第四話 地球にやさしいうんこ生活

 ――それは一種の死であった。

 肉体は活動している。活動しているがゆえに、この惨劇は起きてしまった。

 ひとりの子供が泣き叫んでいた。周囲を取り囲むのは、一様に青ざめた顔の男たち。

 汚染された空気が立ちこめる。硫化水素を含んだガスが鼻腔に突き刺さる。

 耐えきれなくなったひとりが助けを求めて走り出す。

 このときをもって彼らの戦いは終わりを告げた。

 悲劇と言えば悲劇。喜劇と言えば喜劇。

 だがこの事件がきっかけで、のちに死の舞台へその子は招かれることになる。



 穴加部はベッドの上でひまそうに天井を眺めていた。

 入院中の身ではそれぐらいしかすることがない。

 白い天井、白いシーツ、白衣……清潔さに囲まれた病室が穴加部は好きだった。

「おう、刑事さん。回診の時間だぜ。腹の調子はどうだい。ちゃんとメシ食ってクソをひりだしてやがるか?」

 備後医師が現れた。運び込まれたのが王子記念病院で、手術を担当したのが彼だったからだ。

 穴加部は身を起こす。腹部を押さえ、少し顔をしかめた。

「刺された箇所はまだ痛みますが、体の機能に問題はありません」

 大学での事件の後、別の事件を捜査していた穴加部は、いきなり逆上した犯人に腹部をナイフで刺されてしまった。傷は腸まで達し、緊急手術を施され、しばらく入院することになった。

 エルの言っていた通り、口は悪いが備後医師の腕は良かったらしい。穴加部の経過は良好だった。

「やっぱ刑事だな。体力があるやつは回復も早い。後遺症もねぇし、血も酸素量も正常。これなら退院の日も近ぇな。ま、当分は家ん中で寝っ転がってのんびり屁でも垂れてた方がいいと思うが」

「そうも言ってはいられないのがこの仕事の辛いところです。休んでいても事件の方からやってきてしまう」

 だがやってくるのは事件だけではなかった。それは厄介さという点においては引けを取らない。

「えーと、401だから……ここかな?」

 病室の入り口から聞き覚えのある声が聞こえ、穴加部はもっと顔をしかめる。

 麦わら帽子をかぶり、白のTシャツの上にオーバーオールを着た少女――もとい男子大学生、悼田エルが入ってきた。

 顔には汗がたらたらと流れている。院内にいると分からないが、季節は夏真っ盛り。7月も末の暑さでは汗もかくだろう。

「やっほー、穴加部さん。元気?」

「おいおいクソ坊主。俺が手術したんだから元気なのは当然だろ」

「あ、師匠もいたんだ」

「こんにちは、エルくん。……それで、何をしに来られたのですか?」

 冷たい視線を送る穴加部。

「ええ……ひどい。せっかくお見舞いに来てあげたのにー」

 麦わら帽子を胸のあたりで抱え、顔の半分を隠して上目遣いに穴加部を見るエル。

 わざとらしいその仕草に穴加部はため息をつく。

「はいはいどうもありがとうございます。この通り、私は元気ですよ。近く退院できるそうですし」

「具体的にはいつなの?」

「8月初めってところだな。何度も言うが仕事に復帰すんのは遅らせた方がいいと思うぜ?」

 備後医師はそう言ってほかの患者の回診へ行くため出ていった。

「私の退院日を聞いてどうするのですか? まさか退院祝いでもしていただけるのでしょうか」

 穴加部は冗談のつもりで言ったのだが、エルは妖艶な笑みを返してきた。

「そのまさか。穴加部さん、退院したらぼくとふたりで2泊3日の旅行に行かない?」



「招待を受けているなら始めにそう言ってください。男に誘われたかと思って寒気が走ったではありませんか」

 ライトバンの座席で揺られながら、穴加部は文句を言った。

「うふふ。ないない。ぼくにだって選ぶ権利はあるんだから」

 エルが助手席から振り返って言う。どういう意味だ。

「それで、縁部山でしたか。これから向かう村があるというのは」

「イエース。そこに我が社の実験プロジェクトのために作られた村があります」

 運転していた若い白人女性が流ちょうな日本語で答える。

 穴加部とエルの待つ場所へライトバンでやってきた彼女は、ヘリンジャード・ケーナインと名乗った。車体には株式会社エターナルエコロジーという社名が。穴加部は知らなかったが、環境ビジネスの企業としては業界で1、2位を争うらしい。

「ちなみにライバル社はグローバルエコシステムと言います」

 ケーナインは英語のところだけ英語っぽい発音でしゃべる。

「そのエターナルエコロジーの社員が中学生のときの知り合いでね。その縁で招待してくれたんだ」

「クラスメイトだったのですか?」

「いや、そのときは先輩にあたるんだったかな。まあ……いろいろあった間柄だよ」

 穴加部の問いにエルは若干言いよどんだ。

 その言い方で穴加部はピンときた。確か備後医師に聞いた話も中学時代だったはずだ。好き好んで聞きたくない話。万が一その話に発展されては困るので、話題を変えることにした。

「ケーナインさん、その実験というのはどのようなものなのでしょうか?」

「はい。当社では完全循環の生活システムの実現を目指しておりまして、とりわけ排泄物の再利用を組み込んだ――」

「ストップ、ストップ! ちょっと待ってください」

 それ以上話を続けてほしくない思いから、つい英語を口走る穴加部。猛烈に嫌な予感がしていた。考えてみればあのエルが行こうとするのだから、当然そっち系の話になる。ましてやエルはいつも穴加部に嬉々として嫌がらせをしてくるのだ。

「そう――」

 エルが首をねじまげて表情を見せる。罠にかかった獲物に向ける嗜虐的な笑み。

「これから始まるのは、うんこで暮らす2泊3日生活だよ」

 穴加部は車のドアを開けようとした。いま飛び降りれば助かる。しかしドアの引き手をいくら引いてもドアは開かず。走行中なのでもちろん鍵は閉まっていた。

 脱力して座席に体を投げ出す穴加部。せっかくの休みが台無しだ。実は密かに楽しみにしていた穴加部はがっかりする。刑事稼業で休暇は貴重なのだ。

 ――だが結局、穴加部は刑事としての仕事をすることになる。



 一車線しかないぐねぐねした山道を登っていく。

 穴加部が窓の下を見ると、そこは急斜面になっていた。ガードレールも整備されていない。きっと通る車が極端に少ないのだろう。

「この先には数年前に廃村になった小さな村がありまして、当プロジェクトはその村をリノベーションする形で行われています」

 つまりこの先にはエターナルエコロジーの社員とその招待客しかいないというわけだ。

 1時間ほど進むと左手に開けた場所があった。駐車場のようだ。

 大きな木の看板に「エコロジービレッジ」と書いてある。

 駐車場には数台の車が止まっており、エルたちの乗る車もそこに駐車した。

 車から降りて初めに目にしたのは、大きな箱型の建物だった。2階建てらしいその建物は茶色く塗装されている。かなり真新しい感じだ。

 その気持ちはエルも同じだったようで、ケーナインに尋ねる。

「やけに新しいけど、これも廃村に元々あったの?」

「ノー、これはオリエンテーションや集会のために作った中央棟です。元々はただの森で、村の入り口の狭い道があるだけでした」

 そのことを示すように、中央棟の周りには木が鬱蒼と生い茂っている。

「ここが入り口だったということは、この先に村があるのですね」

「イエス。ですが、まずは説明と自己紹介を兼ねてこの中央棟に集まってもらいます」

「荷物はどうしたらいいの?」

 VネックのTシャツの上から小さなポーチをかけるエル。下はローライズジーンズをはいている。会う度に思うのだが、なぜこんな女性寄りの服装ばかり着ているのだろう。しかも似合っているのが腹立たしい。

「お荷物は後ほどスタッフが運ばせていただきます。お部屋は決まっておりますので」

「オウケイ、じゃ入ろうか穴加部さん」

 英語発音が混じるケーナインの真似のつもりか、エルはOKの発音を英語っぽく言って中央棟へ入っていった。



 建物内の集会所と記された部屋に入ると、丸テーブルが間隔をあけて3台置かれ、数人の男女が席に座っていた。

 その中のひとり、若い男性がエルの姿を見ると立ち上がった。意外と背がある。

「や、やあ、悼田くん。ありがとう、来てくれたんだね」

「得能さん、久しぶり。中学以来の……いや、その、ずいぶん背伸びた?」

「高校で成長期がきたみたいでね。君は……あのときと全然変わってないな」

 穴加部にはふたりの会話がどことなくギクシャクしたものに思えた。エルを招待した側の人物なら、もっと友好的なやりとりになりそうなものだが。

「ふふふふ。幼なじみ、男女ふたり、微妙な関係、何も起こらないはずはなく……」

 机に突っ伏していた若い女性が何やらブツブツ言っている。穴加部は面倒くさい匂いを嗅ぎ取ったので無視することにした。厄介なのはエルだけで十分だ。

「得能くん、管理人を呼んできてもらえる? 私は主任と副主任を呼んでくるから」

「はい。……じゃあ悼田くん、あとであらためて」

 得能とケーナインがそろって部屋を出ていく。

 3台の丸テーブルにはひとりずつ座っていた。向かって左には横幅の広い中年男性。真ん中にはうつむいて目を伏せた色白の女性。右にはさっきブツブツつぶやいていた若い女性。

 それぞれ離れて座っているところを見ると知り合いではないようだ。

 エルが真ん中のテーブル席に座る。穴加部も同じテーブルについた。

「こちら、失礼いたします」

 その声に対して色白の女性は軽く会釈をしてきた。どこか陰のある美人だった。

 エルと得能の関係を尋ねようか穴加部が迷っていると、入り口の方から声がした。

「……管理人と得能くんがまだ来ていませんが」

「あー良い良い、どうせ紹介は後なんだから」

 中年の男ふたりに続いてケーナインがやってきた。

「お待たせしてすいません。全員そろったということなので、これから当施設の説明を始めさせていただきます」

 男のうち高そうなスーツを着た方がハキハキとしたよく通る声で言う。エネルギッシュな顔をしていて第一線のビジネスマンといった感じだ。

「私は当プロジェクトの担当主任で阿波紀一郎と申します! そして私の隣にいるのが副主任の山野井顕です」

 阿波が紹介した山野井は背が高く柔和な表情をしていた。

「山野井です。本日は来ていただき誠にありがとうございます」

 礼儀正しく一礼する山野井。頭頂部が若干薄くなっているのが見えた。

「さて、弊社――エターナルエコロジーは完全循環の環境システムの実現を目指しております。我々の生活は消費を前提にしていますが、資源の枯渇が叫ばれる現在、徹底的な再利用が必要とされる時代が来るやもしれません。そこで弊社では可能な限りリサイクルを組み込んだエコロジータウン構想を立ち上げました。このエコロジービレッジはその実証実験の一貫となっております」

 話の途中で得能と作務衣姿の老人が入ってきた。老人は「どっこいしょ」とだるそうに座る。

「今回はあくまで実験ですので、実際に生活をしてみて課題をあぶり出すことに重きを置いています。そのため、弊社の人間とその関係者だけの参加になりました。何か不便や問題がありましたら、どうぞご自由に仰ってください」

 ちょっとしたことで炎上する現代、下手な他人を呼ぶより身内で固めた方がいいのだろう。それはそれで意見が言いづらいという問題もあるが。

 そのあたりは阿波も分かっているらしく、こう付け加えた。

「誰しも間違いを犯します。規模の大きいものならばなおのこと。だからこそ始めの段階で問題を洗い出し、潰すことが最適解なのです」

 仕事にかける熱さを感じる話し方だ。悪く言えば暑苦しい。

 ささやくような笑い声が聞こえた。同じテーブルに座っているあの美人が笑っていた。彼女も同じ気持ちだったのだろうか。

「では続いて自己紹介をお願いいたします。まずそちらの机に突っ伏してる方から」

 ケーナインが含み笑いをしながら言った。

「陰キャに自己紹介の初手とか……ヘリちゃん鬼すぎ。うー……」

 机から顔を上げ、ねっとりした動きで立ち上がる女性。クマのできた目でケーナインをにらむ。どうやら知り合いらしい。

「つつみはじめです。堤防の堤に元素の元で堤元。普段は引きこもってま~す……おわり」

 堤はそう言うとまた机に突っ伏してしまった。寝不足なのだろうか。

「では次に真ん中の女性の方、お願いします」

 穴加部たちと向かい合わせに座った女性が立ち上がる。

「…………です」

 ケーナインが困っている。山奥のこの場所は騒音とは無縁だ。それでも聞こえないぐらい小さな声だった。

「あ、あの、できればもう少し大きな声でお願いできますでしょうか」

「阿波まつりです。本日は兄の招きで参りました。よろしくおねがいします」

 つまり主任の阿波の妹ということになる。エネルギッシュな兄とは対照的に生気が感じられない。まつり、という名前もギャップがあった。イメージとしては祭というより葬式だ。

 兄の紀一郎がしょうがない奴だというふうに苦笑している。まつりが兄に招かれてやってくるあたり、兄妹仲は悪くないようだ。

「じゃー次ぼくだね。悼田エル、大学生の男子でーす。今日は得能さんに誘われてこのうんこ村の……じゃなかったエコロジービレッジのうんこリサイクル施設を見に来ました。よろしくね」

 周囲がざわついた。

「えっ……大学生?」

「あたしとしたことがBLと見抜けなんだ……がくり」

「なぁに言っとんだこいつ」

 反応を見せないのは穴加部と得能だけだった。その得能は神妙な顔でエルを見つめている。

「はい次、穴加部さん。はりきってどうぞ!」

 勝手に仕切るな。そんな気持ちを込めてエルをにらんでから穴加部は立ち上がった。

「穴加部庄一と申します。東京で警察に勤めています」

 警察と聞いて、ざわついた空気が沈黙した。何人かは顔をこわばらせている。

 しまった。公務員とでも言っておけばよかったか。無用な警戒を解こうと穴加部はすぐさま付け加える。

「申し訳ありません。驚かせてしまったようですね。今回は捜査に関係のない純粋な休暇ですから、警察手帳も拳銃も持ってきていません。ご安心を」

「ああ、いやいや。直前で増えた参加者が刑事さんと聞いて驚いただけです。当プロジェクトは誰でも歓迎ですとも」

 阿波主任があわてて笑顔を作る。

 微妙な空気を変えるようにケーナインが次の人物を促す。

「で、では続いて左のテーブルの、ええと、設楽さん」

「はい。どうも。縁部市役所から来まずた設楽です。本日はご招待ありがとうございまず。補助金の審査も兼ねて見て回らせでもらいまず」

 設楽はかなりなまったしゃべり方をしていた。丸顔と図体の大きさが田舎っぽさをより醸している。

 市役所の名前からすると、ここ縁部山が属する市なのだろう。しかしそんなおおっぴらに補助金のことを言ってしまっていいのか。

「最後にエコロジービレッジの管理人さん、お願いいたします」

 ケーナインが手を向けたのは、さっき入ってきた老人だった。老人は立ち上がることなく面倒くさそうに口を開いた。

「東海林清志郎。管理人じゃい」

 ほかの客を見ることもなく手短に言う。しっかり管理されているのか不安になる自己紹介だった。

 東海林の性格はケーナインも分かっているのか、特に嫌な顔もしていない。

「弊社のスタッフは、先ほど紹介いたしました主任の阿波と副主任の山野井、荷物運搬など雑事を担当する得能と、ガイドを勤めます私、ケーナインの4人となっております。何かありましたら遠慮なく申しつけください。――それでは、ただいまから施設のガイドをいたします」

「ガイドの間に皆様のお荷物は宿泊ロッジに運ばせていただきます」

 得能が言ったのを汐に招待客たちが思い思いに立ち上がり、集会所から出て行く。

 エントランスに集まった招待客たちをケーナインがまとめる。そのまま外へ出るのかと思いきや、建物の奥へ誘導し始めた。

「この中央棟は2つのエリアに分かれています。いま皆さんがいた集会所、調理場、倉庫、それと管理人室のあるエリア。もう1つが再生プラント設備のエリアです」

 ケーナインが手で指し示した方向には、関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアがあった。

 かすかに機械がうなる音が聞こえてくる。

 目を輝かせてワクワクした様子のエルを見て、穴加部は暗い気持ちになった。車の中でエルが言っていた設備がこの先にある。どんな汚い場所なのだろうか……。

「では参りましょう」

 ドアを開けると機械の音が大きくなった。

 穴加部の目に飛び込んできた光景は――大きな機械がいくつも設置されている殺風景な空間だった。2階までぶちぬいているようで、天井は高い。電灯の明かりが灰色の広い空間を照らしている。

 美しい光景とは言えないが、汚い場所とも言えなかった。穴加部は怪訝な顔をする。エルが嘘をついたのか?

