第三話 スマートうんこライフ

 悼田エルの自宅は大学から歩いて30分ほどのところにある。近くにはバスも通っているのだが、エルは徒歩で通学している。なにしろ――

「うー。お腹いたーい……朝はいつもこうなんだからやんなっちゃうよ」

 朝とはいえ7月。暑さの汗と腹痛の脂汗が混じり合う。

 家を出て10分もすると腸はシグナルを出し始め、20分あたりで限界がくる。大学までは保たない。

 そこで頼りになるのがあのトイレだ。エルが殺人事件を解決したトイレ。

 痛みを紛らわせるためにあちこち目を向ける。前に貼ってあった麻薬防止を呼びかけるポスターはなくなっていた。麻薬の卸し元が逮捕されたことで流行は終わったらしい。

 そんな事件の場になっていたということで、寂れたトイレはますます人が寄りつかなくなっていた。

「ぼくにとってはうれしいことだけど――うぅっ……!」

 エルはその可愛らしい顔を思い切りしかめる。腹痛の波が高くなっていた。可能な限りの早足で多機能トイレへ突入する。

 急激な腹痛のときにトイレに求められる最重要条件は、確実に空いていることである。どれだけきれいだろうとどれだけ設備が整っていようと関係ない。一刻も早く腹の中の荷物を下ろすこと。これが最優先事項なのだ。

「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……………………………………」

 しばらくうなった後、無事に投下することができた。

 水中に埋没したそれをエルはまじまじと眺める。

「今日も微妙なうんこだなー」

 エルらしい奇癖と思われるだろう。ところが意外にも真面目な理由で便を観察していた。

 ブリストル便形状スケールというものがある。その名の通り便の形状に関する国際的な分類指標で、便の形状によって7つに分類している。

 1番に近づくほど固く、7番に近づくほど柔らかい。最良は4番目だ。日本ではいわゆるバナナ型と形容される。

 エルが確認したのは5番のスケールだった。しょっちゅう腹痛に見舞われることから分かる通り、エルは腸の調子があまりよくない。だから「今日も微妙」と言ったわけだ。

 確認を始めたのは中学生の時にうんこ師匠こと備後云十郎医師の治療を受けたからだった。そのときの会話をエルはいまでも忘れていない。

「忘れようたって、忘れられないからね」

 心を落ち着かせるように目をつぶってから、エルは水を流すボタンを押した。



 エルの通う東京電気情報通信大学(略して東通大)は名前から分かるように情報通信系の大学だ。分かりやすい名前ではあるのだが、長ったらしくて覚えにくく、特に手書きで履歴を書く就活生からは、画数が多くて面倒と文句を言われている。

 とはいえ、情報通信に関わる幅広い技術や知識を教えており、一単位でも落とすと即留年になる厳しさから、企業からの評判は高い。

 企業側が大学に出向いて合同説明会を行うことも多く、今日も説明会の告知をする看板が構内に立てられている。エルがそれを横目に見つつ、歩いていると、後ろからガタいのいい男が声をかけてきた。

「よう、悼田」

「あ、獅童くん。おはよー」

 エルが微笑を浮かべて挨拶を返す。

 濡れ羽色のショートヘアに白いキャップをかぶり、Vネックの白シャツと若草色のワイドパンツを身にまとったエルの姿を見て、友人の獅童はため息をつく。

「はぁー、おまえが女だったら好みドストライクなのによ」

「それ何回も言ってるけど、飽きないの?」

「うるせー。元はといえばおまえが紛らわしいカッコしてんのが悪いんだ。入学早々男を口説いちまった俺の気持ちも考えろ」

 獅童藤作は女子大生の彼女が欲しかった。小柄でスレンダーな女性が好みだったのが運の尽き。同じ講義に出ていたエルにノートを見せてもらうという体で近づいたはいいが、男であるとはつゆ知らず。後日、男子トイレの扉を開けると女子だと思っていた人間がいたときの獅童の驚きようは尋常ではなかった。

「まさか彼女候補として見られてるとは思わなかったよ。まあこっちも授業中にうんこ行きたくなったときのために友達作らなきゃと思ってたからちょうどよかったけど」

「おまえは友達をなんだと思ってるんだ……」

「そっちこそ大学をなんだと思ってるのさ。大学は出会いの場じゃないんだよ?」

「ああ、女に出会えねーってところはマジでそうだな。――この大学、女子が全然いねーじゃん! 大学ってのはもっと女があふれてるんじゃねーの!?」

 オーバーに腕を振って嘆いてみせる獅童。180cmの長身でやると野獣のような迫力が出る。

「獅童くーん、入学案内のパンフ見てないでしょ。ここの大学の女性比率1割だから女子の入学に力入れるって書いてあったじゃん」

「知らねーし。親から就職に有利だから入れって言われたから入っただけだからな」

「ここけっこう偏差値高かったと思うんだけど、よく入れたよね獅童くんの頭で」

「俺もなんで入れたのか分からん。運が良かったんだろ」

「言い換えると?」

「幸運」

「繰り返すと?」

「こううんこううんこううんこううんこうんこ」

「うんこ」

「…………………………………………」

「…………………………………………」

 ふたりはハイタッチした。いかに偏差値というものがあてにならないかよく分かるやりとりであった。

「――あ、そうだ。後でプログラミング演習の課題教えてくれよ。さっぱり分かんねーんだ」

「いいよー」

 軽く応じつつ、バッグの中を漁るエル。すぐ石鹸のような物体を取り出した。

「例の実験のやつか」

「そ、排泄予測デバイス。学内にいる間は付けとかないと」

「金貰えるんだろ? 俺もやっとけばよかったなー」

「うふふ。ここの研究室のテーマはずっと注目してたからね。告知が出たその日に申し込んだよ」

「ホント悼田のうんこへの情熱はすげーな。――っともう1限始まるぜ」

「1限はなんだったっけ……あっ、しまった。化学実験演習だから早めに行って準備しなきゃいけないんだった」

 エルと獅童は慌てて駆けだす。

 その後ろを歩いていたふたりの男子学生が険悪な雰囲気で話をしていたことには気づかなかった。

「ええ加減11万返しぃや、白石。もう半年以上経っとるんやぞ」

「そのうち返すって。しつこいな」

「借りといてその態度はなんや! あーもう、夏休み入るまでには用意しとけよ。ええな?」

「分かった。わーかったって」



 昼食後の3限目。エルのスマホに通知が来た。

 画面には「あと約10分で便が出ます」の文字が。

 それを見るとエルは講義を抜け出そうと立ち上がる。隣の獅童がひらひらと手を振った。

 教室を出たあと階段を下りて男子トイレに入り、一番奥の個室へ。トイレットペーパーホルダーの上に設置されたパネルへ学生証を当てると、確認したことを知らせる電子音が鳴った。

 そして着座すると5分もしないうちにキリキリと腹が痛み出し、エルの身体から出力された。

「今日も予測成功! さすが東郷研究室のUデバイス」

 腹部に張り付けた白い小型デバイスを見ながらエルは言った。

 手をよく洗って教室に戻ろうとすると、再びスマホに通知が届く。通知をタップすると、画面が開いて「潜血」や「クレアチニン」など様々な項目が表になって表示される。最後には「悼田エルさんは健康です」とそっけない文体で書いてあった。

 それを見て満足そうな表情になると、エルは教室に戻った。

 授業は進み、黒板の内容が変わっていた。その間の分を獅童に見せてもらおうとすると、うつむいて手元のスマホを見ている。

「サボるのはかまわないけどノートはとっといてよね」

 エルがささやくように言う。獅童も小声で応じようとしたが、体格のせいかあまり小声になっていない。

「そっちはちゃんととってあるって。これ見てたんだよ、ほら」

 獅童がスマホの画面を見せてくる。そこには東郷研究室のホームページが映っていた。

 所属しているメンバーが書いてあり、上から東郷近江教授、斧正翔准教授、院生や学生らの名前が並んでいる。

 研究内容の欄には、排泄に関する総合的な生活サポートに関する研究と書いてあった。超音波便位置測定、在室状況の見える化、尿および便の自動検査などといった文字が太字で強調されている。

