第3話 喫茶微睡

 小一時間ほど電車に揺られ、東急東横線沿線の学芸大学駅に降り立った。一花がほとんど衝動的にやって来たのは、住宅街の外れにある古びた喫茶店だった。

 ぼんやりと明かりの灯った看板に「喫茶微睡」と書かれている。

 とっぷり日は暮れて、暗闇に包まれた店の前で一花は立ち尽くした。

 曇り硝子越しの店内は薄暗く、年季の入った木製扉を開けて中まで入っていく勇気は湧いてこない。しばし店の前をうろちょろしてみたが、客の出入りはなく、扉の向こうの世界を窺い知ることは出来ない。暗がりでぽつんと立ち尽くしていると、一花一人だけが世界から疎外されているような気がした。

 ――君、もう明日から来なくていいよ。

 製菓長の辛辣な言葉が脳内で幾度となく反響する。

 浮かれた様子で腕を組んだ男女のカップルが一花の背後を通り過ぎた。

 世間には陽気な笑い声が溢れているのに、自分には居場所なんてないのだと思うと、居たたまれない。どのみち、場違いなこの場所からは立ち去るべきだ。

 もう疲れた。帰ろう。

 一花が踵を返しかけると、やけに生真面目な声がした。

「こんばんは。寄っていかれますか」

「えっ、あっ……」

 振り返ると、すらりとした黒ずくめの青年が立っていた。近寄られるまで、ろくに足音も聞こえず、夜に紛れたようにほとんど気配がなかった。

「すみません、今日はちょっと開店時間が遅れてしまって。どうぞ中へ」

「えっ、あの……」

 一花は流されるまま喫茶店に足を踏み入れた。

 店内は薄暗く、筒形のランタンランプが淡い光を投げかけている。

 しばらくすると、暗さに目が慣れてきた。四人掛けのテーブルが二卓と、キッチンと客席を隔てる一枚板のカウンターがある。

「お好きな席へどうぞ」

 他に客はいないが、テーブル席に座るのはなんとなく気が引ける。一花がどこに座ろうかと視線を彷徨わせていると、青年がさり気なくカウンター席に目を向けた。

「会話するのがお嫌でなければ、どうぞ」

 べつに、話しかけられたくないわけではない。

 誘われるがまま、一花は紺色のエプロンを着けた青年の眼前に座った。

微睡まどろみに来るのは、はじめてですか」

「はい」

 青年は口数の少ない性質なのか、それっきり会話がなくなった。

 カウンター席にメニューの類いはなく、何を注文していいかも分からない。

 喫茶店というからにはコーヒーぐらいはあるだろうが、起きてからまだ何も食べていないため、軽食でもいいから頼みたかった。

 ナポリタン、オムライス、ピザトースト、卵サンド……。

 空腹を紛らわすために喫茶店の定番メニューを思い浮かべていると、不意に話しかけられた。

「お名前、なんて言うんですか」

「針谷です。針谷一花」

 初対面の相手に本名を隠すべきか迷ったが、咄嗟に偽名も浮かばなかった。

 名前を答えると、盛大に腹の虫が鳴いた。

 BGMのない静寂の店内で、取り返しがつかないぐらいに大きな音が響いた。

「……すみません。起きてから何も食べていなくて」

 一花が気恥ずかしそうに俯くと、青年は笑みをこぼした。

 起きたのは夕方なんですけど、というのは蛇足なので付け加えなかったが、なんとなく見透かされたような気がした。

「パンチのある物を食べたい気分ですか」

「はい。どちらかというと」

「じゃあ、ポークジンジャーなんていかがです?」

 ピザトーストやサンドイッチでもいいけど、もう少し重たいものが食べたいな、と思っていたところに、抗いがたい提案がやってきた。一も二もなく頷く。

「お願いします」

「かしこまりました」

 青年はさっそく調理を開始し、鉄製のフライパンで豚肉を焼き始めた。

 豚肉の両面を焼き終えると、火を止めた。

 ペーパータオルでフライパンの油を拭き取ると、玉葱、にんにく、生姜を加えた。醤油、味りん、酒、砂糖、はちみつ、酢を加え、中火でとろっとするまで煮詰めると、豚肉を戻し入れて絡めた。

「お待たせいたしました」

 神々しいばかりに照り輝くポークジンジャー、いわゆる生姜焼きはなんともいえぬ芳香を漂わせた。焦げ目さえも美しい肉の焼き色が食欲をそそる。

 付け合わせは生野菜のサラダ、ミニトマト、ブロッコリー。

「冷めないうちにどうぞ」

「はい。いただきます」

 青年に促され、一花はゆっくりとポークジンジャーを口に運ぶ。

 醤油ソースのがつんとした味わいと弾力のある肉を咀嚼するうち、なんだか無職になった悩みがちっぽけなものに感じられるようになった。

 美味しいものを味わっていると、とりあえず今日は生きている、と感じられる。

「ご飯はふつうのライスとガーリックライスがありますけど」

「じゃあ、ガーリックライスを」

「かしこまりました」

 手早く作られたガーリックライスを食すと人心地ついた。

 満腹になると、甘いものが欲しくなった。

「ご馳走さまでした。とても美味しかったです」

「食後にコーヒーをご用意しますね」

 青年は手慣れた様子でコーヒーを淹れた。

 挽かれたコーヒー豆をペーパーの敷かれたドリッパーに入れると、左右に揺すって、粉が平らになるようドリッパーを振った。平らになった粉面に、お湯を細く、一定の間隔で優しく注いだ。