「この施設がプロジェクトのメインと言っても過言ではありません。排泄物から電気・ガスを作り出しています」

 やはり排泄物を使っているらしい。それにしては――。

「うんちやおしっこの臭いもしないけど、どこにあるの?」

 堤が友人らしい気安さで尋ねる。

「あそこのタンクに入っています。発酵槽と言いますが、密閉されているので臭気が漏れる心配はありません。メンテナンス用のドアを開ければ別ですが――開けますか?」

「やめて」「やめてください」

 堤の声に穴加部の声が被さった。ケーナインと堤が驚いたように穴加部を見てくる。

「……あ。失礼しました。どうぞ続けてください」

 後悔先に立たず。つい口をついて出てしまった。その様子を見てエルがニヤニヤしている。

「まあ、いまドアを開けることはできないのでご安心を。菌に無用な影響を及ぼしたくはありませんので」

「嫌気性細菌とかあるもんね」

 エルの言ったことにケーナインが戸惑った表情を見せる。

「よくご存じですね。ガスの生成には細菌による発酵を利用しています。排泄物を分解する過程でメタンガスと二酸化炭素、それに水分と硫化水素が発生します。メタンを生む菌は酸素を嫌う――つまり嫌気性の細菌なのであまり外気を入れたくないのです」

 説明を聞いている皆が一様に興味深そうな態度を示す。穴加部も感心していた。まさか細菌を利用しているとは。もっと機械的な方法を想像していた穴加部は驚いた。

 もっとも、ガイドが戸惑う知識を披露したあたり、エルは最初から知っていたようだ。たぶん排泄物が見えないことも知っていたのだろう。穴加部が誤解することを分かっていて言ったのだ。まったく。エルはどうしてこう嫌がらせをしてくるのか。

 あるいは――過去のことが影響しているのか。

 気がつくとケーナインについて奥の方へほかの人が移動していた。穴加部は早足で追いつく。

「先ほどの発酵槽から取り出したメタンガスを精製してガスタンクにためています。これを各ロッジに配送したり――」

 ケーナインは隅の方の機械を指さして、

「ガス発電器で電気を作っています。この建物の電気もこの設備でまかなっているんですよ」

「はー、糞からガスや電気ができるんでずな。こりゃあびっくりだ」

 設楽が感心したようなトーンで言う。補助金の道は近そうだ。

 それをケーナインも意識しているのか説明に力が入る。

「糞尿というものは私たちの生活において不要とされるものです。下水に流されればそれっきり。しかし、この設備があれば資源として活用することができます。まさに循環社会というわけですね」

「いいねぇ。うんこが循環する社会はもうそこまでやってきてるんだ。……まあいまだって下水汚泥を建設資材に使ったりしてるんだけどね」

 エルが最後にこっそりつぶやいたのを穴加部は聞き逃さなかった。聞こえるように言わなかったのは、PRの邪魔をしないよう気を使ったのだろうか。空気が読めないわけではないらしい。

「以上で再生プラントの説明を終わります。続いてビレッジ全体を回っていきましょう。――失礼します」

 ケーナインが客の間を通り抜けて元来た方へ引き返す。通路が細いのでしょうがない。集団の往来を想定していないのだろう。

 穴加部も反転して後をついていく。

 その際、発酵槽とガスタンクの間から、奥の方にドアがあるのが見えた。おそらく外へつながっているのだろう。

 入ってきたドアを抜け、中央棟の正面玄関を出る。

 日が落ち始めていた。道路に落ちる光がオレンジがかっている。

「こちらからは坂が続きますので、お疲れの方がいらしたら、遠慮せず仰ってください」

 ケーナインが先導する方向を見ると、なるほど坂になった道がある。傾斜がそこまでないせいか、上の方まで確認できる。途中には平屋建ての家が何軒も見えた。

「坂かー。ぼく運動音痴、略してうんちだからやだなー」

「それが言いたかっただけでしょう……。そもそも坂を上るのに必要なのは体力であって運動神経ではありません」

 穴加部はげんなりして言った。

「引きこもりのあたしにもキツいな~……ヘリちゃん、ここで待ってていい?」

「でしたらなおのこと、ついてきて頂きましょう。こういうときぐらい運動しないとそのうち足が退化しますよ?」

 媚びるような上目遣いの堤へ、ケーナインが笑顔のままズバリと言った。ぐぬぬ、と鳴く堤。反論できないあたり、ふだんの生活が伺い知れる。

 歩き出すとすぐY字路に差し掛かった。ケーナインが右側に誘導する。

 その先には囲いに屋根を乗っけた小屋があった。ブヒブヒという鳴き声とともに獣の臭いがしてくる。小屋の中には数匹の豚が動き回っていた。

「こちら豚を飼育している小屋になります。家畜の糞尿をリサイクルするためです。清掃のときに排水溝へ流して、先ほどのプラントへ合流させています」

 小屋の床面には泥ともつかないもので汚れている。それを見た穴加部は口をひん曲げた。

 幸い、ケーナインはすぐに歩き出してくれた。

「この小屋と同じように各建物の下水も中央棟のプラントへ行くようになっております。全体が坂ですから、効率のよい輸送が可能です」

 鋭角にカーブした道を曲がると、左手にロッジが1つあり、右手には作物の植えられた畑が列をなしていた。

「こちらの畑も排泄物の恩恵を受けています。先ほどの発酵槽で微生物が分解した際にガスが発生すると言いましたが、分解が終わった後の液体は良質な肥料になります」

「ほう、そら面白いなぁ。うまく言えんけど、なんちゅうか……」

「作物を食べてしたうんこで、また作物を育ててる。そしてそれを食べてうんこして――これも循環だよね。昔なんかは直でうんこおしっこをまいてたらしいけど」

 言いよどんでいた設楽の言葉を引き取ってエルが解説する。出番を奪われてケーナインが苦笑していた。まさか客の中にこの分野に詳しい人間がいるとは思っていなかっただろう。

 穴加部自身も排泄物にここまで詳しい人間に出会うとは思ってもみなかった。人生というのは分からないものだ。

 一行は進む。ここから少しきつかった。ヘアピンカーブの坂を3回曲がって歩いていく。その途中に3つのロッジがあった。

 大きな池のある高台につく頃には、体力のある穴加部以外息が上がっていた。とくに、華奢なエルと引きこもりらしい堤がひどい。堤はひざに手をついてうつむいているし、エルに至っては穴加部の腕に寄りかかっている。

「づがれだー……! 穴加部さんで休ませて……」

「エルくんはもう少し鍛えた方がよいのでは? 女の子に間違われることも減るかもしれませんよ」

 そう言ったら後ろから肩をつかまれた。振り向くと堤がぎらついた目を向けてきた。

「そっ、特徴(それ)を捨てるなんてとんでもない! リアル男の娘は貴重なの! 天然物はきちんと保護しないと!」

「はあ……」

 穴加部が困っていると、ケーナインが堤の肩をひっつかんで引きはがしてくれた。

「ソーリー、彼女は同人で脳がやられているのです。お気になさらず」

「あー、そういやウチの大学にもあーいう人多かったなぁ」

 なぜか遠い目になるエル。同じようなことを言ってきた人でもいたのだろうか。

「小休止も終わりましたので解説に戻ります。ここはため池で、雨水をためています。そのまま畑にまいたり、浄水して飲み水にしています」

「あれ? じゃあトイレの水はどうしてるの?」

「再生プラントに入る前にある程度分離して、トイレ用に再利用しています。決して飲み水には使用しておりませんのでご安心ください。ここの雨水を浄水しています」

 ケーナインが強調するように言う。先ほど説明しなかったのは、ため池から飲み水を作っていることを分かりやすくするためか。

「しかし、こんな高いとこに水があっだら、あふれたときに危なくねぇでずか?」

 眼下に広がるエコロジービレッジを見下ろす設楽。

 確かに大雨でも降ったら、決壊して下のロッジが危険だ。

「それもご心配なく。あちらに水門が見えますね。水がたまってきたら水門を開放して水を逃がします」

 池の反対側に鉄の大きな水門があった。その先には木々が広がっている。放水路はその向こうにあるのだろう。

 穴加部は視線を戻すときにプレハブ小屋があることに気づいた。特に説明はなかったし、物置か何かなのかもしれない。

「ガイドはここで終了となります。これから皆様をそれぞれのロッジに案内いたします。その後、7時から中央棟で食事とお酒をご用意しますので、ぜひお越しください」

 一行は坂を下っていく。

 ため池のある高台から一段下がると6番のロッジ。阿波まつりがそこに入る。そういえば最初の自己紹介以外口を開かなかった。

 また一段下がると5番ロッジ。ここは素通りする。社員の誰かが入るのだろう。

 ヘアピン坂の入り口に4番。堤が入っていった。そこから直進し、豚小屋のある道と交差する位置の3番ロッジが設楽。最初のY字路の左側の道に1番ロッジと2番ロッジが向かい合わせに配置されていた。1番ロッジは中央棟に一番近く、そこがエルに割り当てられた場所だった。

「ラッキー、あんまり歩かなくて済むや」

 穴加部はその向かい合わせにある2番のロッジだった。

 ロッジと言っても、外観はふつうの民家に見える。だが玄関の引き戸を開けて中に入ってみると、ベッドが2つ置かれホテルの個室のようになっていた。

 すでに荷物は運び込まれている。エルと旧知らしい得能という社員が運んでくれたのだろう。

 それにしてもふたりの間に何があったのか気になるところだ。おそらく得能が何かをしたのだろう。その結末はエルの入院であった。病気自体はありふれたものだったが、それが重症化したことで入院に至ったのだ。

 ただ、重症化するほど我慢してしまったその原因が……。

「やめておきましょう。これ以上は想像したくありません」

 顔をしかめた穴加部は想像を振り払うかのように首を振った。



 7時になり、中央棟の集会所へ向かった。

 客たちはすでにそろっていた。管理人の東海林も来ている。

 丸テーブルはそのままだが、イスがなかった。立食形式らしい。隅にあるテーブルには食器類に加え、ワインやビールなどの酒類が並んでいる。

「ただいま料理をお持ちしますので、それまでお酒を召し上がっていてください」

 ケーナインが入り口から声をかける。

 それを聞いたエルが缶チューハイに手を出そうとした。穴加部はとっさにその手をつかむ。怪訝な顔でつかまれた手を見るエル。

「急に何を……あっ、もしかして未成年と勘違いした? もー、穴加部さんったら。ぼくの学生証見たんだから知ってるでしょ?」

 つかんでから穴加部も気づいた。お酒はハタチになってから。エルはすでにハタチだった。

「失礼。どうにも中学生が飲酒しようとしているようにしかみえなかったもので……」

「そりゃ確かに中学から背が伸びなかったけどさ。せめて高校生ぐらいにして欲しかったなぁ」

 それを聞いて穴加部はぎくりとした。エルの中学時代が気になるものだから、つい中学生という言葉が口に出てしまった。

 思わず言い訳をしようとしたところへ、エターナルエコロジーの社員たちが大皿の料理を持って部屋に入ってきた。

 食欲を誘う香りが部屋に充満する。全体的に野菜が多めに見えた。あの畑で取れた野菜を使っているのだろうか。

「お待たせしました! アマチュアなので時間がかかってしまいましたが、味はきっとご満足いただけると思います!」

 主任の阿波が部屋に響く声で言う。口振りから察するに、料理は彼が作ったらしい。

「食器をどうぞ」

 得能が客たちに皿と箸を配る。ほかの社員たちは自分で食器類を取っていく。

 意外にも一番早く箸をつけたのは阿波まつりだった。口に運ぶと美味しそうに微笑む。

「兄の料理の腕は私が保証します」

 か細い声でそう言った。

 その言葉を信用して食べてみると、実際かなり上等な出来だった。そこらのチェーン店を上回っている。考えてみれば、あれだけプロジェクトに熱心な人物が客の満足を損ねるようなことをするわけがない。

「うわ~、いつものカップ麺の10倍おいし~!」

「これ、うちの嫁の料理よりうめぇんでねぇか」

 ほかの客たちも手を出し始め、酒も進み出す。やがて何人かずつに分かれて談笑が始まった。

 穴加部は部屋中を見回した。いつものくせでつい人間の動きに注意してしまう。

 管理人はひとりでひたすら日本酒をあおっている。

 女性陣と男性陣できれいに分かれているようだ。

 エルはというと主任の阿波を質問責めにしている。

「一日でうんこからどのくらいガス出せるの? あと発電量も教えて」

「あー、それはですな。……山野井さん、いいですか?」

 阿波が困った様子で、近くで設楽と話していた山野井に助けを求める。

「当プラントは小型ですから、生成量はそう多くありません。ガスなら5立方メートル程度でしょうか。発電量は最大で100キロワットになります」

 いきなり振られたにもかかわらず、すらすらと答える山野井。

「副主任さんの方が詳しいんだね」

 エルが意外そうに言うと、阿波がばつが悪そうに笑った。

「ははは、私はあくまで上から眺めて指図しているだけですからな。詳細までは把握しておらんのです」

「何を仰いますか。阿波主任の発想がなければプロジェクト自体が成立しません。まさにそれを求めて我が社は主任をスカウトしたのですから」

 山野井に持ち上げられて阿波が顔の前で勢いよく手を振る。照れているのだろうか。

「やめてくださいよ山野井さん。あなたに言われちゃあ、出戻りの私の立つ瀬がない」

「ん? 出戻りというこどは前にエターナルエゴロジーにおったんですか?」

 設楽も会話に入ってくる。なまりのせいで社名の響きが悪くなってしまっていた。

「ええ、新卒で入りました。その後は山野井さんの元で働きましてね。ただどうも腰の定まらない性分で、グローバルエコシステムの方へ転職したんですよ。そのときも快く送り出して頂きまして……」

「部下が新たな地へ赴こうとしているのです。背を押すのが人というものでしょう」

 メガネの奥の細い目が穏やかに笑う。人格者とはこういう人のことを言うのだろう。江頭課長もこのぐらい表情が柔らかければ、と穴加部は上司の顔を思い浮かべながら思った。

「本来なら私のポストには山野井さんが就いてもおかしくはなかった。私は前の社で培った新しい考え方を買われたから主任という立場にいますがね」

「その場その時で人には求められる役割というものがあります。主任が構想し、私含め部下が組み立てる。今回はそれがベストなのですよ」

「いやいやそんな……」

 放っておくといつまでも互いを褒め続けそうなので、穴加部はその場を離れる。酒を取りに行こうとした途中で、

「なにそれ、ひっどーい!」

 責めるような口調の声がしたので振り向くと、堤とケーナインが阿波まつりを囲んでいた。

 だいぶ酒が回っているようで、堤もケーナインも目が据わっている。阿波まつりの方は涙ぐんでいた。

「どうかされましたか?」

 はたから見るとまるでいじめているかのようだ。そんなわけないと思いつつ状況に興味を引かれ、つい口を出した穴加部。

「あ、刑事の人。聞いてよ、この旦那がクソ!」

「まつりさんの話をヒアしたんですが、夫がかなりエゴイスティックなんです。帰宅がどんなに遅くても玄関に出迎えなければシャウト、モーニングの支度が遅くてもシャウト……振り回されているそうです、エブリデイ」