「お前が好きそうな内容だよなー」

「うんこは好きだけどさ、実験に参加したのはもっと切実な理由だよ」

「切実って?」

「いいから授業。先生がこっちチラチラ見てるし、後で話すよ」

 担当の講師がエルたちの方を疎ましげに見ている。その目は暗に黙れと言っていた。授業を聞かないのは自由だが、授業を邪魔することは許されない。大学というのはそういう場所だ。



 エルの学科は、月曜4限目の授業がないが、5限目の授業はあった。

 その間ひまなので、プログラミング演習の課題を終わらせるべく、エルと獅童はパソコンが多数置かれた教室のある棟へ向かっていた。

「んー、冷房で冷えたからか? ションベン行きたくなっちまった」

「じゃあぼくも連れション」

 ふたりは近くの5号棟に入り、だらだらと奥のトイレへ歩く。

 駄弁りながら獅童がトイレのドアを開ける。

「あの課題、条件分岐のところがどうにも――」

 かつてエルが男だと知らなかった獅童が男子トイレでエルと出くわしたときは大声を上げて驚いたことがある。

 だがの声はさらにひどく、絶叫と呼ぶべきものだった。

 一番奥の個室から人間がはみ出ていた。――仰向けになって、苦悶の表情のまま固まった、若い男の上半身が。

 誰がどう見ても絶命していることが分かる。

 死体の側には、ウニのようにトゲトゲが密集した球体が転がっていた。球体には暗い黄緑色のどろっとした液体がこびりつき、見るからに毒々しい配色をしている。凶器がそれであることは間違いなかった。

「……獅童くん、外で誰も来ないように見張ってて。いま警察呼ぶから」

 青ざめた顔でのろのろとトイレから出る獅童。

 エルは通報を済ませると、おそるおそる死体のはみ出ている個室をのぞき込む。天井付近に設置された人感センサーの手前、便座の真上に位置する場所に、四角い穴と、その穴を閉ざしていた扉がぶら下がっていた。

「これって、もしかして……」

 ある推測がエルの頭を駆けめぐり、表情を青ざめさせた。



 穴加部は事件の起きた場所を聞いたときから嫌な予感がしていた。

 東京電気情報通信大学。それはあの悼田エルの通う大学だったはずだ。

しかもよりによって現場はすべてだという。

 これでエルが関わっていなかったら逆に驚きだ。

「言うまでもなく関わっていますよね……それも第一発見者で」

 現場の5号棟に入った穴加部はエルの姿を確認して、ため息をついた。また下ネタで茶化してくるのかと思いきや、意外にも真剣な顔で尋ねてきた。

「穴加部さん、これ無差別殺人事件だって本当?」

「そのようですね。まだ確認の途中ですが、大学内のすべてのトイレに凶器が仕掛けてあるようですから。もちろん男子用にも女子用にも、です」

 エルが死体を発見した時間と前後して、別の棟にあった女子トイレ内でも昏睡状態の女子学生が見つかっていた。そばにはやはり毒の塗られたウニ様の球体がいくつも転がっていたという。

「一番奥の個室の天井裏に凶器を仕込み、任意のタイミングで遠隔操作のスイッチを押す。それにより天井裏に作られた扉が開いて凶器を放出。個室に入っていた人間をまとめて殺害する。そういう計画でしょう」

「許せないなぁ。この犯人は許せないよ」

 珍しく怒りを露わにするエル。穴加部も同感だった。すべてのトイレに仕掛けられていたということは、被害は二名どころでは済まなかったかもしれないのだ。全くもって許しがたい。

「こんなやつがいたら落ち着いてうんこできないじゃないか。ぼくは上じゃなくて下に集中したいのに」

「…………………………まあ、そういう子ですよね。エルくんは」

 頭が痛いというジェスチャーをしてから、穴加部は死体のあるトイレへ入っていった。

 苦悶が張り付いた表情の死体がこちらを見上げている。夏らしい半袖と短パンの服装だ。これだけ肌面積が多いと、上からトゲのある球体が大量に落下してくれば絶対にヒットするだろう。

 周囲には鑑識の人間が毒の凶器を避けつつ、作業をしていた。

「お疲れさまです。遺体の状況はどうでしょうか?」

「死因はそこらに転がってる毒ウニで間違いないだろう。頭部や腕に刺さった痕があるしな。死んだのはついさっき。15時前後ってところか。ポケットに学生証があったぞ。年は24で、名前は白石隆治というらしい。それと……腹部に妙な機械をつけてたな」

 鑑識がシャツをめくると、腹部に石鹸大の白い機械が張り付いていた。

「あっ、Uデバイスじゃん」

「エルくんはこれをご存じなのですか」

 ふつうについてきたエルに穴加部は特に何も言わなかった。なにせ会うのは三度目だ。言っても勝手に入ってくる人間であることは分かり切っていた。

「東通大の東郷研究室で実験参加者に配布されたやつ。ぼくも着けてるよ、ほら」

 と、エルがVネックシャツのすそをめくって見せる。まるで腹筋の見えない柔らかそうな白いお腹に、死体に着いているものと同じ白い機械があった。

「超音波を当てて腸の中でうんこがどの位置にあるのか測定するんだ。それで直腸に近くなったらあと何分でうんこが出ますって通知してくれるの」

 分かっていたことだが、エルが絡むと必ずその話になる。「う」で始まる物体を想起して、穴加部はうんざりしたように言う。

「ああ……それでUの文字なのですね」

「そ。超音波――Ultrasonicの頭文字を取ってUデバイス」

 沈黙が場を支配した。穴加部の視線があらぬ方向へ逃げる。

「あっれー? もしかしてUデバイスのUをうんこだと思ってたー? うふふ、もう穴加部さんったら。うんこデバイスじゃないよ。超音波デバイスだよー?」

 わざわざ穴加部の視線の先に回り込んで煽ってきた。もうやだこの男子大学生。

「それにしても他人事とは思えないなぁ。同じUデバイスを着けていたってのもあるけど、タイミング次第じゃぼくが死んでいたかもしれないんだし」

 確かにそうだった。犯人は誰が入っていようとお構いなしに死の仕掛けを起動した。個室内に悼田エルが居る可能性も当然あったわけだ。実際に餌食になったのは白石隆治ともう一名の女子学生だったが。

「しかし無差別殺人とは困りましたね。大学という場所柄、誰でも入ろうと思えば入れますから、容疑者が絞り込めません。強いて言えば大学に恨みを持つ人間の犯行であろうという程度でしょうか」

「んー……ぼくもそうだとは思うけど……」

 歯切れの悪い言い回しをするエル。何か納得行かない点があるらしい。また何か言い出すのだろうかと穴加部は身構えたが、

「いまは情報がないし、分かんないや。なんか分かったら教えてよ。じゃあねー」

 あっさりと帰ってしまった。穴加部は拍子抜けして棒立ちになる。

 このとき鑑識の人間に「変な奴らだなぁ」とひとまとめに変人扱いされていることを穴加部は知らない。



 現場の5号棟から出ると、先に聴取を終えた獅童がエルを待っていた。

「悼田、警察に知り合いなんていたんだな」

「前にちょっとね。一緒にトイレに入った仲なんだ」

 この場に穴加部がいたら抗議していただろうことを言うエル。確かに一緒に入ったが、死体も一緒だったことは話さない。

「ふーん? それより驚いたなー。死んでるのがあの白石隆治なんだもんよ」

「獅童くん、被害者のこと知ってるんだ?」

「恋愛絡みの噂は耳に入れるようにしてるからな。白石隆治はしょっちゅう噂を聞くやつさ。学部1年の頃から女をとっかえひっかえ。学内学外問わず口説きまくってたらしい。ま、顔がいいからな」

「獅童くんと違って?」

「うるせーこの女顔!」

 エルの顔につかみかかる獅童。ほっぺがみょいーんと伸びた。

「……顔はいいつっても白石は人間的にはいい評判は聞かねーからな。誰彼かまわず金を借りてはロクに返さない。少額だから問題にはなってねーが」

 金と女にだらしないイケメンというのが、白石隆治の評判のようだ。恨んでいる人間も多そうだから、放っておいても誰かから刺されていたかもしれない。

「そんなやつが無差別殺人で死ぬとはなー。バチでも当たったんじゃねーの?」

「そうかもね」

 短く言ってエルは考え込んだ。悪因悪果――悪いことをしたから悪いことが起きた。本当にそうなのだろうか?

