第13話 ろくでもない一日

 喫茶微睡が開店すると、ぽつぽつと客がやって来た。

 迷うことなく窓際のテーブル席に着くなりパソコンを立ち上げ、かちゃかちゃ叩き始めた四十絡みの男性客に水を持っていく。黒板ボードをちらと見上げ、「カレー大盛。コーヒー先ね」と不愛想に言った。

「かしこまりました」

 当眞はどこか気の抜けた声で応じ、大盛のライスに淡々とポークカレーをよそった。

 あっ、しまった。

 コーヒーが先だった、と気が付いたが、もう遅い。

「すみません。すぐにコーヒーをお持ちいたします」

 当眞が申し訳なさそうに謝ったが、男性客はイヤホンを付けてオンライン会議の真っ最中で、当眞の声などまったく届いていないようだった。ひたすら声が大きいので、カウンター席に座った女性客たちが迷惑そうにちらちら振り向いている。

 当眞は大急ぎでコーヒーを淹れ、何食わぬ顔でカレーの横に置いた。

 賄いカレーは好評で、開店から一時間も経つうちに鍋が半分以下になっていた。

 黒板ボードには見栄えで「限定10食」と書いたが、きっちり正確な量ではない。鍋の残りの量からすると、あと三杯か、四杯ぐらいだろうか。

 当眞はちらりとテーブル席に目をやった。二卓しかないテーブル席の片方を独占し、

 入店からずっとオンライン会議中の男性客はカレーに一切手を付けておらず、会議は白熱するばかりだった。

 ようやく会議が終了したのか、男性客がイヤホンを外した。ようやくカレーを食べるのかと思いきや、いかにも偉そうに当眞に向かって手招きした。

「冷めてる」

 一時間以上もカレーを食べずに放っていれば冷めるに決まっている。

 冷めておりますが、それがどうかされましたか、お客様。

 もう一度、温めなおしてこいということでしょうか、お客様。

 喧嘩腰の言葉が喉元から出かかるが、面倒そうな客は無難にやり過ごすに限る。

「申し訳ございません。すぐに作り直してお持ちいたします」

 当眞は冷めたカレーを引っ込めると、新たにご飯をよそい、カレーをかけた。

「お待たせいたしました」

 テーブル席にカレーを置くと、男性客は当眞を見もせずに言った。

「福神漬けはないの?」

「申し訳ございません。ご用意がございません」

 ちっ、と舌打ちをして、男性客はいかにもまずそうにカレーを食べた。

 冷えたカレーを再加熱して別の客に出すのも失礼なので、廃棄することにした。

 カレーがあと一食ほどの量になり、黒板ボードの「限定10食」の文字に斜線を引いて、「残り1食」と訂正した。

 もしかして、今日は厄日なのだろうか。

 せっかくいつもより上等なカレーを作ったのに、心がどんどんささくれ立っていく。

 接客の合間にポケットからスマートフォンを取り出して、ちらりと確認したが、針谷一花からの返信はないようだった。送ったメッセージは既読にさえなっていない。

 学芸大学駅の改札まで送った際、一花が「また遊びに来てもいいですか」と言ったのは、ただの社交辞令だったのだろう。

 職員室に呼び出された朝から、今日はろくでもない日だった。

 ……おいおい、嘘だろう。

 思わず、心の声が漏れそうになった。

 夜の九時半過ぎに副担任の塚田が来店した。

 何食わぬ顔で店内をぐるりと見回す。店員が当眞しかいないことを把握したうえで、ゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。

