の待遇を受けることを意味する。

 口と開こうとしない奏汰に、友樹は中途半端にズボンを脱ぎかけた格好のまま奏汰の方に歩み寄ってきた。

 奏汰は黙って風呂場に行き、洗面器いっぱいに水を張って友樹の前まで持って行く。

 「違う、違うんだ」

 そう言って、奏汰はその洗面器の水を空気中にぶちまけた。 

 「ちょっと、何すん……だ……よ」

 目の前の光景を見た友樹の顔が、どんどんと真っ青になっていく。

 奏汰がばらまいた水は、落ちることなく空気中にとどまっていた。ふよふよと浮いているそれに奏汰が目線を向けると、まるで指揮されているかのように、水が洗面器の中に戻る。

 そして、何事もなかったかのように、全ての水滴が洗面器の中に収まった。

 重々しい沈黙があたりに立ち込める中、友樹が唾を飲むゴクリという音が響く。

 「重力操作、極……」

 囁くように友樹が能力の名を告げる。

 黙って頷く奏汰を見て、友樹は震える手で携帯に手を伸ばした。そして、ちょっと待っておけというジェスチャーを奏汰に向かってした後、リビングから出ていく。

 一人部屋に残された奏汰の目から、再び大粒の涙が溢れ出す。

 「ごめん……。本当にごめんなさい……」

 熱にうかされたように謝罪の言葉を繰り返していると、用が終わったらしい友樹が青ざめた顔のままリビングに戻ってきた。

 「俺は今から出かけるから、奏汰は家にいなさい。家族と玲央くん以外とは決して会わないように」

 「うん……。いってらっしゃい……」

 魂が抜けてしまったかのようにぼんやりとしている奏汰を心配そうに見て、大きな手で奏汰の頭をわしゃわしゃと力強く撫でた後、友樹は慌だたしげに家を出て行った。

 

 そこからどれぐらいの間放心してしまっていたのか、奏汰にはわからない。再びドアが開く音がしてのろのろと視線を上げると、窓の外はもう真っ暗になっていた。

 「奏汰!」

 穏やかで心の底から安心できる声が聞こえ、不意に抱きしめられる。

 「……母さん」

 母――夏美の顔を見た瞬間、再び奏汰の目から涙が溢れ出した。

 「ごめんなさい、僕、僕……」

 目が真っ赤に腫れた痛ましい奏汰の顔を見て、夏美は奏汰を抱きしめる手にギュッと力を込めた。

 「大丈夫よ、奏汰。父さんから事情は聞いたわ。私たちが何とかするから、奏汰は心配しなくても良いのよ。奏汰のことはみんなで絶対に守るから」

 とめどなく流れる涙をそっと拭われ、奏汰は夏美の肩に顔をうずめた。

 「本当にごめんなさい、母さん。ありがとう……」


 奏汰が夏美と一緒に夜ご飯を食べていると、何やら焦った様子の友樹が帰ってきた。少しでも奏汰を元気づけようと夏美が作ってくれた好物のハンバーグを食べていた奏汰の手が止まる。友樹はこれまで見たことのないほどに深刻な表情をしており、骨ばった頬には深い影が落ちている。

 ガラスのコップに水を入れ、友樹が奏汰の正面に座った。それにつられるように、キッチンで洗い物をしていた夏美も席に着く。

 コップの水を一口含み、飲み下した後友樹がゆっくりと口を開いた。

 「奏汰、できるだけ早くこの島から脱出しなさい」

 奏汰は驚いてポカンと口を開いた。何か食べている時に口を開いてはいけないと幼い頃から躾けられてきたが、そんなことを気にしている場合ではない。

 奏汰の行儀を指摘することなく、友樹は話を続ける。

 「この島にいると奏汰の未来は奪われる。何とかして日本本国に行くんだ。そうすれば生きることができる。奏汰が脱出するためにできることは、父さんたちが何だってする」

 島からの脱出。玲央が話していた夢物語が急速に現実味を帯びる。

 やはり、自分たちが生きるにはここを離れるしかないのかもしれない。

 落ち着きを取り戻した奏汰は「あのさ、」と口を開く。そして、目の前の両親に玲央から持ち掛けられた話をした。

 「まさか、玲央くんが……」

 口を覆い驚愕の表情を浮かべた夏美の声がぽつりと落ちる。

 友樹は顎に手を当てた。

 「確かにあの子はどこか不思議な空気をまとっていると思っていたが、まさか共感覚の極だったとは……」

 そして、友樹は大きくてあたたかい手で奏汰の頭を撫でた。

 「奏汰、玲央くんを呼んでくれ。これからについてみんなで話そう」

 奏汰は黙って頷き、スマホを操作した。

 