 エルの頭の中では疑問符がぐるぐると渦巻いていた。この無差別殺人事件にはどこか、ちぐはぐな感じを受ける。中途半端さと言ってもいいが、エルにはそれが気に入らなかった。

「――おい、聞いてんのか悼田?」

「えっ、なに? なんか言った?」

「だからよー、事件のせいでもう授業ないじゃん? このまま悼田の家で飯食いながら課題教えてもらおうと思うんだが」

 事件直前の会話をエルは思い出す。事件のせいでうやむやになっていたが、そういえば課題の話をしていた。

「別にいいけど、今日はレトルトカレーだよ?」

「食わせてもらうんだから贅沢は言わねーよ」

「分かった。固形物の混じった独特のにおいを発するドロドロした茶色い液体をご飯にかけて食べよう」

「言い方?」



 きれいに片づいたワンルームがエルの住まいだった。

「悼田の家は久々に来たけど、相変わらず片づいてるなー」

「獅童くんの部屋、すっごい汚いもんね」

「人間、部屋が汚いぐらいでは死なん!」

 潔癖さとは無縁の宣言をして、獅童はどっかりと床に座った。

 エルはすでに炊きあがっていた炊飯器の中をのぞく。

「ちょうど冷凍用にご飯を多めに炊いといてよかったよ。ちょっと待ってて、いまゆでるから」

 キッチンの戸棚からレトルトカレーの箱を取り出してから、鍋に水をくんで火をかける。後は沸騰してからレトルトパウチを投入するだけだ。

「できるまでこれでもつまんどいてよ」

 と言ってエルは輪ゴムで口が閉じられた袋を獅童の方へ放り投げた。

「サンキュー。……ってかりんとうかよ。うんこ尽くしだな」

「うんこ食べるのにカレーの話しないでよー」

「定番のボケやめろ」

 お互いに半笑いの表情である。弛緩した時間が流れていた。

「それで、プログラミングの課題ってどんなの?」

「なんだよー。せっかくうやむやにしようと思ってたのに」

 獅童が不機嫌そうに口をとがらせる。鞄からノートパソコンを取り出して起動した。

「自分から来といて文句言わないでよね。――どんな課題だったっけ」

 画面には課題のページが表示されており、そこには次のように書かれていた。

 コインを10枚入れたとき紙幣を1枚出す。紙幣を10枚入れたときコインを100枚出す。コインと紙幣の値を入力したときのこのプログラムを書け。

「イフ文を使って条件分岐するのは分かるんだが、なんかこんがらがっちまって。コインを100枚入れたときはどうするのかとかさ」

「ああそれ、問題文が紛らわしいんだよ――あちちっ」

 エルは沸騰したお湯にレトルトパウチを投入しながら、獅童の質問に答える。

 プログラムは基本的に、数値を入力してから、入力値に対して処理を行った後、別の数値を出力するものだ。エル流に言うなら口から食べたものが消化吸収されて肛門から便として出て行くとでも言えばいいだろうか。

 IF文――条件分岐を意味する――は入力された値が何であるかによって処理内容を変える役割を持つ。消化で例えれば、砂糖が入ってきたときにグルコースに変換し、血中へ取り込む。食物繊維ならわずかに消化してあとは排泄する。これはあらかじめDNAに書き込まれた人体が備える機能だ。

「問題文に書いてないことはプログラムに記述しなくていいんだよ。判定するのはコインが10枚のときと紙幣が10枚のときだけ。それ以外は必要ない――」

 カレーをご飯の上にかけながら、エルは引っかかるものを感じた。

「なんだよ、それだけでいいのか。変な問題作りやがって」

「やっぱり……どれも必要がないんだよね」

 つぶやきながら、もう一つのレトルトをお湯に投入するエル。

 その後ろでピロンと軽快な電子音が鳴った。

「ん、速報か」

 課題に区切りがついて気が緩んだのか、獅童がニュースサイトを開いてしまう。

「――おい見てみろよ悼田。さっきの事件が報道されてるぜ」

「ホント? どんな感じになってる?」

「大学で無差別殺人か。二名死傷。死亡したのは大学院生の白石隆治、軽症なのは学部3年生の……ああ、こっちはもう命に別状はないのか」

 温め途中だったが、エルは火を止めて獅童の後ろからニュースサイトの画面をのぞきこんだ。

 警察の発表によると、すべての男女トイレの一番奥の個室に毒針のついた球体が仕込まれていた。毒物の種類は現在特定中だが男子トイレと女子トイレで違う種類の物が使われていたらしい。

 そこまで見たところでエルは猛然とスマホをタップし始めた。耳に当てたところを見ると電話をかけているようだ。

「おい悼田、カレーは?」

「キッチンにあるから勝手に食べて……穴加部さんに聞きたいことがあるんだ」

 そっけない態度に獅童はぶつくさ言いながらキッチンへ立ち上がる。

「もしもし穴加部さん? さっきの事件は無差別じゃない。白石隆治ひとりだけを狙った殺人だよ」



 翌日。穴加部は東京電気情報通信大学にやってきていた。

「明日の1限は授業ないから詳しい話は大学で」

 とエルが電話口で言ったからだ。とはいえ、エルの話はにわかには信じがたかったので、穴加部はひとりだけでやってきた。

 死体のあったトイレのある5号棟の前でエルは待っていた。

「おはよー、穴加部さん。朝早くからご苦労さんだね」

「いえ、朝の方がいいですから。この服は暑いですしね」

 穴加部は夏にもかかわらず、しっかりとネクタイを締めてスーツを着ている。相変わらずきっちりとした身なりだった。

「――それで、電話では話さなかったことをここで説明してくれるのでしょうね?」

「もちろん。ま、大学に呼んだのは別の理由もあるけど」

 ふたりは5号棟の中へ入ると、規制線の奥へ。トイレの中にはもう死体も凶器もなく、代わりに白線が引かれていた。死体を示す白線は一番奥の個室に続いている。

 大学内のトイレなのでそれなりに清掃されてはいるが、トイレはトイレ。穴加部は顔をしかめた。

「あの後の捜査で分かったことですが、凶器の仕掛けられた天井扉には無線の受信装置が組み込まれていました。やはり午後3時前後に犯人が遠隔で一斉に仕掛けを起動したのでしょう」

 奥の個室に歩いていくエルの背中に向かって言う穴加部。

 エルはくるっと向き合って、

「まずそこが引っかかるんだよね」

「……そこ、とは?」

「殺害時刻。もしこれが無差別殺人だとしたら、あまりいい時間とは言えないんだ。だってこの時間は4限の真っ最中だもん。講義に出ている人が多い時間帯だから、当然トイレに入る人も少ない。下手したら誰も入っていないかもしれない。無差別殺人には不向きな時間なんだよ」

「言われてみれば確かに……。ですが、犯人が大学関係者ではないなら、そのことを知らなくても不思議ではないのでは?」

 その質問にエルは首を横に振る。

「すべてのトイレの天井に仕込む手間をかける人間がそれを調べないわけがない。そもそもトイレに人が居る可能性が高いのが、昼休みから3限にかけての間だというのは誰でも分かるでしょ?」