 ケーナインは酔うと英語が出やすくなるらしい。ルーなんとかみたいだ。

 要するにまつりは亭主関白で苦労しているということか。今時珍しいが、声の小ささのことも含め自己主張が苦手そうなタイプだから無理もない。

「夫のお給料はいいですから、暮らし向きに不満はありません。ただ、少し疲れてしまって……そうしたら兄が気晴らしにと誘ってくれたのです」

 まつりも酒が入っているせいか、若干声が聞き取りやすい大きさになっていた。

「面倒見のいいお兄さんなのですね」

 はにかんで、小さくうなずくまつり。酔いで色白の肌にほんのりと赤みがさしている。

「私は子供のときから引っ込み思案な性格のうえ、10も年が離れているせいもあって、よく兄にかばってもらっていました。成人してからも折に触れて様子を見に来てくれて……兄には感謝しかありません」

「いいハナシだなー。あ、そうだ。次は兄弟愛をテーマにして……」

「ハジメ~、他人のライフをマテリアルにするなって言ってるでしょ~!」

「ぶえーもがもがもが……!」

 メモを取り出した堤の口に料理を怒濤の勢いで突っ込むケーナイン。入りきらない食べ物がこぼれる光景に辟易した穴加部が思わず後ろに下がる。

 その拍子に誰かと背中がぶつかってしまった。

 謝ろうと振り向くと、そこにはエルがやはり据わった目で突っ立っていた。

「ねぇ、穴加部さん……」

 エルが近寄ってぴったりと体を寄せてきた。顔が火照って、ゆるんだ笑みを浮かべている。かなり飲んでいるようだ。

「な、なんでしょうかエルくん」

 しかし男だと分かっていても落ち着かない。夏の暑さを意識しただけに過ぎないであろう深いVネックシャツとローライズジーンズの組み合わせは、露出した肌をやたら目に飛び込ませてくる。そんなことを考えてしまうのは穴加部自身も酔っているせいか。

 あやうく変な雰囲気になりかけたが、そこはエルのこと。酔いを醒ますことを言ってくれた。

「この野菜はうんこで育てたやつだよね……」

 手に持ったバーニャカウダを目の前に突きつけてきた。

「……………………まあ、そうですが」

「だったら、ぼくたちはいま、うんこを食っていると言っても過言ではないよね……? うふふふふふふ……」

 ちょっと何を言ってるか分からない。普段が普段なので素面なのか酔っているのか判別できなかった。

「あげる」

「わっ!? それ、ソースが……!」

 ソースのついた野菜が穴加部の服に押しつけられる。文句を言おうとしたときには、エルはふらふらと歩いて部屋から出て行くところだった。

「汚れちゃいましたね、どうぞ」

 と、すぐに得能が布巾を差し出してきた。若いのに気が利く。先ほどから見ていても、人の間を回りながらこまめに世話をしていた。

「ありがとうございます」

 汚れをゴシゴシと拭う穴加部。ちょうどいいので得能にエルのことを聞いてみることにした。

「……エルくんは昔からあのような人だったのでしょうか? その、やたらと排泄物に興味を示すような」

 得能は細い目をさらに細める。

「ああ、悼田くんからは聞いてないのですね。あの事件のことを」

 事件と聞いて穴加部は身構えた。非番であってもどうしても反応してしまう。

 その様子に得能は苦笑する。

「事件といっても警察の出るような話ではないですよ。学校の中だけで終わったことですから。ただ、中学生の私たちや悼田くんにとっては大事件と呼べるものでした」

「いったい何があったのでしょうか?」

「私はあのとき……いや、私がそれを言うのは間違いでしょうね。悼田くん本人から聞いた方がいいでしょう。――では、ごゆっくり」

 得能は一瞬言い掛けたが、逃げるように給仕に戻ってしまった。

 本人に聞くと確実に下品のオンパレードになりそうだから、オブラートに包んでくれそうな得能に期待していたのだが、当てが外れた。

 その後、得能から、エルのことを聞き出す機会は巡ってこなかった。――永久に。



 料理もあらかた片づき、時間も遅くなってきたこともあって、自然にお開きになった。

 街灯の頼りない明かりの中、それぞれのロッジへ戻っていく。

 エルのロッジの前を通ると、得能とエルが連れだって入るところが見えた。招待した側とされた側が一緒に泊まるのかも知れない。

 招待客の知り合いという立場の穴加部は当然ひとりで泊まることになる。正直、エルと同部屋になったらひどいことになりそうだったのでホッとしていた。

 ベッドに入る前にスマホをチェックする。療養中の扱いなので連絡が来るとも思えないが念のためだ。

「とくにありませんか。……しかし、こんな山奥でも電波は届くものですね」

 文明の力に感心しつつ、穴加部は眠りについた。



 ――その男は、この時をずっと待っていた。穢れた過去を消し去るために。人生に落ちた大きなシミを拭き取るために。汚物を下水に流したいがために。

「なに? こんな時間に呼び出してなんだよ」

 得能塁はその男へ気安く話しかける。つながりのある人間に対する口調。

「招待のことだったら前に言っただろ? ずっと気になってたやつを招待する。そういう話だったんだから」

 だが、その男はつながりを断ち切らんとしていた。

「え…………?」

 腹部に深々と突き刺さる幅広のナイフ。不意を打たれてしまえば背の高さなど関係ない。

「なんで…………がふぅっ……! ぐ……う…………ん…………」

 大量の血は致命傷の証。始めはもがいていた得能だったが、やがて生命の機能は失われ、指の一本すら動かさなくなった。

 死体を見下ろして、その男は静かにつぶやく。

「まず、ひとつ」



 ロッジは自炊もできるようになっていた。食器類やカップラーメン、インスタントコーヒーなどが常備されている。

 穴加部はポットに水を入れてガスコンロで沸かし始めた。ガスから生まれた炎が熱を与える。このガスの素が何だったかは考えないようにした。コーヒーの香りが台無しになってしまう。

 お湯が沸くまでスマートフォンでネットニュースでも見ようとしたが、なぜかつながらない。

「おかしいですね……寝る前には接続されていたのですが」

 と、遠くの方から地鳴りが聞こえた。一瞬、ため池のある高台が崖崩れでも起こしたのかと思ったが、それにしては遠すぎる。

 引き戸を開けて外に出てみたが、特に変わった様子は見られない。

 穴加部のロッジから道を挟んだ向かいのロッジからエルが出てきた。途中にあるマンホールを踏みつけてこちらにやってくる。

「穴加部さんも聞いた? いまの地響き」

「ええ、地震などではないようですが……」

 坂の上の方にある3つのロッジからエターナルエコロジーの社員たちが出てくる。一番上のロッジから阿波、その下から山野井、一番下のロッジからケーナイン。役職順だったらしい。

「――おや、そういえば得能さんはどこへ? エルくんと一緒に泊まっていたのでしょう?」

「さあ? 起きたときにはいなかったよ」

 そっけなく言うエル。

「おはようございます。おふたりもいまのを聞かれましたか」

 主任の阿波が若干顔を曇らせて話しかけてきた。

「山中で土砂崩れでも起きたのかもしれませんが、もしかすると山道が崩れた可能性もあります。念のため、確認した方が」

「でしたら私が車で見てきます」

 ケーナインが手を挙げる。

「私も同乗してよろしいでしょうか。もし本当に通行不能な状態であれば警察への連絡が必要でしょうから」

「すみませんな。せっかくの休暇だというのに」

 穴加部は恐縮する阿波に気にしないよう言って、ケーナインとともに駐車場へ向かった。



「オーマイガー……!」

 元来た山道をゆっくり下っていくと、途中で大穴に突き当たった。道がぶっつりと途切れ、車一台分ほどの穴になっている。道の下の崖が崩壊したようだ。歩くスペースすら見当たらない。

「これじゃ戻れないじゃん。ほかに道はないの?」

「ノー。整備された道はここだけです。あとは山を下りるしかありません」

 険しい顔で崩れた道の端境を見下ろすケーナイン。

「とりあえず麓の警察に連絡を……」

 穴加部は電話をかけるが、その顔が怪訝なものになり、やがて眉間にしわが寄っていく。

 その様子を見たエルが手早く自分のスマートフォンを取り出して電話をかける。しかし電話の向こうへ声を届けることはなかった。

「穴加部さん、これ基地局がやられてるっぽいよ」

「そのようですね。こちらも一向につながる気配がありません」

 念のためケーナインにも電話をしてもらったが、結果は同じだった。不安そうな顔でスマートフォンを耳から離す。

「ホワイ……これはいったいどういうことなんでしょうか?」

 それは穴加部の方が聞きたかった。通信を遮断され、道も寸断。ただひとつ分かることがあるとするなら――。

「ぼくたちは完全に孤立したってことだね」

 エルがひきつった笑みを浮かべて言った。


10


 駐車場に戻ると、皆が駆け寄ってきた。先ほどはいなかった阿波まつり、設楽、堤、それと管理人の姿もあった。

「どうだったんだ、ケーナイン?」

 主任の阿波から問われ、ケーナインは状況を伝えた。朝の空気に不安の色を帯びたどよめきが広がる。

「電話もつながらないとは参ったな……まさか山の中を下りるわけにもいかんし……」

「兄さん、これからどうなってしまうの……?」

 まつりが縋るような目で兄を見つめる。こんな表情をされてはつい守りたくなってしまうのも無理はない。

「うむ……日程は各所に伝えてあるから、日程を過ぎても何も連絡がなければ向こうから来てくれるとは思う。帰るのが明日の夜の予定だから、明後日には気づいてくれるはずだ」

「けんど、それまでどーするんでず? 飯とか足りなくなるんじゃねぇが?」

 図体の大きな設楽が言うと危機感が増す。

「食料については問題ないと思われます。元々、皆さんに設備を利用してもらうために各ロッジに食材の用意はしてありましたので。それに中央棟の厨房にも2日目の夕食用のものがあります。1食あたりを少し減らせば3日程度なら保つかと」

 冷静かつ的確に語る山野井。表情こそ引き締めているが、落ち着きのある態度だった。

「なお、豚小屋の豚は勘定に入れていません。捌くことができる人がいませんから」

 冗談を言ったわけではないだろうが、なんとなく笑いが起こる。

「いや~、でも山奥の集落に閉じこめられるって小説みたいな展開だよね。だいたいこの後は人が消えたり死んだり……」

「空気読みなさいよこの同人脳」

「えっ……なんでそんな目つきで見てくるの……?」

 エターナルエコロジーの社員たちの視線が堤に向かう。冗談に聞こえなかったのだ。同僚がひとりこの場から欠けているのだから。

「得能さんの姿がありませんが、どちらにおられるかご存じでしょうか?

 そのことに気づいていた穴加部が尋ねると、阿波が困惑したように言った。

「それが……どこにも見当たらんのですよ。ロッジに荷物があったので帰ったとも思えません。第一、黙って帰るような人間でもありませんし」

「各ロッジは当然として、ため池から中央棟のプラント内まで人が入りそうな場所はすべて探しました。それでも見つかりませんでした」

 山野井が表情を曇らせる。

「もしかしでその得能って人が道を落としたんでは? 電話がつながらんのも彼のせいで……」

 不安からか短絡的なことを言う設楽。雰囲気がピリつく。

「補助金の申請をしている身ですが、憶測でものを言うのはやめていただきましょうか」

 山野井が厳しい口調で戒める。会社の都合よりも社員の潔白を優先する姿は見ていて気持ちのいいものだった。穴加部は感心していたが、エルを見ると不審そうな目をしている。何が気に食わないのだろうか。

「も、申し訳ないでず。どうも思っだことがすぐ口から出ちまっで……」

「確かに得能さんを疑うのはおかしい。でも、人為的だってとこは当たってると思うよ」

 エルがとんでもないことを言い出した。

「エルくん、それは――」

「穴加部さんだって分かってるんでしょ? 道の崩落と通信障害が同時に起こるのは変だって」

 しぶしぶ頷く穴加部。同じことを思ってはいたのだが、証拠もなく、狙いも分からない状態でいい加減なことを言いたくなかったのだ。

「誰が何のために我々を閉じこめたのかその理由は判然としません。いまはとりあえず、得能さんをもう一度探しましょう。あるいは、この件で巻き込まれている可能性もありますから」

「でしたら朝食を食べてからにした方がいいと思います。各ロッジには手軽に食べられるものが備蓄してありますので」

「腹が減ってはいいクソができぬって言うしね」

 穴加部は精一杯の非難を込めた目でエルをにらんだ。この空気でよく言えたものだと思う。

 とはいえ、穴加部も朝はコーヒーを飲んだだけだ。何か胃に入れておきたいのも確かだった。

「では、30分後に4番ロッジの前に集合しましょう。それから皆で手分けして捜索を開始します」

「あれっ、それってあたしも入っちゃってる?」 

 堤がうわずった声を出したので、阿波が慌てて言う。

「いえ、社員のことでお客様の手を借りるわけには……」

「いやいやいや、別にいいんだけどさ。ネタになるし」

 ケーナインがすごい目でにらんだが、なにしろ探させる相手が同僚なのでそれ以上何も言わなかった。

 皆がそれぞれのロッジに散っていく。

 穴加部も戻ると手を洗ってから戸棚を開けた。入っていたのは菓子類やカップ麺、食パンに携行栄養食品など。食パン2枚を冷蔵庫の中にあった牛乳で流し込む。事件に向かうときの刑事の習性が発揮されてしまっていた。

「おっと、いけませんね。まだ事件があると決まったわけではないというのに……」

 そう口にした途端、事件が起きた。

 爆発の轟音。

 窓ガラスがわずかに振動する。

 玄関の引き戸を勢いよく開けて外へ飛び出る。エルも同じ行動をとっていた。

「穴加部さん、あれ!」

 焦った声で叫んだエルが坂の上を指さす。黒煙が立ち上っている。一番上に位置する6番ロッジが炎に包まれていた。あそこには確か阿波兄妹が入っていたはずだ。

 とにかく火災現場に急ぐ。坂道を全力で駆ける穴加部。足の遅いエルが置き去りになったが仕方がない。

 燃えるロッジの二段下に位置する4番ロッジの前には山野井、ケーナイン、堤が呆然とした様子で見上げていた。

 物が燃える音がうなる。火の弾ける音が鳴る。

「皆さんは大丈夫ですか!? 何があったのです?!」

 その大声にハッとする3人。

「何がなんだか……頭がホワイトアウトしてしまって」

「いきなりドゴーンってすごい音がしたから出たらすごい燃えてんの!」

「主任とまつりさんがまだ中に……」

 一度に言われて混乱しかけたが、穴加部は状況を把握した。

「まずいですね。いまは消防も救急も呼ぶことも来ることもできない」

 仮に電話も道も無事だったとしてもこの山中では到着に時間がかかりすぎる。穴加部の顔に焦りがにじむ。

「山野井さん、ここに何か消火設備はありませんか?」

「消火器なら中央棟に――いや、確か……ため池近くの小屋に消防ポンプがあったはずです。それでため池から水を汲めば……」

「分かりました。いまはそれに頼るしかありません」

 話が決まったところで、エル、設楽、東海林もやってきた。燃え盛るロッジを見て一様に戦慄した表情をしている。

「いまから山野井さんと上の小屋にある消化ポンプを探しに行きます。ほかの方々は駐車場へ避難してください」

「うん、そうする。ぼくじゃ役に立たなそうだしね」

「わしは手伝おう」

 意外にも管理人の東海林が協力を申し出てきた。だがこの年齢で大丈夫だろうか。穴加部が対応を決めかねていると、

「わしは昔、地元の消防団に入っていたんじゃ。ポンプの扱いなら分かるぞ」

「そういうことでしたらぜひ。ただ、火災の前を通らなくてはいけないので気をつけてください」

 ため池のある高台へは一本道だ。必然的に燃え盛るロッジ前を通過することになる。何かに引火して爆発しないとも言い切れない。そもそも最初の音からして爆発するものがロッジ内にあった可能性が高いのだ。