 ◆

 バタン。

 後ろ手に玄関のドアを閉め、玲央は深いため息をついた。朝自分が出た時と何も変わっていないことを目視で確認し、無言のまま靴を脱ぐ。この家に母親が帰ってこないようになってからどれぐらい経ったのかなんて考えたこともないし、家や母親に愛着を感じたこともない。

 玲央は興味なさげに部屋を一瞥した後、物がほとんど無くモデルハウスのような部屋に様々な物を置いていった。生活感が出るように配置した後、我ながら上手くできたと自画自賛する。

明日この家を永久に出ていくので、警察などに家宅捜査されたときに脱走を企んでいるように思われないようにせねばならない。状況的に厳しいことは十二分にわかっているが、それでも少しでも時間を稼ぐためには、ふと思い立って出かけてそのまま事故死したように見せかける必要がある。

物を配置しながら自分以外の人間の痕跡は全て消したため、玲央の単独行動であるかのように思わせ捜査を錯乱させることも可能だろう。あとはこの家に誰もあがらせなければ良い。

 ポケットからいつものワイヤレスイヤホンを取り出して耳につけ、玲央は静かに階段を上がって自分の部屋に向かう。聞こえてくる会話の内容から考えるに、今日も問題はないようだ。

 自分の部屋に着いた玲央は鞄を無造作に置き、中から菓子パンを取り出した。そして、中身を見ることなく袋を開ける。匂いを嗅いで異常がないことを確認し、かじりついた。恐らく今日の夜ご飯となるであろうものをもぐもぐと咀嚼しながら、玲央はスマホの画面を見る。

 「今日これをくれた女の子は誰だっけ」

 礼を言おうとSNSの友達欄に目を通すが、全く思い出せない。自分の顔や立ち居振る舞いが人から好まれるものだということを自覚している玲央は、今日のように忙しいときは誰かに食料の調達を頼んでいた。自分のファンを名乗る女の子から手作りのものを差し出されることも多いが、異物が混入されている可能性も考え全て断っている。そのため、学校がある日の昼休みは、玲央の好きそうな食べ物を渡すことで玲央と関わりを持ちたい女生徒で購買に長蛇の列ができることが日常茶飯事だった。

 パンを食べ終わった玲央はゴミを丸めて捨て、手で口元を軽く拭った。

 「ま、誰だって良いか。どうせもう会うことはないんだし」

 自室のクローゼットからリュックサックを三つ取り出し、中に入っている荷物を一つ一つ確認していく。

 まずは自分の荷物。薄型のノートパソコンが一つに、USBが七つ、ワイヤレスイヤホン六セット、耳栓二セット、タブレット一つ、アップルウォッチ、手のひらサイズの超小型パソコン、そして電子機器を一瞬にして再起不能にする特別な薬品。大量の宝石が入ったシルクの巾着も丁寧に詰め込んだ。他にもいくつかの電子機器を確認し、リュックサックのチャックをしめる。

 奏汰のリュックサックは生活必需品中心で、万一のために用意していた雅樂のリュックサックは化学薬品がメインだ。京一の分の荷物は京一本人が用意しているし、戦闘服も京一が手はずを整えてくれている。

 一通り荷物を確認し終わった玲央は、ゆっくりと息を吐きながら天井を仰いだ。父親は自分が生まれる前にはすでに蒸発しているのだが、定期的に玲央の口座に匿名で大金を振り込み続けている。そして、玲央はそのお金を少しずつ脱出に必要な道具や、日本本国に逃げきった後に換金しやすい宝石に変えていっていた。そのため、今や玲央の口座は空っぽだ。

 目を閉じて精神を統一し、脱走計画のシミュレーションをする。もう何万回繰り返したかはわからないし、あらゆる場合を想定して何百通りものルートを考えている。

 この作戦でのブレーンは自分だ。自分だけは絶対にミスをしないように立ち回らなければならない。

 脱出ルートの最終確認は家に帰る前に終わらせたし、その後の状況に関しても盗聴している限り異常はない。食料や救急道具などの必需品から万が一の時のための薬品まで揃えたし、協力者とも良好な関係を築いている。京一の武器だって最高の状態を保っているし、このときのために銃などの武器の扱い方も学んできた。