 食後にトイレに行きたくなるのは自然の摂理だ。昼食を食べた後が最も大学内でトイレに行く人数が増える時間帯というのは穴加部にも納得できる。

「実際、昼食時を外したおかげで被害は二名にとどまり、うち一名は軽症で済んでいますからね」

「そうそう、そこもおかしいんだ。昨日のニュースで見たんだけど、男子トイレと女子トイレで毒の種類が違ったんだって?」

「ええ。男子側は微量でも致死性の極めて高い毒物が、女子側には急性的な症状は出るものの回復も早いものが塗られていました」

「警察はその違いをどう見ているの?」

「無差別殺人なんて馬鹿げたことを考えるような人物ですからね。ただの気まぐれでしょう。でなければ女性だから手心を加えたか」

 穴加部はそのことにあまり興味がないようだった。無差別殺人の動機など考えるだけ無駄と思っているのだろう。

「どっちも違うと思うな。女子トイレだけ弱毒にしたのは、殺す必要がなかったからだよ」

「それは……標的が男性だけだったということでしょうか?」

「たぶんそれも違う。被害者が男性だったから男子側のみ致死毒にしただけで、男子側にも被害は出したくなかったはずなんだ。でなきゃ、あのウニみたいな凶器をあそこまで毒々しく演出する必要はない。うっかり触ってくれれば被害を拡大させられるのに、あれじゃあ誰だって近寄りたがらないよ」

 穴加部は反論せずに黙り込む。確かにいままでのエルの話を聞いていると、無差別殺人にしては奇妙な点が多い。凶器も一見すれば凶悪に見えるが、確実を期すならば皮膚接触で死に至る毒物や毒ガスを仕掛ける方が合理的だ。

「どうにもちぐはぐなんだよね。あれだけ殺意のある仕掛けなのに、一方で殺さないよう気を遣ってる。不完全で、不自然。でもそれが意図的なものだとしたら? 無差別殺人を装った殺人だったなら、この中途半端さはむしろ必然なんだよ」

「つまり死亡した白石隆治氏だけを犯人は狙ったと、エルくんはそう言いたいのですね」

 穴加部の目が鋭くなる。それが本当ならば捜査方針の大幅な見直しを迫られるのだから当然だろう。

 エルは両手を高くあげて正解を表す円を作り、にっこりした。

「ぴんぽーん。すべての男子トイレのうち、白石隆治だけが入っているタイミングで仕掛けを作動させたんだろうね。たぶん女子の方は確認してなかったと思うよ。単に無差別だというイメージを植え付けたかっただけだもん」

 エルの言葉に納得しかけた穴加部だったが、ふと疑問を抱いた。

「口で言うことは簡単ですが、被害者だけが個室に入っていることをどのようにして確かめるのでしょう? まさか被害者の後をずっとつけるわけにもいきません。トイレ内に監視カメラなどありませんでしたし」

「監視カメラはなくても、離れた場所から個人を特定することはできるよ。8号棟の5階、東郷研究室にその鍵がある」



 大学キャンパス図においておおよそ中心に位置する8号棟の5階に、東郷研究室の部屋はあった。

 開け放たれたドアの前に、地味な風貌の若い女性が立っている。

「悼田さんの言っていた警察の方ですね。私は東郷研究室の細井淳子と申します。どうぞ部屋へ。教授含め全員そろっていますから」

 少々太めの体つきにマッチした穏やかな声で言って、細井は部屋に消えた。

 勝手に話が進んでいることに当惑した穴加部がエルの方を見ると、ペコちゃんみたいな顔を作っていた。

「穴加部さんの名前使っちゃった。ごめんね☆」

「それで私を大学に呼び出したのですか……」

 事件の解決につながるなら気にしないが、こちらの都合を考えないのだろうか。相変わらず強引な子だと穴加部は思った。

 研究室の中はなかなかの広さがあった。2つの区画に分けられているようだ。入り口に近い側に机や棚がいくつも置かれ、パソコンやモニターがいくつも置かれている。奥の方には大きなメタルラックやよく分からない機材が並んでいた。

「やあやあどうも! わたくしが当研究室の主、教授の東郷近江でございます」

 そう言って大柄な男性が大仰な挙措で握手を求めてきた。ダブルスーツを着ているが、無骨な輪郭と大きなダミ声のせいでゴリラが服を着ているような感じを受ける。

「は、はい、私は警察の穴加部です」

 独特の勢いに気圧されて妙な受け答えをしてしまう。その様子を見た茶髪の若い男性が面白そうに笑う。

「へへへ、びっくりしてはるな。教授と初めて会うた人は皆こういう反応になるんや」

「おいおいおい西平くん、まるでわたくしが変人みたいな言い方をするでないよ?」

 西平という男は年齢的に学生だろう。関西人らしい茶目っ気のある調子で話を続ける。

「せやかて排泄のことを大真面目に研究しとるんは、一般的に変な人扱いちゃいます?」

「西平さーん、それブーメランっすよ。ウチら全員その研究してるんすから。M2なら分かってますよねー?」

 イスによりかかって座っていた男性からツッコミが入った。メガネの奥の目が気だるそうに濁っている。

 後で穴加部がエルから聞いたことだが、大学院生の二年生をM2と呼ぶらしい。学部生はB、博士課程はDだそうだ。

「ウチは太田って言います。B4――学部4年生っす。刑事さんは例の無差別殺人を捜査してるんすよね。最初、事件の話を聞いたときはすげーびっくりしたっすよ。なにしろウチの研究室の実験に参加してた人が死んだってんですもん。怖いっすよねー。でも犯人もわざわざウチらが実験してる個室だけ仕掛けなくてもいいと思わないっすか? まあ一番奥だから仕掛けやすかったのかもしれないっすけど……。やっぱ卒論に響くんで止めて欲しかったなぁ。あ、そういえば捜査っていつ――」

「ちょ、ちょっと待っていただけますか。こちらからお聞きしますので……」

 穴加部が強引に遮る。放っておくと無限に話し続けそうだ。気だるそうな雰囲気だが、しゃべり出すと止まらないタイプらしい。

 ところで会話には入ってこなかったが、部屋の隅の方に顔色の悪い男性が立っていた。穴加部がその方向に視線を向けると、いま気づいたかのように口を開いた。

「准教授の斧正です……。主に健康に関するデータ解析を研究して……うっ。すいません、昨日は徹夜で…………気分がどうも……」

「お気になさらず。大学の先生は忙しいと聞きますから」

「いえ……溜撮りした深夜アニメをぶっ通しで見たもので…………」

「……………………そうですか」

 穴加部は脱力した。話を聞く前に消耗しそうだ。エルを筆頭として、やはり大学生は変わった人が多いのだろうか。高卒で警察に入った穴加部は思った。

「さて、事件についてわたくしどもについて聞きたいことがあると伺いましたが――これは無差別に人を狙った事件でございましょう。わたくしどもに関係があるとは思えませんが?」

「なにしろ無差別殺人だからねー。少しでも関係のありそうなものは片っ端から調べないといけないんだよ。ね、穴加部さん?」

 可愛らしくウインクをするな。もちろんそれが話を合わせろという合図であることは分かっていたので、穴加部は頷いてみせた。

「彼の言う通りです。どこに糸口があるか分かりませんので、ご協力をお願い致します」

 その言葉に東郷教授がニヤリとする。

「なるほどなるほど。どこに糸口があるか分からない。いち研究者としては実に共感できる言葉でありますな。いかな研究であれ、最初は暗中模索の手探り。何が手かがりになるかは予期できるものではございません。――よろしい。わたくしどもの研究内容から何から知る限りのことを余すことなくお教えしましょう!」

 腕を大きく広げての高らかな宣言。圧がすごい。穴加部はちょっと体を引いてしまった。

「それやったら俺に説明させてもらえますか? 就活で研究のこと話さなあかんもんで、練習がてらに」

「あー、そういや西平さんも就活生っしたね。ウチも早く決めないとまずいっすねー。ずるずるいって就活と卒論のダブルパンチとかマジ勘弁っすから。この前の学内の合説も行ったんすけど、いまいちフィーリングが合わないっていうか……もう院試に鞍替えしようかなー、みたいなのもあって」

