第5章 紅椿の記憶(下)

「……茜、しっかりしろ!」


誰かの声が、遥か彼方から響く。


その声に導かれるように、茜はゆっくりと目を開けた。

見慣れた庭の風景が、まぶたの向こうに滲んでゆく。


陽光が差し込み、椿の花が枝の間に揺れていた。


「……千隼、様……?」


気づけば、自分は彼の膝枕の上に横たわっていた。

千隼の手が額に当てられ、彼の表情には焦りが浮かんでいる。


「気を失っていたんだ。……箱に触れたあと、急に倒れて」


「……夢を見ていました。母様が、私の記憶と力を“封じる”場面を……座敷の中で、紅椿の歌を歌いながら……」


千隼は、深く頷く。


「それが、“もうひとつの箱”だ。

お前が生まれたとき、由乃様はすでに逃げる準備をしていた。異能の“核”はただ継承されるだけじゃない。その人間の心ごと、継がれるんだ」


「……だから母様は、“わたくしごと”箱に閉じ込めたんですね」


茜は、そっと木箱を見た。


箱は小さく、装飾もない。けれど蓋を開けると、中には一枚の和紙と、赤い組紐で綴じられた布包みが入っていた。


手紙だった。


茜は震える手で和紙を取り上げ、母の筆跡を目で追った。



――茜へ


この手紙を読んでいるということは、あなたが自分の“中身”に気づいたのでしょう。


ごめんなさい。

私はあなたを生かすために、あなたから“真実”を奪いました。

あなたが笑えるように、あなたが誰かを信じられるように、私は久我の家から逃げました。


でも、透はきっと……あなたを見つけに来る。


あの子は、私の子であると同時に、久我家の“後継”として育てられた子。

あの子には選ぶ自由がなかった。

だからこそ、私はあなたに、自由を残したかった。


どうか、茜。

力ではなく、心で選んでください。


あなたが愛する人と、共に歩む未来を。

それが私の、たった一つの願いです。


あなたの母、由乃より。



読み終えたあと、茜はしばらく言葉を失っていた。


頬に、ぽたり、と雫が落ちる。


「母様は……わたくしに、“自由”を残したかったんです。兄様にはそれが与えられなかったから、わたくしは……」


「その自由が、どれほど貴重なものか、今のお前ならわかるはずだ」


千隼の声は優しかった。


彼の言葉が、茜の心の深いところで灯を灯す。


「でも、兄様はきっと……このままじゃ引き下がりません」


「来るだろうな。おそらく、継承の儀を強引にでも行うつもりだ」


「……なら、わたくしが先に“自分を知る”必要がある。もう一度、久我の屋敷に行って――過去と向き合わなければならない」


千隼は立ち上がり、茜に手を差し出した。


「共に行こう。……お前の過去も、兄との因縁も、全部背負って進め。そのために、私はここにいる」


茜は、差し出された手をしっかりと握った。


その温もりは、今まで感じたことのないほど強くて優しい。


「……ありがとうございます、千隼さま」


椿の花が、ひとつ、はらりと落ちた。


けれどそれは、終わりではない。


始まりの予兆だった。


その夜、空には雲ひとつなく、月だけが冴え冴えと照っていた。


茜の部屋の障子越しに、銀白の光がさしている。

床に影を落とす椿の模様が、まるで何かを語りかけるようだった。


けれど茜の心は静かだった。

いや、静かでいようと努めていた。――揺れないように。

この道を選ぶと決めたから。


「……明日、行くのですね」


そっと障子を開けたところに、女中の沙絵が立っていた。


「千隼さまが、準備を整えてくださっています。馬車も、夜明け前にはこちらへ」


「……ありがとう、沙絵さん。

わたくしのせいで、屋敷に波風を立ててしまってごめんなさい」


