第17話 在りし日の未練

 脳梗塞を患う少し前に、事業承継アドバイザーなる人物が訊ねてきた。

「喫茶店の後継ぎなどでお困りではないでしょうか」

 その頃、孫の当眞はまだ高校生にもなっていなかった。

 常連客達に並んで、アドバイザーがカウンター席に座り、事業承継のモデルケースについてあれこれと説明を始めた。老店主が細々と一人で切り盛りしている姿を見て、事業承継にはお誂え向きと思えたのだろう。

「ご注文は?」

「では、コーヒーを」

 アドバイスの押し売りならばさっさと追い返すところだが、コーヒーを注文した以上は客である。むっつりと押し黙ってコーヒーを淹れていると、不躾な質問が飛んできた。

「失礼ですが、喫茶店の後継者の目途はございますか」

 後継者候補ならば、いた。

 孫の当眞が三歳になった頃、妻を亡くした。それからは一人で喫茶店を切り盛りしていたが、失意の私を見かねて息子夫婦が喫茶店を手伝ってくれた。

「じーじ、じーじ」となついてくる孫はたいそう可愛かった。飲食業が初めてだった息子夫婦も、当初こそ不慣れであったが、次第に慣れていった。

「あなた、クロックムッシュは作れる?」

 などとマダムばりに抜き打ち試験を課すこともなく、教えられることはすべて懇切丁寧に教えた。いずれは息子夫婦に喫茶店を譲って、あとは孫の面倒でも見ながら、老後は悠々自適に暮らそうか、などと考えていた時期もあった。

 しかし、人生は一瞬にして暗転する。

 息子夫婦は登山が趣味だった。

 毎日、嫌な顔ひとつせず、よく働いてくれていることもあって、「当眞を預かるから、たまには夫婦水入らずでリフレッシュしてきてはどうか」と言った。

「ありがとう、父さん。じゃあ、ちょっと登山に行ってくるよ」

 それが息子の最後の言葉だった。

 幼稚園に通っていた当眞を預かっていたが、息子夫婦はどこぞの山に登山に赴いたまま、いつまで経っても帰って来ない。せめてどこの山に登るつもりなのかぐらいは尋ねておくべきであったが、今さら嘆いても遅い。

 登山中に遭難したのだろう。

 それっきり、息子夫婦は消息不明となった。

「パパとママはいつ帰ってくるの?」

 幼い当眞はぽろぽろと涙をこぼし、心配そうにずっと窓の外を見つめていた。

 息子夫婦は何日も帰って来ず、憔悴しきった当眞の表情は忘れられない。べそべそ泣いている当眞を思い切り強く抱きしめて、自らに言い聞かすように言った。

「泣くな、当眞。じいちゃんがずっと傍にいる」

 息子夫婦が消息不明となって、十年以上が過ぎた。

 遺体こそ見つかっていないが、生存もまた望み薄だ。

 息子夫婦を亡くしたのは、もとを正せば安易に喫茶店を手伝わせたせいだと思うと、夜も眠れなくなった。夫婦水入らずでリフレッシュしてきてはどうか、などと軽々しく口にするべきではなかった。

 幼い当眞から両親を奪ったのは私だと思うと、毎夜、後悔が押し寄せてくる。

 無心でコーヒーを淹れ、クロックムッシュを作っている時だけは罪の意識から逃れていられた。しかし、無粋な事業承継アドバイザーのせいで、息子夫婦のことを思い出してしまった。

「まだ元気に働けておりますので、当面の間、事業を譲るつもりはありません。名刺だけ頂戴します」

 そう言って追い返したが、程なくして身体がふらつくようになった。片腕や片足が思うように動かせなくなることが度々あったが、しばらくすれば元通りになったので、今日はなんだか調子が悪いな、と思うぐらいだった。

 今思えば、あれらが脳梗塞の予兆だったのだろう。

 右半身が麻痺してしまうまで、病院に行くこともなかった。

 麻痺がいよいよ進行し、物理的に喫茶店を切り盛りすることが困難になった。

 まさか、高校生の当眞に喫茶店を継がせるわけにもいかない。

 そもそもからして、息子夫婦を失ったのは安易に喫茶店を手伝わせたからに他ならない。拭えざる罪の意識が私にしつこく耳打ちする。高校生であろうとなかろうと、当眞に喫茶店を継がせるという選択肢は有り得ない。

 廃業するか、あるいは他人に喫茶店を譲るか。

 いつかに訪ねてきた事業承継アドバイザーの名刺をぼんやり眺めていると、当眞の顔に怒りの色が滲んでいた。

「微睡を潰すつもり?」

 舌がもつれて、なかなか言いたいことが言葉にならない。

 何も答えずにいると、当眞が懇願するように言った。

「他人には譲らないでよ。じいちゃんがいない微睡は微睡じゃない」

 長く営んだ喫茶店に孫が愛着を持ってくれているのは嬉しいが、選択肢は限られている。

「だったら、どうする」

「僕が店を継ぐよ」

 当眞の申し出を素直に受け入れられたわけではない。

 喫茶店を切り盛りするのは、傍から見るほど簡単ではない。

 むくむくと喉元までせり上がってきて、遂に口にしなかった言葉がある。

 あなた、クロックムッシュは作れる?