 (大丈夫、おれたちならやれる)

 必死になって計画の最終確認をする玲央の頭の中で、にゃあんと猫が鳴く。ゆったりと左右に揺れる尻尾が玲央をからかっているかのようだ。

いつからか脳内で鳴き始めた猫のこの姿を見るのもあと少し。直に箱へと入れる。

「何がそこまでさせるのか、か……」

玲央は手を天井にかざして眩しいものを見るかのように目を細め、玲央は黙り込んだ。


 ヴーッ、ヴーッという振動音が静寂を破る。奏汰以外の人間からの通知は切っているので、ためらうことなくスマホを手に取る。

 「奏汰、大丈夫?」

 少しの間沈黙が流れたあと、奏汰が小さな声で『うん』と返した。

 『母さんたちが最後に玲央に会いたいって』

 今まで散々お世話になってきた真宮家との今生の別れだ。行かない理由は玲央には無かった。

 「わかった、いつ行けば良い?」

 『すぐにでも』

 「了解。十分後に行くよ」

 電話が切れ、再び静寂が訪れる。

 本当は真宮家に何か贈り物をしたかったのだが、どれだけ小さなものだろうと自分が痕跡を残してしまうと、捜査が始まったときに真宮家に迷惑がかかってしまう。もう今後会うことはできない真宮家の人間の顔を心にしっかりと刻んでおこうと決意し、玲央は部屋を後にした。


 インターホンを鳴らすと、待ち構えていたかのように奏汰が出てくる。

 奏汰の目はほとんど開かないほどに腫れており、服の襟や袖は濡れて変色している。髪はぼさぼさで、搔きむしったのであろう首にはいくつものミミズ腫れができていた。

 「玲央……」

 この短時間でぼろぼろになってしまった奏汰を見て、玲央は一瞬言葉を失った。優しい心を持つ奏汰が重力操作の能力を知った際深く傷つくことは知っていたが、それでも実際に目の前にするとあまりに悲惨で、思わず顔を覆いたくなる。しかし、今ここで自分がすべき対応は、奏汰の様子にショックを受けることではない。

 玲央は奏汰の肩にそっと手を置いた。ポジティブな感情を微量に奏汰に流し込むと、奏汰の顔がほんの僅かだが明るくなる。

 「大丈夫だよ、奏汰。きみは一人じゃない。おれたちがいるから」

 「ありがとう、玲央……」

 奏汰から聞こえる、今にも死んでしまいそうな『声』が弱まったのを確認し、玲央は奏汰の後に続いて真宮家に足を踏み入れた。

 幼少期の頃から幾千度と真宮家に来ているが、これほどに空気が重かったことはない。ゆったりと落ち着いた、それでいて温かな空気でいっぱいだった家が、重く立ち込めた積乱雲のような空気で溢れている。

 「来てくれてありがとうね、玲央くん」

 「奏汰から例の話は聞いている。そのことも含めて、こっちで話そうか」

 奏汰の両親に勧められるがままに、玲央はリビングにある椅子に座った。この椅子は玲央が真宮家でご飯を食べるときに使用されるものであり、真宮家のリビングに当たり前のように置かれている。

 重々しい空気の中、玲央は覚悟を決めて口を開いた。奏汰の両親に伝えたいことも、ずっと前から決めている。

 「奏汰のお父さんとお母さん。もう奏汰からは聞いてるとは思うけど、おれたちはこの島から脱出しようと思います。このままだとおれたちは死ぬか、人権を失って屍のように生きるかの二択しかない」

 真宮友樹が深く頷く。

 「奏汰が重力操作の極だと聞いたとき、俺が真っ先に思いついたのもこの島から奏汰を逃がすということだった。奏汰だけじゃない、玲央くんのことも俺たちは実の息子のように大切に思っている。だから、俺たちも玲央くんの作戦に協力させてくれ」

