第二話 不健康なうんこ

 悼田エルが解決した事件からしばらく経った6月。

 梅雨の長雨が穴加部を憂鬱にしていた。

「雨は嫌ですね……靴には泥が跳ねますし、傘に付いた水滴が手にかかるのも耐えがたい」

「お前よくそれで現場の刑事やってられるよな」

 助手席に座る同僚の頼同刑事があごひげをなでながら呆れたように言う。

 穴加部はパトカーを運転していた。行き先は王子記念病院。そこに入院しているを聴取するためだ。

「しかしこう言っちゃなんだが、面白いよな。自分とこの病院に患者として入院する医者ってのは」

「医者の不養生と言いたいのでしょうが、あいにくその医師は車にはねられて足を骨折しています。どう考えても悪意のあるやり方で、です」

 つまり殺人未遂事件だ。

 被害者である医師に犯人の心当たりを聞きに行く。

 それだけで終わるはずだったのだが、穴加部は雨よりももっと憂鬱な出来事に遭遇することになる。



 医師が入院しているのは個室だった。患者と一緒では気まずいからだろうか。それともこの病院の医師だから特別扱いしているのだろうか。

 穴加部がそんなことを思いながらドアを開けると、耳に汚い話が飛び込んできた。

「要するに超音波の力でクソが出るタイミングが分かるって寸法さ」

「へー、知らなかった。さすがうんこ師匠だね!」

 天を仰ぐ穴加部。頼同は「あ」と若干びっくりした声を上げた。

 ベッドの上で体を起こしている医師と話しているのは、少女のような恰好の大学生――悼田エルだった。

 公衆トイレでの殺人事件。麻薬がらみのあの事件を即座に解決したことは両刑事の記憶に新しい。

 だが穴加部はその記憶は二度と更新されることはないと思っていた。いっそ見なかったことにして出直そうかと思った途端、

「あれー? 穴加部さんじゃん。なんでここに?」

 エルに気づかれてしまった。ちょこちょこと人なつこそうな素振りで寄ってくる。英字がプリントされた黄緑色の大きめなTシャツとベージュホワイトのスキニーパンツの取り合わせ。相変わらず男とも女ともつかない服装だった。

「………………どうも、お久しぶりです。エルくんこそなぜここに?」

 穴加部は嫌な顔を隠そうともせずに言う。エルが絡むと絶対に汚い話になる。その確信があったからだ。

「ぼくはお見舞い。備後云十郎先生――うんこ師匠はぼくがうんこ好きになるきっかけになった人だからね」

 なるほど、この医師が元凶というわけだ。

 元凶の備後医師は不思議そうな顔でエルに呼びかける。

「おい、クソ坊主。こいつらはお前の知り合いか?」

「この前の事件で会った刑事さんだよ。ほら、トイレに送ってくれた親切な人」

「ハハハハハ! あの話か、じゃあお前らクソ難儀したろ? このクソ坊主は遠慮ってもんが脳味噌からトんじまってんだ」

 穴加部と頼同は顔を見合わせた。なんというか、この医師は口が悪い。これでは恨みを買うのも納得だった。そもそも医者としてやっていけているのだろうか。

「そんで、お前らが来たのは俺の足をこんなザマにしやがった犯人を探すためか?」

 備後医師はギプスで固定された右足を指さした。骨折で全治1ヶ月の重傷らしい。

「えー、2日前ってことでしたね。歩いて帰宅してる途中で後ろから来た車にぶつけられた、と」

 頼同が薄汚れた手帳をめくりながら砕けた口調で確認する。エルが事件に関わったときにもあまり目くじらを立てなかったことからも分かる通り、彼はけっこうゆるい。

「ああ、路地を歩いてたら後ろからノロノロついて来てたやつがガツンだ。いつもは車の入って来ねぇところだから珍しいなとは思ってたんだが……まさか当ててくるとはな。足をやっただけだから良かったけどよ」

