茜色の約束

華宮御影

第1章 再会の縁

東京の空に、冬の名残を残す淡い雲が流れていた。


久我茜は、小さな風呂敷包みを胸に抱えながら、馬車道に面した駅を一人で歩いていた。柔らかな足取りは、不安と期待が入り混じったもので、履き慣れない編み上げの革靴が小さく軋む音を立てている。


「……ここが、青柳の家……」


目の前に現れたのは、周囲の民家とは明らかに趣の異なる、モダンな洋風建築だった。高い鉄柵に囲まれた屋敷は、外から見ただけでも住む者の格式と距離を感じさせる。


茜はごくりと喉を鳴らした。

彼に会うのは、幼い日の夏祭り以来だった。あの夜、火照る頬を隠すように背を向けたまま、彼が言った言葉がずっと、耳の奥に残っている。


──「大きくなったら、迎えに行くよ」


けれどそれは、幼い戯れ言だったのかもしれない。そう思ったのは、再び会う約束など、何の音沙汰もなかったからだ。


それでも今、運命はまた彼と巡り会わせた。たとえそれが、親が決めた政略結婚だったとしても。茜は戸口に立ち、呼び鈴を押す決意を固めた。


カラン――。


重たい鉄の門が内側から開いた。応対に出たのは、年配の女中だった。几帳面に揃えられた髪、無駄のない動作。青柳家の格式が、彼女の立ち振る舞いにもにじみ出ている。


「お待ちしておりました。……久我様ですね。どうぞ、中へ」


小さく頷き、茜は門をくぐる。足元に敷かれた石畳が、緊張に冷えた足先をより硬く締めつけた。


そして、洋館の広間へと案内されたそのとき――


「お前が、茜か」


静かな声が響いた。振り返ると、そこには紛れもなく、かつての少年がいた。


しかし、彼はもう少年ではなかった。

高身長に仕立ての良いスーツ、冷ややかな眼差しを宿したその男は、茜が記憶していた優しい笑顔の千隼ではなかった。


「お久しぶりです……千隼様」


茜は震える声を抑えながら、礼を取った。けれど彼は、無表情のままわずかに眉を寄せて言った。


「……私と会ったことがあるのか?」


その言葉は、まるで刃のように茜の胸を切り裂いた。


あの日、確かに手を繋いで見上げた夜空のこと。

金魚すくいの水面に映った彼の笑顔のこと。

小指を絡めた、ひと夏の約束のこと。


──なぜ、忘れてしまったの?


思わず唇を噛み締めた茜は、何も答えることができなかった。


茜は、重たい沈黙のなかで正座をしていた。


応接間に通されたときから、青柳千隼はほとんど口を開いていない。

暖炉にくべられた薪の音だけが、時折パチリと弾けて静寂を乱す。


「……申し訳ありません。突然のご縁談で、お迷惑をおかけしてしまったかと……」


ようやく絞り出した声が、部屋の空気に吸い込まれていく。


千隼はしばし沈黙し、それから低い声で言った。


「私の意志で決まった縁談ではない。……だが、父の遺言には逆らえなかった」


「……ご尊父様の……」


青柳家の当主、青柳宗四郎。千隼の父であり、つい数ヶ月前に急逝した人物。銀行経営に名を馳せ、政財界にも繋がりを持つ影響力のある人物だったと、茜も耳にしたことがある。