 玲央は唇を噛みしめた。真宮家の人間なら、彼らの人柄上自分の作戦への協力を申し出てくれるだろうということは、わかっていた。しかし、この作戦に当事者である自分たち以外を加担させることはできない。真宮家の人間が共感覚を持つ人間から取り調べを受けた場合自分たちの行動が筒抜けになるうえ、脱出の共犯者として裁かれてしまう。

 玲央としては、それだけは絶対に避けねばならなかった。

 実際に自分と共に行動する奏汰や京一、雅樂は大丈夫だ。捕まった場合は玲央が三人の思考を書き換えて操っていたことにすれば三人は罪を免れることができる。自分の命と人生を全て捨ててでも仲間を守るという覚悟はとうの昔からできていた。

 玲央はゆっくりと口を開く。

 「何から何までおれに与えてくれてありがとうございます。けれど、作戦に関してはおれたちだけでやらせてください。来たるべきこの日のために、おれは十年以上かけて用意をしてきました。何があろうとも、絶対に生きて奏汰を日本本土に連れて行きます」

 玲央の強い眼差しに、友樹はふっと表情を緩めた。辺りの空気が僅かにだが軽くなる。

 「玲央くん、奏汰の心配も良いけど、きみ自身の心配もしてあげなさい」

 玲央はハッとした。熱いものがこみ上げてくるのをグッとこらえる。

 「ありが、とう、ございます」

 目尻から涙が零れ落ちるのを感じながら、玲央は深々と頭を下げた。

この人たちは、ずっとこうだ。幼い頃から親がいない玲央の面倒を見てくれ、気にかけてくれている。

運動会の時には玲央の分の鉢巻も作ってくれ、受験の時には玲央にも奏汰と同じ手作りのお守りをくれ、お正月には玲央の分のおせちも用意してくれ、何か悩みがある時はいち早く気づいて親身になって考えてくれた。玲央の口座には大金が振り込まれていることに薄々気づきながらも、何も見返りを求めずにただただ無償の愛を注いでくれている。

もうずっと、玲央の家族は真宮家だった。

しかし、真宮家と会うのもこれで最後だ。清らかに生きる彼らに、手を汚した自分が関わることはできない。

 唇を噛みしめて涙を流す玲央の頭の上に、友樹の手がそっと置かれる。熱い手が、玲央の頭をゆっくりと撫でた。運動会のリレーでアンカーだった玲央が一位を取った時に撫でてくれたのと同じ手だ。

 「玲央くん」

 夏美の優しい顔に名前を呼ばれ、玲央はハッと顔を上げる。奏汰に忠実に遺伝している、黒目がちでアーモンド形の目が玲央をしっかりと捉えた。

 「これを」

 細長い箱のようなものを渡され、玲央はおずおずとそれを開ける。

 「奏汰にはついさっき渡したんだけどね」

 箱の中には、柔らかな布に包まれた腕時計が入っていた。あまりブランドなどに興味が無い人でも知っているような名前が瑠璃色の文字盤に記されており、アナログ式の針が正確に時間を刻んでいる。

 「これ……」

 驚いて言葉が出てこない玲央に、横に座っている奏汰が自分の左腕を見せてくる。文字盤が紅であること以外、奏汰のものと全く同じだ。

 「僕とお揃いなんだぜ」

 そう言って奏汰は弱々しく笑う。

 「ささやかではあるが、俺たちからの贐だと思ってくれ」

 玲央は腕時計を隅から隅まで見た後、友樹と夏美の方を見た。

 「おれに……?」

 夏美が人懐っこい笑顔を見せる。

 「玲央くん以外誰がいるの。それとも気に入らなかった?」

 「とんでもないです!」

 反射的にそう言い、玲央はそうっと腕時計を着けた。この腕時計よりも高価なものはいくつも持っているが、真宮家からもらったものに敵うほど価値のあるものなどはない。

 そして、二人の方を見る。

 誰よりも可愛がってくれた人たちの顔を見るのも今日で最後だろう。くっきりとした鮮明な記憶として二人の顔を残したいという玲央の意思に反して、視界がぼやけていく。

 「本当に、ありがとうございます。どうお礼をすれば、良いのか……っ」

 友樹が優しく笑った。家に立ち込めていた空気が、玲央がよく知っているものになる。

 「二人とも幸せに生きてくれるのであれば、それ以上のものは望まない」

 「っ……」

 ずっと我慢していたものが崩壊し、玲央は声をあげて泣いた。玲央の背中にそっと奏汰の手が置かれ、小さい子をあやすかのようなリズムでトントンと叩かれる。

 共感覚の能力を使わずとも、真宮家の思いやりが流れ込んできて玲央の心を満たす。

 物心ついたときには、自分が共感覚の極だということを知っていた。自分の大切なものを守るため、気が狂うほどの年月をかけて脱出計画の準備をしてきた。弱音なんて誰にも吐けなかった。やりきれない想いは全部、作戦への情熱に替えてきた。犯罪にも手を染めた。天国を夢見るために、地獄への片道切符を握りしめてきた。

