第4章 封じられた言葉と、白椿の記憶
翌朝。
空は春霞のような淡い光に包まれ、庭に咲き始めた白椿がひとしずく、露を落とす。
茜は静かに目を覚ました。昨夜は千隼と短い言葉を交わしたあと、もう一度布団に入り、ようやく深く眠ることができたのだった。
だが目覚めた今、胸の内に残っているのは、あの箱、そして――母の手紙。
陽が差し込む書見机の上に、茜はその文をそっと広げた。
筆の運びは震えがちで、墨も少しにじんでいた。けれど、その一字一字には、確かな情念がこもっている。
『茜へ。
この手紙を読む時、あなたがどこでどのように生きているのか、私はもう知ることができないでしょう。
でも、たったひとつ。私はずっと、あなたを守りたかった。
あの家――久我家には、代々伝わる“呪い”のようなものがあります。
それは、病という名を借りた、血の記憶。
一部の者は、人の感情や意志の残滓を“視る”力を持つ。
ときにそれは過去の災い、ときに未来の断片。
けれど代償に、その者自身が感情を失い、心を病むこともある。
あなたの兄――透もまた、その力を強く受け継ぎました。
だからこそ、彼は冷酷に育ってしまった。
あなたには、まだその“兆し”は見えないかもしれない。
でも、あなたもまた、血の繋がりの中にいるのです。
私は、あなたにそんな未来を歩ませたくなかった。
だから、逃げた。
あなたが、誰かの愛に包まれ、温かな場所で生きていけるように――
どうか、この小箱を。
この時計は、あなたの曾祖母が“異端”と呼ばれながらも、時を刻み続けたもの。
血の中にあるものが、すべて呪いではないと信じた、証です。
茜。
あなたが、どうか、幸せでありますように。
母・久我 由乃』
茜は、手紙を持つ指を強く握った。
視界がにじみ、文字が揺れる。母の言葉が、何度も胸の奥に響いた。
――透にある力。
――“視る”という、異能。
――そして、それを受け継ぐ可能性。
「……わたしにも……?」
昨日の夢。あの火の中で見た母の姿、差し出された桐の箱。あれは記憶なのか、それとも、何かの“映像”なのか――。
茜はふと、あのときの匂いを思い出す。焦げた畳、燃えさしの襖、そして……椿の香。
「あのとき……椿が、咲いていた」
小さくつぶやく。
まるで、その記憶が今の庭の光景と重なったようだった。
白椿。
それは久我家の庭にも、青柳家の庭にも植えられていた。茜にとっては、なにかを繋ぐ“符”のように思えてならなかった。
そのとき、障子の向こうから、控えめな足音が近づいてきた。
「茜、起きているか?」
千隼だった。
茜は返事をして、彼を部屋に招き入れた。朝の日差しに包まれた部屋の中、彼は静かに座り、茜の手元の手紙に一瞥をくれる。
「母上の……手紙?」
「……はい。昨夜の夢のこと、それから……母様の言葉が、書かれていました」
千隼は無理に手紙を読もうとはせず、ただ、茜の言葉に耳を傾けていた。
「……わたくしは、久我の“血”に縛られているのかもしれない。けれど……母様は、それでも私に自由を与えようとしました。
過去を断ち切るために、家も、全部捨てて」
「……そして今、お前は青柳家にいる」
「はい……それでも、あの家はまだ、わたくしを“鍵”として見ているのです。兄様が、私を取り戻そうとする理由も、ようやくわかった気がします」
茜の言葉はどこか静かで、それでいて決意を孕んでいた。
千隼はその表情をじっと見つめたのち、口を開く。
「……なら、私は、改めて言おう。茜。お前を、二度と“あの家”には渡さない。
たとえ、どれだけ過去が追ってこようとも」
そのまっすぐな瞳に、茜は胸を突かれたような感覚を覚えた。
「……ありがとうございます、千隼様」
声が、震えそうになるのを、ぎりぎりのところで抑えた。
そうして茜は、母の手紙を文箱に収め、そっと蓋を閉じた。
過去は、まだ終わっていない。けれど、それでも――未来は、自分の手で選ぶ。
その背に、朝の光が、ゆるやかに差し込んでいた。
数日が経った。
春の空はやわらかな陽光に満ち、庭の椿も盛りを迎えていた。
けれど、青柳家の屋敷には、どこか重く、張り詰めた空気が漂っていた。
茜は変わらず家事を手伝い、書を読み、時に千隼と共に静かに茶を飲んだ。
けれどその日常のひとつひとつの背後に、名もなき不安がじりじりと忍び寄っているのを、彼女は確かに感じていた。
それは、背後に立つ影のように。
それは、白昼に響く鳥の鋭い声のように。
「……どうかしたか?」
その日の午後、庭で花の手入れをしていた茜に、千隼が声をかけてきた。
茜は手に持っていた鋏を一度置き、微笑んでみせる。
「少し……空の色が、変わった気がして」
「空?」
「はい。春の空なのに……昨日より、ずっと冷たいような気がして」
千隼はしばし黙ったまま空を仰ぎ見てから、そっと言った。
「……実は、先ほど客人が訪ねてきた。久我家の使用人を名乗る者だった。私が応対したが……名は名乗らなかった」
「……!」
