第6章 紅椿の継承

――式符が燃える音が、静かに座敷を満たす。


透の手から放たれた異能は、空間をねじ曲げるように周囲の気を震わせ、結界の札が一枚ずつ淡く発光していく。智恵の目の前に現れたのは、淡紅色の光に包まれた――過去の残滓だった。


「これは……」


智恵の瞳に映るのは、まだ幼かった自分と、兄。そして母が揃って笑いあっていた、あの日の縁側の光景だった。


「兄さま……覚えていますか? 母がよく歌っていたわらべ唄。『椿の咲く庭で待つ』って――」


「やめろ……!」


透の叫びが、式の中心で炸裂する。


「そんなものを思い出して、何になる! あの女は異能から逃げ、家を裏切った! だから俺は……」


「……違います」


その声は、智恵のものではなかった。


座敷の隅から、静かに、けれど確かに届いたその声――


隆一郎だった。


「母上は、“逃げた”んじゃない。

お前たちを、智恵を、守るために――“命を懸けた”んだ」


透が振り返る。その瞳に宿る動揺が、闇の中で揺れている。


隆一郎は静かに踏み出した。


「久我の力は、人を傷つけることもある。

異能に溺れれば、心さえ呑まれてしまう。

……お前は、その恐ろしさを知っているからこそ、“継承”という言葉に囚われている」


「違う……俺はただ……」


透の足元に、揺れる影が現れた。


それは、椿の花弁で形作られた女の姿――母だった。


「透……」


その声は、風のようにやさしく、苦しげだった。


「母上……!」


透の式が崩れ始める。燃えていた符が風に舞い、結界が緩みはじめた。


「あなたは、誰よりも優しかった。

智恵を守ろうとして、父の命に逆らえず、それでも……ずっと苦しんでいたのよね」


母の影が、透の頬にそっと手を伸ばすように揺れる。


「でもね、透。

“守る”ということは、力を振るうことじゃない。

愛する人の選択を、信じて見守ることでもあるのよ」


透の膝が崩れ、彼はその場に座り込んだ。

顔を伏せ、肩が小刻みに震える。


「……俺は、母上を……智恵を、守りたかっただけなのに……」


智恵は、ゆっくりと透の前へ歩み寄る。

そして、彼のそばに膝をついた。


「兄さま。

私は、兄さまに守ってもらってきた。

だから今度は、私が兄さまを助けたい。

一緒に、“久我の継承”を変えましょう。

力に頼らず、想いを伝える家に……」


透の目に、初めて涙が溢れた。


まるでその一滴が、長い呪縛をほどく鍵のように。


――そして、紅椿がはらりと一輪、智恵の手のひらに舞い降りた。


その花びらが光に包まれ、異能の残響はゆっくりと座敷を離れていく。


隆一郎は黙ってそれを見届けながら、智恵の背に目をやった。

その表情には、安堵と、かすかな誇らしさが浮かんでいた。


「……よく、やったな」


智恵は、透の肩にそっと手を置いたまま、小さく微笑んだ。


そして儀式は終わり、久我家の“継承”は、力から想いへと静かに移りゆく――。


儀式の夜が明け、久我家の屋敷には静けさが戻っていた。


座敷の結界はすでに解かれ、燃え尽きた式符の残り香だけが、まだ空気の中に名残を残していた。


茜は、庭に面した縁側にそっと腰を下ろしていた。


春先の空気はまだ少し冷たく、けれど凛とした静けさを纏って心にしみる。

庭の紅椿は、昨夜の余韻を映すかのように、ひとつ、またひとつと花開いていた。


「……ここにいたんだな」


背後からかけられた声に、茜はそっと振り返る。


そこには、千隼が立っていた。


着物姿のまま、少し乱れた髪に朝の光を受けて――けれどそのまなざしは、いつも通り真っ直ぐで、やさしかった。


「儀式のあと、すぐに姿が見えなくなったから……心配していた」


「……少し、風にあたりたくて」


そう答えながら、茜は小さく微笑んだ。


「兄様と、ちゃんと向き合えた気がします。……それでも、まだ全部は許せていないかもしれませんけど」


