第3章 久我家の使者

広間の扉がゆっくりと開くと、外の空気と共に、どこか冷たい影が差し込んできた。

茜の胸に、無意識に緊張が走る。まるで、心の奥底に潜む、昔の記憶が呼び覚まされたかのように。


そこに立っていたのは、茜の兄、久我透だった。


透は背筋をぴんと伸ばし、冷徹な笑みを浮かべながら部屋に足を踏み入れた。

その目は、まるで長い間忍んできた計画を果たすべく、冷徹な意図に満ちていた。


「茜、久しぶりだな」


透の声は、かつて茜が耳にしたことのある、あの冷たい声だった。

けれどその言葉には、わずかな皮肉と無遠慮な優越感が混じっていた。


茜は無意識にその一歩後ろに下がる。

その目の奥に、透に対する嫌悪感と恐れが絡み合っていた。


「兄様……あなた、どうしてここに?」


「どうしてって、久我家の者として、礼儀を尽くしに来たんだろうが」

透は一歩前に出て、目の前で茜を見下ろすように立った。

その姿勢から、どこか懐かしさを感じさせるものがあったが、その感情はすぐに消え失せた。


「……父からの伝言だ。お前、あの屋敷にいられると思っているのか?」


茜は息を呑んだ。

久我家の屋敷――それは、彼女が幼い頃に生きていた場所であり、また今は自分が避けている記憶の根源でもある。


「どういうこと? 何を言っているの……」


透は冷ややかな笑みを浮かべ、少しだけ肩をすくめた。


「お前はもう、久我家の者ではない。……お前が青柳家に嫁ぐことで、家の名は二度とお前に関わらないようにしてやった。だが、どうしてもお前が思い出せないらしいな」


その言葉に、茜は一瞬だけ動揺した。


(思い出せない……?)


透はさらに近づき、無理に目を合わせさせようとした。


「お前が忘れたところで、全ては変わらない。だが、俺にはまだ未練がある。お前が家に戻ってくれば、全てを取り戻せると思っている」


その言葉に、茜の胸が乱れた。

幼い頃から、透にはいつも支配され、恐れられていた記憶がよみがえる。


「……あなたは、いったい何を言っているの?」


茜の問いに、透はさらに鋭く笑った。


「何も言っていないさ。ただの“事実”だ。青柳家の長男として、お前が嫁ぐことは、無駄に過ぎないとでも思ったのか?」


その言葉に、茜は反射的に腕を組み、目を伏せた。

無意識に感じた怒りと恐れが胸の中で交錯していた。


──透は、家の名と自分を重ね合わせ、すべてを支配しようとしている。


その視線が、自分を試すように冷たく照らしてくる。


「お前、もう一度久我家に戻れ。青柳家はお前には似合わないし、これからも長くは続かないだろう。早めに決断しろ」


茜の胸が騒いだ。

その瞬間、彼女の意識は過去の記憶に引き戻された。


──あの時、母と共に逃げ出すように、この屋敷を離れたこと。

それが、久我家との“絶縁”であり、青柳家に嫁ぐことへの選択だった。


だが、透が言うように、自分が青柳家に嫁いだことで何が変わったのか。

それでも、この屋敷で目覚めるたび、透の冷徹な目が焼きついていた。


茜は、深く息を吸い込んだ。


「……わたくしは、もうあなたに従うことはありません。青柳家で生きると決めたんです。だから、あなたの言葉は無駄です」


その言葉に、透の表情が一瞬硬直した。

だがすぐに冷徹な笑みを浮かべ、首を振る。


「そうか。だが覚えておけ、茜。お前が青柳家にいようが、久我家との縁は切れることはない。その時が来たら、必ずお前の元に戻ってくる」


その言葉は、まるで鋭い刃のように茜の心に突き刺さった。


そのとき、千隼が静かに口を開いた。


「久我の御使い、貴殿の言葉はもうよい。これ以上、青柳家に無礼を働くつもりなら、ただでは済まさぬことになる」


千隼の声には、かつて見たことのないほどの冷徹さがあった。

透はその言葉に一瞬驚いたように目を見開き、だがすぐに何も言わずに微笑んだ。


「……それでは、またの機会に」


透は最後に茜をじっと見つめると、ゆっくりと広間を後にした。


その後ろ姿が見えなくなると、茜はようやく呼吸を整えた。


(透が戻ってくる……)