「父は、生前お前の家との縁を望んでいた。久我家は、かつて我が家と共に事業を支えた盟友だったからな」


千隼の瞳が、わずかに細められる。茜はその言葉に、かすかな違和感を覚えた。


──かつては、と言った。


その響きには、すでに終わった関係であるかのような冷たさがあった。


「……でも、うちの家はもう……昔のような力もなく、今では借金ばかりで……」


「知っている」


地場の言葉は端的だった。だが、その言葉にどこか哀しみが滲んでいたように、茜には思えた。


「久我家が傾いたのは、十年前のある事件がきっかけだったと、聞いている」


「……事件……?」


茜は思わず顔を上げた。その言葉の意味に、心のどこかで覚えのある疼きを感じたからだ。


「お前は知らされていないのかもしれないな……だが、青柳家と久我家は、過去に深い因縁を持っている。父は、その清算の意味も込めて、私とお前の婚姻を望んだのだろう」


その言葉に、茜の胸が冷たくなる。


縁談の裏にある“因縁”。

それは、ただの商売上の取り引きなどではない──もっと根深く、もっと重い、何か。


「それが……何だったのか、教えていただけませんか」


沈黙。


千隼の視線が、初めてまっすぐに茜に向けられた。冷たいはずのその瞳に、今だけは複雑な色が揺れている。

そして彼は、静かに首を横に振った。


「……今は、まだ言えない」


その言葉は、拒絶ではなく、迷いを含んだ沈黙だった。


──ならば、私は知らなければならない。


茜は胸の奥でそう決意する。

この家に嫁ぐということが、ただの縁談ではないならば──


彼の心に触れること、そしてこの家に隠された過去に、私自身の足で踏み込まなければならないのだと。


そのとき、奥の廊下から、小さな足音が近づいてきた。

女中の声に導かれ、現れたのは一人の老女だった。


「まあ……ようやく、お目にかかれました……茜様」


白髪を後ろに束ね、黒い喪服を着たその老女は、青柳家の元女主人、つまり千隼の祖母である、青柳綾香だった。


「……あの方に、よく似ておいでだわ……」


その一言に、茜は思わず息を呑んだ。


「“あの方”……?」


「いいえ……なんでもありませんよ。ようこそ、青柳の家へ。どうか……この家のことを、嫌いにならないでくださいね」


その言葉には、温かさと、得体の知れない憐れみが同時に滲んでいた。


──青柳の家には、何かがある。

ただの財閥の家ではない、過去に封じ込められた“何か”が、この家の空気の中に沈んでいる。


茜はまだ、それがどんな深淵なのかを知らない。


だが、間違いなく茜は、もうその扉の前に立っていた。


老女・青柳綾香が立ち去ったあと、応接間に再び静寂が訪れた。


茜は膝の上で両手をそっと重ねたまま、しばらくのあいだ視線を落とし続けていた。洋館の壁には、西洋画家の描いた重厚な風景画が掛かり、香炉の淡い香が空気に染み込んでいる。


「……寒くはないか」


不意に、千隼の声が落ちてきた。

低く抑えられた声音は、まるで室内の空気を壊さないようにと配慮しているかのようだった。


「はい、大丈夫です」


そう答えながらも、茜の指先はわずかに震えていた。緊張のせいだけではない。彼の視線が、自分を測るように静かに注がれているのが分かるからだ。


かつての千隼は、もっと無邪気で、まっすぐで、優しかった。

あの夏の日に、路地裏で風鈴を見上げながら笑った彼を、茜は今も忘れていない。


──なのに、今目の前にいるのは、氷のように冷たい目をした「他人」だった。


「……千隼様は、わたくしのことを……まったく覚えておられないのですか」


口にした瞬間、後悔のようなものが胸を刺した。詰問じみた響きになったかもしれない。だが、その問いをどうしても、飲み込むことができなかった。


千隼は目を細めた。

その瞳に、わずかな影が走ったような気がした。


「……記憶、というのは不確かなものだ」


彼は、ゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄る。白いレースのカーテンの隙間から、冬の名残を抱いた空が見えた。鈍色の光が、彼の横顔を淡く照らしている。


「特に、あの頃のことは……思い出そうとしても、霧がかかったようにぼやけている。夏祭りに行った記憶すら、ほとんどない」


「……どうして……?」


思わず、声が漏れた。


どうしてそんな、大切な記憶を──

あの約束を、あなたは忘れてしまったの。


「……事故に遭った」


千隼の声は、思いのほか静かだった。


「十一の夏だ。屋敷の裏手の崖から転落した。頭を打って、生死の境を彷徨ったと聞いている。そのせいで、幼少期の記憶の多くが失われたらしい」


茜は、胸の奥がきゅうっと締めつけられるのを感じた。


あの夏の終わり──突然、手紙も何もこなくなったのは、ただ気まぐれや忘却ではなく、本当に「忘れざるを得なかった」からだったのか。


「……そうだったのですね……」


彼女は伏し目がちに答えた。

ただの心変わりだったら、どれほど楽だったろう。けれど、その記憶の欠落が偶然ではなく、運命に引き裂かれたような事故の果てだったと知れば知るほど、胸の奥が痛む。


「……だから、お前のことも……そのときに失ったのかもしれない」


千隼の言葉は、まるで自分を責めるような響きを帯びていた。


茜は静かに立ち上がった。


「それでも、わたくしは……もう一度、あなたを知りたいと思っています」


彼は驚いたように、ゆっくりとこちらを見た。

その瞳の奥に、わずかな揺らぎが生まれている。


「……どうして?」


「覚えていてほしいんです。あのときのわたくしも、あなたも、確かにそこにいたのだと。過去をすべて取り戻すことはできなくても……これから、また一緒に時間を紡いでいくことはできる。そう思うからです」


