第19話 喫茶店の未来

「じいちゃん、たまには微睡に顔を出してよ」

 ある日、当眞が「喫茶微睡」に顔を出せ、と言ってきた。

「邪魔じゃないのか」

「店主が職場に顔を出してなにが悪いのさ。どうせ暇でしょ」

「そうだな。毎日暇だな」

 リハビリと散歩ばかりの日々には飽き飽きしていたが、特にやることがないので、喫茶微睡の開店時刻には眠りについていた。

 当眞に誘われるがまま、久しぶりに喫茶店に顔を出した。

 懐かしい空気に、思わず胸がいっぱいになった。

「……懐かしいな」

 不意に言葉が漏れ、どうしようもなく郷愁に駆られた。

 カウンターテーブルの向こうに、見慣れない女性の姿があった。

 小柄で、視線がきょときょと動いて落ち着きがない。

「パティシエの針谷さん。勝手に雇っちゃったけど、べつにいいよね」

 針谷一花がぺこりと頭を下げた。

「パティシエ?」

「じいちゃんに食べてもらいたいものがあるんだ」

「シュークリームを作ると卵白が大量に余るので、こんなものを作ってみました」

 針谷一花がおずおずと取り出したのは、イタリアの伝統菓子であるらしい。

 ブルッティ・マ・ブオーニ。

 イタリア語でブルッティが「醜い」、マが「でも/しかし」、ブオーニが「おいしい」を意味し、「醜いが、おいしい」という意味のメレンゲの焼き菓子。

 その名の通り、焼き上がりが岩石のようにゴツゴツしていて、見た目はどうしようもなく不細工だが、口当たりはなんとも軽く、癖になる味わいだった。

 当眞がどうしてこれを食べさせたがったのかは聞くまでもない。

「コーヒーが欲しくなる味だな」

「自分で淹れてよ。左手なら動くでしょ」

 素っ気なく言うなり、当眞は生真面目な調子で言った。

「じいちゃんは五十年ずっと働き詰めだったんだ。ちょっとくらい眠っていてもばちは当たらない。でも、微睡から目覚めたらコーヒーぐらいは自分で淹れてよね」

「誰がコーヒーを運ぶんだ?」

「僕が運ぶよ」

「それは楽しみだ。当眞が高校を卒業するまでの辛抱だな」

「じいちゃんは置物みたいに座って、ときどきコーヒーを淹れてくれればいいよ」

 まだ動かせる左手を動かして、醜いがおいしいメレンゲの焼き菓子を口に運ぶ。

 ――喫茶微睡はじいちゃんの居場所。

 ――微睡から目覚めたら、じいちゃんが片手でもできる喫茶店にしてあげる。

 言葉足らずの孫の言葉には、たぶんそんな意味が込められている。

 くたびれ切ってしまうには、まだ早い。

 微睡に揺蕩っているのも悪くはないが、孫と並んで営む喫茶店の未来を想像すると、眠りから目覚めるその日が楽しみに思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る