 きついヘアピンカーブの坂を駆け上る。そしてできるだけロッジに近づかないように前を抜けた。ひどい熱気が恐怖を抱かせる。

 ため池のすぐそばにプレハブ小屋を見つけた。

「あの小屋の中ですか?」

「はい、鍵はかかっていませんので、早く探しましょう……!」

 山野井が息を荒くして言う。外見的に50代ぐらいなのだろう。坂道の全力疾走はきついはずだ。

 外から見た通り小屋はそう広くない。赤く塗られた消防ポンプをすぐ見つけることができた。

「これのようですね。早く運び出しましょう」

 穴加部がポンプの機械に手を伸ばそうとすると、東海林が疑問の声を上げた。

「ん、ホースはどこじゃ? ポンプだけじゃ意味ねぇぞ」

「そう言われれば……」

 慌てて小屋の中をぐるりと見回す。

「しかし、それらしきものは見当たりませんよ?」

「もしかすると、中央棟のどこかかもしれません。以前、プラントで使った記憶がありますから、その後でどこかにしまった可能性が……」

「おいおい冗談じゃねぇや。いまからあっちに戻るのかよ!」

 黒煙にふさがれた視界の端に見える中央棟を指さして、東海林がうんざりしたように叫ぶ。

 穴加部も一瞬絶望的な気持ちになったが、迷っているひまはない。

「もう時間がありません。とにかく中央棟へ!」

 下り坂を一気に駆ける。穴加部の2番ロッジとエルの1番ロッジが並ぶ道に差し掛かったところで、山野井が派手にすっ転んだ。やはりあの年齢で立て続けの全力疾走は無理があったか。

「大丈夫ですか!」

「申し訳ありません、足がもつれて……先へ行っていてください! ホースはおそらく2階にあるはずです!」

 穴加部は頷くと東海林とともに再び走り出す。意外にも東海林の速度は衰えない。消防団をしていたぐらいだから、体力を要する仕事に就いていたのかもしれない。

 駐車場では、避難した4人が落ち着かない様子で立っていた。穴加部の姿を見てエルが真っ先に声をかけてくる。

「穴加部さん、火どうなったの?!」

「消化ポンプはありましたがホースがここの2階なのです!」

「なんでそんなところに……いや、とにかくぼくも手伝うよ」

 エルを加えて2階へ上がる。直線の廊下が伸びており、左側には、ドアが2つ離れた位置についている。2階は2部屋あるようだ。

「手前は俺の部屋だ。こっちにはねぇ。たぶんもう一方の物置にあるんじゃろう」

 その言葉を聞いて奥の部屋に飛び込む。天井まで届く棚や段ボール箱が所狭しと並んでいた。このどこかに消防ホースがあるはずだ。

 中身のことなど考えず、片端からぶちまける。

 直後に、追いついた山野井が顔を出す。

「ありましたか?!」

「まだだ、全部ひっくり返してみねぇと」

「でしたらそちらはお任せします。私は念のためプラントの方を探してきます。放置されている可能性もありますので」

 言うが早いか山野井は急いで階段を降りていった。

 穴加部は腕時計を見た。8時30分。火災が起きてから20分以上経過していた。ここまで時間が経つと中の人間も心配だが、延焼の恐れも出てくる。だがその焦りとは裏腹に、ホースは一向に出てこない。

「本当にここにあるのー?! 全然見つからないんだけど!」

 エルが音を上げ出す。

「一応わしの部屋も探してみる」

 東海林が隣の管理人室へ向かった。

 ちらちらと腕時計を気にしつつ、穴加部はさらに綿密に探していく。腕時計の長針は容赦なく進む。そして7の位置、35分を過ぎたところで、山野井が飛び込んできた。肩で息をしている。その腕にはロールされたホースを抱えていた。

「ありました……! プラントの隅に、放置されていて……」

「場所はいいから早く行って!」

 エルに言われるまでもなく動き出していた穴加部はホースを受け取ると、階段に急ぐ。山野井の声を聞いた東海林も部屋から出てきて合流。体力的に限界のきていた山野井を置いて、ふたりはわき目もふらずに一気に坂道を走っていく。黒煙の上がるロッジから目を切らない。

 ため池のそばにポンプを運んでくる頃には、ふたりともせき込むほどに息が上がっていた。だがへばっているひまはない。ポンプにホースを取り付けて作動させる。ホースを持って高台のへりへ。ため池から水が汲み上げられ、ホースから水が噴き出した。水流の方向は真下にある6番ロッジ。

 炎のうなりに、水が蒸発する音が混じる。

 最初は火勢も黒煙も衰えなかったので、穴加部はこのポンプでは消化できないのではないかと不安になった。しかし時間とともに火は小さくなり、白煙が混じりだす。だんだんと黒こげになった家の駆体が見えてきた。中の人間は無事なのか。

 やがて炎は眼下から姿を消す。それでも燻った火を完全に消すために放水を続けた。あたりが水浸しになるまで徹底的に。

「もう十分じゃろう……。悪いがあんたが見てきてくれ。わしはしばらく立てんわ」

「ゆっくり休んでいてください。どのみち私の仕事ですから」

 坂を下りて焼け跡の前に立つ穴加部。すでに刑事としての頭になっていた。灰と化したロッジへ足を踏み入れる。

 あれだけ大量の水を放水したにもかかわらず、ロッジの焼け跡はまだ熱を持っていた。木材、プラスチック、金属、食材……さまざまなものが燃えたせいで臭気もひどい。だがそれはそれで幸いだったかもしれない。人が焼けた臭いも覆い隠してくれたのだから。

「っ……! やはり……」

 穴加部は思わず口を手で押さえる。焼け焦げた二つの死体。詳しくは調べないと分からないが、阿波兄妹とみて間違いないだろう。

 それにしても何が起きたのか。すぐ思いつくのはガス爆発だが、なにしろこれだけ燃えてしまっては分からない。

「ひでぇなこりゃ……」

 焼け跡の前から東海林が見ていた。ひどく顔をしかめている。それが惨状を見たせいなのか、全力疾走の疲れのせいなのかは分からなかった。

「……とにかく、一度戻りましょう。鎮火を知らせなくては」 

 緊張が解けて一気に疲労が押し寄せてきていた。足取りが重い。ゆっくりと道を歩いていく。


 だから――それを見つけることができた。


悼田エルの泊まった1番ロッジ。開け放たれた玄関の向こうに、得能塁の死体があった。

――穴加部にとって最も嫌な形で。


11


 穴加部から顛末を聞いて、駐車場に残っていた人々は事件現場へ急いだ。1番ロッジの得能の死体に悲鳴を上げ、焼け落ちた6番ロッジを見て絶句した。

 中央棟に戻ってきたとき、その場の空気は沈黙一色になった。

 やがて嗚咽が漏れる。ケーナインが涙を流していた。

「オーマイガー……主任とまつりさんだけでなく、得能くんまであんな死に方を……」

「まだ若いというのに、得能くん……。それに阿波くんも、まさかこんなところで死ぬことになるとは……」

 山野井もショックを露わにしていた。沈鬱な表情のせいで、細い目がさらに細くなっている。あるいは瞑目して死を悼んでいるのかもしれない。

「ほ、本当に人が死んじゃうなんて。あ、あたしが言ったせいじゃないからね……?」

 青ざめた顔をする堤。まるで予言したような形になってしまったことでおびえているのだろう。

 設楽も何か言おうと口を開きかけたが、結局黙ったままだった。

 混乱の極みと言っていい。

 一度に3人もの人間が死んだのだ。冷静でいられる人間の方が珍しい。

 加えて穴加部には動揺する理由がもうひとつあった。

 そこへ堤が何かに気づいたように急に大声を出す。

「ていうか……やばくない? あたしたち閉じこめられてるんでしょ? だったら、殺人犯があたしたちの中にいるってことじゃん!」

 一同がざわつく。

 穴加部は心の中で舌打ちした。焼死した阿波兄妹の件はともかく、明確に殺害されていた得能については、エコロジービレッジにいる全員が容疑者であるということは当然分かっていた。混乱を先延ばしにしたくて黙っていたのだ。なにより――。

「犯人たって……同じロッジに泊まってだ悼田くんがやっだんじゃねぇのが?」

 設楽が短絡的な考えを口にする。だがそれは穴加部も思っていたことだった。

 得能の死体が見つかったのは1番ロッジ。そこは得能とエルが一緒に入っていた場所だ。そしてそこで得能は死んでいた。2引く1は1。となれば最も疑わしいのは当然――悼田エルとなる。

 考えてみれば昨夜エルと得能がロッジに入った後、誰も姿を見ていない。起床したときにはいなかったとエルは言ったが、本当はすでに殺害してしまっていたのではないか?

 穴加部は目だけをエルの方へ動かす。

 口を引き結んでいる顔が見えた。犯人だと名指しされているのに何も言わない。

 皆がエルから後ずさろうとする。

「死体がくそまみれだったのもお前なら分かる。それでうんこうんこ言うとったんじゃな」

 東海林が異常なものを見る目をする。

 死体の様子もまた異常だった。

 致命傷は腹部の傷。腸のあたりが刃物か何かで深く切り裂かれていた。それだけならまだしも、死体は頭から足先まで肥溜めに浸かったような状態だったのだ。有り体に言ってしまえば、糞尿にまみれていた。その光景を見た穴加部の表情がどのようなものだったかは言うまでもない。ここまで絶望的に汚い現場は絶後だろう。

 その汚さがエルへの疑いをさらに強めてしまう。なにしろイメージに合いすぎる。ことここに至っては、ただの下ネタ好きで片づけられない。猟奇的な殺人を犯した恐ろしい人間。皆がその認識でいるだろう。

 だからこそエルが黙っていることに穴加部は焦る。この空気で刑事の自分が手心を加えれば不満が噴き出すだろう。

「どうして何も言わないのですか、エルくん。このままでは――きみを容疑者として扱わざるを得なくなります」

「………………いまは何も言えないよ。逮捕でも何でもすればいい」

 穴加部の心配をよそに、そっけなく言い放つエル。

 不可解だった。エルならばいくらでも言い訳を思いつくはずなのに、なぜ何も言わないのか。

「刑事さん。お知り合いだからためらっているのでしょうが、私たちも同じ社の人間を失っているのです。公正な判断をお願いしたい」

 山野井がきっぱりと言う。

「――――。仰る通りです。では、いまから彼は私の監視下に置くことにしましょう。常に同行して目を離さないようにします。それで構いませんか?」

「えっ、それってシャワーもベッドも一緒に――へぶぅっ!?」

 同人モードが出てしまった堤へ、ものすごい顔をしたケーナインが渾身の平手を食らわせた。

 その後すぐに悲痛な表情に戻って、

「できればどこかに閉じこめてほしいところですが……ずっとウォッチしてくれるならそれでいいです」

 それでこの場は収まった。


12


 2番ロッジ――穴加部の泊まるロッジで、穴加部とエルはテーブルを挟んで向き合っていた。

 まるで取り調べのようだったが、エルの前に置かれていたのはカツ丼ではなくカップラーメンだった。いまお湯を注いだところだ。エルは若干こぼれたお湯を布巾で拭きながら、

「いやー、ロッジに入ったらすぐドカンといったからさ。あんまり食べられなかったんだよ」

「容疑者扱いされているというのに、随分のんきにしていますね……」

「だってぼく犯人じゃないし。穴加部さんだってそう思ってるんでしょ?」

「警察としてはあらゆる可能性を考慮して捜査しなければなりません」

 穴加部は事務的な口調で言った後に続けて、

「まあ、エルくんが犯人とは思っていませんが。やるにしても露骨に自分に疑いのかかる方法は採らないでしょう?」

「当たり前じゃん。自分の居室に死体を置きっぱなしにして、ぼくのキャラにピッタリなくそまみれ状態にする……これじゃ自白同然だもん。あの中の誰かがぼくに罪を着せてきたに決まってる」

「そこまで分かっているのならば、なぜ先ほどそう言わなかったのですか?」

 エルが視線を外して、うーんとうなる。言おうか言うまいか悩んでいるようだ。

「……あの場で言い訳しようとすると、得能さんとぼくの関係について言わなくちゃならないじゃん? そうなると中学のときのことに話が飛ぶかもしれない。誰にも話したくないんだよ、あのときのことは。事件に関係ないと思えるならなおさらね」

「それはやはり、入院したときの件が関わっているのでしょうか?」

「どうしてそれを――ああ、うんこ師匠から聞いたんだね。でも師匠にも全部は言ってない。できればずっと隠したい人生の汚点――そう、本当に汚点だからさ。うふふ……」

 誰にだって人生で後悔した経験がある。好き勝手に生きているように見えるエルでもそれは例外ではないのだろう。

 穴加部も縁浅からぬ人間の過去をほじくり返したくはない。というか、その内容がまず間違いなく汚い話になるので聞きたくない。

「しかし、そのことが事件に関係あるかもしれません。被害者の過去につながる話なら、私も聞く義務があります」

 穴加部はエルの目をしっかりと見て言う。

 エルが穴加部の目をのぞき込むように顔を近づけてきた。吐息がかかる距離。一瞬ドキッとしたが、目は逸らさなかった。

「……分かった。じゃあ、話すよ。ちょうどラーメンもできたし」

 ふたをペリペリとはがす。

「6年前のあの日、ぼくは――うんこを漏らしたんだ」

 スパイシーな匂いが広がった。

 どうしてよりによってカレー味にしたんだ!


13


 中学生のとき、エルの容姿は現在とほとんど変わっていなかった。だが、やっていることはまるで違っていた。

 美化活動。美化委員として掃除やゴミの問題に熱心に取り組んでいた。中学の委員会活動、ましてや地味な美化委員など真面目にやる方が珍しい。だから美化委員会の担当教師、角村から目をかけられていた。

「悼田は頑張っているな。ゴミを見つけたらすぐ拾うし、校舎を汚すやつがいれば注意する。美化委員の鑑だ」

「ありがとうございます、角村先生。ぼくらの学校をもっときれいにしたいので頑張ります」

 礼儀正しくお辞儀をするエル。


「ちょ、ちょっと待ってください……。いま話しているのはエルくんのことですよね? 別の人ではなく?」

「うるさいなー。こういうのもあるから話したくないんだって」

 不機嫌そうにラーメンをすするエル。もぐもぐしながら話を再開する。


 褒められて気をよくしたエルはますます美化活動に精を出すようになる。誰も来ない校舎の裏手まで出向いてゴミを拾い、掃除当番が雑に掃除した場所を掃除し直した。もちろん自分のクラスの清掃状況も厳しくチェック。

「ほらそこ! まだホコリが残ってる! ――なんで黒板の隅まで拭かないのさ! サボっちゃだめだよ!」

 その厳しさに反感を持つ生徒もいたが、言っていることは正しいことに加え、エルの勢いに圧倒されていることもあって、表だって文句を言う人間はいなかった。

 あるいは、この段階で総スカンを食っていれば、エルもこれ以上ヒートアップすることはなかったかもしれない。

 強く言うことがあったとはいえ、美化活動に熱心であることに変わりはない。そういう実績があったから、美化委員長になるのは必然だった。

 もっとも、委員長になったからといって何が変わるわけでもない。中学校程度ではせいぜい委員会の司会役になるぐらいだ。ふつうであれば。

 悼田エルはいまも昔もふつうではなかった。

「これからこの学校を皆できれいにしていきましょう。皆はクラスの清掃をしっかりと見て、ゴミひとつ残さないようにしてください。ゴミを見つけたらすぐに拾い、汚れを見つけたらすぐに拭く。ひとりひとりが頑張ればきれいな学校になります」

 爛々と光る目で、集まった各クラスの委員へ宣言する。さらにいま言ったことをプリントにして配り、各教室に掲示させた。

 こうしてどの教室も新築のような清潔さを取り戻し、他校からの視察が来るほどに清掃の行き届いた学校に――なるわけがない。

 たかだか美化委員だ。クラスの皆を従わせるような権限も威厳もない。いくつかのクラスでは若干掃除が丁寧になったが、大部分では変化はなかった。

 放課後、抜き打ちで各教室を回っていたエルは愕然とした。紙くずがゴミ箱のそばに落ちている。隅にほこりがたまっている。黒板の角にチョークの粉が残っている。自分の教室ではあり得ない光景ばかり出くわす。

「なんで真面目にやんないのさ! ちゃんと言えば皆やってくれる。美化委員をやる気ないの? なんでこんなに散らかってるんだよ!」

 次の委員会でエルは怒鳴り散らした。黒板に各教室の写真を貼りだして糾弾する。

 委員の誰もが、怒鳴るほど散らかってはいないと思っていたが、口には出せなかった。いくらエルが小柄でかわいらしい顔をしていても、大声で威圧されば誰だって怖い。

 だが担当教師の角村はこれを熱心さの表れと受け取ってしまった。生徒を信じていると言えば聞こえはいいが、何でもかんでもいい方に考える楽天家とも言える。

「厳しい言い方をしているが、悼田の言う通りだ。皆も悼田を見習ってもっと頑張ろう」

 委員たちも何度も怒られたくないので、以前より掃除のチェックをするようになった。そのおかげで校内の環境はかなり向上した。

 ところがエルはそれで満足しない。重箱の隅をつつくような、というか教室の隅の小さなホコリですら認めなかった。

 そもそも30~40人が動き回る教室でゴミもほこりも落ちていない状況にするのは相当難しい。ちなみにエルはどうしていたかというと、休み時間がくるたびに教室の隅から隅までチェックしてはミニほうきとミニちりとりで回収していた。

 いくら美化委員とはいえ、ずっと美化活動にかかりきりというわけにはいかない。エルの求める水準を達成できる人間はいなかった。

 イライラする日々が続く。この頃からエルの体調に変化が生じた。元々そんなに胃腸が強くないエルだったが、腹痛になる頻度が増えてきたのだ。

 それでも見回りを続けた。そのたびに完璧にはほど遠い光景を目にし、ストレスで腸を痛めつけることになる。

 そのうっぷんを晴らすかのように、委員会での糾弾はさらに苛烈になった。泣き出す者も現れる始末。非難の視線がエルに向けられる。

 さすがにここまで険悪な雰囲気になれば、楽観的な角村も収集に乗り出す。なにより、角村は頑張っている人間を評価する。それはエルに限った話ではないのだ。

「悼田、皆は十分頑張っていると思うぞ。学校がきれいになっているのは事実なんだし、もう少し皆の働きを認めてやったらどうだ?」

 叱るというほどのこともなく諫めただけに過ぎなかったのだが、エルにはそれが手ひどい裏切りに思えてしまった。瞳が震える。正しいことをしているのに、なぜ分かってくれないのか?