「太田くん、そんな風にダラダラしゃべっとるから面接で落ちるんやぞ。もっとハキハキ言わな」

 西平の指摘が図星だったのか、黙り込んでイスをきしませる太田。

「変な横入りが入りましたが、研究内容について簡潔に話させていただきます。当研究室の研究テーマは排泄に関する総合的な生活サポートです」

 排泄と聞いて穴加部はつい身構えてしまう。その反応は折り込み済みのようで、西平はこう前置きする。

「排泄というと嫌がりはる方も多いでしょうが、実はこれほど重要なものはありません。なにしろ排泄をしない人間はいませんからね。誰の生活にも関わるものでありながら、誰も注意を向けようとしない。それやからこそ、研究の意義があるのです」

 そう言われると排泄に良い印象のない穴加部はなるほどと思う。エルを見ると深く感銘を受けたという風にうんうんと頷いていた。

「排泄に密接に関連しているものといえば、当然トイレですね。刑事さんも急な腹痛でトイレを探し回ったことがあるでしょう」

 首がとれそうな勢いで頷くエル。なにしろ刑事を騙してトイレに連れて行ったぐらいだ。穴加部もそう数があるわけではないが、捜査中にトイレを探してさまよった経験があるので同意できた。

「腹痛というのは最も身近な苦痛と言うても過言ではありません。痛みはQOL――つまり生活の質に影響してきます。せやからこれを減らすことは、生活の質の向上につながります。そのために東郷研究室で開発したんが、そこの悼田くんが着けてはるUデバイスっちゅうわけです」

「ああ、それはエルく……悼田くんから聞きました。被害者も着けていましたね。超音波で内部を測定して排泄のタイミングがいつ来るかを予測するデバイス、でしたか」

「そうですそうです。せやけどせっかく便意が分かっても近くにトイレがなかったら意味がない。そこでトイレの方にも手を加えたんですわ。事件の起きたとこも含めて、大学じゅうの個室トイレの一番奥のやつにセンサーを設置しました」

「それはどのようなセンサーなのでしょうか?」

 センサーの種類によっては犯人の手がかりになるかもしれない。穴加部はまだエルの言うことが半信半疑だったので、一応聞いておくことにした。

「扉が閉まっているか判定するセンサーと、天井に仕込んだ人感センサーですね。これで誰かが入っているか判定しとります。空室か在室かは逐一研究室のサーバーに送信し、どこのトイレが空いているかを一元管理。Uデバイスが便意を予測したとき、空室情報を元に一番近い空いているトイレをユーザーのスマホへ通知する。そうすれば腹痛が始まる頃に便座に座れるっちゅう案配ですわ」

 腹痛が起きる前にトイレに入っていれば、痛みを我慢する時間は少なくて済む。焦ってトイレを探し回る必要もない。エルが実験に参加したのも頷ける。

 そのエルはなぜか自慢げな顔で穴加部の方を見ていた。実験に参加しただけでよくそんな顔ができるものだ。

「これで終わりじゃないよ。まだ研究には続きがあるんだから。ね? 西平さん」

「せやね。さっき手加えた言いましたけど、便器もそうなんですわ。排泄をした後、流す前にその成分を分析できるようにしています。言うたら検尿と検便を同時にやっとるわけですね」

「とはいえ……まだ実験段階なので、分析する成分は実際の検査とは違いますし……精度も甘いのですが…………」

 急に斧正准教授が割って入ってきた。健康に関するデータ解析を担っていると言っていたから、つい口を出してしまうのだろう。

「そのデータも研究室に送信されて、処理された後に健康かどうかを実験者のスマホへ通知しとります」

 エルがスマホ画面を見せてきた。クレアチニンや血液反応など様々な項目が表示され、最後の方に「悼田エルさんは健康です」と記されている。

「なるほど。排泄をするだけで健康のチェックもできるわけですね」

「そういうことです。排泄物は健康のバロメーターとも言えますからね。老廃物や病原菌などを調べれば、体内の状況も把握できます。このように、排泄を通じて生活の質を向上させることが東郷研究室の目的なんです。――こんなもんでよろしいですかね、教授?」

 語り終えた西平が東郷教授の方へ向き直る。

「うむ。よくまとまっているじゃあないか。ただ面接で言う必要はないが、個人情報の管理についても言及して欲しかったものだ。糞尿といえど、個人情報であることに変わりないのだからな」

「ああ、すんまへん。さっき言い忘れたんですが、排泄物のデータは誰でも取ってるわけやないんです。実験用の個室トイレには認証装置が設置してあって、学生証を当てることで被験者か確認して、そのときだけデータを取得するように設定してあるんですわ」

 西平は教授から指摘され早口で取り繕った。それまで淀みなく説明していた分ちぐはぐに感じられてしまう。

「データは嘘をつきません。だからこそその取扱いは慎重にしなければならない。このことは教授が何度も言っていることです」

 細井が静かに補足する。西平は苦笑して、

「そないに念押しされんでも分かっとるわ。あんまりしつこいと嫌われるで?」

「やめたまえよ、西平くん。しつこさは粘り強さの表れだ。毎日地道にデータをとっている彼女に対して礼を失しているぞ」

 ふつうに叱られて肩をすくめる西平。

 なんだか変な雰囲気になったように穴加部は感じたが、これがこの研究室でよくあるやり取りなのか判別できない。とりあえず話を変えることにした。

「説明していただきありがとうございました。では次に、被害者――白石隆治氏についてご存じのことはありますでしょうか?」

 そう言うと途端に静寂が訪れた。

 研究室の誰もが当惑した様子になっている。

「あくまでも実験の参加者ですからな……。説明をするときに顔を合わせはしましたが、それ以上のことは知りようがありません」

「ウチは顔も知らないっすよ。被験者のデータを見るときに名前ぐらいは見たと思うっすけど、事件が起きるまで白石って人のことは知りませんでした。主に実験の管理は院生の先輩方がやってましたし。そうっすよね、細井さん?」

「はい。基本的には私と西平さんが応対して、全体の指針は東郷教授が、データ解析は斧正准教授が担当していました。私自身はたまに隆治さんと会うことはありました。ですが特に変わった様子もなかったです」

「私も……データを見ただけで…………白石くんのことは知りませんね…………」

「まあ、その、皆と同意見です。あいつ……いや、白石のことは同学年ってこと以外はよう知りませんわ」

 一様によく知らないと否定する面々。実験者と被験者の関係などそんなものだろうが、穴加部にはこの中のふたりの言い方に引っかかりを覚えた。しかしそのことはおくびにも出さず、

「そうですか。もし事件について何か関係ありそうなことを思い出しましたら、ご連絡ください」

 お辞儀をして出ていこうとする穴加部の後ろから、斧正准教授が急に思い出したように声をかけてきた。

「そういえば……白石くんは毒殺されたと聞きましたが…………、以前から毒を摂取していたということはありませんでしたか……?」

 斧正准教授の質問の意図をつかみかねて、訝しげな表情になる穴加部。

「……? 報道の通り、検出されたものは致死性の毒物だけです」

「そうですか…………。いえ、白石くんのデータにおかしな点があって……事件が関係していたのかと思ったのですが……ではきっと分析装置の不調でしょうね…………ふぅ……」

 死にそうなため息が、研究がうまくいっていないことを伝えていた。

 エルはその様子を興味深そうに眺めていた。



 エレベーターに乗り込むと、エルが開口一番、「ね?」と言った。

 得意げな微笑を浮かべているが、その理由が穴加部には分からない。

「あれ? まだ気づいてないの? 白石隆治だけを狙うことができたってこと」

 研究室の面々に気圧されてすっかり忘れていたが、そもそもの目的はそれだった。被害者だけがトイレにいるかを判定するやり方。エルの口振りからすると、先ほどの話の中に答えがあったらしい。

「確かにトイレにセンサーが設置してありましたが、あれだけでは特定することまではできないのではありませんか?」

「いいや、最後に慌てて付け加えてたよね? 学生証を確認して被験者だけうんこ情報を取得してるって。ぼくもやったんだけど、あれはうんこをする前に認証するんだ。そしてそれから便座に座る。このときは当然扉も閉めるし、人感センサーも働く。在室していることが研究室へ通知される」