「いえ……」

沙絵は少し目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げた。


「あなたの覚悟が、私たち女中の心にも届いています。……どうか、気をつけて。久我の地は、誰もが自由になれる場所ではありません」


その言葉は、まるで彼女自身も“そこ”に何かを置いてきたかのようだった。


茜は静かに頷くと、箱の中から母の手紙を取り出し、もう一度だけ目を通した。

その筆跡に宿る感情が、今は胸を温めてくれる。


「わたくしは……母様の想いを、継ぎたい。

力の継承ではなく、“心の継承”を」


窓の外、風が吹き、椿の花が再びひとつ落ちた。


それはまるで、決意の証のようだった。



翌朝、夜明け前の青白い空の下で、茜と千隼は屋敷の門を出た。


まだ人通りのない街路を、馬車の車輪が静かに軋む音が響く。


「……久我家に入るのは、何年ぶりでしょうか」


「私も久しぶりだ。……けれど、変わらない。

あの屋敷は時が止まったように、いつまでも“あのとき”のままだ」


茜は窓から見える景色を眺めながら、手に握った母の手紙をそっと胸元に仕舞った。

あれは、ただの遺書ではない。――今を生きるための“鍵”なのだ。


「千隼様……わたくし、あの場所に行っても、兄様を恨みきれないかもしれません。怖くても、どこかでまだ……小さなころの兄様を、思い出してしまう」


「それでいい」

千隼の声は低く、けれど優しい。


「誰かを恨むために生きる必要はない。お前はお前のために、歩けばいい。……もし、その先で兄がお前を縛るなら、私がその鎖を断つ」


その言葉は、胸に灯る薪のようだった。


寒さに凍えそうな過去の記憶を、温もりで溶かしてくれるような。


「……ありがとうございます、千隼様」


馬車はゆっくりと森へ入っていく。

久我の屋敷は、深い樹々の奥、霧の向こうにひっそりと存在している。


茜はそっと目を閉じた。


あの日、母と最後に逃げたあの夜。

焼け落ちるような赤い夕焼けと、兄の泣き叫ぶ声が、ふと脳裏に蘇る。


――あれは、終わりじゃなかった。


もう一度、あの場所へ戻る。


自分の意志で。自分の足で。


そして、“継承されるべきもの”を、自らの手で選ぶために。


馬車は静かに止まった。


木々に覆われた古道の奥、白霧の向こうにその屋敷はあった。


久我の本家。

母が逃げた場所であり、茜が最も深く記憶を閉じた場所。


門は重々しく、枯れ木のように歪んでいた。

けれど不思議なことに、どこにも苔も蔦もない。

まるで誰かがずっと、手入れをしていたかのように。


「……変わっていないわ」


茜は、わずかに震える声で呟いた。

それは恐れではなく、何かもっと奥深く、

忘れたはずの“懐かしさ”に似た感情だった。


「誰かが、ずっと住んでいたのだろう」

千隼の視線が門を越え、屋敷の奥を見つめる。


門を押すと、重たい軋みとともに開かれた。

そして、懐かしい木造の屋敷が姿を現す。


廊下の先に、座敷があった。

かつて茜が幼い頃、母と共に過ごした場所。


障子には、椿の模様が染め抜かれている。

その奥には、もう誰もいないはずだった。


けれど、そこに――人の気配があった。


「……誰かが、いる?」


茜は自然と歩を進めていた。

懐かしい板のきしみ、障子越しに差す淡い光、

全てが記憶の中と寸分違わずそこにある。


そして、その座敷の前で足を止めた。


「……ここが、“箱”を封じた部屋」


母が紅椿を歌った部屋。

すべてを封じるために、彼女が最後に立った場所。

茜は深く息を吸い、障子に手をかけた。

指先が震えている。けれど、もう迷わない。


――ギィ、と音を立てて障子が開く。