 自分の方が悪いとは思わなかった。

 子供特有の全能感か、それともいまさら軌道修正できなかったのか。大学生になったいまでもエルには分からない。

 そしてこう思った。もはや先生も委員たちも頼りにならない。この学校のきれいを守るのは自分だ。自分ひとりで学校をきれいにしてやる。

 ここからはもはや暴走。

 学年クラス問わず、すべての教室に入っては勝手に掃除を始める。机に書かれた落書きを消し、机の中を漁ってゴミを取り出す。運動部が校庭から泥だらけの靴で戻ってくるときには、玄関に立ちふさがって靴を拭くまで入らせない。うっかりポケットからティッシュなどのゴミを落とそうものなら炎のように怒る。歩き食いをする人間がいればストーキングして食べかすを落とさないか見張る。

 もちろん生徒たちも文句を言いはするのだが、エルが威嚇してくるので面倒になり、やがてやり過ごすだけになっていった。

 教師たちもエルのことは把握していたのだが、なにしろやっていることはただの掃除だ。不良のように物を壊したり金品をゆすったりしているわけでもない。叱るに叱れなかった。そもそもエル自身が話を聞こうとしない。

 ここで登場してくるのが当時3年生だった得能塁だ。


「あ、ここからは昨日の夜に得能さんから聞いた話が混ざるから、実体験じゃないのが混ざるよ」

「ここまでの時点でも作り話かと疑いたくなるような話ですね」

 穴加部は潔癖性ではあるが、さすがに署内を掃除して回ったりはしない。エルの強引なところは昔から変わっていないらしい。


 得能もエルのことは知っていた。エルが全クラスに勝手に入ってくるのだから当然だ。

 学校じゅうでエルのことは噂になっていた。得能のクラスでもエルに対して不満を言い合う光景は見られた。

「なんなんだよあの悼田ってヤツ」

「キモいよな。マジ消えてほしいわ」

「誰か殺せよあいつ……」

 物騒な言葉を吐いているが、しょせんはグチに過ぎない。他力本願の時点でお察しだろう。実際の行動に移す気まではなかった。厄介ごとに関わりたくないのは大人も子供も同じだ。

 さて、得能塁はとある理由からその場の空気に合わせることに長けていた。相手に合わせ、相手の気に入るようなことをするのが得意だった。

 そんな人間がグチ大会に加わるとどうなるか。

「なあお前もそう思うだろ、得能?」

「あー、うん。一度痛い目にあえばいいと思う。雑巾で滑って転ぶとか」

「いいなそれ。すげー笑えるじゃん」

「それよりさ、あいつの机を汚した方がよくね? そうすりゃずっと掃除してるぜ」

「あー、いいかも。てか、学校じゅうを汚せばそのうちあきらめるんじゃないか?」

「それもムカつくんだよな。この前、部活の後輩が玄関で泥を落とさなかったからってめちゃくちゃ怒鳴られたんだよ。どうにかやり返してえな」

「あー……、じゃあ泥でもかける? 悼田呼び出して」

「あのかわいい顔にぶっかけてやればいいんだ」

「かわいい……? なんかお前……そういうアレみたいだな」

「ばっ、ばかそういうアレじゃねぇって!」

 ひとりの男子のおかげでこの場はうやむやになった。だがこのときのやりとりはすぐ再開されることになる。

 それからしばらく経って、得能が廊下を歩いていると、人だかりに出くわした。

 中央には女子がしゃがみこんで泣いていた。得能はその周りにいたひとりに尋ねる。

「何があったんだい?」

「悼田だよ。あいつひでえんだぜ」

「そうそう、この子がたまたまポケットに紙くずを入れていて、それを悼田の前で落っことしちゃったら、あいつがすごい勢いで怒鳴ってきてさ」

 誰も知らなかったが、このときのエルはかなり追い込まれていた。そもそもすべての教室を見回って徹底的に掃除することなど、たったひとりでできるわけがないのだ。多少のホコリやゴミは残ってしまう。そのことにフラストレーションがたまっていた。

 腹痛の頻度も増し、いまも女子を叱って泣かせた後にトイレに駆け込んでいた。この場にエルがいないのはそのためだ。

 お互いに限界が近づいていた。

 高まっていくエルへの反感。悼田エルを懲らしめるべきだ。そんな空気を得能は拾い上げた。

 だから皆の思いを代弁して、気に入られるようなことを言った。

「悼田のやつ、許せないよな。少しは思い知らせないとだめだと思う」

「あたしもやりすぎだって思ってたんだ」

「先生も何も言わねえしさ。俺たちで何とかしねえと」

「なら俺が殴ってきてやろうか」

 その言葉を聞くと皆の勢いが落ちる。美化に異常にうるさいだけの人間に暴力まで持ち出すのは嫌だった。このあたり強く叱責できない教師たちと似ている。

 得能はその空気も受け取って、皆が望むようなことを言った。頭にあったのはこの前教室でしたやりとり。

「学校をもっと汚して、それから悼田も汚してやれば効くと思う」

 この案に皆がのった。それぞれがクラスに戻って計画を話す。生徒の誰もが悼田には辟易していたので、参加者はあっという間に増えた。

 そして反乱が始まった。

 計画に賛同した生徒たちが学校じゅうを汚して回る。

 もっとも、派手にやれば先生に怒られるのは目に見えていたので、あくまでもエルが反応する程度に小さなゴミを落としたり落書きをしたり泥を落としたりしていった。

 パニックになったのはエルである。

 ふつうの人なら、ちょっと汚くなったなぁと思う程度で済むが、美化活動に学校生活を賭けている人間にとっては驚愕の事態だ。ゴミや汚れに常に目を光らせている分、状況の悪化に敏感になってしまう。

「なんで……うあぁこっちにも! あ、あそこにも! なんでこんな汚いんだ! こんなに掃除しているのに、こんな頑張ってるのに! ゴミが……ゴミが……うぐぐぐ……!」

 そこに腹痛が追い打ちをかける。トイレにこもる時間がどんどん増えていくものだから、掃除に割く時間もどんどん減っていく。そのことがますますストレスになる。

 悪循環だった。

 エルの精神状態も体調もフリーフォール並に急降下。

 そしてとうとう終わりの時がやってきた。

 教室でぐったりしていたエルを見て、得能たちはとどめを刺すときがきたと思った。

「おい、悼田。1階の玄関近くの男子トイレにめっちゃゴミが落ちてるってよ」

 クラスの協力者にそう言わせてトイレにおびき出す。

 そこに待っていたのは言い出しっぺの得能とエルに恨みを持つ生徒たち。そしてその手には泥水で満杯にしたバケツ。校庭の隅、日陰になっているところから集めた泥は、よく分からないゴミや緑色のコケも混じっていた。汚泥という表現がピッタリくる。

 トイレに入ったエルは男子たちの異様な圧力に後ずさる。だが入り口はすでに別の生徒によって固められていた。

「な、なんだよ……?」

「いい加減にしろよ悼田」

「ゴミゴミ言いやがって……お前もゴミと同じにしてやる」

「そうだ、皆の怒りをくらえ!」

 四方から泥水がぶっかけられる。髪から制服から全部が焦げ茶色に染まる。泥の塊がべっとりとこびりつき、エルの体を滑っていく。

「………………………………………………ひっ」

 目を開けたエルが体を震わせて自分の有り様を理解する。

 きたない。

 そう思った瞬間、劣化した輪ゴムがあっけなく切れるように、エルの心身はぷちんと小さな音を立てた。

 ――肛門括約筋には大まかに二つの種類がある。意識的にしめる外肛門括約筋と、無意識でもしめる内肛門括約筋だ。我々が普段うんこを漏らさなくて済むのはこの働きによる。

 だが、極度のストレス下において身体機能に異常をきたせばどうなるか。システムにバグが起きる。本当にストレスのせいだったのか、いまとなっては分からない。ひとつ言えることは、このときエルの肛門括約筋は開放を選択したということだ。

 ダムが放水するときに放水口に覆いがあれば、水は前方には噴き出さず下へ落ちていくだろう。それが水ではなくブリストル便形状スケールにおいて泥状便と呼ばれる物体でも同じことだ。すなわち、パンツからあふれた物体は下肢を伝ってズボンの裾からトイレの床へ流れ出た。

 得能が泥をぶちまけたのは幸いだったかもしれない。――泥と混ざって汚物か汚泥か分からなくなったからだ。

 得能がトイレにおびきよせたのは幸いだったかもしれない。――トイレの臭気で鼻が慣れていたからだ。

「ひっ……、あ、あ……うああああああああああん!」

 エルが大泣きするのも無理はない。うんこを漏らす――これは下ネタとして扱われるものだが、漏らした当人にとっては笑い事ではないのだ。乳幼児ならともかく、中学生が大をお漏らしすることはプライドがズタズタになる。これは大人でも同じだ。社会的に死んだと感じても不思議ではない。

 その場の誰もが動けなかった。こんな結末は予想していなかった。ちょっと懲らしめるだけのつもりだったのに。

 得能は空気を読むのが得意だが、人の心までは読めない。あれだけ傍若無人なエルが泣きわめくとは思わなかった。何より、ショックで漏らすなど。

 良い便では大腸内の善玉菌が多いので臭気は少ない。しかし悪玉菌が多いと強烈な臭いになる。エルは後者だった。

 空気のこもりやすいトイレで臭気にいつまでも耐えられるものではない。ひとりが出口から飛び出すと、続けてほかの男子たちも出て行く。

 後には汚物にまみれ泣き叫ぶエルだけが残された。


 ここで穴加部が待ったをかける。

「あの……この話はまだ続くのでしょうか?」

「自分から聞いといてそれはなくない? こっちもわりと嫌々話してるんだけど」

「ニヤニヤしながら言われても説得力がないのですが」

 穴加部への嫌がらせを楽しんでいるようにしか見えなかった。

「で、うんこ漏らした後なんだけど、場所がトイレでよかったよね。どうにか洗い流せたから。まあ、元々泥を落とすためにトイレを選んだって得能さんは言ってたから必然ではあったんだけど」


 それから話は後日に続く。

 脱糞事件の次の日もその次の日もエルは学校に来なかった。それどころか自分の部屋に引きこもって出てこなくなってしまった。

 一種の虚脱状態。そもそもがエルの限度を越えたオーバーワークだったのだ。反動でそうなっても仕方ない。本当はもっと早い段階で止めればよかったのだが、完璧主義的な性格が災いして止め時を失っていた。

 自室に引きこもったといっても、さすがにトイレには行く。ただし小だけ。大はできなかった。あの日のことを思い出してしまうからだ。場所がトイレだったとはいえ、皆の前で漏らしてしまった羞恥と屈辱は、排便をトラウマにするのに十分だった。

 便意が来ても強引に我慢する。何度も我慢しているうちに脳から送られる便意の信号は弱くなり、やがて便意を催さなくなった。

 そうして排便しないまま1ヶ月近く経った。

 するとどうなるか。極度の便秘状態になる。大腸内は排出されない便で埋め尽くされ、腸が閉塞する。最悪の場合、硬化した便が大腸を突き破る事態が起きる。便秘は軽く考えられがちだが、重症化すれば命の危険もあるのだ。

 ある日、激痛に襲われたエルはとうとう病院に運ばれた。そこが王子記念病院であり、手術を担当したのが備後云十郎医師だった。彼はのちにこう言ったという。

「あそこまで腹ん中にクソが詰まったヤツを見たのは人生で初めてだったぜ。よくもまぁあれだけため込んで平気だったな」

 腸に大きな障害が残ることもなく、手術は無事に終わった。

 だが、しばらく入院して再び腸が動き出したところで問題が起きた。エルが排便をしようとしないのだ。手術したところでトラウマまでは消せない。

 備後医師は首をひねった。看護師に尋ねる。

「分かんねぇな。あのガキ、なんでクソしたがらねぇんだ?」

「親御さんに聞いたら、どうも悼田くん学校でうんちを漏らしちゃったらしくて。それ以来うんちが怖くなっちゃったんじゃないかって」

「うーむ、そうか。確かに中坊で漏らすのは辛いわな。だがこのままじゃまたフン詰まりで再手術になっちまうし……」

 しばらく考え込んでいた備後医師だったが、

「ま、医者の知識でやるしかねぇか」

 と言ってエルの病室へ向かった。備後の口の悪さを知っている看護師はその背中に不安を覚えたという。


「私が備後医師から聞いたのはこの辺りからですね」

「はじめて師匠に会ったときはびっくりしたよ。なんて口が悪いんだー、って」


 ベッドのそばのイスに腰掛ける備後医師。

「おう、悼田くん。お前さん、クソしやがらねぇんだってな。そんなんじゃ治るもんも治らねぇぞ?」

「だって……うんこ怖いし……」

 エルはうつむいてボソボソつぶやく。

「クソを漏らしたからか?」

 その言葉にエルがびくりと体を震わす。

「……人間の体ってのは、ふざけていやがるよな。クソのひとつもコントロールできやしねぇ」

「でも……うんこを出すかは自分で決められるでしょ?」

「俺が言ってるのは腸の話だ。クソがどうやってできてるか知らねぇだろ?」

「食べたものからできてるに決まってるじゃん」

 バカにされたと思ったエルが口をとがらせる。このときまだエルに排泄物関連の知識はなかった。

「バツだな、バツ。それじゃ正解の半分もいかねぇ。クソの中身は食いもんのカスだが、腸を移動するときに腸内細菌が大量に巻き込まれてやがる。腸の細胞もな。それにたっぷりの水が加わってクソになる」

「へー」

「そうしてできあがったクソは肛門の直前、直腸までやってくるわけだ。そこにクソがたまると脳へ知らせが飛ぶ。クソが来やがった、さっさとひり出せクソ野郎ってな」

「……………………」

 排便の話になるとエルは辛そうな顔で押し黙った。

「実際は肛門があるからな。そうすぐには出やしない。まさにクソの門ってわけだ。門は二段構えになってて、括約筋って筋肉でしめている。今回お前さんはその門がバカになっちまったんだな」