 抽出されたコーヒーが点滴のようにぽたぽたと落ちていく。

 コーヒーを淹れる様子をまじまじと見つめていると、なんとなしに眠気に誘われる。

 無音の店内に響く滴下音が子守歌のようで心地よい。

 喫茶微睡。

 たった三時間しか営業していないみたいだけれど、率直にいい店だな、と思った。

 しかし、どうして三時間ばかりしか営業していないのだろう。

 引退間際の老店主というわけでもあるまいに。

 目の前の彼は、おそらく一花と同年齢ぐらいだろう。たぶんだが、二十歳そこそこ。

 喫茶店の店主というには、いささか若過ぎるような気がした。店外の暗がりでは分からなかったが、照明の下では無造作な黒髪と仄白い肌、切れ長の目がよく目立つ。

「あの……、失礼ですけど、店主さんですか?」

 興味本位で尋ねると、青年の表情にうっすらと影が差した。

夜久やく当眞とうまと申します。もともと祖父がやっていた喫茶店でしたが、今は体調が思わしくなくて。長く続いたお店をそのまま潰すのは忍びないので、夜の時間だけ間借りしているんです」

 詰るところ、目の前の青年は喫茶店店主の孫であるらしい。

「祖父の味はだいたい受け継いでいるはずなんですけど、常連客にはやっぱり違う、と言われるんですよね」

 秘伝のレシピがあったところで、同じ味を再現できるわけではない。

 自分語りをしてもいいものかと一瞬躊躇したが、一花がぼそぼそと小声で言った。

「あの……。わたし、パティシエなんです。といっても見習いで、無職になったばかりなんですけど」

 夜久当眞がぱちくりと目を瞬いた。

「なんで無職になっちゃったんですか?」

「……朝が起きられなくて」

 一花が言いづらそうに吐露すると、当眞が同情するように頷いた。

「分かります。朝起きるの、辛いですよね。僕も許されるなら、一日二十時間ぐらい寝てたいです」

 見ず知らずの相手に全面的に賛同してもらえて、心がいくらか軽くなった。

「針谷さんはどんなお菓子が得意なんですか」

「製菓学校で一通りは習いましたけど」

「なんでも作れるんですか、凄いですね。うちの店、ケーキとか甘いものは何もなくて。食後に締めパフェとか食べたいとか言われるんですけど、食事とコーヒーを出すだけで容量キャパオーバーで、甘いものまで手が回らなくて」

 一花は愛想笑いを浮かべると、気まずそうにコーヒーを啜った。

「なんでも作れたらいいんですけど……」

 退職の経緯を思い出すと、どんよりと暗くなった。一花以外に他の客はおらず、夜の底にいるかのような静けさがそうさせたのか、愚痴めいた言葉が思わず溢れ出た。

「洋菓子店に就職して焼き菓子部門に配属されたんですけど、卵白の計量をミスっちゃったんです。シェフにうちの店を潰す気かって激怒されました。朝起きれないこともあって何度も遅刻してたら、君もう明日から来なくていいよ、って言われちゃって」

 退職に至った顛末を語るうち、ほろほろと涙が零れていた。

「わたしの人生を全否定された気がして。わたしは何のために働いているんだろうって思って。ものすごく絶望的な気分で、それでもお腹だけは減って」

 一花がおいおい泣きながら、心に溜まっていた澱を早口で捲し立てる。

 カウンター越しで黙って聞いていた当眞が慰めるように言った。

「そのシェフは駄目ですね。ちょっと計量をミスしたぐらいで売り物にならないわけはないし、新人がミスをしたなら付きっ切りで指導するぐらいの度量は欲しい。忙しくて余裕がないからだろうけど、そういう店で人は育たない」

 全面的に擁護してくれたけれど、庇われるほど惨めな気持ちになる。

 計量ミスは退職を迫る建前に過ぎない。

 何もかも悪いのは、朝起きれない一花のせいだ。

「針谷さん、ひとつ質問をしてもいいですか」

「なんですか」

「いちばん好きなお菓子はなんですか」

 率直な問いかけに、一花は迷うことなく答えた。

「ハリネズミのシュークリームです」

 母が催事で買ってきた可愛らしいハリネズミのシュークリーム。

 あのハリネズミのシュークリームを自分の手で作りたい、という一心で、製菓専門学校に通った。

 しかし、得てして初心というものは忙しさに埋没すると綺麗さっぱり忘れてしまうものらしい。毎日、製菓専門学校のカリキュラムをこなすことに必死で、結局、自分の手でハリネズミのシュークリームを作ったことはなかった。

「ハリネズミのシュークリームですか。それ、食べてみたいです」

 当眞が何気ない調子で言った。

「でも自分で作ったことはなくて」

「じゃあ、今度作って持ってきてください。楽しみにしてますね」

 にこやかに押し切られた。

「納得する味ができたら、お持ちします」

 ――納得のいく味?

 そんなもの、果たして出来るのだろうか。

 朝も起きられやしないのに。

 一花は食事の料金を支払うと、逃げるように退店した。

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