 ひき逃げ死亡事故がまだまだ発生していることを考えれば、不幸中の幸いだろう。ましてや犯人は悪意をもってやった節がある。

「あなたを轢いた車両は止まることなく通り過ぎたのでしたね?」

「くそったれどんなツラしてやがる、と思って顔を上げたらもう走り去ってやがった。脱兎のごとく、というやつだ」

「ってことはナンバーも見れなかった?」

「最近目が悪くてなぁ。60も近いとガタがきていけねぇや」

 備後医師の髪には白いものが混じっている。顔にはいくつものしわが刻まれており、ベテラン医師の風格を感じさせた。

 その風格を完全に無視してエルは備後医師のギプスに落書きし始めた。どんな絵を描いたかは言うまでもない。わざわざ茶色のペンまで持参しているのだ。ひどい。

「完全に殺す気で来てるじゃん。だからその口の悪さ直した方がいいって言ってんのにー」

「うるせぇ、クソ坊主。うんこうんこ言ってるお前さんに言われたかねぇよ。つーかギプスにうんこを書くなや」

「うふふふぶぎゅ」

 備後医師がエルの頭の上から平手で押しつぶす。

 穴加部はうんざりしつつ聴取を続ける。

「状況から見て殺害を目的としていることは間違いないでしょう。――何か心当たりはありますか?」

「うーむ、患者にしろ同業にしろ毎日誰かしらと揉めてるからなぁ」

 どういう医者だ。個室に入院させたのは、ほかの患者とトラブルを起こさないためなのではと穴加部は思った。

「ああでも最近ひどかったのはアレだな。健康診断の結果を伝えたら急につかみかかってきた患者がいたんだよ」

「モンスターペイシェントってヤツかね。医者に高圧的に出たり、暴力を振るったり、問題になってるって話だったはず」

 頼同が言いながらペンを構える。手がかりになりそうだと踏んだようだ。

「その患者は中年のオバサンだったんだが、やたら健康の良さをアピールしてきてな。やれ毒出しだナントカ水だうるせぇのなんの。くっだらねぇ。金儲けしか頭にねえクソ会社に踊らされやがって。こんなのハマるからニセ医療でくたばるヤツが後を絶たねぇんだ」

 思い出しているうちに腹が立ってきたらしく、備後医師の目が険しくなっている。選択は個人の自由とはいえ、正規の医療を否定する代替療法は医師にとっては許し難いものなのだろう。

「しかもムカつくことに各種検査の結果は一応良好でやがる。皮肉のひとつでも言ってやろうかと結果を見てったらひとつだけヤバいのが混じってたんだ。――検便の結果だよ」

 穴加部の眉間にしわが寄った。口の端がゆがんだ。

 対照的な表情なのは悼田エルである。この話題になった途端に目が輝きだした。

「うふふ。検便というと――やっぱ便潜血検査?」

「病院で寄生虫や細菌検査はやらねぇからな。ありゃ保健所の仕事だ。大腸ん中にポリープだの腫瘍だのができてると、クソがそいつを引っかいて出血するのよ。んでクソの血液成分を調べれば、病変があるか分かるって寸法だ」

 科学捜査に似ていると穴加部は思った。現場の遺留品から何らかの成分を分離して証拠とすることは常識だ。そこから悪性の存在を発見するところも似ている。

「それで、その患者は便潜血検査で問題が発覚したというわけですね?」

「ああ、陽性だ。といっても精度はあまり良くねぇから、詳しくは大腸内視鏡をかまさなきゃいかんがな。とまあ、そのことを患者に伝えたらいきなりつかみかかってきやがった」

「なんて言ったの、師匠?」

「さすがの俺も患者相手だから気を遣ってな――健康オタクみたいだがあんたの腸は汚ねぇようだ。悪いところから出た血がクソん中に詰まってそうだぜ。一度自分の腹ん中をのぞいて反省しやがれ」

