第2章 朝の帳がほどけるとき
朝、鳥の声とともに目を覚ました茜は、しばらくの間、寝台の上でじっと天井を見つめていた。
けれどそれは、目覚めたからというよりも――夢の中にいた時間が、あまりに“現実”のようだったから。
(……あれは、夢だったの?)
蒼く輝く桜。
ふたりの子供。
交わした約束。
そして、あの懐かしい声。
全てが、遠い記憶の断片のようでいて、どこか胸を締めつけた。
確かに忘れていたはずなのに、どこか“知っている”感覚だけが身体に残っている。
(……この胸のざわめきは、何?)
そっと身を起こすと、足元の床がひやりと冷たかった。
けれどその冷たさよりも、彼女の目を引いたのは――鏡台の上に置かれていた、あの櫛だった。
昨日の夜、夢から醒めたときに見つけた、あの蒔絵の櫛。
(やっぱり……この意匠、見覚えがある)
藤の花と、月をかたどった繊細な細工。
触れるとわずかに軋むその櫛は、時を重ねたもののように見えた。
「……どこかで……誰かに……もらった?」
記憶の底を探ろうとしても、霧の中に手を伸ばすように指先は空を掴むばかりだった。
その時。
「──起きていたか」
扉の外から、千隼の声がした。
「おはようございます」
慌てて返事をすると、扉が静かに開く。
今朝の彼は、黒に近い灰色の着流しに袴を重ね、昨日よりも少しだけ柔らかな表情をしていた。
「……昨夜は、よく眠れたか?」
その問いに、茜は一瞬だけ返答に迷う。
夢の話をすべきか。あの櫛のことを話していいのか。
だが彼のまなざしが静かに自分を見つめているのを感じて、ほんの少しだけ心がほぐれた。
「……はい。不思議な夢を見た気もしますが、目覚めは穏やかでした」
「そうか。それなら、よかった」
千隼はほっとしたように小さく息を吐いた。
けれど彼の瞳には、一瞬だけ、微かに“警戒”の色が過ったのを茜は見逃さなかった。
(……やっぱり、何か知っている?)
「支度が整ったら、庭へ出てみるといい。今日は陽が穏やかだから」
「……お庭に?」
「あの南の庭は、母が好きだった場所だ。……きっと、お前にも気に入ってもらえる」
言い置いて、千隼は扉を閉める。
その背には、何かを伝えようとしてやめたような、そんな沈黙が滲んでいた。
茜はゆっくりと立ち上がり、着替えを整えた。
長い髪を櫛で梳きながら、再び夢の中の“少女”と“少年”の姿が思い出される。
(わたしと、千隼様……だったの?)
そしてあの約束。
「迎えに来て」と、「きっと行く」という言葉。
何年も昔のことなのに、胸の奥でその記憶が音を立てている。
(……思い出さなきゃ。きっと、わたしは――)
そのとき、不意に外の風が窓を揺らした。
カーテンの隙間から、柔らかな朝日とともに、ほのかに花の香りが流れ込んできた。
まるで、それが呼んでいるかのように。
茜は、心を決めて庭へ向かった。
静かに開かれる扉の先で、過去と現在を繋ぐ風がそっと吹いていた。
そしてその庭には、彼女の知らない“面影”が、ひっそりと息づいていたのだった。
屋敷の廊下を抜け、南側に面した硝子戸を開けると、ふわりと風が茜の髪を揺らした。
朝の陽光はやわらかく、空気には昨夜の冷たさが嘘のようなぬくもりがある。
目の前に広がるのは、手入れの行き届いた広い庭だった。
石畳の小道が真っ直ぐに延び、両脇には背の低い梅の木と、色とりどりの山野草が静かに咲いている。
中央には円形の池があり、その周囲を囲むように、白木の東屋がひっそりと佇んでいた。
(……きれいな庭)
それはどこか懐かしく、そして優しい気配を湛えた場所だった。
だが、茜の胸の奥には、言葉にできないざわめきがあった。
まるでこの庭のどこかに、“かつての自分”がいるような――そんな錯覚。
(……どうして、こんなに胸が騒ぐの?)
