第10話 良い夜を

 浅夜の営業は昼と違い、お客がひっきりなしに訪れるというわけではない。

 お酒を提供するわけでもないので、ふらっとやって来て、ふらっと立ち去る旅人のような客が多い。顏馴染みではあるが、素性を知らない客も多い。

 注文が途切れた合間にハリネズミのシュークリームのセットメニューを掲示することにした。百均ショップで買った黒板ボードに白のチョークでイラストを描いてもらうことにした。

「針谷さん、イラストは得意?」

「それなりに」

 当眞が黒板ボードにハリネズミのシュークリームのセット価格と単品価格をさらさらと書き入れ、吹き出しに「数量限定! 幸運の使者 食べれたらラッキー」と付け加えた。

「ここの余白にハリネズミのイラストを描いてもらいたいんですけど」

「は、はい」

 あまり自信はなさそうだが、一花が一生懸命にハリネズミを描いた。

 なかなかに愛嬌があって、可愛らしい。

 当眞はサンプルとして実物のシュークリームを白皿に盛り付け、黒板ボードの脇に並べて置いた。シュークリームの残量に「残り10個」と書く。

 テーブルで静かにコーヒーを飲んでいた女性客が当眞を呼び、尋ねた。

「シュークリームを追加で頼んだら、セット価格にしてもらえる?」

「はい。大丈夫です」

「そう、じゃあ一つお願い」

「かしこまりました」

 当眞の同級生たちが試食で食べたのを除くと本日初注文である。

 冷蔵庫で冷やしてあるハリネズミのシュークリームを白皿に乗せると、テーブル席に運んだ。手掴みで食べるかもしれないが、念のため紙ナプキンとフォークを添える。

 女性客はハリネズミのシュークリームを写真に撮ると、フォークを使っておもむろに食べ始めた。自分の作ったお菓子を目の前で食べてもらえるのが嬉しいのか、一花は女性客が食べる様を凝視していた。

 お客様をあまりじろじろ見ないでください、見るともなく見てください、と釘を刺そうかと思ったが、カウンター奥の暗がりからじっと見つめているだけだから許すことにする。

 シュークリームを食べた女性客がほんのり幸福そうな表情を浮かべた。

「お味はいかがでしたか」

 食器を下げるついでに当眞がさり気なく尋ねる。

「美味しかったです。コンビニで売っているような合成的な味じゃなくて、ちゃんと作っている味でした」

「お口に合って良かったです。このシュークリームはパティシエに特別に作ってもらっていて、常に用意があるわけではないので、食べられたら幸運ラッキーです。では、どうぞごゆっくりしていってください」

 当眞はさらりと言うと、カウンター奥の定位置に戻った。

「針谷さん、シュークリームの残数を訂正しておいてください」

「は、はい」

 一花は黒板消しでさっと数字を消すと、シュークリームの残量を「残り9個」と訂正した。

 どうにも一花は感情が隠せない性質なのか、口元がにやけている。

 直接にお客と会話を交わさなくても、自分が作ったものを美味しそうに食べているのを見るだけで嬉しいようだ。

 それから、ぽつぽつとシュークリームの注文が入った。

 三十代ぐらいの会社員と思しき男女の客がテーブル席に座り、しばらくメニューを眺めた。血色の悪い男は椅子に深く沈み込み、「あー、疲れた」とこぼした。

「ナポリタンを二つ。一つ、大盛で。コーヒーを先でお願いします」

「かしこまりました」

 当眞はコーヒーを淹れると、ナポリタン作りに取り掛かった。

「針谷さん、これをテーブル席に」

「は、はい」

 一花はよたよたしながらコーヒーを運んだ。

 お盆にコーヒーを乗せて、ただ運ぶだけなのに、なんとなしに危なっかしい。

 もしかして客の顔にコーヒーをぶちまけやしないか、冷や冷やした。

 当眞が横目で見つめていると、どうやら無事に運べたらしい。

「ど、どうぞ。ご、ごゆっくりしていってください」

 緊張からなのか、声が裏返った。

 一花はぺこりと小さくお辞儀をして、カウンター奥に戻って来た。

 ふう、と一息ついて、ひと仕事終えた感がありありだった。

 そろそろ営業時間の終わりが近くなった。

 コーヒーを飲み終え、しばらく虚ろな目でスマートフォンを眺めていた女性客が思い出したように席を立ち、会計に向かった。

 会計を終え、退店した女性を当眞がお見送りした。

「どうもありがとうございました。良い夜を」

 見送りを終え、当眞が店内に戻ろうとすると、一花がひょっこり顔を出した。

「お客様がシュークリームを持ち帰りたいと仰ってるのですけど、お持ち帰り箱テイクアウトボックスってありますか。あと、保冷材も」

「持ち帰りは何個?」

「四個だそうです」

 思い付きでハリネズミのシュークリームの販売をしてみたが、持ち帰りのことまで想定していなかった。保冷材はあるが、シュークリームを持ち帰るのにちょうどよい容器がない。まさか、タッパーで渡すわけにもいかない。

「シュークリームって何日ぐらい日持ちするかな」

「明日ぐらいまではたぶん平気だと思いますけど、カスタードの風味が落ちてしまうので、できれば今日中に召し上がっていただくのがいいです。持ち帰っていただいて、万が一にも食中毒になってしまったら大変です」