 この弟子にしてこの師匠ありだと穴加部は思った。気遣いの形跡がまるで見えない。

 頼同は半笑いの表情になって、

「自重しなかったらその場で殺されてたんじゃないですか?」

「こんなのでも面倒見はいいんだよ? ぼくのときも親身になってくれたし」

 エルがフォローに回ってしまっていた。

「………………とにかく、その女性が第一候補と見て間違いないでしょう」

「そうだねー。じゃあ早速その人の家に行こうよ」

 青色のキャップをかぶって、ドアの方へ行こうとするエル。

 穴加部はちょっと何を言っているか分からないという表情になる。

「いまの話のどこでエルくんが捜査に参加する流れになったのでしょうか?」

「師匠の仇を討つのは弟子の役目でしょ?」

 エルは事も無げにそう言った。小首を傾げて唇に人差し指を当てて、わざとらしくきょとんとした顔を作っている。

「まあいいじゃないか穴加部。この前の借りを返すってことでさ」

「それを言われると弱いですね……仕方ありません。今回だけですよ」

 渋々と言った口調で穴加部が許可を出した。

「いえーい、穴加部さん優しーい」

 エルが穴加部の腰に手を回して抱きつく。

「ちょっと、スーツが乱れるので――」


「あ、そういやさっきトイレ行ったとき手洗ってないや」


 穴加部のメガネの奥の目がぎらーんと殺意に光った。



 高級そうな20階建てマンションの一室が件の中年女性の家だった。

 マンションの駐車場から出てきたエルは若干涙目になっている。

「あいてててて……眉間をつまんで引っ張られたのは初めてだよ」

「こんなかわいい子供に暴力をふるうなんて、穴加部庄一はひどい警官だなー!」

「彼がハタチの男子大学生であることご存じのはずですよね、頼同?」

 穴加部が、意地の悪そうな顔をした頼同へ半目の視線を向ける。頼同はそれを無視して、

「えー、患者の名前は錦山絹子。44歳の専業主婦で、子供はいない。住んでるのは14階らしい。旦那がけっこう稼いでるのかな」

 エントランスのインターホンで絹子の部屋番号を呼び出すと、動揺した様子もなくあっさり通してくれた。

「警察が何のご用かしら?」

 ラフな格好をした細身の女性が堂々とした態度で出迎えた。運動中だったのか、うっすらと汗をかいている。44歳にしては若く見えた。

 穴加部は警察手帳を示して名乗ってから尋ねる。

「錦山絹子さん、王子記念病院の備後医師をご存じでしょうか?」

「ああ、あのヤブ医者ね。私の健康の源をあざ笑った節穴の男」

 吐き捨てるように言い、露骨に嫌悪感を示す絹子。

「あれがどうかしたの?」

「実は先日、その方がひき逃げに遭われまして」

「それは龍神様の天罰が落ちたせいね」

「……は?」

 絹子があまりにも自然に言うので、穴加部は一瞬固まってしまった。龍神様?

「ひょっとして龍神波動神社をご存じないのかしら? まったく、医師だけでなく警察も知らないなんて……」

 嘆かわしいという風に首を振る絹子。

 いやそんな常識がないかのように言われても。穴加部は困惑した表情になる。

 その表情を見て決心したらしい絹子は、玄関の奥へ歩きながら言う。

「これはあの医師にしたようにレクチャーせねばなりませんね。どうぞあがってらっしゃい」

「はーい。じゃ遠慮なく」

 元気よく返事をしてズカズカと入り込むのは、背が低いので刑事ふたりの後ろに隠れている格好だったエルだ。

「は? なんですのこの子供は」

「えー、その、事件の関係者というか警察の関係者というか……」

「まあいいでしょう。子供のうちから龍神様の教えを学ぶことは大事なことですから」

 頼同は錦山夫婦に子供がいなくてよかったと思った。もしいたならばこの怪しげな話を仕込まれていたに違いない。

「にしてもこんな女と結婚する旦那はどんな奴なんだろうな」

「我々は捜査に来ているのです。興味本位の詮索はやめましょう」

 ひそひそと話しかけてきた頼同に、ぴしゃりと言う穴加部。とはいえ、入室したリビングの有様はまるで詮索してくれといわんばかりだった。

「龍神水」と書かれたラベルのついた2Lペットボトルがそこら中に並べてある。大きな段ボール箱の中には土のついた大量の野菜。対面式キッチン内のコンロには寸胴の鍋が鎮座しており、中からは青臭さが漂ってくる。

「龍神波動神社とは邪気を払う伝説の龍神様が奉られた平安から続く神社。本殿のご神体からいまも放たれる龍神の波動は地下水に聖なる超エネルギーを与え、湧き出た水が龍神波動水に変化するの。さらにこの水で育てた野菜は龍神波動野菜となり、龍神波動水で煮込むことによって絶大な毒出し効果を持つスープができあがるわけね。これを飲めば龍神様のご加護でどんな病気も打ち払われ、体の中の毒はすべて浄化されるのよ。私は10年以上続けてるけど、そのおかげでずっと健康なの」