ゆっくりと石畳を歩き、小道の奥に進んでいく。
草花の香り。さざ波のような葉擦れの音。
朝の光の粒が、空からひらひらと舞い降りてきて、世界を淡い金色に染めていた。
そして、池のほとりまで来たときだった。
──その視線の先に、ひとつの白い花が咲いているのを見つけた。
それは池の縁にひっそりと咲いた、一輪の《月草》だった。
(……この花……)
紫がかった白の花弁に、月のような淡い光を宿したその花は、まるで“誰かの想い”を具現化したように美しかった。
その瞬間、風がふわりと吹いた。
そして、耳元に微かに響く。
──「ここは、あなたが好きだった場所」
声は、女のものだった。
柔らかく、優しく、それでいてどこか哀しみに濡れていた。
振り返っても、そこには誰もいなかった。
けれど確かに、そこに“誰か”がいたような気がした。
(……今の声……)
そして、もう一度視線を池の縁に戻したとき。
茜の足元に、何かが埋もれているのを見つけた。
それは、半ば土に埋もれた、古い小さな手鏡だった。
銀の縁には、藤の花を模した彫刻が施されている。
櫛と、どこか似た意匠。
茜は無意識にそれを拾い上げた。
その瞬間、掌に、ひやりと冷たい感覚が走った。
──かつん。
背後で何かが音を立てた。振り返ると、風に揺れて小道の端の燈籠の屋根が軋んでいた。
誰もいないはずの庭なのに、どこか“見られている”ような感覚が、また胸を締めつけた。
(……ここには、何かがある)
そして思い出す。
夢の中で見た、月の光に照らされた桜の庭。
あの景色と、ここの空気が、なぜか同じ“匂い”をしていた。
(わたしは……この庭を、知っている。昔、確かにここに――)
そのとき、不意に背後から声がした。
「そこに、触れてはいけない」
その声に、茜の身体がびくりと震える。
振り返ると、千隼が立っていた。
表情は読めなかった。けれど、彼のまなざしは鏡に向けられ、明らかな“拒絶”の色を含んでいた。
「……これは?」
「母の遺品だ。……だが、それに触れると夢を見る」
千隼は静かに言った。
「過去の夢だ。望んでもいないのに、見せられる記憶だ。……時に、それは人の心を狂わせる」
「……でも、わたくし……」
何かを言いかけて、言葉に詰まる。
この庭も、鏡も、あの声も……今の茜にとっては、決して“他人事”ではなかった。
だが彼は、まるでそれを遮るように目を逸らした。
「もう部屋に戻れ。……ここは、安らぎの庭ではない」
それだけを言い残して、千隼は背を向けた。
茜は立ち尽くし、指先に残った鏡の冷たさを、静かに見つめていた。
──それはまるで、過去の扉の鍵のように。
彼女の記憶と、家の因縁を解く、最初の印のように。
そして、彼女の胸の奥で小さな確信が芽吹いていた。
(わたしは、知っている。……この家で、何があったのかを)
鏡を手放したあとも、茜の指先にはまだその冷たさが残っていた。
千隼の「戻れ」という静かな命令は、決して強い言葉ではなかったのに、どこか“拒絶”のような響きを持っていた。
(……どうして、あんな表情を……)
部屋に戻ると、庭の静けさとは打って変わって、屋敷の廊下にはどこか重たい空気が漂っていた。
午前の陽が障子越しに淡く射し込んでいるのに、部屋の奥はどこか影が濃い。
茜は再び鏡台の前に座り、昨夜夢のあとに見つけた蒔絵の櫛を手に取った。
(この鏡と、櫛……どちらも同じ意匠。……やっぱり、“あの人”のもの?)