ふいに、室内の時計が時刻を告げる音を響かせた。

チクタクと時を刻む音が、やけに大きく感じられる。


千隼は一度、唇を結び、それからわずかに表情を崩した。


「……そうか。ならば……この屋敷のなかを、案内しよう」


「え……?」


「住まう者には、それなりの覚悟が要る家だ。……その始まりとして、お前にもこの家を知ってもらおう」


その言葉の奥にある重たさを、茜は直感で感じ取った。


──この家には、まだ知らぬ“顔”がある。

閉ざされた部屋、語られぬ記憶、封印された何か。


けれどその先に、彼ともう一度向き合える未来があるのなら。

どんな扉が待っていようとも、開く覚悟は、もうできている。


「……お願いします」


小さく、しかしはっきりと頷いた茜の声は、

応接間の静寂に、微かに揺れる灯火のように響いた。


──そして、その灯は、青柳家に眠る秘密の扉を照らし始める。


応接間を出たとき、廊下にはすでに女中が控えていた。

礼儀正しく一礼したのは、先ほど門で迎え入れてくれた中年の女中──神崎、と名乗った人物だった。


「お部屋のご案内を、と言われましたが、旦那様ご自身がなさると……」


「構わない。私が案内する。……部屋の鍵を」


「かしこまりました」


女中が取り出したのは、真鍮の房がついた重みのある鍵束だった。千隼はそれを受け取ると、静かに廊下を歩き出す。茜も、彼の後ろに続いた。


この屋敷は、外観こそ洋風だが、内部には和洋折衷の名残が色濃く残されていた。床には磨かれた寄木細工の板が敷かれ、欄間の装飾には和風の蔦文様が彫られている。

けれど、どこか――何かが、奇妙だった。


(……音がしない)


この広い屋敷にしては、あまりに静かすぎる。

使用人たちの気配はあるのに、足音も、話し声も、まるで吸い込まれたように響かない。


「……この屋敷には、ほとんど人がいないのですか?」


思い切って尋ねると、千隼はわずかに立ち止まり、答えた。


「……昔に比べれば、随分と減った。父が亡くなってからは特に、な」


その声の奥に、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。


「人が去っていく家には、それなりの理由がある。……ここも例外ではない」


「理由、ですか……?」


「……あまり良い噂が、立たなかったのだ」


千隼はそう言って歩を進める。

足音が廊下にこつこつと響く中、茜の胸は徐々にざわめき始めていた。


──良くない噂。

まるで、屋敷が“何か”を抱えているとでもいうような。


「ここが、お前の部屋だ」


案内されたのは、南棟の奥にある一室だった。障子の代わりに淡い色のカーテンがかけられた洋室で、白と薄藤色を基調とした落ち着いた調度品が揃っていた。日当たりも良く、窓の外には冬枯れの庭が広がっている。