「許せなくていい。過去はそう簡単に変えられるものじゃない。でも、透が涙を流せたのは……お前が、ちゃんと心をぶつけたからだと思う」


千隼は隣に腰を下ろした。

縁側の板が微かに軋み、二人の距離が少しだけ近づく。


「……わたくし、自分の力がずっと怖かったんです。母様もそれで苦しんで、兄さまも縛られて……。けれど、千隼様が隣にいてくれたから、わたくし、あの場に立てました」


静かな風が紅椿の花を揺らす。


千隼は、それに目をやりながら――


「私は……お前の力が怖いと思ったことは、一度もない」


そう言って、茜のほうをまっすぐ見た。


「怖かったのは――お前が、自分の力を嫌いになってしまうことだった。それだけは、どうしても嫌だった」


茜の目が、驚きと、切なさと、なにかあたたかなもので揺れる。


「……千隼様が、いてくれてよかった」


そう呟いたとき、茜の肩に、千隼がそっと羽織をかけてくれた。


「……まだ、冷えるからな」


彼の手が触れた場所が、かすかに熱い。


けれどそれは、冷たい風を忘れさせるような、あたたかさだった。


しばし、ふたりの間には言葉もなく、静かな時間だけが流れる。


そして茜が、ふと問いかけるように囁いた。


「……この先、わたくしが力に呑まれそうになったら……」


「その時は、俺が叱ろう」


千隼は、微笑を浮かべた。


「泣いていたら、笑わせよう。迷っていたら、隣で待とう。……お前がどこにいても、私は、お前を見失わない」


茜の頬がわずかに赤く染まる。


けれど茜は、はにかむように微笑んで――


「……ありがとうございます。千隼様がいてくれるなら、きっと、前に進める気がします」


そして、紅椿の花が一輪、茜の膝の上にふわりと落ちた。


それはまるで、ふたりを祝福するように。


春はもうすぐそこまで来ていた。


儀式から一夜明けた朝。

茜は、母の位牌が祀られている離れの仏間にいた。


清められた香の香りが静かに漂い、窓から差し込む朝日が、仏壇の金箔を柔らかく照らしていた。


「……母様。兄様と話せました。ようやく、ちゃんと」


手を合わせながら、茜は心の中で言葉を繋いだ。


「母様の願いは、たぶん、家のために犠牲になることじゃなかったのよね。わたくしたち兄妹が、互いを想い合えるように――それが、母様が残してくれた椿の力だったのだと、今は思える」


ふと、障子の向こうから、そっと足音が近づく。


「……入っていいか」


その声に、茜は頷いた。

入ってきたのは、千隼だった。


「仏間に、兄様を呼ぶべきか迷ったのですが……きっと、まだ向き合う時間が必要だと思って」


「……そうだな。透なりに、整理してるのだろう」


千隼は少しだけ微笑みながら、茜の隣に静かに座った。

仏間の空気に、ふたりの呼吸が静かに溶けていく。


「今朝、透に会った。

庭の椿を剪定していて……昔のように、無口な背中で。ほんの少しだけ……表情が穏やかになっていた気がした」


「……そう、ですか」


茜は目を伏せたが、その口元には確かに安堵の色があった。


千隼はそっと、畳の上に手をついて続けた。


「茜。これからも、この家のなかには難しいことがあるだろう。だが、私はお前の隣で、その全部と向き合っていきたい」


その言葉に、茜はそっと顔を上げた。


「……わたくしは、まだ強くはなれていないと思います。けれど……それでも、千隼様が隣にいてくれるなら、向き合っていける気がします」


ふたりの視線が重なり合う。

外から風に乗って、庭の椿の香りが仏間にまで漂ってきた。


「春が……近いですね」


茜がぽつりと言った。


「ああ。そろそろ、桜の蕾も膨らむ頃だろう」


千隼の声に、茜は静かに頷いた。


そのとき、ふたりの間に流れた時間は、言葉よりも確かに――未来への予感を告げていた。



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