第5章 紅椿の記憶(上)

夜が明けても、茜の胸の中には昨夜の夢の余韻が濃く残っていた。


朝の光は優しく、庭に差し込む光が紅椿の花を透かしている。

けれど、その光景さえ――どこか夢の中と地続きのように感じられた。


部屋に差し込む春の風が、畳に落ちた羽織の裾をゆらりと揺らす。


白地に淡く浮かんだ「紅椿の紋」。

確かに夢の中で見たはずの紋が、現実の布にも刻まれていた。


「これは……何かの印?」


茜は、羽織の端をそっと指先で撫でた。

紅椿は、久我家の家紋ではない。けれど、彼女の記憶のどこか深い場所に、その花は焼きついていた。


――母がいつも刺繍していた椿の花。

――病に伏せた晩、母の枕元に一輪だけ生けられていた椿。


“久我の血を断つための印”――

そんな言葉が、夢の中で誰かに囁かれたような気もする。


「……母様……」


ぼんやりとした思考のまま立ち上がり、茜は庭へと出た。

冷えた空気が頬に触れ、ようやく意識が澄んでいくのを感じる。


ふと視線を上げると、庭先の縁台に、千隼の姿があった。


黙って煙草をくゆらせていた彼は、茜に気づくと火を消して立ち上がる。


「……眠れたか?」


「……ええ。けれど、夢を見ました。……久我家の夢」


「夢の中に、透がいたのか?」


茜はこくりと頷いた。

そして、羽織の裾を見せる。千隼はそれを一目見るなり、目を細めた。


「……紅椿」


「千隼様も……ご存じですか?」


「これは久我家の者には知られていない――隠された“印”だ。お前の母君、由乃様が残した“封印の証”らしい。力を閉じる術とともに施される、特別な印だと聞いたことがある」


「……母様が……わたくしに……」


そのとき、茜の中で何かがほどけるように、幼いころの記憶が一つ、泡のように浮かび上がった。


――まだ六つの頃。熱にうなされていた夜。

母が自分を胸に抱いて、そっと子守唄を口ずさんでいた。


「椿の花が咲いたなら あなたは人の子になれる火の夢を見ても、どうか忘れてひとりきりで 歩かぬように……」


「……歌……母様が、よく歌ってくれていた……」


茜は頬に浮かんだ涙を拭いもせずに呟いた。


そのとき、千隼がそっと隣に座り、庭に咲く紅椿をじっと見つめる。


「茜。お前がこれから何を視ようと、何を思い出そうと――……私は、お前を見捨てない」


「……どうして、そんなに優しくしてくれるのですか?」


「理由がいるのか?」


「ええ……わたくしは、あなたの迷惑になるかもしれないのに」


千隼は静かに息を吐いた。


「迷惑と思ったことは一度もない。それに……お前の母上には、かつて俺が命を助けられたことがある。それを言えば、お前はますます気に病むだろうが……」


茜は目を見開いた。

けれど千隼はそれ以上語らず、ただ椿の花を見つめ続けていた。


「椿が落ちるときは、一輪すべてが落ちる。

……だから昔の人は“縁起が悪い”と忌んだ。

けれど、お前の母上はそうは言わなかった。

“すべてを抱いたまま、静かに終わる花”――それが母君の言葉だった」


茜の胸に、またひとしずく、涙がこぼれ落ちた。


春の光に照らされた紅椿が、ゆっくりと一輪、風に揺れて――


まるで夢の続きを告げるように、ひとひらずつ、地面へと落ちていった。


風が落とした椿の花は、地に伏したまま動かない。


赤く染まった花弁が、まるで何かを告げるように、茜の足元で静かに広がっていた。


千隼の横顔を見つめながら、茜はそっと口を開く。


「……千隼様が、母様を知っていたこと、嬉しいです。わたくしの中で、母様はずっと遠い人のようだったから……」


「由乃様は、お前を守るために久我家から逃れた。それが、どれほどの覚悟だったか……私には、少しだけわかる気がする」


千隼の声は低く、けれど不思議なほど柔らかかった。


「久我家がどれほど“力”に囚われていたかもな。……透は、恐らく“継承の儀”を始めようとしている。お前の力が芽吹く前に、その“核”を取り込もうとしているんだ」


「“核”?」


「異能はただの“技”ではない。久我家ではそれを“魂の系譜”と呼ぶ。お前の母上は、それを断ち切るために紅椿の封印を施した。……だが、透はその封印さえも打ち破る方法を手に入れたらしい」