 一花もまた持ち帰りを想定していなかったのか、困り顔で言った。

「持ち帰りできないよう伝えるよ」

 店内に残っていた客はテーブル席に一組だけだった。

 当眞が申し訳なさそうな表情を浮かべながら言った。

「申し訳ございません。シュークリームのお持ち帰りは出来ません」

「そうですか。見た目が可愛かったので、家族に持って帰りたかったんですけど」

 最後の客は特に憤慨することもなく、会計を終えて店を出た。

「またのお越しをお待ちしております。良い夜を」

 よほど忙しくない限り、お客が退店の際は店の外までお見送りすることにしている。

 今日は客の帰りが早く、開店時間前に同級生たちが大挙して押し寄せてきたのを除けば穏やかな夜だった。

「シュークリーム、けっこう余っちゃいましたね」

 一花がしょんぼりしたように言った。

 同級生たちに押し売りしたのが九個。

 黒板ボードの脇にサンプルとして掲示したのが一個。

 本日注文されたのが四個。

 売れ残り六個。

 営業時間中のお客は十二人だったので、三分の一がハリネズミのシュークリームを注文したことになる。割合としては上出来だが、サンプル含め七個余ってしまった。

「お客の三分の一が頼んでくれたから上出来だと思いますよ」

 当眞が労うように言った。

「余ったの、わたしが持って帰ります」

「いいですよ。焼いてきてください、と頼んだのは僕なので」

 一花が作ったハリネズミのシュークリームは、お客の反応も上々だったし、見た目も可愛いと褒めてもらえた。

 新たな試みとしては成功だったと思う。

 計算外だったのは、日持ちのしない当日限りの消費という点だ。冷蔵しておけば、二、三日ぐらいは平気だろうと思っていたが、さすがに考えが甘かった。

 当日限りとなるとシュークリーム二十個は一日で売り切れる数ではなく、シビアに見ると四箇か五個ぐらいがせいぜいだろう。今日はたまたま同級生たちが来てくれてラッキーだった。

 看板の灯を落とし、レジの締め作業を終えると、当眞は日当を支払った。

 シュークリーム二十個分の仕入れ代四千円、往復交通費千円、締めて五千円。

「今日は手伝ってもらってありがとうございました。これ、少ないですけど」

「いいんですか。わたし、ぜんぜん役に立ってなかったですけど」

 一花が恐縮し、なかなか受け取ろうとしない。

「今日は自分が作ったケーキをお客さんが食べるところを見れて、わたしもとても勉強になりました。大したお手伝いもしていないので、お金はいただけないです」

 一花は意外と強情で、日当を受け取ろうとしなかった。

 素直に受け取ってもらった方が可愛げがあるし、次の仕事も頼みやすい。

 もうこれっきりだろうか、と思ったところ、一花がおずおずと言った。

「あの、わたしにも焼きナポリタン食べさせてもらえますか。見ていてすごく美味しそうで、めちゃくちゃお腹が減ってきちゃって」

 お腹をさすって、なんともひもじそうにしている。

「じつは起きてから何も食べていなくて」

 今日も寝坊しました、という自己申告に近い。

 夜の十一時近くに朝ご飯か、と思い、当眞が苦笑いを浮かべた。

「もしかして朝ご飯ですか」 

「朝ご飯兼昼ご飯兼夜ご飯です」

 一花が開き直ったように言った。

「焼きナポリタン、ご馳走しますね。サービスでハリネズミのシュークリームとコーヒーもお付けします」

「いいえ。お友達価格で大丈夫です」

 一花は日当のうち、三千円のみを受け取った。食事代はご馳走するつもりだったが、高校の同級生たちと同様のお友達価格二千円を支払ったことになる。

「すぐ作りますね」

「お願いします」

 当眞はフライパンを強火で温め、バターを投入した。

 茹で置きのパスタ麺を投げ入れ、焼き色がつくまで片面を強火で焼く。

 とてもお腹が減っているみたいなので、麺の量はサービスで特盛にした。

 斜めに切ったソーセージ、薄切りにした玉葱、輪切りにしたピーマンを放り込み、ケチャップを入れて混ぜ合わせる。パスタ麺をばらすように炒め、麺が香ばしく焦げてきたところでステンレスの皿に盛り付け、黒胡椒をかけて目玉焼きを乗せる。

「お待たせしました」

「うわあ、美味しそう」

 待ちきれない、とばかりに一花は目を輝かせた。

 なんとも幸せそうに焼きナポリタンを頬張った。

「これは病みつきになる味ですね」

 祖父の味を忠実に守っているつもりだが、当眞が作った焼きナポリタンをこんなにも幸せそうに食べるお客を他には知らない。

 ハリネズミは幸運の使者だというが、針谷一花もまた幸運の使者なのだろう。

 見ているこちらまで幸せになるような食べっぷりに、思わず当眞も笑みを漏らした。

 食後にコーヒーを振舞い、ハリネズミのシュークリームを添えた。

「ご馳走さまでした。今日はとてもいい日でした」

 夜も遅いので、学芸大学駅まで付き添うことにした。

 すっかり満腹になったらしい一花の足取りは重たい。

 冷たい夜風に吹かれながら、ゆったり、ゆっくり歩くのはなかなかに心地良かった。

「あの、また遊びに来てもいいですか」

 改札前で、一花が名残惜しそうに言った。

「ええ、ぜひ」

 当眞はにこやかに微笑むと、小さく手を振った。

「おやすみなさい。良い夜を」

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