茜の手が、ぴくりと震える。
「帰ってもらった。“そのような縁は既に絶たれている”と、私が言ってな。……けれど、あれは、ただの使者ではない。私にはそう思えた」
「……刺客、のような……?」
「そこまで明確ではない。だが――まるで、こちらの様子を“視て”いるようだった。目の奥が、異様に澄んでいた」
その言葉に、茜の中で何かがはじけるように繋がった。
「視ている」。あの手紙にあった“視る力”――感情や残留思念を読む力。久我家の人間が持つ、異能の片鱗。
「……千隼様。もしも、その力が本当に久我の血に宿っているのだとしたら……わたくしにも、いずれ“視える”日が来るのでしょうか」
問いかけながら、自分の言葉に茜自身が怯えていた。
千隼は少しだけ考えてから、答えた。
「その時が来たら、私はお前の“目”になろう。お前が視たくないものを、代わりに視て、共に背負う。……それが、私の願いだ」
優しい声だった。けれど、そこには剣のような決意があった。
茜は胸の奥をぎゅっとつかまれるような感覚とともに、ふっと笑った。
「……ありがとう。ほんとうに、千隼様は……昔と変わらないですね」
「昔?」
「はい……小さなころ、あなたは、わたくしのことをよく庇ってくれました。覚えていないかもしれないけれど、久我の屋敷の中庭で、わたくしが泣いていたとき……」
その言葉に、千隼の眉が少しだけ動いた。
「……ああ、あのときか。透に冷たい言葉を浴びせられて、お前が花の下で膝を抱えていた日」
茜は驚いた顔で千隼を見つめた。
「覚えていたの?」
「忘れるわけがない」
そう言って、千隼は花壇の横にしゃがみこみ、小さな白椿を優しく指先で撫でた。
「お前が、私の名を呼んだこと。あれが……初めてだった。小さな声だったが、私にはとても大きな意味を持った」
その瞬間、茜の胸の奥が淡く、熱を帯びる。
けれど、その静謐を引き裂くように――門の方から、誰かの声が聞こえた。
「……久我透様より、お預かり物にございます」
張りのある、若い男の声。門番と何かを押し問答しているようだった。
「……! また……」
千隼は立ち上がり、視線を門へ向ける。茜も後を追うように立ち上がるが、そのとき、ぐらりと視界が揺れた。
「……あっ……」
白椿が、血に染まるように赤く滲む。
門の向こうに立つ男の顔が、歪んだ仮面のように見える。
「……茜!?」
千隼の声と同時に、茜の意識は一瞬、暗転する。
その刹那、茜は――
“見て”いた。
門の外に立つ男が手に持つ箱。
その中に潜む、黒い翳と、血のにおい。
「……これは、兄様からの“試し”……?」
口をついて出たその言葉に、千隼が愕然とする。
茜の中の「何か」が、静かに目を覚まろうとしていた――。
重たい沈黙の中で、箱は千隼の手によって静かに開かれた。
茜は傍に座りながら、口元をおさえて震えていた。先ほど見た“映像”――血と影の気配、そして箱に纏わる不吉な感覚――がまだ胸に残っている。
箱の中にあったのは、一枚の白い羽織。
それはかつて、母が寒い日に茜に羽織らせていたものによく似ていた。
「……母の、もの……?」
茜がかすれた声で呟いたとき、千隼の表情が険しくなった。
羽織の下に、もう一つ、封筒が入っていた。
「茜、見ない方が……」
「いいえ。見ます」
茜は封を切り、中の手紙を震える手で広げた。
「……久しぶりだね、妹よ。お前が母に隠され、青柳の屋敷に庇護されていると知ったとき、私は怒りよりも、哀れみを覚えた。お前はもう“人として”生きる道はない。あの女が残した異能の種は、もうお前の中に根付いている。逃げても無駄だ――いずれ“視る”ことになる。それまでに準備を整えよ。我々は、君を迎えに行く」
「久我 透」
字は達筆で、冷たく、まるで判決文のようだった。
垢の中に、重く沈んだ記憶がゆっくりと浮かび上がってくる。
――暗い屋敷の奥、笑わない兄の姿。
――母が最後に交わした言葉。
「あの子には、視せてはならないの」
「……これは、警告……」
茜の指先がふるえた。羽織の白地に、うっすらと赤茶けた染みがある。
それは血の跡だった。
「茜、聞いてくれ」
千隼の手がそっと、彼女の肩に置かれた。
「お前の力が目覚めようと、私はお前を人として守る。“久我”の名など関係ない。……だから、お前は――ここにいていいんだ」
その言葉に、茜の張りつめていた心が、ふっと緩んだ。
けれどその夜。
茜は再び、夢を見る。
それは、久我家の古びた座敷。
透の背後に立つ、黒衣の男たち。
そして、祭壇のような台座に置かれた“もう一つの箱”。
夢の中の透が、ゆっくりと口を開く。
「さあ、選べ。人として死ぬか――“久我の血”として生きるか」
目を覚ました茜の手には、血の気の失せた白い羽織が握られていた。
その布の端には、現実にはないはずの――
「紅椿の紋」が、淡く浮かび上がっていた。
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