 絹子は熱のこもった口調で一気にしゃべった。

 頼同には何を言っているのか分からなかった。

 穴加部は何と言っていいか分からなかった。

 悼田エルはわずかに首を傾げ、不審そうな目になった。

「お友達にも勧めて喜ばれているのよ。だからあの医師にもよかれと思ってお勧めしたのに……ひどいのよ! 夫と同じようなことを言って! 腸が腐ってるとか血が呪われてるとか……私、許せないものだから抗議したの!」

 しゃべっているうちにボルテージがあがってきたのか、絹子は足で床を何度も踏みつけだした。

 そこまでは言ってないような……と頼同が思っていると、その胸ぐらを絹子が両手でつかんで叫ぶ。

「龍神波動水はただの水じゃないわ! 心身の邪気を払い、幸福と健康をもたらすのよ! 現代医学ごときでは絶対にたどりつけない境地が――はっ、そうだわ。舞よ、龍神波動神社に代々伝わる毒出しの舞を見ればあなたたちも絶対に理解するはず……」

 急に手を離して、CDプレイヤーに近寄る絹子。スイッチを押すと、プレイヤーからお経のような意味不明の声が流れてきた。そして絹子が両手にお守り(龍神波動と書いてある)を握ると、垂直にジャンプし始めた。――真顔で。

 頼同は満面の笑みを浮かべると、

「あっ、俺急に腹痛くなってきたから署に戻るわ」

 逃げようとした頼同の襟首が後ろからひっつかまれる。ひきつった顔の穴加部が後ろを振り返らずに手を伸ばしていた。

「エルくんみたいなこと言って逃げようとしないでください。私も逃げたいのです」

 飛び跳ねながら手足を開く絹子。開脚して上半身を大きく回したかと思うと、腕を大きく上げて深く呼吸をする。片手をあげて反対側へ体ごと倒す。上体を思い切り反らしてから前に深々と倒す。両手を開いて上体を左右交互にひねる。