茜の背中に、ひやりとした風が流れる。


彼女の中にはまだ、はっきりとした力の覚醒はない。けれど夢と現の境が曖昧になりはじめてからというもの、感覚のどこかで何かが“育っている”のを感じていた。


「では……わたくしがこのまま目覚めれば、兄にその“核”を――」


「だから、守る」


千隼の言葉は、まっすぐだった。


「お前は、お前の意思で選んでいい。

その結果、私が剣を取ることになっても構わない。……茜、俺はずっと――」


その言葉の続きを告げる前に、屋敷の門から足音が聞こえた。


それは急ぎ足で、けれど重々しい気配を纏っていた。


下働きの女中が慌てた様子で駆け寄ってくる。


「旦那さま、奥さま――いえ、茜さまに、お客様が……!」


「客? 今、誰が……」


千隼が立ち上がったその時、門の向こうから聞き慣れた、けれど冷たい声が響いた。


「妹よ。……良い朝だな。まだ紅椿は散りきっていないようだ」


その声に、茜の背筋が凍りついた。


ゆっくりと振り返る。


門の前に立っていたのは、黒衣に身を包み、無表情にこちらを見下ろす一人の男――

久我 透だった。


まるで影が実体を持ったようなその存在に、空気が張り詰める。


「兄様……どうして……」


「迎えに来ただけだ。茜、お前の“目覚め”が近い。だからこそ、今ここに来た。青柳の庇護はもう必要ない。お前は――久我家に戻らねばならぬ」


「……断ります」


茜は、唇を噛みしめながら、はっきりとそう言った。


透はその言葉に微笑を浮かべる。けれど、その瞳は一寸の温もりも持たない。


「まだ夢の続きを視ていないのだろう?“箱”はまだ、一つしか開いていない」


「……!」


「さあ、妹よ。もうひとつの箱が開かれたとき、お前は選ばねばならない。“人”として朽ちるか、“異端”として継がれるか――」


そう言い残し、透は再び門の向こうへと姿を消していった。


残された空気には、冬のような冷気だけが残っていた。


茜は胸に手を当てて、必死に鼓動を抑えていた。


「……夢の、続きを……?」


彼女の中で、もう一つの“箱”が静かに揺れはじめていた。


門が閉じられてからもしばらく、屋敷には静けさが戻らなかった。


風は止み、椿の花も動かず、空気のひとしずくさえ緊張に沈んでいるようだった。


「……本当に、来たんだな。あの男が」


千隼は低く呟きながらも、茜の方へとすぐに向き直った。


千隼は庭の縁に腰を下ろし、まだ心の奥がざわついているのを感じていた。

兄の声、あの冷たい眼差し、そして告げられた「もうひとつの箱」――


「箱って……いったい、何のことなんでしょう」


茜の言葉に、千隼は少し考えてから答える。


「かつて由乃様が、何かを“二つに分けて”封じたと聞いたことがある。その一つが、お前の中にある“力”。そしてもう一つは……お前自身が忘れている“記憶”だ」


「記憶……」


「封じられた記憶が目覚めたとき、お前の中の“核”が完成する。透はそれを狙っている。

だから、夢を通してお前の記憶を揺さぶっているのかもしれない」


茜は、庭の紅椿を見つめた。花は散らず、ただその場に在る。

まるで自分の心のように。


「……怖いです。

けれど、逃げてばかりでは何も守れないって、千隼様が教えてくれたから……わたくしは、知りたい。私の中にある記憶を。母様が何を守ろうとしたのかを」


その決意の言葉に、千隼は静かにうなずいた。


「ならば、共に行こう」


「どこへ?」


「お前が夢で見た“座敷”。……久我家の裏屋敷に、古い土蔵がある。そこに由乃様が“何か”を遺したと、私はかつて密かに聞いた。それが“もうひとつの箱”だとしたら――今こそ、開くときだ」


茜は、ぐっと唇を結んだ。


久我家――それは彼女にとって、忌まわしい記憶と、失われた家族の象徴だった。

けれど同時に、そこに残された“真実”を知らなければ、自分は何者にもなれない気がしていた。


「……行きましょう、千隼様。怖いけれど、あなたとなら、きっと……」


そのとき、屋敷の奥から控えめな足音が近づいてきた。


女中の一人が、慎重に言葉を選ぶように口を開く。


「……あの、旦那様、茜様。お庭の椿の根元に、妙な“木箱”が……埋められていたのを見つけました」


「――!」


茜の胸が跳ねる。


椿の根元。


それはまさに、今朝、茜が夢を見ていた場所。

母が子守唄を歌っていた記憶の傍ら。


「案内してください」


茜は立ち上がり、女中のあとを歩き出す。


千隼もそれに続く。


庭の椿の根元――

風もなく、空も静かだった。けれど、確かにそこには“何か”が埋められていた。


小さな、手のひらほどの木箱。

鍵はかかっておらず、けれど触れるだけで、胸の奥がざわりと疼くような気配。


「……これが、“もうひとつの箱”?」


茜がそっと手を伸ばす。


その瞬間――


世界が、音を失った。


いや、音が消えたのではない。

茜の意識が、すべてを手放して、記憶の底へ沈んでいったのだった。




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