「夜久君、今日はひとり?」

 当眞の対面に座り、まるで三者面談のような重たい空気を醸し出した。ここに祖父がいれば、「それじゃ僕は失礼します」と逃げを打てるが、そうもいかない。

「ご注文は?」

 塚田の質問には答えず、当眞は努めて事務的に言った。

 黒板ボードをちらりと見て、塚田が言った。

「カレー。ご飯少なめにしてください。食後にコーヒーを」

 コーヒーを先にでもなく、食事と同時でもなく、食後。

 それはつまり、あと三十分以上は居座るぞ、という宣言に等しい。

 塚田の魂胆はよく分かる。クラスの生徒が未成年であるのに深夜にアルバイトをしているらしい、と通報があった。その事実を確かめに現地調査に訪れたのだろう。

 それは間違った正義感だと思う。

 教育熱心の意味を履き違えている。

 当眞は心を落ち着けるように黒板ボードに歩み寄ると、「残り1食」の文字に斜線を引き、「本日完売しました」と書き加えた。

 よりによって、最後の一杯が塚田かと思うとやりきれない。

 とにかく、この場はやり過ごすしかない。

 少なめにしたご飯にカレーをよそい、塚田に提供する。

「申し訳ございませんが、本日十時までの営業となっておりますので、お早めに召し上がっていただけますようお願いいたします」

 当眞が牽制するように言い、いまだテーブル席に居座る男性客にも同じく告げた。

「営業十一時までだろ」

 男性客が憤慨したように言った。

 カレーはすぐに食べないくせに、営業時間は目敏く把握していたらしい。

「申し訳ございません。表の看板の営業時間が誤っておりまして」

 当眞が平謝りする。

 とにかく今日のこの場だけは夜の十時までに退店してほしい。

 その一心で、客席に残った客たちに退店時間を告げて回った。

 塚田は腕時計をちらちら見ながら、カレーをゆっくり、ゆっくり口に運んでいる。

 夜十時を過ぎるまで、食べ終えるつもりは更々ないようだ。

 未成年が働ける夜十時の制限時間タイムリミットを一分でも一秒でも超過オーバーしたら、即座にアウトと判定して、労働基準監督署に垂れ込むつもりなのだろうか。

 この場だけは祖父を引っ張り出して、塚田が帰るまで応対してもらおうか。

 ふと思い浮かんだが、こんなことで半身麻痺の祖父に負担はかけられない。

 自分が十八歳だったらよかった。

 そうすれば、深夜に働いただなんだといちゃもんを付けられたりしない。

 表看板の明かりを消しに当眞は店の外へ出た。

 ポケットに入れたスマートフォンがうるさく鳴動した。

 針谷一花がポークカレーの写真に今さら反応していた。

 ――なんと罪深い! 

 ――ぜったい行くので、一食確保しておいてくださいませ!

 ――今、電車に乗っています!

 ――もうすぐ着きます!

 ――カレー食べたい!