 全力でやっているらしく、絹子の息は上がっていた。

 最初は恐れと哀れみのない混ざった視線を向けていたふたりだったが、次第に既視感を覚え始めた。それは小学生の夏休みの記憶。

「これは……」

「ああ……たぶん…………」

「ラジオ体操だよね。順番めちゃくちゃだけど」

 何か口の中でモゴモゴさせながらエルが言った。

 絹子の言う「毒出しの舞」はどう見ても順番を入れ替えたラジオ体操だった。この時点で龍神波動神社とやらがインチキであることは間違いないと分かる。

 おそらく訪ねたときも舞をしていたのだろう。絹子の顔には汗が浮いていた。ここまで真剣だと茶化すこともできない。

 永遠にも思える舞の時間が終わると、44歳の絹子の息は上がってしまっていた。

「おばさん、お疲れー。飲み物持ってきたよ」

 近づくエルの手には缶ビールが握られていた。結露しているところを見ると冷蔵庫から勝手に出したらしい。

「はぁはぁ……あら、ありがとう。――って、これお酒じゃないの! 私はお酒は飲まないの! こんなものより龍神波動水をもってらっしゃい!」

「えー、せっかくお酒に合いそうなビーフジャーキー持ってきたのに」

 穴加部は呆れた目でエルを見る。人の家の冷蔵庫を勝手にあれこれ漁るな。というかさっきモゴモゴしていたのはつまみ食いのせいか。

「私は肉も好きじゃないのよ。それは全部夫の。肉と酒ばかり飲み食いして全然野菜食べないの。龍神波動毒出し野菜スープを勧めても怒るばかりだし」

「うーん、俺は旦那さんに共感しちゃうなぁ。外食でついつい酒と肉ばっかになっちゃうし」

 頼同はゆるそうな見た目通り生活には無頓着だ。もっとも、刑事稼業では健康に気を遣うひまもないのだが。

「だったら龍神波動毒出し野菜スープをお分けしましょうか? 遠慮は無用ですのよ。刑事さんにもこのすばらしさを――」

「申し訳ありませんが、我々は健康談義をしに来たのではなくてですね。錦山さん、一昨日の21時はどこで何をしていらしたでしょうか?」

 穴加部が強引に話を戻す。このままの勢いだと全員であのラジオ体操もどきをさせられかねない。

「あのときは確かに龍神波動神社の本殿にいたと思うの。龍神様のお声が体中に響いていたことを覚えているわ」

「ん? その神社、そんな夜まで開いてるんですか」

「龍神様は常に私たちとチャネルを開いてくださっているのよ」

 いまいち話がかみ合っていないような気になり、首をひねる頼同。いずれにしてもそのナントカ神社に行く必要があるだろう。ていうかもう帰りたかった。

「おばさん、ゴミ箱どこかな?」

 辞去しようとしたタイミングでエルが言う。その手には空っぽの袋。ビーフジャーキーを全部食べてしまったらしい。図々しいにも程がある。

「冷蔵庫の隣よ。あ、そっちの赤い方は燃えるゴミだから間違えないで。夫はチャクラの開いていない人間だからよく間違えるのよ。この前だって検便容器を捨てていて……汚らしくてしょうがなかったわ。龍神波動水を飲めばチャクラが開いて注意力も増すのに……」

「ふーん」

 まるで気のなさそうな返事をするエル。変な人間同士で波長が合うのかと思ったがそうでもないようだ。穴加部の方は波長を狂わされっぱなしだが。



「にしても、竜宮波浪神社がこんな遠いとは」

「龍神波動神社ですよ。――遠さについては同感ですが。なにしろ車で3時間ですからね……」

 県境を越え、刑事ふたりは例の神社に来ていた。

 ちなみにエルはついて来ていない。

「食べたらお腹痛くなってきちゃった。うんこしたいから王子記念病院まで送ってってよ。ついでにうんこ師匠にもう一度会ってきたいし」

 と勝手なことを言って、またパトカーをタクシー代わりに使っていった。

「まあいいじゃないか。ああいう図太さは刑事にとっちゃ見習うところだぜ?」

「その前にあなたは身だしなみをもっときっちりすべきでしょう。第一印象というのも大事ですよ」

 その言葉を頼同はすぐ身をもって知ることになる。

 刑事たちの前に現れた龍神波動神社の神主の格好は「うさんくさい」を体現していた。

 龍のような不自然に長い口ひげ。あごひげも腹あたりまで伸びている。不自然に横に広がった金髪。服装はふつうの神主が着るものと同じ袴だったが、色は紫である。しかもいたるところに金字で「龍神」と小さく刺繍されている。さらに首、手首、足首にはミサンガだかブレスレットだかがジャラジャラジャラジャラ。

「ほほほほ。我が810代目神主の大日龍波動之助でおじゃるぞ。して、警察の諸君が何用であるか?」

 微妙に高い声で発せられるセリフもうさんくさい。絶対にキャラを作っている。

 そもそも神社というわりには敷地内に小さな社しか見当たらない。あとは「龍神波動水はこちら」と書かれた看板と、その下に汲み上げ式の井戸があるだけだ。

「一昨日の夜9時頃、この神社に錦山絹子という女性がいたはずなのですが、ご存じありませんか?」

「あ、この写真の女性です」

 頼同が懐から写真を取り出して神主に見せた。

「おお、この者か。龍神の教えを熱心に学ぶ善き女よ。しかし、はてな? 確かに一昨日この神社に来たが、6時頃には帰ったはずだぞよ。なにせここは6時で閉めておじゃるからの」

「おかしいですね……錦山さんは確かに9時に本殿にいたと言っていましたよ?」

「ほほほ、それはあり得ませぬ。ご神体の奉られた山中の本殿には何人たりとも立ち入りを許しておらぬでおじゃりまする」

「ふぅん。じゃあやっぱ錦山絹子のアリバイはなしか」

 残念そうにつぶやいた頼同の言葉を聞いて、神主の目の色が変わった。

「ア、アリバイというと……その女は何かやらかしたのかの?」

「恨みを持つ相手をひき逃げした疑いがあるのですよ」

「ひき逃げ! あの、ひょっとして……天罰とか言ってませんでした?」

「そういえば言ってた気がするけど……神主さんどうしたんだ? 目が泳いでるけど」

 神主は明らかに挙動不審になっていた。案の定キャラを作っていたらしく、口調もふつうに戻っている。

「ちょ、ちょ、ちょっと社務所の方に行きましょう……」

 そう言うと神主は敷地の隅にあるプレハブ小屋へ小走りで向かっていった。奇妙に思いつつふたりはついていく。


 中に入ると神主が土下座をキメていた。


「申し訳ございませんでしたぁっ! 龍神とか波動とかネットのインチキ集めて作った全部デタラメなんですぅーっ! 名前も大日龍波動之助じゃなくて山田一郎なんですよぉー!」