畳の香り、懐かしい襖、陽の差す床の間。

そこにひとり、背を向けた人物が立っていた。


黒い羽織に、静かな背中。

その気配は、幼い記憶の中に深く刻まれている。


「……兄様」


その背が、わずかに動いた。

振り返ったのは、あの透――

かつての優しさを閉ざした、鋭い瞳の兄だった。


「……来たのか。茜」


彼の声は低く、静かだった。

けれどその奥に、張り詰めたものがあった。


「来るだろうと思っていた。

……母上の手紙が、お前をここへ導くことも」


茜は一歩、踏み出す。

千隼は彼女の後ろで、無言のまま見守っていた。


「兄様、どうして……あの時、母様を追わなかったの?」


その問いに、透は目を伏せた。

そして、小さく、ほとんど聞こえない声で呟いた。


「……追えなかったんだ。俺には、“継承者”としての義務があった。あのとき、母上と一緒に行けば……俺は久我の家を捨てなければならなかった」


「義務よりも、家よりも、母様よりも……“異能”が大事だったの?」


茜の声には怒りがあった。けれどそれよりも深い、哀しみが混じっていた。


透はただ、黙っていた。


彼の沈黙は、答えを拒むものではない。

答えそのものが、既に彼の中で崩れていたのだ。


「――儀式をする」

透は、再び顔を上げて言った。


「お前の“力”が目覚めたのなら、今こそ継承の儀を行うときだ。……俺たちは、それぞれの“役割”を果たす必要がある」


「わたくしの“役割”は、わたくしが決めるわ」


茜は毅然と答えた。

背後で千隼の気配が、わずかに動く。


透の目が、初めて千隼を見据えた。


「……青柳。君が、茜の傍にいるのか」


「当たり前だ。俺は、彼女の“守り人”だ」


短く、強く。

その言葉が座敷の空気を切り裂いた。


一瞬、空気が張りつめる。


透の目が、かすかに揺れる。


そして、彼は一歩だけ茜に近づいた。


「それでも……来るべき儀式の刻は近い。

“箱”が開かれた今、この家の“血”は黙っていない。お前が選ぼうと、抗おうと――継承は、止まらない」


その言葉の意味を、茜はまだ完全には理解していなかった。


けれど、その奥にある「何か」が――

遠い昔から、この屋敷に眠る“何か”が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。


夜は深く、久我の屋敷を包む森は静まりかえっていた。


灯の落とされた廊下を、茜はひとり歩いていた。

木の床はひんやりとして、足音が吸い込まれていく。


母と過ごしたあの座敷でのやりとりのあと、

透はもう多くを語らなかった。


「儀式は明日の夜。日が落ちて、月が昇る頃に」


ただ、それだけ。

彼の声は乾いていた。まるで何かを諦めた者のように。


――継承の儀。


それが何を意味するのか、茜にはまだ見えていない。

けれど、自分の“力”が誰かにとって「必要」なのだということだけは、ひしひしと感じる。


(この力が、誰かを縛るものなら――)


茜は、小さな中庭に足を止めた。


月が高く昇り、石灯籠に淡い光を落としている。

池の水面には、紅椿がひとつ、静かに浮かんでいた。


「……眠れないのか」


背後から声がした。


振り向けば、月光を背に、千隼が立っていた。

浅葱色の羽織に夜の風がそよぎ、そのまなざしはどこまでもまっすぐだった。


「……はい。考えすぎて、眠れそうにありません」


茜は微笑もうとしたが、それは少しだけ震えていた。


「明日の儀式。それがどんなものであっても、わたくしは逃げないと決めました。でも……不思議なんです。怖いはずなのに、どこかで、“兄様を助けたい”って思ってしまうんです」