それは避けられない運命なのか、そして自分はどこまでその“過去”を背負い続けるのか。

胸の中で、冷たい一抹の恐怖が広がっていった。

透が去った後、広間の空気は重く、静まり返った。

茜はしばらくその場に立ち尽くし、目を伏せたまま無言だった。

背中には、まだ透の冷徹な視線が張り付いているように感じられ、体の奥から小さな震えが湧き上がってきた。


──久我家の家族は、みんなあのように冷たく、計算高い。

幼い頃から、透は常に自分を見下し、支配しようとした。


茜は唇を噛み締め、深呼吸をして冷静を取り戻そうとする。

だが、その心はまだ透の言葉に引きずられていた。彼が言った「青柳家との縁は切れない」という言葉が、耳元で反響し続けている。


──もし、あの時、わたしが青柳家に嫁がなかったら、どうなっただろうか。


ふと、茜は千隼の顔を思い浮かべた。

彼があのように冷静に、透に立ち向かったことに、心の中で少しだけ安堵を覚える。

彼は自分のことを、守ろうとしてくれたのだろうか?


「茜、どうした?」


千隼の声が、静かな空間を切り裂くように響く。

茜は我に返り、ゆっくりと顔を上げた。


「千隼……様」


千隼は、茜の肩に軽く手を置き、深くため息をついた。


「透は、ああして脅迫をしに来ることが多い。だが、決して本気でお前を戻そうとするわけではない。あれは、ただ久我家の名を使って、お前に迷いを与えようとしているだけだ」


垢はその言葉に、少しだけ驚いた。


「……そうなのですか?」


「そうだ。透は、何よりも家の名を守りたがる。だが、お前を取り戻すために戻ってきたわけではない。むしろ、お前を一層青柳家から引き離すために、心の中でお前を試すつもりだろう」


千隼の言葉は冷徹でありながらも、茜にとっては救いだった。

透の意図が少しずつ理解でき、少しだけ安堵を感じる。しかし、同時に疑念も生まれる。


──でも、透が言っていた「お前が青柳家にいることが無駄だ」という言葉。

その言葉が、心に残り続ける。


茜は顔を上げ、千隼を見つめた。


「わたくしが青柳家にいることが無駄……そんなふうに思われているのか、と思うと怖いです。兄様は、青柳家のことを、どれほど軽く見ているのでしょうか」


千隼はその言葉に一瞬黙り込んだ。そして、ゆっくりと彼女の目を見据える。


「青柳家は、名家だ。だが、過去にどれほどの問題があったか、お前が知らないだけだ」


茜はその言葉に驚き、目を見開いた。


「過去……?」


千隼はうなずき、静かに語り始める。


「私の父は、青柳家の当主だったが、名誉と名家を守るために、不正な手を使っていた。それが露見し、家の名は揺らいだ。だからこそ、私が家を守るために、無理な結婚をして、お前を迎え入れたんだ」