 ふたりは呆気にとられた。

「いや、あの、その辺はだいたい分かってたからともかく……なんで土下座?」

 顔を上げた神主こと山田一郎氏。よく見ると髪は黒いし、長いひげもなくなっている。カツラとつけひげだったようだ。

「あのですね、錦山絹子という女はいいカモ……いえ信者なんですが、ちょっと熱心すぎましてね。水とか野菜とか商品を周りに勧めまくってくれるのはいいんですが、何か言われるたびに私のところに報告しに来るんですよ。隣の住人が変な目で見てくるとか、夫が龍神様を信じてくれないとか……そのたびに適当なこと言ってごまかしてたんです」

 と、神主キャラの声に戻って、

「なんたる不敬な者じゃ。龍神様は必ずや天罰を与ふるぞよ。神託が下るそのときまでしばし待てい――みたいな感じで」

 カモがもめ事を起こすことを警戒しているのだろう。さりとて龍神様の神通力を否定することもできない。苦労が垣間見える。特に同情するようなものではないが。

「それは一昨日も錦山さんに仰ったのでしょうか?」

「ええ。医者にボロクソ言われたそうで。……あ、言っておきますが水も野菜も変なものは入ってませんよ? ただの湧き水と農家で余った野菜を格安で譲ってもらっただけなんで。舞もラジオ体操のアレンジですし」

 聞いてもいないことまでベラベラとしゃべる。自分の不利になりそうなことは先回りして言い訳しているようだ。土下座したのも、要するに事件に関わったと思われて自分まで逮捕されては適わないから先手を打った、ということらしい。危機意識が高いというか臆病すぎるというか……。

「そもそも本殿とかありませんし。ホームページの写真にはどこかの大きな神社をコラージュしてるだけで、龍神も奉っていません。神託うんぬんもデタラメで……」

「分かった分かった。あんたのデタラメを真に受けて錦山絹子がやったと思ってんだろ? 別にひき逃げを教唆したなとか言わないから安心しとけ」

 頼同が面倒くさそうに言うと、神主はあからさまにホッとした表情を見せた。自分のことしか考えていない。エルがここにいれば「クソ野郎」とでも呼んだだろう。



 空が夜に近づく頃、刑事たちは帰路についた。

「なぁ穴加部。あいつほっといていいのか?」

 ハンドルを握る頼同が前を向きながら言う。

「管轄も部署も違いますしね。特に有害なものを売っているわけでもありません。――とはいえ、一応録音はしておきましたし、後で消費生活センターあたりに一報を入れる程度はしておきましょうか」

