夜の音
朝吹
夜の音
終業後の飲み会、わたしの席は奈々さんの隣りだった。一次会までは社会人の礼儀として参加するが、カラオケに向かいがちな二次会以降についてはいつもわたしは遠慮する。大音量で音楽のかかる店に大勢でいると頭が痛くなってしまうというのがわたしの毎回の断り方だったのだが、
「その云い方では、音楽の流れていない少人数の会ならいいのね、そう返されてしまうわね。脇が甘いわ」
感じよく微笑んだ奈々さんからそう指摘されてしまった。
奈々さんは課の先輩だ。公共放送の女性アナウンサー風のきれいな人だ。とても。
失礼して先に夜道を辿っていると、同じ会社の違う課にいる奈々さんの恋人の
「同じ路線なんだ。一緒に帰ろう」
と気さくな調子で店を出たわたしを追いかけてきた。わたしは、ほぼ自動的に「それは止めておいたほうが」と断り文句を繰り出していた。先輩の恋人と一緒に帰るなんて、後輩としての立場がないではないか。
だが敷さんは、「奈々が送っていけと云ったんだよ。君、お酒弱いでしょ」と云う。
「遠慮せずに」
「はい」
ぼんやりと返事をして、諦めたわたしは敷さんと並んで歩いた。五勺だけ飲んだ日本酒がわたしの心をほろりと後押ししてくれた。
敷さんは新入社員の指導役だった。彼はすぐに、「団体行動が苦手そうだね」とわたしの性格を云い当てた。わたしは恐縮した。
「すみません」
「謝るようなことじゃないよ。女子社員の四人にひとりは君みたいな感じ。でも会社がらみの飲み会なら二回に一回は顔を出したほうがいいよ。出来る?」
「もちろん、そうします」
入社したてのわたしは気負っていた。だからそう返答した。苦手に理由なんてない。ただお酒の席が気詰まりなだけだ。
「俺が云ったことではあるけれど、律儀に二回に一回は必ず参加してる。偉いねえ」
「社会人ですから」
「あ、ちょっとそこでコーヒー」
自動販売機に立ち寄り、敷さんが缶を手に戻ってくる。
「待っていてくれてありがとう」
「いえいえ」
公園に梅は咲いているが春はまだ遠く、夜風は真冬のそれよりも冷たく感じられる夜だった。
わたしは二次会に向かった奈々さんのことを考えていた。奈々さんと敷さんは婚約して同棲している。福利厚生の補助を考慮しても生活費を折半できるのは大きな利点だ。一緒に暮らすことで互いの良い点悪い点を共同生活の中で確認できるのだから、結婚前の同居はもはやわたしたちの世代のマストといってもいい。
からからから、と軽やかな音がわたしの耳に木霊する。はやく家に帰りたい。
「奈々は慣れているみたいだけど、あれはなかなかのお節介だったね」
「ちょっと、ひどかったですよね」
「ヅカさんがいてくれて助かったよ」
苦笑いしながら後にしてきた店での騒ぎを想い返していた。酔いが回った部長が品のない言葉を並べて奈々さんと敷さんの同棲について二人を揶揄ったのだ。すると見た目も性格も宝塚歌劇団の男役のような女性上司のヅカさんが、
「それはセクハラ。完全にアウト」
と邪魔を入れ、セクハラそれセクハラ、ヅカさんの煽りで一同の大合唱となり、笑ってその場が流れたのだ。
「奈々さんと敷さんなら、大丈夫です」
わたしは握りこぶしを作って励ました。街灯に照らされた路面にわたしと敷さんの影が映っている。夜の影絵。
どうしたらあなたのようになれるのかな。
次がわたしの降りる駅だ。敷さんは乗降口の端に陣取ったわたしの近くに立って、満員に近い車内の混雑からさり気なく守ってくれていた。
以前に奈々が云ってたよ。素朴な感じのかわいい子が入ってきた、長く勤めてくれるといいけれど、と。
「君は奈々の憧れ。わたしもあんな女の子に生まれたかったわと笑っていたよ」
窓の外を流れる夜景。車内放送が駅の名を告げる。
「着いたよ。今日はお疲れさま」
「お疲れさまでした」
暖房でほてった頬を冷たい風が叩く。ドアが閉じ電車が動き出す。下げていた頭を上げると、車窓を連ねた電車はもう遠かった。
からからから。鳴っていなくてもその音をきく。玄関でヒールを脱ぎ捨てると、「ただいま。タロウちゃん」と透明なケージに向かって呼びかけた。わたしが縫ったふかふかの布団袋の中からハムスターが顔を出す。
「なぜタロウ」
遊びにきた家族は怪訝そうにしていたが、ウルトラマンのリマスター版の再放送が流れていた時期にこの子が家に来たからだ。
「美味しい」
冷蔵庫で冷やしていた緑茶を呑み干した。ようやく酔いが抜けてきた。駅の反対側の繁華街には初めて行くと云ったものだから、奈々さんはわたしを心配してくれたのだ。
昔の回し車と違い、ベアリング採用のサイレントホールはほとんど音がしない。でも輪の中で走っているハムスターを見ていると、からからと音がしているような気がする。
奈々さんと敷さん。どちらのことも同じくらい好き。
枕に顔を埋める。
夜行性のハムスター。夜行性のわたしの恋。わたしにだけ聴こえている夜に閉じ込めた恋心。
[了]
夜の音 朝吹 @asabuki
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