第1章・夢の章──記憶の花園
──風が吹いている。
夜の静寂のはずだったのに、どこからか微かな風の音が耳をくすぐる。
茜は、自分がどこにいるのかわからなかった。
けれど、恐怖はなかった。不思議と心が穏やかだった。
(……ここ、は……?)
目の前には一面の花園が広がっていた。
季節はずれの桜が咲き誇っている。
けれどその花は、ほんのりと蒼みを帯びていた。月の光を孕んだような冷たい色合い。
それはこの世のものではないように、美しく、儚げだった。
その桜の木の下に、ひとりの少年が立っていた。
背はまだ高くなく、どこか幼さを残している。
けれど、その瞳だけは、ずっと深いところを見つめているようだった。
茜はその姿を知っていた。
(……千隼様……)
違う、と同時に思った。
彼は、今の千隼ではない。
もっと幼く、もっと純粋な、まだ何も知らなかったころの“彼”だ。
そして、彼の隣に立っていたのは、もうひとりの少女だった。
長い髪を風に揺らし、静かに桜の花びらを見上げている。
その顔は見えなかった。けれど、茜にはわかっていた。
(わたし……?)
けれど、その“わたし”は、今の自分ではなかった。
もっと幼くて、もっと無垢で、けれどどこか――哀しげだった。
──「ねえ、約束してくれる?」
“彼女”が言った。
声は風に溶けるように柔らかく、それでいて、真っすぐだった。
「いつか、大人になったら。きっと、迎えに来て」
「……ああ。きっと行く。どこにいたって、君を迎えに行くよ」
“千隼”が頷いた。
彼の表情は、今のように冷たくはなかった。
まだ、信じることを疑わない、純粋なまなざしだった。
──「……でも、君は忘れるかもしれない。全部、夢だったって思うかもしれない」
「忘れない。絶対に、忘れないよ。……たとえ忘れても、心が覚えてる」
その言葉に、“少女”は微かに微笑んだ。
だがその微笑みは、どこか哀しみを含んでいた。
──「……じゃあ、その時が来るまで、ずっと待ってる」
──「君が、もう一度……思い出してくれる日まで」
そして、桜の花びらが一斉に舞い上がった。
夜の闇に白い雪のように降りそそぎ、景色がゆっくりと溶けていく。
茜は手を伸ばした。
彼女に、彼に、触れたくて。けれどその手は、何にも届かない。
──「待って……!」
その声を最後に、世界が静かに崩れ落ちる。
⸻
目を覚ましたとき、茜は涙を流していた。
「……夢……」
けれど、その胸に残る温もりだけは、確かに“現実”のものだった。
(……あれは、何だったの? ……あの桜も、あの声も……)
夢の中の光景はあまりに鮮やかで、ただの夢だと思い切ることができなかった。
忘れられない想いが、胸の奥で静かに脈打っている。
その時、ふと、鏡台の上に置かれた櫛に気づいた。
昨夜、確かにそこには何も置かれていなかったはずだ。
それは、花びらのような細工が施された、古い蒔絵の櫛だった。
どこか見覚えのある意匠に、茜は思わず手を伸ばす。
(……これ……いつか、誰かに……)
けれど記憶は、霧の奥に霞んでいた。
“思い出してくれる日まで”
夢の中の声が、また耳に響いた気がした。
そしてその日から、茜のまわりで少しずつ、夜の気配が変わり始めていく――。
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