 所詮は自己責任の範疇である。警察が出る話ではない。

 いま解決すべきなのはひき逃げ事件の方だ。とりあえず錦山絹子の証言したアリバイが虚偽であることは間違いない。もう一度確認しにいく必要があるだろう。

 そう思っていると懐のスマートフォンが振動した。知らない番号からの着信だ。

「もしもし。穴加部ですが」

「うんこ」

 なんだいたずら電話か。穴加部は流れるように通話終了をタップした。

 即座にかかってくる。

「いきなり切るなんてひどいなぁ。ぼくだよ、ぼく。悼田エル」

 もちろん知っていた。開口一番そんな下品なことを言う人間などエルぐらいしかいない。

「……エルくんに番号を教えた記憶はありませんが」

「師匠に教えたじゃん。何か思い出したらってことで」

「ああ、備後医師から聞いたのですか。――それで、何か思い出されましたか?」

「師匠に頼んで院内記録を確認してもらったんだけどさ。ちょっとおもしろいことが分かってね」

「おもしろいこと、ですか」

「詳しいことは後で話すよ。――その前に神社の方はどうだった? たぶん全部フェイクだったと思うんだけど」

「お察しの通り。龍神も波動もすべて嘘でした。本殿にも錦山絹子は行っていなかったそうです。18時には神社から出ていました」

「水にも野菜にも危ないものは入ってなかったんだよね?」

 怪訝な表情になる穴加部。それを聞いてどうするのだろう。

「……ええ。ただの湧き水と農家の余り野菜だそうです」

「それが分かれば十分。じゃ、錦山家で落ち合おう。あとあそこの旦那さんも呼んでおいてね」

 エルは言うだけ言うと切ってしまった。

「あのクソ坊主くんか?」

「はい。何か分かったそうですが、錦山家で話すと」

 それにしても夫まで呼び出す必要が分からない。穴加部は首をひねる。前回のことを鑑みるに無意味なことはしないと思うが……。



 呼び出す必要はなく、錦山絹子の夫――錦山布男は帰宅していた。

「警察がなんだってウチに……おまえ何かやったのか?」

 布男は缶ビール片手にサラミをつまみながら、妻をじろりとにらむ。

 全身から不健康さがにじみ出ている男だ。くまをこしらえた目は充血している。浅黒いというより土気色の肌。シャツを引き延ばすほどのビール腹。43歳とのことだが、50代後半に見える。

「奥さんにはひき逃げの容疑がかかっていましてね。そこで先ほどアリバイを調べに龍龍破壊神社へ行ったんですが――」

「龍神波動神社よ!」

 頼同は抗議を無視して絹子の方に向き直る。

「あんた、嘘ついちゃいけない。事件のあった日は夕方6時には帰ってましたね? 神社から現場までは車で3時間ぐらい。被害者が病院から帰宅していたときが夜9時なんで、つじつまは合う。本当は備後医師を見たんでしょう?」

「はぁ? 別に嘘なんかついていないわよ。あのヤブ医者なら帰り道で見かけたし」

 「はぁ?」と言いたいのは刑事たちの方だった。ここまで堂々と前言を翻されては立場がない。

「あの、先ほど神社の本殿にいたと仰いませんでしたか?」

「そうよ。ヤブ医者の姿を見た途端、頭の中にお告げが響いたの。不信心な輩に天罰を下せって。これはきっと本殿に奉られた龍神様と一体化した証だと確信したわ。あのときの私は車の中にいると同時に本殿にもいた……そうでなくて?」

 すがすがしいほどのドヤ顔だった。この人はもう少し自分を疑った方がいいと穴加部は思った。インチキ神社に騙されるのも当然だ。

「結局のところ、あなたはあの夜、備後医師を車で轢いたのですね?」

「そうだけど……でも龍神様が命じたからやっただけで、私に罪はないわよ?」

「そんなわけねーだろ」

「それがそうとも言い切れないんだなぁ」

 即座にツッコミを入れた頼同にエルが被せるように言った。

「どういうことですか、エルくん」

「うんこ師匠がね、条件次第では被害届を撤回してもいいってさ」

「撤回? 急にどうしたんだ? ひき逃げされたってのに」

「事件の始まりが間違っていたからだよ。いまから言う推理が正しかったら、師匠は悪口をまんまと言わされたんだ」

 エルは持って回った言い方で話しながら、ゆっくりと歩き、イスに座って晩酌する錦山布男の前で止まった。

「――だよね、旦那さん?」

 サラミをほおばっていた布男の口の動きが止まる。どんよりとした目があらぬ方向へ逃げた。

「ずっと気になってたんだ。おばさんの便潜血検査の結果は陽性だった。精度はそう高くないとはいえ、腸内をまったく反映しないわけじゃない。陽性なら陽性なりに実際の体調とリンクしているはず。だけど、おばさんの生活はどう見ても大腸ガンのリスクが低い人のそれなんだよね」