その告白に、茜は言葉を失った。

千隼が語る青柳家の過去と、自分が知らなかった裏側が次第に浮かび上がってきた。


「千隼様、あなたも……その一部だったのですか?」


「ああ。だが、それはもう過去のことだ。青柳家を立て直すために、私は何でもしてきた。そして、今もその思いでお前を守ろうとしている」


茜は千隼の目をじっと見つめた。

その目の奥に、過去の痛みと、今なお続く家への忠誠が宿っていることを感じ取った。


「だから、お前を守ることが、私の責務だ。青柳家がどうなろうとも、お前を守る覚悟はできている」


その言葉に、茜は胸が熱くなるのを感じた。

そして、少しだけ笑みを浮かべた。


「ありがとうございます、千隼様……でも、わたくしも決めなきゃいけないことがあります」


千隼はその言葉に、静かにうなずいた。


「お前が決めることだ。私にできるのは、お前が選んだ道を支えることだけだ」


その瞬間、再び広間の扉が開かれ、屋敷の使用人が顔を出した。


「ご当主様、また来客です」


茜と千隼は顔を見合わせ、再びその扉が開かれるのを待つ。

そして、今度はどんな訪問者がこの屋敷に来るのか、また新たな波乱が訪れる予感がしていた。


「お通ししても?」


使用人の問いに、千隼は短くうなずいた。

「構わない」


広間の扉が静かに開かれると、今度現れたのは、白髪混じりの細身の老人だった。上質な和装に身を包み、背筋はまっすぐに伸び、鋭い眼光が印象的な人物である。


茜はその顔を見て、ふと懐かしさとともに、ぞわりと背中を這い上がるような不安を感じた。


「……瀬名様?」


「おや、よく覚えていたね、茜お嬢さん」


老人は微笑みながら静かに進み出て、茜と千隼の前に座した。

彼の名は瀬名宗左衛門。久我家に代々仕えた側近のひとりであり、茜がまだ久我家にいたころ、父や兄の側に常に付き従っていた男だった。


「……何の御用でしょうか。久我の方が、二人も続けて来るなど珍しいことです」


千隼の問いに、瀬名は笑みを崩さずに、しかしその目は鋭さを湛えていた。


「今日は、“和解”の申し出に参りました。久我家としても、青柳家との関係をこれ以上悪化させたくはない。しかし……透様の動きが、やや逸脱しておられるのは否めません」


「逸脱……?」


茜が眉をひそめると、瀬名はゆっくりとうなずいた。


「茜お嬢様。貴女は、かつてお母上と共に久我家を出て行かれましたな。しかしあの時、透様は……いや、久我家はまだ、貴女を正式に放逐したわけではなかった。むしろ、守るべき“鍵”として、いつか戻る日を待っていたのです」


「……鍵?」


不穏な響きに、茜の心が凍りついた。

千隼も目を細め、瀬名の言葉の裏を探るようにじっと見つめていた。


「久我家の家系には、古くからある“病”がございます。それは血筋によって伝わるものであり、表に出ることは稀ですが、代々の当主にのみ知らされる秘密です。茜お嬢様――貴女の母君こそ、その因子を最も強く宿しておりました。そして……貴女にも」


茜は言葉を失った。

思わず手が震え、膝の上で握った拳に力が入る。


「そんな……私は、何も知らない……母も、何も……」


「お母上は、貴女を守るために沈黙を貫いたのでしょう。だが、透様は違います。彼は“鍵”を取り戻すことで、久我家を再び支配しようとしておられるのです」


「鍵って……私が?」


「そうです。青柳家に嫁いだ貴女は、久我と青柳、両家を結ぶ唯一の“架け橋”となる。そして……その血こそが、封じられた“病”を抑える可能性があると、透様は信じておられるのです」


茜は眩暈を覚えるような混乱の中で、かろうじて椅子に座っていられた。

母が、自分を連れて逃げた理由。透の異様な執着。久我家の過去。そして、自分に眠る何か――。


「……千隼様……」


震える声で名を呼ぶと、彼はすぐにその隣に寄り、そっと手を取った。


「心配はいらない。茜、お前はここにいていい。久我家が何を言おうと、私はお前を――この家を守る」


千隼のその手はあたたかく、確かなものだった。

茜はその温もりに、わずかに揺らいでいた心を繋ぎとめる。


「瀬名殿。ご忠告感謝する。だが、青柳家は貴殿らの“血の呪い”に付き合う気はない。茜は、この家の者だ」


瀬名はその言葉に一礼し、静かに立ち上がった。


「ご当主のお考え、しかと承りました。ですが……透様が動く時、再び“夢”が貴女を呼ぶでしょう。ご自愛ください、茜お嬢様」


その言葉を最後に、瀬名は去っていった。


広間には静寂が戻ったが、茜の胸の中には新たな疑問と不安が残された。


──夢が、呼ぶ?

