ハイカラマダムのクロックムッシュ

第16話 かりっとした紳士

 まだ二十代だった頃、恥ずかしながら「微睡」という漢字は読めなかった。

 まどろみと読めず、「びすい」と読んでいた。

 五十年近く前、たまたま入った喫茶店で、店主のマダムが言った言葉は今も鮮明に覚えている。

「あなた、クロックムッシュは作れる?」

 その当時、喫茶店で食べたことがあるものといえば、海苔のりトーストぐらいのものだった。パンで焼き海苔をサンドして焼いた、バター醤油味の海苔トースト。

 それはまるで、ご飯と醤油と海苔が二段に重ねられた、のり弁のようだった。

 今でこそ老舗と言われる神田の喫茶店で食べた海苔トーストに感銘を受けた。

 使っているのはパンと海苔とバターと醤油だけ。特別なものはなにも使っておらず、どこの家にもある材料で誰でも作れるものであるのに、なぜだか特別に美味しかったのをよく覚えている。海苔トーストの味に衝撃を受けて以来、都内のあちこちの喫茶店を訪れるようになり、「喫茶微睡」を訪れたのは偶々たまたまであった。

 店内はハイカラで、店主と思しきマダムは上品な印象だった。しかし、腰は折れ曲がり、たびたびカウンターに腰掛けて、休み休みでしか仕事ができない。客はほとんどが知り合いのようで、老人ばかりの談話室のようだった。

「くろっく……なんですか?」

「クロックムッシュ。一九一〇年だったかしらね、フランスのオペラ座近くのカフェで作られたホットサンドの一種よ」

 パンにハムとチーズを挟み、バターを塗ったフライパンで軽く焼いて、ベシャメルソースを塗ったものであるらしい。フランスだの、オペラ座だの、ベシャメルソースだのと聞き、海苔トーストとはえらい違いだな、と思った。

 しかし、作り方を聞いてみれば、手順的には海苔トーストとそう大差はない。

 挟むのが海苔であるのか、ハムとチーズであるかの違いしかない。

「作れると思います。要は海苔トーストみたいなものですよね」

 大真面目に言うと、マダムが苦笑した。

「海苔トースト? ぜんぜん違うわよ。あなた、なかなか面白いわね」

「召し上がったことはありますか。ここらの喫茶店を巡ったのですが、まだ海苔トースト以上のものに出会っていません」

「あら、そう。それは興味深いわね。今度作ってくださる?」

 ハイカラなマダムが海苔トーストに興味を示したが、そもそもここは喫茶店であるはずだ。なぜ、客が調理をせねばならないのだろうか。

「ご自分でお作りになった方がいいのでは」

「くたびれてしまってね。誰かいい人がいたらお店を任せたいと思ってるわ」

 カウンターに腰掛けたマダムが遠い目をした。長く連れ添った亭主に先立たれ、老後の慰みに喫茶店を開いてみたものの、毎日営業するのにくたびれてしまったらしい。

 出会った当時のマダムは、いったい幾つぐらいだったのだろうか。七十を超えた今の自分と、そう大差はないだろう。杖をついて、片足を引きずって歩いてはいたが、半身は麻痺もしていないし、何より味覚にはいささかの衰えがなかった。

「ともかく作ってごらんなさい、クロックムッシュ」

 喫茶店の客として訪れたはずなのに、半ば強引にクロックムッシュを作らされた。

 初めて作ったクロックムッシュをマダムが齧り、なんとも微妙な表情を浮かべた。

「最初はこんなものかしらね」

 それから幾度か作り直しを命じられ、ようやく合格が出た。

「なかなか良いわよ、あなたのクロックムッシュ」

 お褒めの言葉を頂き、そのまま惰性で「喫茶微睡」を引き継ぐこととなった。

 マダムはお気に入りのカウンター席でうとうとしており、お腹が減ると、決まってクロックムッシュを注文し、時折思い出したようにクロックマダムを所望した。

 クロックムッシュの名前は「かりっとした紳士」という意味あるそうで、一説によると、食べるときに音がして上品ではないので男性専用とされたという。フランス語のcroquerクロッケには「食べ物をカリカリ噛んで食べる」という意味があり、パンを食べたときのカリッという音からクロックムッシュの名が付けられた、という説もあるようだ。

 クロックムッシュに目玉焼きを盛り付けたものがクロックマダムで、目玉焼きが貴婦人の帽子に似ていることから、その名がついたという。

 喫茶微睡を任されて以来、喫茶店の上階に住むマダムの日々の買い出しの手伝いをしたり、休日に犬の散歩を代わりにしたり、喫茶店の店主兼使用人のような扱いであったが、特段の不満はなかった。

 喫茶店を引き継いで以来、雨の日も雪の日も変わらずに店を開けた。客が早く引いたからといって、早仕舞いしたこともない。営業日や営業時間はお客さんとの約束である。せっかく来たのに閉まっていた、という残念な思いをしてほしくない一心で店を続けるうち、いつしか半世紀近く経っていた。

 喫茶微睡を託してくれたマダムはとっくにこの世を去った。

 カウンター席でうとうと微睡んでいるマダムはもういない。

 いつも変わらず、営業していること。雨の日も雪の日も変わらずに店を開け続けていたことだけが喫茶店の店主としての誇りであり、ちょっとした自慢でもあったが、脳梗塞を患って店に立つことが難しくなった。

 営業日や営業時間はお客さんとの約束であるのに、その約束を守れなくなった。

 クロックムッシュ好きのマダムが、ただ若いだけが取り柄の自分になぜ喫茶微睡を譲ってくれたのか、今ならよく分かる。

 くたびれてしまったのだ。

 何もかもに。

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