 ここまで聞いてようやく穴加部にも分かった。文系の身だからか技術的な話となるとどうも勘が鈍くなる。

 エレベーターが1階についた。エルが先に出る。

「なるほど。認証情報と在室情報を組み合わせれば、誰が入っているか知ることができるのですね」

「そう。男子トイレの実験用個室のうち、一つだけが埋まっていて、なおかついま入っているのが白石隆治であるときに仕掛けを作動させれば、白石隆治だけを殺すことができるんだ」

 実験に使っている情報を利用すれば個人を特定できる。これはまともな捜査では分からなかっただろう。この事実を知っているのは――と、そこで穴加部は気づいた。

「トイレからの情報は研究室へ行っているという話でしたよね。ということは――」

「そう、犯人は情報をいつでも確認することができたあの研究室の誰かだよ」

 エルは振り返らずにそう言った。心なしかその背中は寂しそうに見えた。


10


 その日の夕方、穴加部は捜査本部を仕切る課長に呼び出された。

「穴加部くん、最近がんばってるね」

 穴加部の上司でもある江頭声夫警部は小太りで背が低く、警察官というよりサラリーマンといった風貌だ。威圧感が全くない。だが捜査員たちからは恐れられていた。なにしろ――笑顔が異常に怖い。

「は、はい。ありがとうございます……」

「そんなに緊張しなくてもいいんだよ? ちょっと聞きたいことがあるだけだからさ」

 江頭警部としてはコミニュケーションを円滑にするために笑顔を心がけているだけなのだが、完全に逆効果である。悪魔が笑顔を向けてきて誰がリラックスできるだろうか。

「最近、単独で行動しているって聞いたんだけど、何をしてるのかな? 穴加部くんのことは信頼してるから、事件解決に動いてくれてることは分かってる。でも捜査を預かる者としては、できれば一言言ってからにしてくれるとありがたいんだよね」

 もちろん穴加部たちも警部が自分たち部下のことを思いやっていることは分かっている。でも怖いものは怖い。優しいはずの声がどうしても地獄からの呼び声のように聞こえてしまう。

「申し訳ありません……その、なにぶん不確実な情報でしたので、自分で確認してから報告しようと…………」

「そうかそうか。ならしょうがない。いたずらに捜査を混乱させたくないというのも人情だもんね。――それで、何か見つかったのかな?」

 穴加部はエルの推理を話して聞かせた。部外者を巻き込んでいることはさすがに言えない。なにしろもう3度目なのだ。

 江頭警部はその報告を熱心に聞く。話が進むにつれて恐ろしい笑顔は消えていき、真剣な顔になったことで、穴加部は心底ホッとしたという。

「ふーむ。筋は通ってるね……」

 組んだ手の上にあごを乗せ、思案顔をする。頭の中では捜査方針をどう練り直すか考えているのだろう。

「学内の人間なら大量の仕掛けを夜中にこっそりつけることも可能だね。見つかっても実験の一環とでも言い訳すればいいし。あの大学に籍を置いている者なら電子工作もお手の物でしょ。単純な殺人のセンは十分考慮に値すると思うよ。とはいえ――」

 江頭警部は賛意を示したが、全面的に同意するわけではないようだ。捜査を束ねる者としては軽々に判断を覆すわけにもいかない。穴加部にもそれは分かっていた。

「まだ推理の段階だ。もし無差別殺人だったら人員は大量に割かないといけないし、捜査方針を100%転換するわけにはいかないね。――だけどせっかく穴加部くんが提案してくれたんだ。2割ぐらいそちらに振り向けても惜しくはないかな。うん、そうしよう。殺された被害者の身辺や交際関係の調査、念のため研究室の人間以外も含めて殺害の動機がある人間のリストアップ。もちろん穴加部くんにも手伝ってもらうよ?」

 そう言って悪夢のような笑顔で笑いかけた。


11


 後日、穴加部は大学に出向いて、エルに捜査の進捗を伝えにきた。なんといってもエルの提案であるし、それに加えて困った事態が持ち上がったためだった。

「それで、何か分かったの?」

「殺された白石隆治がトラブルメーカーだったことはご存じですか?」

「獅童くんから聞いたよ。金と女にだらしないって」

「そうですね。学年性別問わず方々から借金をしていました。結局100を越える人数から証言がありましたから、相当ルーズだったようです。しかもその中には研究室の人間――西平雄大の名前もありました」

 穴加部がそのことを問いつめると次のように言ったそうだ。


「研究室で聞かれたときに言わんかったのは悪いと思ってます。せやけど最近手持ちがキツうて、はよ返してもらいたかったんや! ……やから実験に参加させてその報酬でいくらかでも返済してもらおうと思って。でもそんなん皆の前で言いづらいですやんか。そもそもたかが10万程度で前科者になるリスク犯すわけあらへんでしょう」


 理由があったとはいえ、西平は嘘をついたことになる。しかも返済を迫る様子も学内で何度か見られていたという。

「まあなんか歯切れが悪かったし、なんか隠してるなーと思ったけど」

 それは穴加部も同感だった。そして怪しい人物がもうひとり。彼女は白石隆治のことを下の名前で呼んでいた。

「続いて女性関係ですが、学内外問わず付き合っては別れてを繰り返していたそうです。二股もかけていたそうで、死の直前まで付き合っていたうちのひとりが細井淳子でした」

 細井はこう言っていたという。


「研究者と被験者に親密な関係があるとなると調査の信頼性が揺らぎます。それを教授に知られたくなくて……ごめんなさい。――ええ、隆治さんにほかの女がいることは知っていました。でも私も悪いんです。隆治さんがああいう人だって分かってて付き合っていたんですから……。それにいまでも私は隆治さんを愛しているんです。殺すなんて考えただけでも……」


「んー……、どっちも怪しいような怪しくないような?」

「金銭がらみも痴情のもつれも殺人の動機としてはありふれていますからね。残り3人――東郷教授、斧正准教授、太田純一ですが、特に動機になりそうな事実はありませんでした。強いて言えば、東郷教授は以前研究を嘲笑されたときに大声で怒鳴ったことがあったそうです。白石隆治が実験をバカにしたような事実でもあれば動機にはなるかもしれません」

 そう言いつつも、穴加部は可能性として低いと思っていた。エルもそこは同感のようで、

「自分の研究を自分で台無しにするかなぁ? やっぱり西平、細井のどっちかだと思うよ」

「とはいえ、決め手となる証拠がないことが痛いですね」

 それを聞いてエルが小首を傾げる。

「殺害トリック用の仕掛けは手がかりにならないの? 指紋とか機材の購入履歴とか」

「手袋をしていたようで指紋も掌紋も検出できませんでした。機材についてですが、以前に研究室で大量に誤発注して別の部屋に放置していたものがなくなっていたそうです。ふたりのどちらかがこっそり持ち出したのでしょう」

 容疑者はいるが、どちらにも犯行は可能だった。技術的にも、時間的にも。

「アリバイについては両名とも成立しましたが――」

「そこはあってもなくても同じだからいいや。リモコンでの遠隔操作ならいつでもできるし、もしかしたら作動まで含めて全自動の殺人かもしれない」

「全自動、とは?」

「条件を満たしたときに、自動で作動するようにするとかさ。正直、いつ絶好のタイミングが来るか分かんないのに、リモコン持って待機するのはしんどいでしょ」

 確かに、学内にある実験用個室トイレのどれかに白石隆治だけが入っている場合というのは可能性としてかなり低い。大学にいる間じゅう、常に殺害の瞬間を待ち続けては神経が持たないだろう。

