やみつき焼きナポリタン

第7話 店主の孫

 小学校低学年の頃から、「微睡まどろみ」という漢字が読めた。書けもした。

 神童というわけではない。

 たんに、祖父が微睡という名の喫茶店をやっていたからに過ぎない。

 学芸大学の地に根付いて、五十年ばかり。

 さして愛想があるわけでもなく、ひたすらに寡黙で無骨な祖父が名付けたとは思えない小洒落た店名からも窺い知れる通り、喫茶微睡はもともと学芸大学に住んでいた老齢の未亡人が開いた店であるらしい。

 祖父は雇われの店主マスターで、未亡人亡き後に店ごと引き継いだという。

 ほとんど昔話をすることのない祖父から聞いたのではなく、喫茶微睡に通っていた常連客たちから、ぽつぽつと聞き集めた断片的な話を繋ぎ合わせると、どうにもこの喫茶店は祖父が開いたものではないらしい、という結論に行き着いた。

 五十年と聞くと、気が遠くなるような年数だ。

 常連客の誰も正確なところは知らず、未亡人が喫茶店を始めた説は、兄弟と始めた、亡き妻と始めたなど、別の説にすり替わったりした。

 孫の当眞とうまとしては、どの説が正しいかにはあまり興味がなかった。

 物心ついたときから、当眞の傍らには祖父だけがいた。

 古ぼけた喫茶店だけがあった。

 祖父は喫茶微睡を愛しており、病を患って店にその姿がなくなると、地元住民たちがこぞって寂しがった。どうにかして続けられないか、という声が寄せられた。

 当眞が後を継げばいいが、全時間フルタイムを捧げられない事情がある。

 日中は学業がある。学生の本分である学業を放っておいて喫茶店を継ぐとなると、祖父が良い顔をしない。祖父の目が黒いうちは、日中の営業は無理だろう。

 となれば営業時間は夜とするしかないが、そもそも祖父の姿がない喫茶店は微睡とはいえない。祖父の姿があってこその喫茶微睡だ。だから祖父不在で、浅夜あさよの三時間だけこっそり営業している喫茶微睡は、微睡であって微睡ではない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る