「茜」


千隼はそっと近づき、彼女の肩に手を置いた。

その手はあたたかく、どこか懐かしい春の陽だまりのようだった。


「お前はそれでいい。誰かを恨まず、手を差し出せるお前だからこそ、……私は守りたいと思った」


その言葉に、胸が締めつけられた。


「……でも、わたくしには何もできない。兄様の心に届くかもわからない。この“力”だって、ただ怖いものでしかないのに……」


千隼は少し黙ったあと、ふと懐から何かを取り出した。それは、小さな懐中時計だった。


「これを、お前に」


「……これは?」


「お前の母上から預かったものだ。

“いずれ娘が道に迷いそうになったとき、渡してほしい”と」


茜はそっとその時計を受け取った。

金属の表面には、わずかな傷があり、けれど大切に使われてきた形跡があった。


蓋を開けると、中にはひとひらの椿の押し花。

そして、もう一枚――小さな紙片が隠されていた。


《真に継ぐべきは、“力”ではなく、“想い”》


その筆跡は、間違いなく母のものだった。


「……母様は、最期までわたくし達の幸せを祈っていたんですね」


「そうだ。そして、それはきっと、透の心にも残っている。……たとえ今は見えなくても」


茜は押し花を見つめながら、胸の奥に確かに何かが灯るのを感じた。


それは炎ではなく、光でもない。

けれど、“道を照らす何か”だった。


「千隼様……わたくし、負けません。この手で、“継承”を変えてみせます。血に縛られず、想いを選ぶ儀式に……!」


その瞳に宿った決意に、千隼は静かに頷いた。


月明かりの下、ふたりの影はそっと寄り添い、

やがて朝の訪れを待つように――風の中に溶けていった。


夜は深く沈み、月は空の頂に満ちていた。


久我の屋敷の奥、かつて“禁忌”を封じたという座敷に――灯がともる。

柱には結界の札が打たれ、空気は張り詰めていた。


床の間には紅椿の花が一輪、まるで見届けるように静かに活けられている。


茜は正座し、目を閉じていた。

その傍らに、千隼の姿がある。凛と背筋を伸ばし、彼女のすぐ後ろに控えていた。


そして、障子がゆっくりと開かれる。


現れたのは、透。


深紅の羽織をまとい、かつて見た兄の面影はその瞳に影を落とすのみ。

けれど、どこか哀しげなその姿は、今でも「家」の重荷を背負っているようだった。


「……来たのだな、茜」


「ええ。兄様に言われなくても、わたくしはここへ来ると決めていました」


茜は静かに立ち上がる。

その姿に、透の目がわずかに揺れた。


「……継承の儀を行う。お前の力が“鍵”であり、我ら久我の血筋の証明だ。その力を、我が身に引き継ぐために――」


「いいえ」


茜の声が、凛として響いた。


「わたくしは“力”を渡しに来たのではありません。わたくしは、自分の意思でここに立っています。この力をどう使うか、どう継ぐか、それは“家”ではなく、“わたくし自身”が決める」


透の眉がわずかに動いた。

けれど彼はすぐに、それを冷たく覆い隠す。


「それでは、久我の名は絶えるぞ。母上が何をしたか忘れたのか。異能を封じた女だ。……お前もまた、母上のように逃げるというのか」


「逃げません。わたくしは……兄様と向き合うために、ここに来たんです」


その言葉に、透の目が鋭くなった。


部屋の空気が震えた。畳の上に、冷たい風が走る。


「ならば力で示せ。久我の継承は、心ではなく力によって行われる。それが代々の定めだ。母上がどれほど抗っても、それは変わらなかった」


「兄様……!」


茜が叫ぼうとしたその時――


千隼が前に出た。


「それが“定め”なら、私が壊す」


静かな声だった。けれど、その言葉には確かな意志と怒りがこもっていた。


「千隼……様……?」


茜が目を見開く。


千隼は、茜を背に庇うように立った。


「茜の力を奪い、家の名を継がせることで、何が救われる。……お前が守りたいのは、“久我”なのか、それとも“妹”なのか」


その問いに、透は声を失った。

ほんの一瞬、彼の目に浮かんだのは、幼い頃の記憶だった。


妹と笑いあい、母の歌を聞き、温かい灯のもとで過ごした日々。


「……だが、もう戻れない」

透は低く呟いた。


「俺は、“家”に縛られることを選んだんだ」


「なら、私は――“家”よりも、“彼女”を守ることを選ぶ」


千隼の声が、座敷に響いた。


その瞬間、茜の内に眠る“力”が、わずかに応えた。


――紅椿が、ゆっくりと花開く。


茜は、立ち上がった。


「兄様。わたくしが継ぐのは、異能ではなく――“母様の想い”です。痛みも哀しみも、人の心を縛る鎖も……わたくしは全部、終わらせたい」


透の足元がふらりと揺らいだ。

その瞳が、妹を見据える。


「……なら、証明してみせろ」


透の掌が、式符を走らせる。

部屋の空気が変わり、異能の気配が満ちていく。


そして――儀式が始まった。



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