第5話 俺の持論
首筋に、じっとりと嫌な汗がまとわりついている。
起きる必要のある朝なのに、しっかり寝坊した。
目覚まし時計をかけていないため、寝惚けついでに投げつけて破壊してはいないが、時刻はすでに夕方近くになっていた。どうにも完全に体内時計が狂っているらしい。
「……明日にしようかな」
日が傾いていくのを見ると、みるみる決心が鈍る。
一花は夜な夜なハリネズミのシュークリームの試作を繰り返し、その中から選りすぐった出来栄えのものを十個、タッパーに詰めた。そこまではなんとかこなせたが、いざ、解雇された元の職場に向かおうとすると、足が竦んだ。
意を決して電車に乗るが、目的の駅のホームで過呼吸気味になった。
しばらく安静にしていると、なんとかかんとか持ち直した。
家路を急ぐ乗客たちは一花の横を素通りしていく。
もうすぐ営業時間も終わりに近づいていると思うと、このまま曲がれ右して、帰りたくなる。たかだか元の職場に顔を出すだけだというのに、どこまでも根性無しで、つくづく自分が嫌になる。
のろのろとゾンビのような足取りで、洋菓子店の前に辿り着いた。
間もなく店仕舞いの時間なので、客はまばらだった。ショーケースの中のケーキもほぼ完売に近い。一花が計量ミスをしでかしたぐらいでは潰れそうな様子はない。
店内に足を踏み入れる勇気が湧かず、遠巻きに眺めていると、一花に計量を任せた
「あれ、針谷ちゃんじゃん」
熊のように大柄なシェフ・ド・パルティがのしのしと近付いてくる。
「あ、ご、ご無沙汰してます」
滝のような汗が流れ、一花は気を失わないように立っているだけで必死だった。
さほど怖くないシェフ・ド・パルティが相手でこれなのだから、短気な製菓長を目の前にしたら、いったいどうなってしまうのだろうか。
「あ、あの……。これ……」
一花がおずおずとハリネズミのシュークリームの入ったタッパーを差し出す。
「どうしたの、これ」
「つ、作りました。わたしがパティシエになりたいと思ったきっかけなんです」
「そうなの。じゃあ、ありがたく頂くわ」
シェフ・ド・パルティが鷹揚に笑った。それから一転、真面目な調子で言った。
「ここだけの話だけど、製菓長が針谷ちゃんを一方的に辞めさせたのをスタッフ皆、快く思っていなくてさ。あんな辞めさせ方は有り得ない。スタッフ全員辞めますよ、って反乱を起こしてるんだよね」
「それは……申し訳ないです。ぜんぶ私のせいで……」
一花が平謝りする。
シェフ・ド・パルティが
「いいや、針谷ちゃんが謝ることじゃない。スタッフがちょっとミスすると、すぐに機嫌が悪くなって当たり散らすのはオーナーシェフ失格だよ。シェフの仕事はお菓子を作ることだけじゃない。人を育てなければならないし、チームもマネジメントしなければならない」
近くで製菓長が聞いてやしないかと思うと、冷や冷やする。
一花が押し黙っていると、シェフ・ド・パルティが店へ戻っていった。
「ハリネズミのシュー、ありがとう。いったん冷蔵庫に入れてくるから、ちょっと、ここで待ってて」
店前で待機を命じられ、一花は帰るに帰れずにいた。
店に背を向けたまま突っ立っていると、ひたすら時間の流れが遅く感じられた。
「おい」
「……ひ、ひゃい」
呼びつけられ、思わず声が裏返ってしまった。
この威圧的な声は、明らかにシェフ・ド・パルティの声ではない。
一花がおそるおそる振り返ると、片手に食べかけのハリネズミのシュークリームを持った製菓長が仁王立ちしていた。
――てめえ、よくうちの店に顔だせたな。
激怒する製菓長の顔がまざまざと思い浮かぶ。
恐怖で血の気が引くが、薄目で見た製菓長はさほど怒っていないようだった。
製菓長が一花の眼前にハリネズミのシュークリームを掲げた。
「あ、あの、それはただの試作品で。シェフのお口に合うか……」
一花があわあわしながら逃げを打つと、製菓長がつっけんどんに言った。
「これ、悪くないぞ」
「……へ?」
「まあ、うちの店で出せるクオリティじゃないがな。努力の跡は見える」
言うなり、製菓長がぽりぽりと頭を掻く。
少々気まずそうに、一花から視線を外した。
「俺が若い頃に修行していた店で、オーナーがハリネズミのシューを作っていたよ。懐かしいな」
「はあ、そうですか」
製菓長は修業時代を思い出しているのか、なんとも言えず優しい顔をしている。
厨房で激怒する顔しか知らなかったが、こんな一面もあったらしい。
「美味しい菓子を作ろうとするやつに悪いやつはいない。俺の持論だがな」
ハリネズミのシュークリームを口に放り込むと、製菓長がぶっきらぼうに言った。
「次の勤め先は決まっているのか」
「いえ、まったく……」
一花が伏し目がちに答える。
「起きられるようになったら、また来い。ここが嫌じゃなければな」
「……ありがとう、ございます」
思いがけない一言に、一花は深々とお辞儀をした。
「おう」
製菓長がひらひらと手を振った。
――美味しい菓子を作ろうとするやつに悪いやつはいない。
製菓長の言葉を頭の中で反芻しながら家路に着いた。
今はまだ見果てぬ夢だけど、いつか自分の作ったケーキを食べて、将来パティシエになりたいと願う子がいたらいいな、と思った。
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