 それを聞いて不安になったのか、エルがそっと手をお尻の下に回す。

「お前さんがどんな状況でやっちまったかは知らん。だがな、クソを漏らすってのは余程のことがなけりゃあ起きねぇことだ。体か心か、どっちかにムチャクチャなストレスや刺激がかかってた。だったらもうしょうがねぇんじゃねぇか? あの徳川家康だって負け戦から必死で逃げた時にクソを漏らしちまった。もう限界を超えちまってたんだな。お前さんの体が漏らしたのは悲鳴なんだ。そのクソは悲鳴だったんだよ。だからもう許してやれよ、自分を……自分の体をよ」

「許す……」

 エルが腹部をぎこちない手つきでなでる。負担をかけてしまったことを詫びるように。

 ぐるぐると音が鳴った。痛みの信号が上がってくる。

「ほら来なすった。クソ垂れてこいよ。ちゃんと出してやらなきゃクソも腸もかわいそうだろ」

 それでもエルは動こうとしない。唇を強くつぶして耐えている。いや、迷っている。

「ああ、焦んなくてもいいぜ。数日なら放置しても何とかなるからな。だが、医者として忠告する。フン詰まり――つまり便秘で死なねぇと思ってんなら大間違いだ。クソで腸が完全に詰まれば栄養は吸収できねぇし、痛くて動けやしないから筋肉も細る。そうなりゃ後は衰弱していって、ついには死ぬ。――お前さん、クソに殺されたいか?」

 備後医師の説明に納得したからか、脅されて仕方なく行ったのか、おそらくはその両方だろう。とにかくエルは再び正常に排便をするようになった。

 それからエルは回診のたびに備後医師に話をせがむようになった。もちろんうんこの話である。再発防止のために自分の体に興味を持ってもらうことは大事だと考えた備後医師は喜んで知識を披露した。エルが排泄物関連にやたら詳しくなったのはここが始まりだ。


「……みたいな?」

 カレーヌードルを食べ終えたエルが言った。

「そんな話をしている最中によく食べられますね……」

 しばらくカレーを食べるのはやめようと思う穴加部であった。

「分かっていたことですが、お話を伺ってエルくんが犯人である可能性は極めて薄くなりました」

「なんで?」

「6年も経っていて、しかも、その……う」

 そこで穴加部はエルのニヤニヤ顔に気づいた。エルはあの言葉を自分に言わせようとしている。動機足り得ないことは知っているはずなのにわざわざ問うてきたのはそのためか。

「う、恨み続けるほどの被害は受けていないからです。特に、殺人に発展するほどのものは」

「あっクソ、引っかからなかった。……ま、その通り。そもそもぼくも悪かったしね。うんこを漏らす目に遭わされたぐらいで、人を殺したりはしないよ。だからといって得能さんと仲良しになったりはしなかったけど」

 最初にここで会ったときの微妙な空気はそういうことだろう。気まずくならない方がおかしい。

「それにしても、得能さんはなぜエルくんを招待したのでしょうね? いろいろな意味で会いたくはないと思うのですが」

「ただ謝りたかっただけみたい。昨晩はずっとその話だったし――最後以外は」

「何やら含みのある言い方ですね」

「さっき皆の前で黙ってたのはその件があるからなんだよ。昨晩、得能さんはある秘密を教えてくれたんだ。誰にも言わないで欲しいと念押しした上で明かした得能さん自身にかかわる秘密。――それを言ったのが罪滅ぼしの一種だったのか、いまとなっては分からないけど」

 エルは複雑な表情を見せた。

「その秘密は事件に関係があるのでしょうか?」

「おそらくね。なにせ――」

 穴加部はそれを聞いて驚いた反面、納得もあった。言われてみればそんな気もする。

「しかし、それだけでは犯人かどうか分かりませんね」

「だからこれから調べるんだよ。刑事が事件の現場へ容疑者を連れ回すのはおかしな話じゃないでしょ?」


14


 エルが泊まった1番ロッジの引き戸を開ける。死体はまだそこにあった。死臭と糞尿の臭気が混じり合ったその空気に、さすがのエルも顔をしかめる。穴加部は入る前からしかめていた。

 絶命した得能を無言で見下ろすエル。過去の因縁があるとはいえ、相手がもはやこの世にいないとなれば微妙な気分にもなるだろう。そう穴加部は思ったのだが、エルが口にしたのは事件への疑問だった。

「なんで死体にうんこをかけたんだろ?」

「……エルくんに罪を着せるためではないのですか? 好きなのでしょう、それ」

 穴加部がうんざりしたように言うと、エルが抗議してきた。

「いくらぼくでもうんこをまき散らす趣味はないって。まったく、人を変態みたいに……」

「一般的な尺度で言えば十分に変人カテゴリですよ?」

 うふふ、と声だけ笑うエル。死体のそばにしゃがみ込む。

「死体は動かしちゃっていいの?」

「本当は県警が到着するまで触らない方がよいのですが、場合が場合ですからね。写真は一応撮りましたし。でも手袋はしてください。指紋がつくと本当に容疑者になりかねない」

「分かってるって。ていうか、素手でうんこ触りたくないし……」

 エルがゴム手袋をする。厨房から拝借してきたらしい。

 いまさらだが、穴加部はエルも潔癖性なのではと感じていた。美化活動にのめり込んだのもきれい好きならば分かる。そしてこれは推測だが、穴加部に嫌がらせをしてくるのは、潔癖だった過去の自分を見ているようで不愉快だからなのでは?

 もっとも穴加部はそれを確かめる気はない。もしそうならエルはまだ過去を引きずっていることになる。エルが自ら話すまで聞くべきではないだろう。

 穴加部がそんなことを考えていると、エルが死体をひっくり返した。すると驚いたような声を上げた。

「あれ? 背中が濡れてる……」

「液体状のものをかけたのなら不思議ではないのでは?」

「だったら少しはうんこがくっついてるはずでしょ? でも全然汚れてないもん」

「つまり、かける前に死体は濡れていたということでしょうか」

「たぶんね。そうなると死体をくそまみれにしたのはカモフラージュということになる。犯人にとって濡れていることを悟られるとまずいんだ」

「ですが、死体が濡れていたとして、何が分かるというのでしょう?」

 エルはそれには答えず、話を変えた。

「ぼくが容疑者になる最大の理由は、加害者と被害者が同じロッジに泊まっていて、そのロッジで死体が見つかったからだね」

 穴加部が一瞬エルを疑ったのもそのためだ。普段の捜査なら間違いなく容疑者の第一候補になる。

「でもさー、もしぼくが犯人だとして玄関に死体を放置すると思う? おまけにドアを開け放したままにするなんてあり得ないでしょ。いくら爆発に驚いたからってそれはない」

「いま思えばあれは死体を発見させるために仕組んだのでしょうね。それを刑事の私が発見してしまうとは……」

 穴加部は情けない気分になる。エルはそんな感傷を無視して、

「で、問題はその死体をいつ、どこから運んできたのかだよ。この1番ロッジ内に隠していたとは考えにくいね。得能さんはぼくが寝ている間に消えていた。おそらく犯人に呼び出されて別の場所へ行ったんだと思う。そしてそこで殺された」

「そうでしょうね。最初に現場へ入ったとき、クローゼットもシャワールームも捜索しましたが、ここで殺人を行ったような形跡はありませんでした」

「トイレも? 便器の中までちゃんとのぞいた?」

「……探したことを分かっていて言っていますよね?」

「えー。もしかしたら死体が濡れてる理由が分かるかもしれないじゃん」

 どう見ても本気で言っている顔ではなかった。自分が容疑者にされている自覚がないのだろうか。

「隅から隅まで見ましたが事件の痕跡はありませんでした。もっとも、鑑識が入ればどうなるか分かりませんが?」

「そんな怒んないでよー。理由自体は本当なんだからさ。死体がどこにあったかを解くのに必要なんだよ。雨が降った様子もないから、濡れるような場所に死体を隠していたと考えるのが自然だしね」

「なるほど。しかし、背の高い被害者を隠しておけて水のある場所というと……」

 ふたりの目がロッジの前にあるマンホールに止まった。大きめで四角いマンホールだ。押し込めれば人が難なく入りそうなサイズの。

 近くでよく見てみると、マンホールには防火水槽の文字が入っていた。

「これかな……よっと」

 端にある隙間に指を突っ込んで開けようとするエル。

「いや、無理でしょう。鉤棒か何かがないと……」

 穴加部が棒を探しに行こうとすると、マンホールはあっさり開いた。どうやらある程度浮かせると勝手に開く仕様らしい。非力なエルでも開けられるわけだ。マンホールのふたは反対側の端で垂直に立っていた。

「最近のマンホールはこんな風になっているのですね」

「うーん……ぼくも下水関連で調べたことあるけど、こんな形式のヤツは見たことないけどなぁ。エターナルエコロジーの特注品なのかも」

 首を傾げつつエルはマンホールのそばにしゃがみ込んで中をのぞき込む。

 内部はかなり容積があるようだ。上から射し込む陽光が防火水槽に溜まった水に反射して輝いている。取水のためだろうか、奥には上向きにカーブした大口径のパイプが見えた。水面には葉っぱなどが浮いていたが、事件に関係ありそうなものは見当たらない。

「ここに死体を隠していたわけではないようですね。この中に沈めていれば遺留物が必ず残るはずですから」

「うーん、ここだと思ったんだけどなぁ。露骨に1番ロッジの目の前にあるし。移動させるのも楽だし」

「巨大なビニール袋か何かで覆っていたという可能性もありますよ」

「それだと背中側が濡れている理由の説明がつかないんだよね」

 ああ、と言って穴加部は黙ってしまった。

「第一、濡れるような場所に死体を隠しておくのもよく分からない。山の中なんだから隠す場所はいくらでもあるんだし。そもそも何で死体を見つけさせてぼくに罪を着せたんだろ? よく分かんないなぁーっ」

 エルは立ち上がって伸びをする。その目はいまだ煙を吐く6番ロッジの焼け跡に向いていた。

 その視線に気づいた穴加部が問いを投げる。

「エルくんはあの火事も怪しいと考えているのですか?」

「逆に聞きたいんだけど、殺人と火事が同じ場所の同じタイミングで別々に起きると思う?」

「思いませんね。作為的なものがあると見て間違いないでしょう」

 道路の寸断と通信障害が同時に起こることがあり得ないのと同じように、穴加部は2つの事件を結びつけていた。エルも当然同じ考えに至っていたようだ。

 坂道を上って焼け跡へ行く。そこにはビニールシートが2つかかっていた。下にあるものが何かは言うまでもない。

「実際に見てみるとひどいもんだね。元の形なんて残ってないじゃん。うわ、破片があんなところまで飛んでる」

「窓ガラスや木片の飛散の仕方から見て、内部で激しい爆発があったことは間違いなさそうです」

「やっぱりガス爆発かなぁ?」

 エルは焼け跡をひっくり返しながら言う。何かを探しているようだ。

「そうでしょうね。爆発物が仕掛けられていた形跡もありませんでしたから」

「これだけ派手に爆発したってことは、相当な量が充満してたんだろうね」

「臭いで気づきそうなものですが、ふたりとも気づかなかったのでしょうか?」

「いや、ここのガスはメタンガスだから臭いはないよ。都市ガスみたいに臭いをつけてるわけでもないようだし」

「なるほど。朝は寸断騒ぎと得能さんを探すために阿波兄妹はいませんでしたからね。こっそり入ってガス栓を開けておけば……」

 そこで焼け跡を探していたエルが顔を上げる。

「うーん、やっぱ見つからないや」

「先ほどから何を探しているのです?」

「食べられるもの。火を使わなくていいヤツね」

「は?」

 いまラーメンを食べたばかりなのにもう空腹なのか。穴加部は怪訝な顔をしたが、エルがすぐ付け加えて誤解を解く。

「火を使わないと食べられないものしか残骸がないんだよ。カップ麺とか。つまり阿波さんは火を使わざるを得ないように仕向けられていた」

「もし何も食べずに出てきてしまったらどうするつもりだったのでしょうね?」

「朝ご飯もまだだったし、本格的に捜索する前に腹ごしらえするのはふつうだと思うけど。少なくとも兄妹のどっちかは食べようとしたはずだし」

「そういえばあの兄妹はお互いに気遣っている節がありましたからね。どちらかが気を効かせて食べるよう促しても不思議ではありませんか」

 あるいはお互いに勧め合ったのかもしれない。ビニールシートに覆われたふたりへもう確かめる術はないが。

「あー、靴に水が染み込んできちゃった」

 焼け跡から出たエルが足下を見て言う。消化するために大量に放水したから、あちこちに水が溜まっているのだ。ただのスニーカーでは仕方ないだろう。

 びちゃびちゃの靴のまま、ふたりは上へ向かう。

 坂を上ると、ため池のそばに消化ポンプが放置されているのが見えた。ホースがだらんと地面に伸びている。

「これで消火したんだね」

「ええ。結局おふたりは間に合いませんでしたが……」

「よく分からないんだけどさ。なんでポンプだけここにあってホースが中央棟にあったの?」

「山野井さんの話だとプラントで以前使用したからとのことでした」

「何のために? そりゃ配管はいっぱいあるけど、消防ホースをわざわざ使うかなぁ」

「言われてみればそうですね」

「じゃあちょっと聞いてきてよ」

「エルくんは来ないのですか?」

「行くけどぼくは黙ってるよ。『犯人』が捜査に参加しちゃまずいでしょ?」

 穴加部はつい忘れていたが、いまは「犯人」を連れて歩いていることになっているのだった。

「じゃ、手」

 エルが右手を突き出してきた。意図をつかみかねて何もしないでいると、

「手をつないでればちゃんと捕まえてるアピールできるじゃん?」

「ああ、そういうことですか」

 穴加部は左手でエルの手をつかんだ。小さな手だった。

 手をつないで歩くふたりの姿は下手をすると親子に見えた。穴加部がそれを知ったら落ち込むに違いない。


 山野井は妙な顔をしつつ、ロッジを訪ねてきた穴加部たちを迎えた。

「事件について何か聞きたいことがあると伺いましたが?」

「小屋でホースが見つからなかった際、ホースはプラントで使用していたのでここにはないと仰いましたね」

「はい。現にプラント内に放置されていましたから」

「何のために使用したのでしょうか? 素人からすると、わざわざ消防ホースだけを利用する場面が想像できないのですが……」

 そう問われた山野井が何かを思い出すかのように上を見る。

「……申し訳ありません。準備で混乱していたものですから、どうにも思い出せません」

「そうですか。いえ、もしホースがポンプのそばにあれば、もっと早く消火することができたかもしれないと思っただけです」

「ああ……仰る通りです。まさかあんな爆発事故が起きるなんて思いも寄りませんでした。どうせ使うことはないだろうとたかをくくっていたこちらの手落ちです。阿波くんには申し訳ないことをした」

 沈鬱な表情で首を下げる山野井。その態度は部下を失った悲しみをよく表していた。

 穴加部は左手がにぎにぎされる感触を受けた。エルが入り口付近に目を向けている。もういいという合図らしい。


15


 穴加部たちは1番ロッジに戻ってきた。開け放たれた扉の中にはビニールシートのかけられた死体が残っている。

「犯人はいったい誰なのでしょうね?」

「うーん、どっちかだと思うんだけどね」

 エルの返事に穴加部は目を見開いた。

「それはつまり、二名まで絞り込めているということでしょうか?」

「このロッジに死体が出現したのは、火災現場に向かってから消火を終えるまでの間のどこかに限られる。爆発の前はぼくがロッジにいたんだから無理だしね。この間に死体を運んだに決まってるんだから、その時間にアリバイがなかった人間が犯人になる。そしてそれはふたりしかいない」

「火災発生中は常に誰かと一緒に行動していたような気がしますが……」

「そうだね。あのときはまず消火班と避難組に分かれた。消火班は穴加部さん、山野井さん、管理人さん。避難組はぼく、堤さん、ケーナインさん、設楽さん。駐車場で避難しているときは4人ともその場を動かなかった。途中でぼくが中央棟にホースを探しに抜けたから残り3人の行動は分からないけど、犯人じゃないと思うよ」

 穴加部もそこには同意する。3人にそのときのアリバイを確認すれば済む話だ。

「ちなみに3人が共犯というのもないね。だって途中でぼくが抜けなかったら動けなくなっちゃうんだから。ぼくが手伝うかどうかは事前に分からない以上、避難中に死体を運ぶ計画は成立しない」