「……綺麗なお部屋ですね」


素直な言葉がこぼれた。

だが千隼は、窓の外を見つめたまま、小さく言った。


「……かつて、母が使っていた部屋だ」


「……奥様が?」


「……いや。継母だ。私の実の母は……この屋敷で亡くなっている」


その言葉に、茜の胸が締めつけられた。

何を尋ねていいのか、躊躇う空気が流れる。


「すまない。……口がすべった。気にしなくていい」


千隼は言い置くと、再び鍵束を手にして歩き出す。

彼の背に導かれるように、茜もまた、屋敷の奥へと足を踏み入れていく。


長い廊下を抜けた先。

北棟に差し掛かったとき、空気が変わったのを茜ははっきりと感じた。


湿っていて、重く、冷たい。


廊下の両側にある扉はすべて閉ざされ、壁には古びた絵画がいくつも掛けられていた。だがどれも、色褪せて判別のつかぬものばかりだった。


「ここは……?」


「使われていない棟だ。今は立ち入りも制限している。……一部の部屋を除いては、な」


そのとき、廊下の一番奥にある一枚の扉の前で、千隼が立ち止まった。


「茜」


「……はい」


「この部屋には、決して入ってはならない」


鍵束から、一つだけ黒い革紐のついた鍵が外され、重たく扉の鍵穴に差し込まれた。だが鍵は回されず、すぐに引き抜かれて隆一郎の懐へと戻された。


「……約束してくれるな」


彼の瞳が、真っ直ぐに茜を見つめている。

その眼差しに、初めてどこか人間らしい「恐れ」のようなものを感じた。


「……わかりました。絶対に入りません」


茜は素直に頷いた。

けれど同時に、その扉の向こうにある“何か”が、どうしても心から離れなかった。


扉の奥からは、音一つ聞こえない。

けれどなぜか、そこに“気配”だけが確かにあるように思えた。


──あの部屋には、何があるの?


そう心の中で問いながら、茜は廊下の陰に射す西陽の色を見つめていた。

それは、まるで茜に染まった過去の血のように、じわりと足元を照らしていた。


部屋へ戻った茜は、しばらくの間、何もせずに窓辺に座っていた。

夕陽がすっかり沈み、外は群青色の帳が降りている。

庭には松の影が長く伸び、わずかな風に枝が揺れているのが見えた。


(……やっぱり、この屋敷はどこか、懐かしい)


目の前に広がる景色には、初めて訪れた場所とは思えない、不思議な親しみがあった。

それは過去の記憶か、あるいは夢の中で見たような幻なのか、自分でも判然としなかった。


着物から寝間着へと着替える頃には、女中の神崎がそっと食事を運んできた。

銀の食器に並べられた西洋風の夕餉。だが茜は、口をつける手が思うように動かなかった。


「……お気に召しませんでしたか」


「いえ……違うんです。ただ……まだ少し、緊張していて……」


「そうでしょうね。あの旦那様に、お嫁様が来るなんて」


ぽつりと、神崎が言った言葉に、茜は小さく首を傾げた。


「……そんなに、変わっておられる方なのですか?」


「……いえ、悪い方ではございません。ただ、あの方も……いろいろと、ございますから」


神崎の言葉は、濁されながらもどこか重みを帯びていた。

それ以上のことは聞けぬまま、女中は静かに退出していった。


食事を終え、灯りを落とした部屋に、一人きり。


茜は灯火の明かりの中、ふと鏡台の前に腰を下ろした。

鏡の中に映る自分――薄明かりに浮かぶ顔は、幼い頃の面影をわずかに残しながらも、どこか強ばっていた。


(……本当に、これで良かったのかしら)


見知らぬ家。記憶を失った少年。

そして、決して開けてはならない扉――。


疑念や不安の種は尽きない。

それでも、彼と再びめぐり逢えた奇跡が、すべての始まりなのだと思いたかった。


(もう一度……あの頃のように、笑い合える日が来るのなら)


そう思った瞬間。


──コツン。


何かが、扉の向こうで微かに音を立てた。


「……?」


心臓が、一瞬で跳ね上がった。


風の音ではない。屋敷の軋みとも違う。

人の気配――それも、軽く歩くような足音が一瞬、聞こえた気がした。


けれど扉を開けても、廊下には誰もいなかった。

暗がりの中で、ほんの少し冷たい風が頬を撫でる。


(……気のせいよ。こんな広い屋敷だもの。風が音を運ぶことだってあるわ)


そう自分に言い聞かせ、扉を閉じる。


夜の静寂は深く、深く降りていた。


寝台へ身を横たえると、どこか肌寒さを感じた。

布団の中に身を包んでも、それは消えない。


──まるで、誰かが、ずっとどこかで見ているような。


それでも、智恵は目を閉じた。

すぐに眠れるとは思っていなかったけれど、次第に疲れがまぶたを重くする。


(……おやすみなさい、千隼様)


かすかにそうつぶやいたとき。

心の奥に、どこか懐かしい声が囁く気がした。


──待っていた。ずっと、お前を。


(……え……?)


けれどその声は、夢と現の境に溶けて消えていった。


静かに、茜の初めての夜が、更けていく。


──けれどこの屋敷は、まだ眠ってなどいなかった。

とっくに終わったはずの過去が、再び目を覚まそうとしていた。


そして、それは彼女が背負うことになる宿命と、深く結びついていたのだった。



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