 それはすなわち、いつどこで誰が殺人装置を起動したか辿ることができないことも意味する。

「結局、手詰まりというわけですね」

「フン詰まり?」

「手詰まり」

 穴加部はドスの聞いた声で訂正した。唐突に挟んでくるのだから油断も隙もない。

 エルはうふふ、と微笑んで、

「じゃあ先に気になるところをつぶしとこっか」


12


 そう言ってエルたちがやってきたのは8号棟の5階、斧正准教授の居室だった。 

 前回と違って今日の斧正准教授の血色はいい。

「先日はどうも……それで、データを見せて欲しいとのことでしたね…………?」

 寝不足で覇気のないしゃべり方なのかと思っていたが、元々こうらしい。

「ほら、この前変なデータがあるって言ってたでしょ? それって何の成分だったのかなーって」

「ああ……あれなら、プラスチックです…………」

 穴加部は変な表情になった。検尿や検便でプラスチックの含有を検査してどうするのだろうか。そんなものが入っているとは思えなかった。

「正確には……マイクロプラスチックや、マイクロビーズと呼ばれるものです…………」

「近年問題になってるやつだね。うんこからプラスチックが出てきたって記事で知ったよ」

 穴加部は露骨な言い方に眉をひそめ、

「それは乳幼児の話でしょう? 誤っておもちゃを飲み込んでしまうといった」

「いえ……大人子供関係なくです……。というか、人間より海の生き物の方が多いです…………。マイクロプラスチックというのは……投棄などで海へ流出したプラスチック製品が……波や紫外線で粉々になったもので…………」

 斧正准教授の話すペースが遅いのでまとめると、粉砕されたプラスチックを魚などが食べてしまい、その魚を食べた人間の中まで入り、排出されるらしい。問題なのはプラスチックが有害物質を吸着することがあり、それが人体に影響を及ぼす可能性があることだ。

 そのために便に含まれたプラスチックを検出しておこうと思ったそうだ。

 ちなみにマイクロビーズというのは洗剤や洗顔料に含まれた極小のプラスチックのことで、これも悪影響があるらしい。

 斧正准教授はパソコンの画面を開いた。白石隆治に関するデータのようだ。

「ある時期だけ……プラスチックの量が異常に多かったんです……。でも途中からは正常に戻っていて……だから機器の不具合かと…………」

 プラスチック含有量と記された項目のグラフは一定の期間だけ数値が多く出ており、山型になっていた。

「それで前回あのような質問をされたのですね」

「結局、機器にもプログラムにも異常はなく……理由は分からずじまいでしたが…………」

 ため息をつく。斧正准教授にしてみれば困った事態なのだろう。

「いや、それは正常だったからだと思うよ。むしろ」

 エルが慰めるために言ったわけではないことは、その表情から明らかだった。何か思いついたらしい。

「穴加部さん、白石隆治の家ってどこか分かる?」

「ええ、被害者ですからね。すでに捜査もされていますし、事件に関係しそうなものは回収したはずですが……それでも行くのでしょうか?」

 いまさら何か発見できるとは思えない。穴加部はそんなつもりで言ったのだが、返ってきたのはよく分からない返事だった。

「分かってるって。事件と関係なさそうなものがあると思ってるから行くんだよ」


13


 白石隆治の住む部屋は男子のひとり暮らしにふさわしく、散らかっていた。

 エルは部屋に入ると、真っ先に冷蔵庫を開けた。前回の事件のときといい、人の家の冷蔵庫をあさる趣味でもあるのだろうか。

「また何か食べる気なのですか?」

「違う違う。探してるのが食べ物なことに違いはないけどね」

 そう言ってエルが次に目をつけたのはゴミがあふれた大きめのゴミ箱だった。

「汚いなぁ。金にも女にもだらしないって評判だったけど、片づけもだらしなかったみたい」

 エルにだけは汚いと言われたくない。日頃の言動を分かっていて言っているのだろうか。穴加部が内心で思っていると、エルはいきなりゴミ箱をひっくり返した。

「いくら散らかっているとはいいましても床に直接ぶちまけるのはまずいのでは……」

「大丈夫だいじょうぶ。後でちゃんと掃除するから――穴加部さんが」

「エルくんもゴミと一緒にまとめてしまいましょうか?」

「うふふ、冗談だって――あ、あったあった。」

 エルが軍手をした手で、ラッピングされたお菓子をつまみ上げる。ゴミの中には同じようなものがいくつもあった。

「マドレーヌ、でしょうか。賞味期限が切れたか何かで捨てたようですね」

「いや、見た感じ手作りっぽいし、市販品じゃないと思うよ」

 言われてみれば、口こそリボンで封をされているが、包装のどこにも店名やメーカー名が見当たらない。そもそも被害者がこんなかわいらしいお菓子を買うようには思えなかった。

「交際していた女性からもらったのですかね? 細井淳子か、二股をかけていたもう一方かは分かりませんが」

「たぶん。これだけの量をプレゼントするぐらいだし、付き合ってる彼女が持ってきたのは間違いない。そしてぼくが思っていることが正しければ――このお菓子こそが事件の動機だよ」

 穴加部はメガネの奥の目をパチパチと瞬いた。

「お菓子が動機……? いったいどういうことなのです?」

「それはこのお菓子の中身を調べてもらってから。結果が出たら教えてね」

 と言って部屋から出ていこうとするエル。その両肩が背後からがっしりとつかまれた。

「検査は請け負いますが、掃除まで請け負うつもりはありませんよ」

「あ、やっぱごまかされない?」


14


「は? あーしが隆治にお菓子? マジない。あんなの顔がいいから付き合ってただけで、こっちから何かするとかねーから。てか料理なんて作れないし」

 白石隆治が二股をかけていたもう一方の女性、秋見鈴はエルの質問にそう答えた。東通大の学生らしからぬ派手な恰好で、お菓子を何度も持っていくようなけなげな女性には見えなかった。

「まあこっちじゃないとは思ってたけどね」

「ということは、あのお菓子を作ったのは細井になりますね」

 昨日のうちに菓子の成分検査の結果は出ていた。そこにはエルの思った通りのものが混入されていたため、作り手である可能性が高いふたりの女性に尋ねることにした。

 秋見に続いて、大学院の講義を終えて建物から出てきた細井をつかまえる。明らかに警戒していた。

「何か御用でしょうか? 知っていることはすべて話しましたが……」

「白石隆治にお菓子を作ってプレゼントしたのって細井さんだよね?」

「……そうですね。隆治さんによく作ってあげていました」

 エルの質問に意表を突かれたのか、細井の表情から一瞬力が抜ける。だが続けてエルが言った言葉によって表情はすぐに硬くなった。

「プラスチックを練り込んだマドレーヌを?」

「――――――――」

 ゴミ箱に捨てられていたお菓子からは、プラスチックが検出されていた。おそらくこれが斧正准教授の言っていたデータの異常の原因だろう。

「もちろんものすごく細かいマイクロプラスチックだろうけどね。じゃないと食べたときに食感最悪になるから」

「な、何を仰っているのか分かりません。どうしてそんなことをする必要が……」

「それはずっと彼を見ていた細井さんが一番よく分かってるんじゃない?」

 沈黙する細井。言い方から察するにエルには理由に心当たりがあるようだが、穴加部はなぜこんなことを聞くのかよく分かっていない。

「……仮に混ぜたとして、それが隆治さんの事件と関係ありますか? こんな意味のないことを調べてないで犯人を早く見つけてください」

「だってさ、穴加部さん」

 なぜこちらに振るのか。穴加部は「はぁ」としか言えなかった。

実際、細井の言うことは正しい。殺害方法はトゲによる毒殺なのだから、食べ物にプラスチックが混入していたところで犯人につながるとは思えない。

 まごまごしているうちに、細井は軽く礼をして立ち去ってしまった。

「――なぜあれ以上問い詰めなかったのですか?」

「証拠がないからね。いまは動機についての確信が持てただけで十分」

 そう。証拠がない。手詰まりな状況であることに変わりはないのだ。

「一応聞いとくけど、凶器は手がかりにならなかったの?」

「芳しくありませんね。毒針のついた玉は樹脂製であることは分かりましたが、既製品ではないようです。毒物は化学実験用の薬品が盗まれていることが大学側の調査で分かっています」