「そうなると必然的に消火班の人間の中に犯人がいることになりますね。当然私は除外されますから、犯人の可能性があるのは山野井と管理人になりますか」

 なるほど。最初から二名に絞り込めていたことが分かる。しかし穴加部には疑問があった。

「火災発生中はあちこち移動しましたが、山野井も管理人も行動を共にしていましたよ。途中で死体を運ぶひまがあったとは思えません。ああ、中央棟へ戻る途中、転倒したせいで山野井は一瞬離れていましたが……」

「いや、そこでは運んでない。穴加部さんたちが来た後すぐに追いついてきたし。むしろその後だよ。山野井さんと管理人さんはホースを探しに別の場所へ行ったでしょ?」

 確かに、山野井はプラントへ探しに、管理人は自室を探しに行ったため、穴加部たちの前から姿を消している。だが穴加部は反論する。

「あのときは一分一秒を争う事態でしたから、時計は確認していました。しかし、おふたりともそう長く姿が見えなかったわけではありませんよ。せいぜいが5分程度でしょう。たった5分で1番ロッジへ向かい、そこへ死体を運びこんで、中央棟へ戻ってくることが可能でしょうか?」

「死体を運んでうんこをぶちまける作業も忘れちゃいけない。といっても、あらかじめ容器を用意して一気にぶちまけるだけなら数十秒で済むけどね」

 穴加部が渋面を作る。もちろんその作業があることは穴加部も分かっていたが、言及したくなかったのだ。

「悩んでるのはそこなんだよねー。犯行ができたのはそのふたりなんだけど、時間がちょっと足りないんだ。だからそれを検証しようと思って戻ってきたんだけど」

「その前に問題があるでしょう。仮にホースを探すフリをして抜け出したとして、玄関から出る必要があります。駐車場に避難していた3人に目撃されてしまうのでは?」

 エルは事も無げにその問題を退ける。

「プラントを見学したときに奥の方に扉があったでしょ? あっちから行けばバレずに済む。それに――」

 エルがロッジの裏手に回る。そこには背の高い木々が立ち並んでいた。中央棟の建物がその隙間から見える。落ちた枝葉を踏みしめて、わずかに傾斜のついた地面を歩いていく。

 するとすぐに中央棟の裏口にたどりついた。

「1番ロッジと裏口はかなり近いんだよ」

「なるほど。裏口から出る方が合理的ですね。――ん? これだけ近ければ5分程度でも往復できるのではないでしょうか?」

 そう言った穴加部の腹にエルが飛びついてきた。コアラがユーカリの木に抱きつくような感じだ。

「あの……いきなり何をしているのでしょうか? 重いのですが……」

 小柄なエルとはいえ、人ひとりがしがみついてくれば重い。

「ぼくは小さいし41キロしかないんだけど、それでも重いよね? じゃあ背が高くて体重も重くてさらに死んでる人間だったら?」

 穴加部はエルの言いたいことを理解した。職業柄、死体を引き上げることもある。とてもじゃないがひとりで運ぶのは難しい。抱え上げるだけでも一苦労だ。

「確かに死体を運ぶことを考えると、5分ではとても足りませんね」

「死体がプラント内に隠してあっても裏の林に隠してあっても難しいと思う。かといって運ぶ手間を減らすためにもっと近くに隠してあったとも思えないんだよね。目の前の防火水槽じゃなかったし、刑事の穴加部さんのロッジに隠すとも思えない。反対側の豚小屋では遠すぎるし」

「そうなると両名のアリバイが成立してしまいますね……」

「うーん困ったなぁ。誰も運び込めないとなると死体がぼくのロッジに初めからあったことになっちゃう。うーん困った。うーんこ、まった。うんこ待った?」

 芝居がかった声の張り上げ方をして出した言葉の終わりは下ネタだった。

 穴加部が冷ややかな目を向ける。

「やはり犯人はエルくんだったということでよろしいですか?」

「待った待った冗談だから。でも実際困ってるんだよね。死体はロッジになかったんだから、誰かが運んだのは間違いない。だけど運ぶのにかかる時間の間、アリバイがなかった人はいない。ということは誰も運んでいない。でも死体は運ばれた。えーーーーーーー……、よし分かった人じゃないのが運んだんだ」

「人ではなければ何が運んだのでしょう?」

「ぶ、豚とか……? ほら、それなら臭いをごまかすためにうんこまいたって説も……」

 エルは豚小屋のある方へ気まずそうに視線をやった。苦し紛れであることは明らかだった。

「死体がひとりでに歩いていった、とでも言われた方がまだ適当だと思います」

 頭痛がするとでもいうように目を閉じる穴加部。

「死体が、ひとりでに……?」

 エルは確かめるように反復すると、急に坂の方へ視線を上向けた。そうかと思えば今度は防火水槽のマンホールへ目を向ける。

「この配置は、もしかして……」

 突然、エルが上へ向かって走り出す。が、坂道だったのですぐ体力が尽きた。穴加部が大して息も上がらずに追いつく。

「エルくんはもう少し体力を付けた方が良いのではないでしょうか……」

「はぁ、はぁ……だって、大学は情報系だし……トイレ探して苦労するの嫌だから、外に運動しに行くのも嫌だし……」

 しばらく息が整うのを待ってから穴加部は訊いた。

「それで、いったい何に気づいたというのですか?」

「……夏のアトラクション?」

「はぁ?」


16


 エルの発見を確かめた穴加部は柄にもなく白熱していた。その発見はアリバイを崩しただけでなく、犯人を特定する重要な証拠だったからだ。

「いやはや、まさかあんな構造になっていたとは……ともかくこれで犯人は分かりましたね」

「まあ、そうなんだけど……」

 一方のエルは不満げな表情をしていた。

「この証拠を突きつければおそらく落ちるでしょう。特に問題があるようには思えませんが」

「そりゃ犯人はあの人で確定だよ。でもさー、動機が全然分かんないんだよね。ここまでして殺害する理由が見つからない」

「エルくんが犯人扱いされているいま、そこにこだわっている状況ではありませんよ」

 穴加部はやはり刑事なので、証拠さえそろっていれば動機にあまり興味はない。しかしエルはこだわった。

「ほら、うんこだって最後まで出し切らないと気持ち悪いじゃん?」

「だからいちいち汚い例えを持ち出さないでくださいよ……」

 穴加部がため息をついて続ける。

「エルくんがいると毎回汚い事件になりますよね。もしかして何か汚いものを引き寄せる力でもあるのでは?」

「そう、実はぼくはうんこの化身だったのだ! ……ってそんなわけないじゃん。まったく、人を汚染源みたいに――」

 半笑いの表情がそのまま固まった。

「……? どうしたのですか?」

「いや――いや、いや。そんなバカみたいな動機はない。それはくだらなすぎる……! でもだけどそうでなければ――」

 エルの表情がめまぐるしく変化する。どうやら動機が分かったらしいのだが、それにしては反応が妙だ。口元にはひきつった笑みが浮かぶ一方、その目は泣きそうに歪んでいる。

「穴加部さん、皆を集めよう。この犯人は皆の前で追いつめなきゃいけない」

 最終的にエルは前方をにらみつけていた。犯人が目の前にいるかのように。


17


「刑事さん、犯人が分かったということで集められましたが……犯人はその人だったんじゃないんですか?」

 ケーナインが険しい顔でエルを指さす。

「ぼくは罪を着せられただけだよ。――この中にいる、真犯人にね」

 中央棟に集まった面々の前でエルは堂々と言い切った。

「あのー……きみじゃないなら、誰がやったって言うの?」

 堤がおずおずとした様子で訊いてきた。犯人扱いした手前、気まずいのだろう。

「それはいまからする推理の中で明らかになるよ。さて、まず今日の事件を振り返ってみようか。最初に起きたのは道の崩落。あれでみんなが起きてきた」

「んん? 道が壊れだのも犯人の仕業なんでずか? てっぎり勝手に崩れたもんだど……」

「通信が遮断されたことも考えると意図的だったのは間違いないと思うよ。ただ、それはぼくたちをここに閉じこめたかったからじゃない」

「えっ。外の世界から孤立させて逃げられないようにひとりひとり殺していくとかそういうのじゃないの?」

 堤は物語を消費しすぎだと穴加部は思う。そもそも今回の事件は途中で逃げようとする人間はいなかった。

「違う違う。犯人が狙ったのは、ぼくたちの行動をコントロールすることだったんだよ。今日の朝、道が崩れた音を聞いて全員外へ出てきたよね。そこで得能さんがいなくなっていることに気づいた」

「そうですね。主任と私、それと管理人さんにも手伝ってもらい探し回りました。結局あのような姿で見つかりましたが……」

 得能の死に様を思い出したのか、山野井が悲しそうに眉を寄せる。

「それから、得能さんを改めて探す前に、いったんロッジへ戻って朝ご飯にしようということになった。その直後6番ロッジが爆発。消火するために消防ポンプを使おうということになったわけだけど、これも道を寸断した理由だと思う。消防車が来れる状況だと、危険を冒して自分たちで消火する展開にはなりづらいからね」

「ああ、そうかもな。勢いでやっちまったが、防護服もねぇのに火を消そうってのは危ねぇに決まってる」

 管理人の東海林が肩をすくめる。穴加部もいまさらながら少し怖くなってきた。実際、消防車を待つという選択肢があれば、行動は違っていたかもしれない。

「この爆発によって阿波兄妹は殺されたんだけど――」

 言葉を続けようとするエルにケーナインが割り込む。

「ウェイト。主任たちのも殺人なんですか? 事故ではなく?」

「うん。犯人が直接手を下したわけじゃないけどね。焼け跡を調べたら、ほかのロッジにあったお菓子とかチーズとかの火を使わずに食べられるものがひとつも見つからなかったんだ。つまり、火を使わざるを得ないように仕組まれていた。そこであらかじめガスを充満させておけば……」

「ああ……理解しました。ここのガスは臭いをつけていませんから、主任たちはコンロを着火してしまったんでしょう……」

「犯人はそうやって阿波兄妹を爆殺した。だけどそれ以外に異なる役割が2つあった」

 エルは両手を突き出してそれぞれの人指し指だけを立てる。

「1つは、避難する人と消火する人にグループ分けすることで、それぞれの行動をコントロールしたかったから。死体が出現したタイミングでアリバイのない人間がいたら、死体がぼくのロッジにずっとあったという筋書きが通らなくなるからね。だから全員にアリバイを作る必要があった」

「グループになればお互いのアリバイを証明できますからね。実際、ほとんどの時間は一緒にいたわけですから」

 穴加部は、「ほとんど」の部分を強調して言った。

「2つ目の役割は、消防ホースを探させることで犯人が死体を運び込む時間を確保するためだ。探すという体でこっそりプラント内の裏口から出ていけばロッジに行くのはそう難しくない。林を突っ切る必要はあるけど、あらかじめ通りやすいルートを見つけておけばいいしね。そうなると犯人はふたりに絞り込まれる。消防ホースを探している間にひとりになっていた山野井さんと管理人さんだ」

 名指しされたふたりが驚く。

「山野井さんは途中で転んだ後に2階の物置へ顔を出しました。そしてプラント内を探しにすぐに姿を消しています。同じタイミングで東海林さんは自室を探すためにいなくなっています。私とエルくんはお互いにアリバイを証明できますが、この時間――約5分のアリバイはおふたりとも存在しません」

 穴加部が厳しい目でふたりを見る。

「ふざけんな! わしは犯人じゃねぇ! 棚の裏までひっくり返してちゃんと探しとったんじゃぞ!」

「そんな……私だって必死でホースを探していました。だからこそ実際に見つけてこられたのです」

 血相を変えて怒鳴る東海林と当惑したようにつぶやく山野井。ふたりは対照的な反応を見せる。

「け、結局どっぢが犯人なんでず……?」

 設楽があからさまに身構える。どこまでも態度を隠せない人間らしい。

「分かんない」

 おびえる設楽へ、すっとぼけた口調で返事をするエル。

「分からんって……お前、ここまで言っといてそれはないじゃろう!」

「この推理にはまだ問題があるんだよ。5分じゃ時間が足りないんだ」

「ちょっと何言ってるか分からない。5分間のアリバイがないから犯人なんでしょ?」

 堤が早口でツッコミを入れる。ほかの人々も同じ気持ちなのか、エルに不審な目を向ける。

「犯人の行動はおそらくこうだった。まず、プラントから裏口を抜ける。そのまま木々の間を通って、1番ロッジへ向かう。この途中で隠していた死体を拾って運び込み、うんこを浴びせてから、来た道を戻ってくる。こう言うと5分あれば十分なように聞こえるけど、問題は死体の重さ。得能さんの体格からして60キロはあると思う。しかも背が高いからさらに運びにくい。そんなものを運んでいたら5分なんてあっという間だよ。たとえ体力のある管理人さんでもね」

 そう言われて東海林が首をひねる。

「んん? じゃったらやっぱりわしは犯人じゃねぇってことか?」

「その理屈であれば私も違うことになりますね」

「いーや、まだ方法はある。要するに、犯人は自分では死体を運ばなかったんだ」

「あっ、分かった。ふたりが共犯で、死体を一緒に運んだとか?」

 堤の推理をエルは首を振って否定する。

「ふたりでやっても運びづらさは変わらないよ。そうじゃなくて、もっと手間のかからない方法を使ったんだ。――ここの地形を生かしてね。それを確かめるためにいまから実験をしよう」

 エルに言われるがまま、全員が1番ロッジの前に移動する。ただし穴加部の姿だけがなかった。

「で、実験ってのは何をするんじゃ? そこのそれも関係あるんじゃろ?」

 東海林が指さしたのは、ロッジの前にある防火水槽のマンホール。そのふたは大きく開いていた。ロッジに近い側とは反対側の縁で垂直に立っている。そして中には水が――ほぼなかった。取水口らしき上向きのパイプも露出している。あらかじめ穴加部がポンプで汲み出してあった。

「まぁね。実験はごく簡単。ため池にある水門の放水路からある物を流すだけ」

「ホワイ? それは意味がないと思いますよ。川へ流れていくだけでしょうから」

「まあ見ててよ。そのある物の行方がトリックの正体を暴くから」

 と言うとエルは高台へ向けて大きく手を振った。その先には水門近くに待機していた穴加部がいた。合図を受けた穴加部が水門を開く。水が流れ出した。

 すぐには何も起きなかった。しかしものの数十秒で変化は起きた。マンホールの中から何かが飛び出してきたのだ。その物体はロッジの玄関の上に命中して落下した。長方形の物体を見て堤が驚きの声を出した。

「こ、これって……まな板? なんでまな板がこんなところから……」

「そりゃ水門の放水路から流したからね」

 軽く言ったエルの言葉に皆が呆気にとられる。

「ワッツ!? じゃ、じゃあ放水路と防火水槽はコネクトしているってことですか!?」

「は? 水があふれそうなとぎに逃がすんが放水路の役割ではないんでずか? なんでこんなとごろに出口があるんでず?」

 その問いにエルはとんでもない答えを返してきた。

「だってこれトリック用に作ったウォータースライダーだもん。放水路も防火水槽も嘘だよ」

 一同が絶句する。

「見ての通り高台からここまでは急な坂道になってるから、地中に水路を作ってここまでつなげばウォータースライダーっぽくなる」

「ああ……確かにここでも傾斜を排泄物の回収に利用していますからね。ウォータースライダーと言えなくもありません」

 ケーナインが英語っぽく発音したのでウォーターのタがラに聞こえた。

「この方法だと当然死体は濡れてしまう。死体をくそまみれにしたのはそれをカモフラージュするためだったんだ。得能さんと遺恨があって、うんこ好きなぼくに罪を着せるのも目的だっただろうけど」

 にわかには信じられないのか、堤がマンホールと水門のある高台を交互に見やる。そして何かに気づいたように、えっと声を上げた。

「でも水門の向きとこのマンホールの位置ってほとんど反対方向なんだけど……」

「たぶん途中で大きくカーブしてるんでしょ。ほらそういうウォータースライダーってあるじゃん」

 エルは人指し指を立てて、くるくると回した。螺旋状のウォータースライダーのことを言っているらしい。

「たぶん死体はスタート地点となる水門付近にあったんだろうね。ちょうどいいタイミングで水門を遠隔操作して死体を高速で滑らせ、そして水槽内の奥にあった上向きに角度をつけた出口から――」