 おいおい、今から来るのかよ。

 あまりの間の悪さに目眩がした。

 当眞は表看板の明かりを消すと、店に戻った。

「おい、会計。早くしろよ」

 男性客がせっつき、当眞を呼びつけた。

 あまりにも横柄な態度だが、当眞のような若者に恨みでもあるのだろうか。

「申し訳ございません。ただ今参ります」

 男性客は千円札を二枚、レジカウンターに叩きつけた。

「コーヒーは冷めてるし、早く終わるし、最低だな」

 コーヒーが覚めたのはオンライン会議に夢中であったせいで、当眞のせいではない。

 言いがかりも甚だしいが、当眞は釣銭を渡すと、「ありがとうございました」とだけ言った。店の外までお見送りはしない。

 副担任の塚田以外の客が続々と席を立ち、退店していった。

 しかし、塚田はまだカレーを食べ終えていない。

 食後にコーヒーということだったが、食べている途中にコーヒーを供した。

 夜九時五十七分。

 店に客は塚田だけとなったところで、針谷一花が滑り込んできた。

「到着っ! 表の看板消えてましたけど、まだ大丈夫ですよね」

 のこのこ店内へ入り込んできたが、当眞は表へ出ろ、とジェスチャーして強制的に追い出した。一花が「……カレー」と呟き、しょんぼりと項垂れた。

「今、高校の担任が来ていて。ちょっとそこで待ってて」

「修羅場なんですか」

 詳しく説明する時間はないので、建物裏の階段に座っていてもらうことにした。

 店に戻ると、塚田はカレーを食べ終え、コーヒーを飲み終えていた。

「十時一分」

 当眞に向かって、ただ時刻だけを告げた。

 未成年が働ける時間を一分オーバーしたが、それがどうした。

 当眞は代金を受け取ると、釣銭を渡した。

「ありがとうございました」

 丁寧にお辞儀をして、退店を促す。

「未成年が働けるのは夜の十時までです。きちんと守るようにしてください」

 職員室に呼び出されたときに聞いたのとまったく同じことを言い、副担任の塚田が帰って言った。塚田の姿が見えなくなるまで待ち、一花を店内へ招き入れた。

「お待たせ。どうぞ、中へ」

 リュックサックを胸に抱いた一花が当眞へ付いてきた。

「あー、やっとカレーが食べられる。寝起きにあんなカレー見せないでくださいよ。めっちゃお腹減るじゃないですか」

 一花は寝起きというが、すでに夜だ。

「何時に起きたの」

「あー、ついさっき」

 一花が照れたように頭を掻いた。

 鍋はすっかり空っぽで、賄いカレーは完売だった。

 一花はよほどカレーが待ち遠しいのか、「カレー、カレー」と歌い、小躍りしている。

「せっかく来てもらって悪いんだけど、完売しちゃった」

「一食確保しておいてくださいって言ったのに」

 みるみる一花の表情が曇り、悲しげに眉根を寄せた。

 もういちど作り直そうかと思ったが、作るのに一時間以上かかる。

 どうしたものかな、と考えるうち、思いついた。

「ちょっと待ってて」

 当眞はいったん喫茶店を出て、二階の自宅へ上がった。

 祖父はまだソファで眠っていて、ラップしたカレーは手つかずだった。「温めてから食べてね」と記した書置きをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ投げ捨て、冷えたカレーを持って喫茶店へ戻った。

 レンジで加熱を待つ間、コーヒーを淹れる。

 再加熱したポークカレーを振舞うと、一花が目を輝かせた。

「お待たせ。どうぞ召し上がれ」

「うんまっ」

 針谷一花はなんとも言えず幸せそうにカレーを食べた。

 そんなにも美味しいのか、小刻みに身体が揺れている。

「満腹、満腹。ご馳走さまでした」

 一花は念願のカレーを堪能すると、思い出したようにリュックサックを弄った。

 取り出したのは、個包装されたフィナンシェだった。

 キツネ色の焼き目が美しく、金塊のような形をした長方形の焼き菓子。

 ざっと見る限り、二十個ほどはあるだろうか。

「ハリネズミのシュークリームを焼いたとき、卵白が大量に余るので、余った卵白でなにか作れないか考えました。それでフィナンシェを焼いてみたんです。おひとつ、どうぞ」

 外はサクっと香ばしく、中はしっとりと柔らかい。

 バターとアーモンドのシンプルな味わいなのに、忘れがたい美味しさだった。

「コーヒーによく合いそうな味だね。すごく美味しい」

「紅茶にも合いますよ」

 当眞が「もう一個、食べてもいい?」と尋ねると、「どうぞ、どうぞ。何個でも」と一花が答えた。

 お替わりのコーヒーを淹れ、二人でフィナンシェを食べた。

 片手でつまめるサイズがちょうどよく、いくつでも食べられそうだった。

「ホタテの貝殻みたいな焼き菓子があったでしょう。あれ、なんて言うんだっけ」

「マドレーヌですか」

「そう、マドレーヌ。フィナンシェとマドレーヌってよく似てるじゃない。あれは何が違うの」

「大きく違うのは形と材料です。マドレーヌはホタテの貝殻、フィナンシェは長方形です。材料はフィナンシェが卵白のみを使い、マドレーヌは全卵を使います。マドレーヌは小麦粉だけを使いますが、フィナンシェはアーモンドパウダーと少しだけ小麦粉を使います。マドレーヌは溶かしバター、フィナンシェは焦がしバターを使うことが多くて、フィナンシェは香ばしくて軽い食感、マドレーヌはふんわり柔らかい食感になります」

 片や卵白のみ、片や全卵。

 片やアーモンドパウダーと小麦粉、片や小麦粉のみ。

 片や焦がしバター、片や溶かしバター。

 そんな違いで味や食感が変わるという。

「奥が深いんだね。お菓子作りって」

 気がつけば、五個もフィナンシェを食べていた。

「今日は酷い一日だったよ。いきなり職員室に呼び出されてさ。何事かと思ったら、未成年は深夜に働いてはいけないって説教されて、さっき担任が抜き打ちでチェックしに来てたんだよ」

「そんなことがあったんですね。わたしは深夜に漫画喫茶でバイトを始めてみたんですけど、一日でもう辞めたくなりました。わたし、根本的に働くことに向いていないみたいです」

 一花は生活費を稼ぐため、週二日だけ、深夜帯で漫画喫茶のアルバイトを始めたみたいだが、もう辞めたくなっているらしい。

 一日働いたら、回復するのに二日寝込んで、すでに限界だという。

 勤務初日の正味半日でグロッキーで、今はどう辞めるかを算段中とのこと。

「家でケーキだけ焼いていたいんですけど、なにかいい仕事ないですかね」

 お替わりのコーヒーをごくりと飲み干し、一花がぼやいている。

 今日はろくでもない一日だったが、フィナンシェを片手に楽しい夜が更けていった。

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