──あの夢の中の、燃える屋敷と泣き叫ぶ声は……?


千隼の手を強く握り返しながら、茜は思った。

自分が知るべき“過去”は、まだほんの一部にすぎないのだと――。


「……夢、が……」


瀬名が残した言葉が、まるで呪のように茜の胸に残っていた。

それはただの比喩ではなかった――彼のあの眼差し、あの声音には、確信に近い重みがあった。


「茜……」

千隼が隣で声をかける。


「……今夜は、無理に何かを考えなくていい。お前の頭と心を休ませるのが先だ。わからないことは、これから少しずつ、ふたりで明かしていけばいい」


その言葉に、茜は目を伏せ、うなずいた。

「……ありがとうございます。千隼様の言葉に、救われてばかりですね」


そうしてその夜、茜は静かに部屋へ戻った。障子を閉め、灯りを落とし、布団に身を横たえる。

けれども、眠りはすぐには訪れなかった。まぶたを閉じるたび、瀬名の言葉が、透の目が、脳裏をよぎる。


それでも、まどろみに落ちた瞬間――


再び、あの夢が訪れた。


* * *


――真っ赤な空、風に巻かれる灰。

――軋む木材、崩れ落ちる梁の音。

――泣いている。誰かが、遠くで。


火の海の中、幼い自分が座り込んでいる。泣きながら、震えながら、手を伸ばす。


「……おかあ、さん……」


誰かが叫んでいる。

名を――茜の名を、はっきりと。


「……あかね……逃げろ……! 戻ってはいけない、あそこへは……!」


崩れる屋敷。燃え盛る障子の向こうに、女の人影が立っていた。髪を振り乱し、血に濡れた手で、こちらへ何かを差し出している。


それは、――桐の小箱。


茜の視界が揺らぐ。熱い涙か、火の粉か。

箱の蓋が開き、白い布に包まれた何かが覗いた瞬間、


「――っ!」


茜は、がばりと布団の上に身を起こした。


息は荒く、額には冷たい汗。心臓はまるで、閉ざされた扉を叩くかのように激しく脈打っていた。


──また、あの夢。だけど今日は違う。


声が、聞こえた。

母の声。そして、小箱。


「……桐の、小箱……?」


ふと、その言葉に呼応するように、引き出しの奥――祖母の遺品の中に紛れていたはずの、古い箱の存在が頭に浮かんだ。

茜は夜着のまま部屋を出て、物置の一角にある古びた箪笥の引き出しを開いた。


あった。

手のひらほどの、桐の箱。年月を経て煤けた蓋には、家紋のようなものがかすれて見える。


そっと、震える指で蓋を開けた。中には――


ひとつの、懐中時計。


そして、薄紙に包まれた手紙が一通。


『――茜へ』


それは、母の筆跡だった。

心臓が締めつけられるような思いで、その紙を広げたその瞬間、


「茜、起きているのか?」


扉の向こうから、千隼の声がした。

茜は手紙を胸に抱き、一瞬迷ったが、返事をした。


「……ええ、少し、目が覚めてしまって」


「今、茶を淹れている。少し話そう。……いや、傍にいようかと思って」


その優しい響きに、茜のこわばっていた心がふとほどける。


「……うれしい。少しだけ、お願いしてもいいかしら」


茜は懐中時計と手紙をそっと包み直し、そばの文箱にしまった。

その秘密は、まだ自分の胸の中に留めておこう。

千隼には、すぐには話せない。でも、いつか。


そして、広間で静かに湯気を立てる茶碗を前に、茜と千隼は言葉少なに並んで座った。


月は高く、夜はまだ長い。

けれど、その隣に誰かがいてくれるだけで――世界は、少しだけ穏やかだった。



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