 エルは指で空中に放物線を描いて見せた。その軌道の終端は1番ロッジの玄関。

「でも、そんなうまく玄関の中へ入る? ドアが閉まってれば詰みじゃん」

「爆発なんて大事が起きたときにドアをいちいち閉めないよ。ましてやドアは引き戸だったしね」

「それでも都合良く飛び出して玄関へ落下してくれるかは分からないと思いますが」

 まだ説明に納得がいかず、ケーナインが首をひねる。

「そこは頑張って調整したんじゃないかなぁ。まあ万が一目測を誤っても1番ロッジの近くには落ちるはずだから、致命的なロスとまでは行かないだろうけど」

「調整ったって、ここに来なきゃあどうにもならんじゃろ?」

「視察とでも言っておけば何度も来ても変じゃないでしょ? エコロジービレッジを作ったエターナルエコロジー社で計画を実質的に仕切っていた副主任なら」

 エルはさっきから一度も言葉を発していない人間の方へ首を向ける。すなわち、山野井顕へ。

「そもそもこんな大がかりなトリック、ここの開発段階から関われる人間じゃなきゃ無理だし。つまりこの時点で管理人さんは除外される。そして建築業者に奇妙な依頼をすることも考えると主任クラスの権限が必要だよね。で、主任の阿波さんは殺された。もうできる人は山野井さん、あんたしかいない」

 そこへ上から戻ってきた穴加部が合流する。誰も口を開かない。

 静寂の中、かすかな水音が聞こえる。偽の防火水槽の中に上から流れてきた水がたまっていくところだった。水がたまりきってしまえばもう本物の防火水槽と見分けがつかない。

「ついでに言うと、あんたがここで転んでもたもたしてたのもわざとだ。このマンホール、つまりウォータースライダーの出口を開けておく必要があるからね。開けやすくしてあるのも短時間で全開にするためでしょ?」

 少し間があって、山野井が当惑を隠さずに言う。

「そう言われましても困ります。私は人を殺してなどいないとしか……。そもそも私には阿波主任や得能くんを殺す理由がありません」

「イエス。主任は山野井さんをとても慕っていました。得能くんともトラブルがあったようには見えませんでしたし」

「得能さんとの間にトラブルはなかった。だけど、山野井さんにとっての得能さんは存在そのものがトラブルだった。――得能塁は山野井顕の隠し子だから」

 ケーナインが口元を両手で覆う。その奥からアンビリーバボーという言葉が漏れてきた。

「昨晩、得能さんが教えてくれたんだ。自分は山野井が不倫してできた子供だって。母親が死んだ後、山野井さんから援助を受ける代わりに口止めされてたから、いままで誰にも言わなかったんだって」

「しかし、だからといって殺害する必要があるのでしょうか?」

「口止めしてるからといって一生バラさないとは限らない。人格者で通ってる山野井さんにとっては気が気じゃなかったんでしょ。現にぼくに話したからね。得能さんが生きていれば、ぼくもずっと黙ってるつもりだったけど」

 エルが敵意に満ちた視線を向ける。当惑の色こそあれ、それでも山野井は落ち着いた態度を崩さない。

「山野井さん、あんた本当は潔癖性なんでしょ? ただし、観念的な汚いものが嫌いなタイプの。もしくは穢れと言ってもいいかな。だから自分の不倫の証拠である得能さんを始末した」

 声を一段と低くして言ったエルの言葉に、山野井がぴくっと反応する。

「阿波さんを殺したのも同じ理由なんでしょ? ライバル社から転職してきた阿波さんを穢れた存在だと思ったとかね。ひどく下らない理由だよ」

 困惑に染まっていた山野井の表情が少しずつほどけていく。

「さらに言えば、わざわざぼくに罪を着せたのも、人を殺したという穢れを押しつけたかったからなんだろ?」

「君の言うことは推測でしょう。証拠がまったく出ていない」

 抑揚のない声で山野井が言う。

「DNA鑑定をすれば得能さんとの親子関係はすぐ分かる。それに、警察がくれば殺害現場の特定は時間の問題だ。水門に死体を隠すことを考えると、たぶんため池のそばで殺害したんだと思うけど。どうせ現場の後始末は大してしてないんでしょ? ぼくを犯人にしてしまえば救助が来るまでの間、いくらでも後始末ができるからね」

 山野井にとって誤算だったのは刑事の穴加部がついてきてしまったことか。刑事がいると分かればうかつな行動はできない。ましてや犯人に仕立てたエルとは知り合いなのだ。

「あとはあのウォータースライダーもそう。こんな意味の分からない工事を計画に入れたら社内の誰かが不審に思う。だからあんたは社に隠して建設会社にこっそり頼んだはずなんだ。建設会社の人間に当たればあんたの名前が出るだろうね。で、これだけ怪しいことをやっといて、取り調べに耐えられると思う?」

 エルの追及に負けたように、山野井がだらんと背筋を曲げた。顔からはいっさいの表情が消えていた。そして、

「あーーーーーーーーーー。やっぱりシミはシミかーーーーーーーーーーーーー!」

 山野井は突然、平坦なトーンで叫んだ。音楽の授業で発声練習をするときのような、全く音程の変わらない長い長い声。

 柔和な表情はいまや別物。目尻を下げ、口元には崩れた笑みが浮かんでいる。

「取りきれなかった頑固なシミはいつまでも残ってんだよねー。人生の汚点というシミはさ。はーーーーーーーー汚いっ!」

 ハエみたいに手を前でこすり合わせる山野井。

 あまりの変貌ぶりに誰も言葉を発することができない。落ち着き払った人格者は偽造。こちらが本来の山野井なのだろう。

「最後の最期まで穢れは穢れか。あのシミ、よりによってとんでもない奴を連れてきやがってよー。全部バレたじゃねーか、クソックソ!」

 山野井が明確な自白とともに大きく足を踏みならす。何度も踏みつけるうちに疲れてきたのか、急にやめてエルに向き直る。

「うんこマニアくん、うすさま明王って知ってる?」

「……トイレの神様。元はインドの神様だけど、火によって穢れを浄化するところからそういう扱いになってるね」

「せーーーいかーーーい。だからあいつは燃やした」

 急に鎮火したような真顔になる山野井。そして滔々と語り出す。

「私ね、本当はグローバルエコシステムが第一志望だったんだよ? でも面接で落ちてねー。それが悔しくて悔しくて。その姿を見せるのは嫌だったから表には出さなかったけどね。で、仕方なくエターナルエコロジーに入社ったわけ。そしたら阿波だよ。転職はいいんだ転職は。でもその転職先があのグローバルエコシステム! 私が入りたかったのに! 死ねと思った」

「……? 阿波氏が転職したから何だというのでしょうか?」

「私を認めなかったあの会社に私の部下が入る! そんな理不尽があるか! 私の不幸は続いた……よりによって阿波のヤツが出戻りしてきたんだ。しかもあの忌まわしいグローバルエコシステムのやり方をひっさげてだ! あーーーーーーー汚い、私の職場にシミが広がっていく! よし、燃やそう。消毒しよう」

「クレイジー……副主任はクレイジーです。やり方に反対だったならそう仰ればよかったじゃないですか! そんな理由でまつりさんまで……!」

「そんなこと言ったら私の心が狭いみたいだろバカ! 完璧な人間だと思われたいんだ私は! 物心ついてからずっと完璧にやってきていたんだ!」

 そのセリフが既に心の狭さを示してしまっている。

 穴加部が軽蔑の目を向ける。訳の分からないことを言っているが、要はプライドの高さから来る嫉妬に過ぎない。刑事稼業だと見るのはそう珍しくない手合いだ。

「自分のことだけしか見てない人間の言う完璧さなんてクソにも劣るよ。あんたは自分の過去に向き合えない、ただの臆病者だ」

 吐き捨てるようにエルが言う。穴加部にはそれがエル自身に向けて言っているようにも聞こえた。

 山野井はそれに対して小馬鹿にしたような笑いを漏らす。

「ハハッ、過去となら向き合ったとも。だからこうやって穢れを祓ったんじゃないか。うんこマニアくんがウォータースライダーと言ったアレ、イメージとしては水洗便所のつもりだったんだよ? 汚物を水に流す。水に流すというのは、流し雛の例もある通り、穢れを祓う意味があるわけよ。水門のスイッチを入れたら水と一緒に汚いものはさよなら~っ!」

 バイバイを意味するように、ちぎれそうな勢いで手を振る山野井。

「あなたは――命というものに敬意がないのですか?」

 穴加部は死体が好きではない。できれば離れていたいと思っている。人が死ねば、その時点から肉体の崩壊が始まる。あるいは最初から崩壊させられているときもある。その有り様にどうしても汚さを感じてしまう。だが、それでも見る必要があるならしっかりと見る。終わった命に対する刑事としての最低限の義務だからだ。

 目の前の男に、それは見て取れない。

「そりゃあね、命を大事にするのは大事だよ? 街中でやってるアフリカの子供たちのための募金とかよく入れてるし。完璧な人間ってのはそういう施しもするもんだよね」

「あんたのそれは命を大事にしてるんじゃない。人格者というステータスが欲しいだけだ。でも内面はどうしようもなく腐っている。うんこは処理をすれば浄化できるけど、あんたの中身はどんな下水処理場でも浄化できないね。――魂にこびりついた汚れは誰にも落とせないんだから」

 山野井はそれを鼻で嗤う。この男にエルの言葉は届かないだろう。どれだけ人格者のように振る舞おうと、この男が見ているのは自分だけなのだ。完璧に生きてきたと言っていたが、それも山野井の中の基準に過ぎない。何もかも自分勝手で、だからこそ簡単に人を殺せた。

 そんな人間に対して穴加部が言うことはひとつだけだ。

「山野井さん、私はあなたに感謝をしたいと思っています」

「はー?」

「私が刑事を志したのは、この社会に混ざっている汚い真似をする人間を一掃するためです」

 そう言うのを聞いて、エルの表情からふっと力が抜ける。穴加部が何を言おうとしているのか悟ったからだろう。

「いいことだねー。やっぱ穢れた人間は消毒しないと」

「ええ。ですから、あなたのような身勝手な理由で3人も殺しておいて罪の意識のかけらもなく、しかもその罪を他人に擦り付けるようなを逮捕できると思うと心が躍ります」

「あ……? 逮捕……?」

「ええ。山野井顕――あなたを阿波紀一郎、阿波まつり、得能塁を殺害した容疑で逮捕します」

「ふ、ふざけんじゃないよ! 私は穢れのない完璧な人生を送ってきたのに! 前科者になるなんてごめんだ!」

「そこは心配なさらなくていいと思います。裁判官ではないので分かりませんが、情状酌量の余地のない動機で3人もの命を奪ったなら、おそらく判決は死刑でしょう。喜んでください。人生の汚点ごとこの世からきれいさっぱり消えてなくなりますよ」

 山野井は何か言おうと口を開いたが、ノイズのようなかすれた音を発するだけで、そのまま固まってしまった。


18


 翌日、道の寸断が発見されたことで、エコロジービレッジへ救助がやってきた。とりあえず人間が通れるだけの仮設の橋を架け、閉じこめられていた全員が麓の町へと戻ることができた。

 もちろん殺人犯の山野井は県警の取調室へ直行。それ以外の人間は一通り聴取してから帰宅を許された。他県の刑事とはいえ現場に居た穴加部はいろいろと引き継ぐこともあり、エルとは会わずじまいになった。

 休暇は台無しだったが、あまり長く休んでいるわけにもいかない。穴加部は仕事に復帰し、忙しい毎日が続いた。

 そして9月も終わりに差し掛かろうという時期に、穴加部は偶然エルを見かけ声をかけた。

「やあ、エルくん。大学はどうですか?」

「まだ夏休み。――そういえばエコロジービレッジの事件は夏休みの始めだったね。なんだかずいぶん前のような気がするよ」

 エルの装いは相変わらず中性的なものだった。濃紺のベレー帽をかぶり、七分丈の青色シャツに白いカーディガンを羽織っている。下はチノパンをはいていた。なぜこんな恰好を好むのかは分からずじまいだったが、過去の話とは関係ないように思えるし、純粋に趣味なのだろう。

「あの件で計画は中止になったそうです。計画を推進していた中心人物が死亡と逮捕とあってはどうしようもありませんからね」

「その意味でも山野井は許せないよね。うんこのエネルギーはすごく役に立つのに、その計画を台無しにしちゃってさ。それに――得能さんまで」

 エルの顔が曇る。直前に和解していただけに、得能の死には思うところがあるのだろう。

 それに関連して穴加部には気になっていることがあった。いま声をかけたのもそのためだ。

「あの事件の最中、エルくんの昔の話をしましたよね。しかし、私はまだ話をすべて聞いたわけではありません」

「え? もう全部話したじゃん」

「いいえ。私が聞いたのは入院中の話までで、退院後どうなったかまでは聞いていません」

 返事はなかった。言おうか言うまいか迷っている。そんな微妙な表情をしていた。

「……あれだけ騒ぎを起こして、うんこまで漏らしたら、学校には戻りづらい。黙って転校することも一時は考えたよ。だけどそれはうんこからも自分からも逃げることになる。だからぼくは開き直ることにした」

「開き直る、と言いますと?」

「うんこー! うんこ最高! 大好きうんこ!」

 突然ダイレクトに下ネタを投げつけられ、穴加部の顔が歪む。

「こんな感じでうんこキャラを目指したんだ。いま思えばもう少し別のやり方があったかもしれない。でも思いつかなかった。うんこを漏らしたことを気にしてないとアピールする方法は」

「ああ、どの道うわさされるなら大っぴらにしてしまえばいい、ということですか」

「それと、ぼくが皆を恨んでないという意味も込めてね。結局、得能さんには伝わってなかったみたいだけど……」

 直接謝って回ればよかったのではと穴加部は思ったが、思春期真っ直中の中学生では順当な選択ができないこともある。

「しかし、だとするとエルくんのそのキャラは演じているということになります。実のところ、根っこの完璧主義で苛烈な性格は変わっていないのではありませんか?」

 静寂が訪れた。エルは首をゆらゆらと動かすだけで何も言わない。

「いえ、他意はありません。ただ、大学での事件やこの前の山野井に対する態度を見ているとどうもそんな気がしてしまいまして……」

 穴加部が弁解する途中でエルが口を開く。

「どうだろね……確かに変わってないところもある。でも、キャラを変えたのも間違いない。最初は周りからも気味悪がられたし、やめようかと思ったときもあったけどね」

「そのことを意識しているのならば、やはり変わっていないということになりませんか?」

「でも、それを5年も6年も続けていたら、もう自分の中に埋め込まれて本当か嘘か区別できなくなる。何より――うんこが好きなのは本当だから。誰もが知っていて、だけどその世界の奥深さを知っている人は少ない。汚いだけの物だと切り捨てたくないんだ。だからぼくは、これからもうんこを肯定するし、うんこから目を背けない。そこだけは変えないつもりだよ」

 そうあろうと決めているならば、穴加部に言うことはない。

 排泄物は確かに汚い。穴加部のような潔癖性でなくても、遠ざけたいものには違いないだろう。だが、汚いからといって忌避するだけでいいのか。その極限に至ってしまったのが山野井なのかもしれない。

 だとすると潔癖すぎるのも考え物だ。

 山野井を追及するときに、穴加部はつい「クソ野郎」と柄にもない言葉を使ってしまったが、そのぐらいの緩さはあってもいいだろう。

 何より、エルが「うんこ」について語る姿はとても楽しそうだった。少しは潔癖さを直してエルの嗜好に歩み寄るのも――。

「うんこの話してたらお腹痛くなってきちゃった……穴加部さん、またパトカーで送ってくれない?」

 顔の前で指を組み、小首をかしげて図々しくお願いをしてきたエルに、穴加部はさわやかな笑顔を向けた。

「謹んでお断りいたします」

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