 エルは部屋の隅に積まれた2Lペットボトルを両手で持ち上げると、よろよろしながらテーブルの上にのせる。ゴドンと重そうな音がした。

「はぁ……重い。おばさんはこれを毎日飲んでるんだよね?」

「ええ、龍神波動毒出し野菜スープの分も合わせれば龍神波動水を1本分ぐらいは飲んでいるわ」

 いちいち全部言わなくていい。ただの水だと知っている刑事ふたりはそう思った。

「うふふ、それじゃあ毎日うんこもりもりだね?」

「お通じのこと? そうね、龍神波動毒出し野菜スープを飲み始めてから便秘知らずよ。やっぱり健康にはこれね」

 下品な物言いに若干眉をひそめた絹子だったが、効能を示せて自慢げでもあった。

「ハイクオリティなうんこを出すためには、適度な水分と食物繊維が必要。それに腸をひねる運動もしているとなおいいね。あのラジオ体操もどきの舞とか」

「毒出しの舞よ!」

 無視。

「そしてそれは大腸ガンのリスクを下げることにもつながる。大腸ガンのリスクを高めるのは、運動不足、食物繊維を取らない、加工肉や赤身肉の大量摂取、飲酒、喫煙……この辺が代表的だね」

「あら、じゃあ私は全部当てはまらないわね」

 明るい表情の絹子と対照的なのは夫の布男。唇をきゅっと結んで腹部をじっと見ている。喫煙を除けば、すべてのリスクが当てはまっているのだ。エルの言ったことが気にならないわけがない。

「そう。旦那さんは大腸ガンになっていてもおかしくない。便潜血検査で悪い結果が出てもおかしくない。それは薄々分かってたんだよね? だからそれを利用しようと思った。――健康に入れ込みすぎている奥さんへの嫌がらせのために」

 穴加部の脳裏を嫌な想像がよぎる。エルが何を言いたいのか分かってきたからだ。

「さっき院内記録を調べてもらったんだ。錦山布男さん、奥さんと同じ時期に健康診断の予約取ってたよね? 結局行かなかったみたいだけど、検便用の採取キットは受け取ったって記録にはあったそうだよ。ねぇ、提出しなかった検便キットはどこへ行ったのかなぁ?」

「す、捨てたんだよ……!」

 エルの視線をかわすようにうつむく布男。

「捨てただろうね。自分の検便とすり替えた、奥さんの検便を――!」

「知るかっ! 誰がそんなバカなことを……何の証拠もないだろうが」

「まぁゴミ箱のゴミも回収されちゃっただろうし、すり替えた証拠はもうないと思うよ」

 その返しを予期していたらしく、あっさりと認めるエル。手を後ろに組んで歩き出すと、布男の前で腰を低く屈める。そして首をひねって布男の目と視線を合わせて言った。

「でもそういうことじゃないんだよ。だいたいさ、うんこをすり替えるのが犯罪なわけないし。ちょっとした嫌がらせのつもりだったんでしょ? 結果が悪かったと医者に言われることで奥さんをへこませたかったとか」

 実際のところ、布男に罪と呼べるほどのものはない。それは穴加部も同感だった。備後医師の口がやたらと悪く、絹子が思ったより精神的におかしくなっていたために起きた事件であって、布男がここまで見越していたとは考えにくい。

「これは師匠の――備後云十郎医師の代わりとして言うんだけど。もしすり替えたならば、つまり便潜血検査が陽性だったことを認めるなら、すぐにでも大腸内視鏡検査を受けてください。そうすればひき逃げの件も不問にするから」

 真剣な目で放たれたエルの言葉を聞いて、布男はしばらく押し黙っていたが、最後には小さく「分かった」とつぶやいた。



 後日、王子記念病院の個室部屋。

「あの後、旦那さんには大腸ガンが見つかったんだって?」

「初期のもんだがな。これでちったぁ健康に気をつけるようになるだろ――だからうんこ描くなって」

「うふふふぶぶぶ……」

 ギプスに再び落書きをするエルのほっぺを両側から手で押しつぶす備後医師。

「でも師匠、本当に取り下げちゃってよかったの? 骨折させられたのに」

「ま、元はといえば俺が検査結果を変だと思わずにクソミソに貶したのが悪いんだ。天罰とでも思っとくさ。あーあ、これからはもう少し口に気を付けねぇとな」

 そう言うと、備後医師は背中をベッドに預けてもたれかかった。

 たぶん口の悪さは直らないだろうとは思いつつ、エルはうれしそうに微笑む。

「うんこ師匠のそういうとこ大好き!」

 それは自分を救ってくれたあの以来、変わらない気持ちだった。

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