 夜の三時間だけ当眞が喫茶微睡を切り盛りすることになったが、マダム直伝のクロックムッシュは提供していない。クロックムッシュの注文はほとんどがモーニングか、朝食を兼ねた昼食ブランチに限られ、夜の時間帯ではさっぱり注文がないため、メニューから外れているが、往時の喫茶微睡の看板メニューが消えたのは寂しいばかりだ。

 さりとて、右半身が麻痺してしまったせいで、まともにクロックムッシュを作ることもできない役立たずの老人が孫のやり方に口を挟むべきではない。

 当眞が店を継ぐと言ってくれたが、この先ずっと喫茶店をやっていく覚悟はあるのだろうか。なんといっても孫はまだ高校生だ。先の長い未来を制限したくはない。

 店を継ぐと言ってくれた当眞の厚意を無下にしたくはないが、血縁関係のない赤の他人に事業を譲って、すべてをリセットしてしまうべきなのだろうか。

 引き出しに仕舞ってあった事業承継アドバイザーの名刺をまじまじと見つめる。

 名刺に記された電話番号をプッシュする。

 数コール鳴らしたところで、当眞が帰宅した。

「じいちゃん、ただいま」

 咄嗟に通話を切り、尻の下に名刺を隠した。

「ああ、お帰り」

 何食わぬ顔でいると、当眞が夕食の準備をしながら訊ねた。

「じいちゃん、食べたいものはある?」

 当眞の作るレパートリーはそう多くない。

 ポークジンジャーか、ナポリタンか、カレーか。

 だいたいはその三択で、それ以外にはポトフも作る程度だ。

「クロックムッシュが食べたいな」

 私がぽつりと言うと、当眞が難色を示した。

「クロックムッシュ? 夜メシにならないじゃん」

 食べ盛りの当眞はぶつくさ言っているが、食欲の落ちた老人にはそのぐらいでちょうど良い。

「ベシャメルソースって、どうやって作るんだっけ」

「前に教えなかったか」

「教わったけど、ぜんぜん作ってないから忘れた」

 クロックムッシュの味の決め手となるベシャメルソースは手作りするに限るが、学校から帰宅したばかりの当眞は少々面倒くさそうな顔をした。

「ベシャメルソースがなくても作れるぞ」

「どうやるの。じいちゃんが作ってよ」

 クロックムッシュの作り方はいろいろと試行錯誤した。昔取った杵柄で、当眞にはベシャメルソースを使わないフレンチトースト風のクロックムッシュの作り方を伝授した。

 当眞は私の指示通りに食パンを斜め半分に切り、チーズを三角に切った。

 ボウルに卵を割り入れ、溶きほぐし、牛乳、塩胡椒を加え、混ぜる。

 これをバットに移して食パンを浸し、上下を返しながら卵液を染み込ませる。

 半分に切った食パンの片方に、チーズ、ベーコン、チーズの順に乗せ、もう片方の食パンで挟む。

 フライパンにバターの半量を入れて熱し、バターが溶けたら食パンを入れて焼き、焼き色がついたら裏返す。フライパンに残りのバターを入れて溶かし、パンの下に流し入れて、こんがりと狐色になるまで焼く。

「へー、けっこう簡単だね」

「なかなか良いぞ、当眞のクロックムッシュ」

 当眞の作ったクロックムッシュは簡素だが、味わい深かった。

 焦げ目が香ばしく、チーズはほどよく蕩け、パンがふわふわしていた。

 ベシャメルソースは手作りするに限るが、これはこれで悪くない。

 十分に喫茶店で出せる味であるだろう。

 クロックムッシュを齧りながら、遠い目をしていたのだろう。

 カウンター席でうとうと微睡んでいるマダムを思い出した。

 朝食のような夕食を終えて、当眞はとっとと食器を片付けた。

「どう、じいちゃん。合格?」

 夜の営業の準備があるので、当眞は私の感想もろくに聞かず、階下へ降りていった。咄嗟に尻の下に隠したせいで、くしゃくしゃになってしまった事業承継アドバイザーの名刺をゴミ箱へ放り込む。

 たぶん、まだ喫茶店に未練があるのだろう。

 もう、まともにクロックムッシュを作ることもできやしないのに、マダムが所望する味をせっせと作っていた在りし日をまざまざと思い出した。

 溶けたチーズの味がいつまでも口に残る。

「懐かしい味がしたな」

 孫が作ってくれた至福の味をいつまでも、いつまでも噛みしめた。

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