千隼が「母の遺品」と言ったことが、胸に引っかかっていた。
(……そういえば、彼のお母様のこと……詳しく聞いたこと、ない)
言葉には出せなかったが、千隼の母――青柳雪乃は、かつてこの家で“ある種の噂”とともに語られていた人物だった。
本家筋から輿入れしてきたとされるが、その素性には謎が多く、さらに亡くなったのも若くしてだったという。
(夢の中で聞いた、あの声……もしかして、あれが……)
胸にひとひらの花が咲くように、静かな予感が広がっていく。
誰かの“想い”が、確かにこの屋敷のどこかにまだ息づいている。
そのとき、障子の外に足音がした。
「……失礼いたします」
声の主は、今朝から世話係としてついてくれている女中頭・菊枝だった。
歳の頃は五十前後、控えめながらも芯の強そうなまなざしを持っている女性だった。
「お食事の支度ができましたので、よろしければ広間へ。……お身体、お加減はいかがですか?」
「……はい。ありがとうございます。少し、夢を見ただけです」
そう答えると、菊枝はわずかに目を細めた。
「夢……ですか。……この家は、夢をよく呼びますからねぇ」
「……夢を、呼ぶ……?」
「昔から、そう言われておりますのよ。とくに南の庭に近い部屋では、ふとした折に“忘れていたこと”が浮かぶと……」
そう言って、菊枝は何気ないふうを装いながらも、櫛に一瞬だけ視線を落とした。
「……その櫛、どちらで……?」
「……夢を見た翌朝、鏡台の上に置かれていました。……わたし、見覚えがあるような気がして」
「そう……。ならば、よく手入れして差し上げてくださいね」
それだけ言い置いて、菊枝はゆっくりと頭を下げ、去っていった。
茜はその背を見送りながら、ますます胸のざわめきを感じていた。
(“忘れていたこと”が、浮かぶ……)
そう。まさに、今の自分がそうだった。
夢の中で交わされた約束。
庭に咲いた月草。
母の遺品とされる鏡。
そして、千隼のあのまなざし。
全てが、茜に語りかけているようだった。
(わたしが思い出すのを、誰かが……待っている)
午後の日差しが、障子の影を長くしていく。
部屋に、柔らかい沈黙が降りてくる。
智恵は決意したように、もう一度、鏡台の前に座った。
櫛を手に取り、ゆっくりと髪を梳かす。
その動作は、どこか懐かしかった。
まるで、かつて誰かにそうしてもらっていたような感覚が、指先を伝って甦る。
(……この感触、知ってる)
ほんの一瞬。
“あたたかい指先”が、自分の髪を梳いてくれた記憶が、ふと脳裏をかすめた。
──「綺麗ね。お前の髪は、まるで夜の絹みたい」
女の人の声。
やさしく、穏やかで……けれど、どこか哀しい響きを持った声。
「……だれ……?」
問いかけた声は、自分のものだったか、それとも記憶の中の“子供の自分”だったのか、わからなかった。
だがそのとき、扉の向こうから再び千隼の声が聞こえた。
「茜。……少し、話せるか?」
返事をしようとして、茜はすぐに立ち上がれなかった。
いま、鏡の中に映る自分の目が、ほんの少しだけ“違って”見えたから。
まるで、かつての“何か”を思い出しはじめたかのように。
障子の向こうから、低く、落ち着いた声が届いた。
「茜。……少し、話せるか」
返事をしようとして、茜は一瞬だけためらった。
鏡の中に映った自分の眼差しが、ほんの少し“何か”を思い出し始めていたから。
けれど、やがて静かに立ち上がり、襖を開けた。
そこに立っていた千隼は、昼間とは違う着物に着替えており、少しだけ柔らかな表情をしていた。
「散歩は……どうだった?」
「ええ。……静かで、綺麗なお庭でした。……でも、少し、怖くもありました」
茜の言葉に、千隼は目を伏せた。
「……あの庭は、亡き母が好きだった場所だ」
「……あなたのお母様……」
「おまえには、まだ話していなかったな。母は十年前、この屋敷で亡くなった。……少し不思議な、母だった」
千隼の声に、懐かしむような響きと、拭えぬ哀しみが交じっていた。
「父は母に一目惚れしたらしい。母は本家から迎えられたが、どこか“遠いところ”を見るような目をしていた。……まるで、別の時代から来た人のように」
その言葉に、茜の胸がかすかに震えた。
「……わたし、夢の中で……誰かが髪を梳いてくれる記憶を見ました。……その人は、とても優しい声をしていて……」
「……それは」
千隼が何か言いかけたそのとき。
──控えの間から、足音が近づいてきた。
そして、使用人が障子をすっと開け、低く頭を下げた。
「ご当主様、……訪ね人がございます」
「訪ね人?」
千隼は眉をひそめた。
「この時間にか……誰だ?」
「はい……《久我家》の御使いと名乗っております」
その名に、茜の息が止まった。
──久我家。
智恵の生家。けれど、自分が一番関わりたくない家の名でもあった。
「……兄様かしら」
思わず漏れた呟きに、千隼がわずかに目を見開いた。
「……会いたくなければ、下がってもいい」
「いいえ……わたくし、聞きたいことがあります。……自分が、ここに来る前に、何を置いてきたのかを」
千隼は数秒だけ沈黙したあと、静かに頷いた。
「わかった。広間で待たせる。……気を張らなくてもいい。だが、何かあれば、すぐに戻れ」
「はい……ありがとう、ございます」
ほんの一瞬。
その言葉に、千隼の目がわずかに和らいだように見えた。
けれど次の瞬間、屋敷の空気がぴんと張りつめる。
久我家からの来訪者が、ひとつの過去を、封じられていた何かを――再び開こうとしていた。
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