「だめかー。うーん……ソースコードさえ残ってればなぁ。とっくに消しちゃっただろうし」

 困ったように首を下げてうなるエル。その背後から大きなダミ声が飛んできた。

「おや、東通大の学生ともあろう人間がバージョン管理システムも使っておらんのかね!」

「東郷教授、どうしてこちらへ?」

「講義が終わったところでしてな。ああ、細井くんも出ていましたぞ」

「それよりバージョン管理システムって何?」

  いまさらだが、エルは先輩でも教授でもタメ口だ。穴加部に初めて会ったときもそうだったので、上下関係というものを気にしない性格なのだろう。

「プログラムがどう動くかを記述したファイルがソースコードであることは言うまでもございません。プログラムを作ると言われる行為はソースコードを記述するに同じい」

 講義の直後だからだろうか、東郷教授は順を追って話すらしい。ソースコードと言われてもよく分からなかった穴加部にとってはありがたかった。

「それは知ってるけど、バージョン管理システムがあるとどうなるの?」

「簡潔に申しますと――」

 東郷教授の説明を聞いて、穴加部はもっと早く言ってほしかったと思った。


15


 細井淳子は東郷教授の居室に呼び出された。そこにいたのは東郷教授と、穴加部、エルだった。3人の視線にさらされ、細井がひるんだような表情をする。

「何か、御用でしょうか?」

「実に辛い作業であったよ。――教え子の罪を暴くことは」

 オーバーな身振りで悲しんでみせる東郷。実際の作業中も憂鬱な表情は崩さなかった。

「っ……! まさか……」

 細井が近くのモニターに表示されているものに気づき、顔色から血の気が引く。

「気づいたかな? そう、東郷研究室の使っているバージョン管理システムだよ。そしていま映っているのは、あんたが殺人プログラムを作った時に紛れ込ませた部分の記述さ」

 気のせいか穴加部にはエルの語勢がどこかキツいように思える。

「この事件は白石隆治という特定の個人を狙ったものだ。白石隆治がトイレに入っているか否かの情報が必須になる。そしてその情報は東郷研究室で作ったプログラムからじゃないと取得できない。つまり、白石隆治を殺すためにはプログラムに白石隆治の在室状況を取得する機能を追加しなくちゃいけないんだ」

「そ、そんな機能を追加した覚えはありません」

 どもりながら否定する細井を、東郷教授が憂鬱そうに諭す。

「細井くん、それは無理というものですな。君もバージョン管理システムのことはご存知でありましょう。ひとつのソースコードに対し、誰がどのような変更を加えたか。そのすべての記録を管理する。記録をさかのぼっていけば、君が加えた不自然な変更点が見つかるのは自明ではないか?」

 実際それはそう時間をかけることもなく見つかった。白石隆治を観察するソースコード。白石隆治の死を決定する条件についての記述。その作者が細井淳子であることも記録されていた。

「警察はここまで調べないだろうとでも思ってたんだろうけど、甘かったね。ま、ぼくも気づいてなかったから人のことは言えないか」

 エルがつまらなそうに言う。

「私ではありません! 私は隆治さんを愛していて……」

「だけど白石隆治はそうじゃなかった」

 ぐっと言葉が詰まる細井。

「だからお菓子にマイクロプラスチックを混ぜて持って行ったんだろ? 彼の気持ちが離れていないかを確かめるために」

「そういえばエルくんは、なぜ食べさせたのかについては分かっているのでしょうか?」

 その疑問に対する答えは穴加部を驚かせ、嫌な気持ちにさせるものだった。

「食べさせたかったんじゃなくて、出させたかったんだ。うんことしてね。斧正准教授のところで聞いた通り、マイクロプラスチックはうんこと一緒に排出される。そうすればウンコのデータを通じて確認できるよね。――愛のこもった手作りお菓子をちゃんと食べてくれたか。彼の気持ちが続いているのかが」

  白石隆治も最初のうちは食べていたのだろう。ところが途中からは食べるのを止めてしまった。だから斧正准教授から見せられたデータで、一定の時期だけプラスチックの検出量が高かったのだ。

「たぶんマイクロプラスチックの検出を持ちかけたのもあんたなんだろ? 実験を利用して彼の愛を確かめようとしたんだ。でもそんなのは、関係が終わっていく様を見続けるだけの消化試合だよ。見ようとするだけ無駄だった」

 やはりエルの口調にキツさが感じられる。どう見ても怒っていた。

 対照的に細井は静かに言った。

「いえ……プラスチックは元から検査項目にあったんです」

 すべてを諦めた虚脱の表情。そこからはタガが外れたように語り始めた。

「実験が始まったあたりから、隆治さんとの仲がうまくいかなくなりました。その頃から次の彼女と会っていたんだと思います。だけど……信じたくなかった。愛が続いていると思いたかった。私はその証拠を排泄データに求めた。データは嘘をつかないから」

「莫迦な……。確かにデータは嘘をつかない。だがそれは愛が終わったことを自ら証明することでもありましょう」

 穴加部も同じことを思った。データは大事だ。証拠品も大事だ。どれだけ残酷な真実だとしても、目を背けさせない。刑事家業をしていればそれは嫌でも分かる。

 あるいは最初からそのことを分かっていたのか。

「……………………。プラスチックの検出記録をみるたびに私は安心しました。けれど、ある日からぱったりと検出されなくなってしまった。毎日、毎日、食べなかった記録を目にするたびに悲しみと怒りが増していきました。ついに我慢できなくて、殺そうと思いました。疑われないように無差別を装って……実験のシステムを使えば気づかれることもないと…………」

「自業自得だ。あんたがシステムを悪用したから、殺人犯だってバレたんだよ。――ぼくはこの研究が実用化してほしいんだ。なのに、それを完成させる側の人間が、間違った使い方をして研究を滞らせてどうする!」

 普段のおどけた様子とは違う、本気の怒り。それだけ腹痛が切実なのだろうが、穴加部にはエルが別の理由で怒っているようにも見えた。

「………………。申し訳ありませんでした。研究を台無しにしてしまって……」

 細井が深々と頭を下げる。

 その姿から目を背けるかのように、東郷教授は額に手を当てて大げさに天を仰いだ。


16


 その後の聴取で分かったことだが、細井はもし白石隆治がまた食べ始めてくれたら殺害を取りやめる予定だったらしい。男子トイレに隆治だけが存在するという厳しい条件にしたのは心変わりする時間を猶予するという目的もあった。だがとうとう心変わりすることはなく、死の日が訪れてしまった。

 事件の後始末をしている間に大学は夏休みに突入し、あの後エルには会えずじまいだった。

 ――あれは何だったのだろう。

 穴加部は事件の最後にエルが見せた怒りが気になり、事情を知っていそうな人間に会うことにした。

 場所は王子記念病院。相手はうんこ師匠こと備後云十郎医師である。あれから退院したと聞いて訪ねることにした。

「退院されたそうですね。おめでとうございます」

「は、骨折ぐれぇ大したことねぇよ。で、刑事さん。俺に何か用かい?」

 穴加部は事件の話を聞かせた。

「エルくんの怒り方が少し過剰のような気がしまして」

「ああ、そりゃあクソ坊主がキレんのも無理はねぇ。なにしろ昔――っと、あんたは潔癖性だったな。だったらこの話はしねぇ方がいいか」

 その言い方でだいたいの想像はついた。おそらく聞けば後悔するだろう。だが、3回も事件を通じて遭遇していると他人のような気がしない。興味を惹かれるのも事実だった。

「いえ、平気です。昔、エルくんに何があったのでしょうか?」

「ま、惨劇だな。その場にいた人間なら誰もが口をそろえて言うだろうぜ。要するに――」

 話を聞いた穴加部の顔が見る間に曇った。

 やっぱり聞くんじゃなかったと、案の定後悔したという。

 しかし彼はこの先、その話をもう一度聞かざるを得ない状況に置かれることになる。


 悼田エル本人から、刑事として。

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