 自分が犯してきた罪の数々を真宮家の人に言おうとは思わないし、許されたいとも思わない。

 それでも、自分の幸せを願ってくれる存在がいるということに、玲央の心は確かに救われていた。この先もずっと十字架を背負って生きていくことに変わりはない。しかし、このような自分でも生きても良いのかもしれないという一筋の光が差し込んだ。

 泣き止んだ玲央が顔を上げると、もらい泣きしていたらしい奏汰と目が合った。お互いに赤くなった目を見ながら、少しだけ笑う。

 奏汰が玲央に向かってグッと拳を突き出した。

 「絶対脱出を成功させるぞ」

 「奏汰……」

 玲央も同じように拳を突き出す。奏汰とペアを組んでスポーツをしていた頃、試合の前には必ずこうやって拳を合わせた。

 「僕たちが組めば敵なし、だろ?」

 あの頃と同じ決め台詞を言って奏汰が笑う。

 ――そうだ、奏汰はいつだって太陽みたいな眩しさを放っている。

 「もちろんだよ。今までも、これからも、おれたちが負けることはない」

 そう言って玲央も笑うと、奏汰がほっとしたかのように息を吐いた。

 「良かった。久しぶりに玲央の笑顔が見れた」

 玲央はハッとした。いつもにこにことしている方が人から好かれやすいため、よく笑うようにしている。しかし、確かにここ最近は心に余裕が無く心の底から笑うこともできていなかった。

 「ありがとう、奏汰」 

 何に対しての感謝かはあえて言わなかった。その意図をくみ取った奏汰がポンポンと玲央の背中を叩く。

 「ところで、二人はいつこの島を出るんだ?」

 目を赤くしながら二人の様子を見守っていた友樹が玲央に尋ねる。玲央は友樹の目を真っすぐに見つめ、「今夜です」と返した。

 「まぁ、そんなに早いのね」

 夏美が口に手を当てる。

 玲央は深く頷いた。

 「脱出計画についてお伝えすることはできませんが、様々な要因を考えてシミュレーションをした結果、能力覚醒の日が最も相手の不意をつくことができるという結論になりました」

 「相手」が何を指すのかは言わなかった。この島や政府を敵に回すというのは暗黙のルールだ。わざと口にすることで士気を下げるような真似はしたくない。

 玲央が横に目をやると、奏汰は完全に覚悟を決めた顔をしていた。説得にはもっと時間がかかると予想していたので、少し拍子抜けだ。

 「私たちは何もできないっていうのが歯がゆくて仕方ないけれど、あなたたちの未来が幸せなものでありますように」

 嗚咽をもらしながら、夏美は玲央と奏汰を強く抱きしめる。柔軟剤の香りがふわりと漂い、玲央を包んだ。嗅ぎ慣れたシャボン玉の匂いともこれでお別れだという事実が、真宮家との今生の別れを容赦なく突き付けてくる。

 「必ず生きるんだよ」

 友樹の手が二人の頭の上に置かれる。玲央からは見えないが、友樹が涙を流しているのが伝わってきた。

 しばらくそうした後、友樹の手が頭から離れていき、玲央はゆっくりと顔を上げた。奏汰を視線を合わせ、力強く頷く。

 「いこう、玲央。決意が鈍らないうちに」

 最期に両親を抱きしめ、奏汰が玲央に笑顔を向ける。

 「そうだね。出ようか」

 玲央も同じように奏汰の両親を抱きしめ、ドアへと歩いていく。

 二人は最後にもう一度、友樹と夏美の方を振り返った。

 「それじゃあ、行ってきます」

 「気を付けて行ってらっしゃい」

 いつもと全く同じ挨拶を交わし、二人は真宮家を出た。

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