第2話 見えない階の住人
「これ、俺がバイトしてた頃の話なんだけどさ。ちょっと変なことがあってね。」
そう切り出したのは、大学のサークル仲間だったTくんだった。
彼は大学2年の夏休みに、地元の小さな不動産屋でアルバイトをしていたらしい。仕事内容は簡単で、空き物件の掃除や簡単なメンテナンス、たまに内見の案内をすること。時給はそこそこ良かったけど、楽な仕事とは言いきれなかったそうだ。
その不動産屋が管理している物件の一つに、古いアパートがあった。
築40年くらいの、コンクリート打ちっぱなしの4階建て。名前は「松風荘」。名前だけ見ると風情がありそうだけど、実際は外壁がひび割れ、階段の手すりは錆びてて、昭和の終わりに時間が止まったような建物だった。駅から遠い上に周りは畑と小さな工場ばかりで、入居希望者はほとんどいない。なのに、不思議と空き部屋が少ない物件だった。
「なんかさ、入居率だけは妙に高かったんだよ。4階の部屋なんて日当たり悪いし、エレベーターもないのに、ほぼ埋まってた。」
Tくんは最初、それを不思議に思っただけだった。
バイトを始めて2週間くらい経ったある日、Tくんは「松風荘」の101号室の掃除を頼まれた。退去したばかりの部屋で、次の入居者が決まる前に畳を拭いたり、換気をしてくるだけの簡単な作業だった。
午後3時頃、アパートに着いたTくんは、鍵を開けて101号室に入った。部屋は予想通り古くて、畳は擦り切れ、壁紙は黄ばんでいた。でも、掃除自体は30分もかからず終わりそうだった。天気が良かったので、窓を開けて風を通し、持ってきた雑巾で床を拭き始めた。
その時、どこからか音が聞こえてきた。
「トン、トン、トン。」
規則的で、軽い足音みたいな音。最初は上の階の住人が歩いてるんだろうと思った。古い建物だから、音が響きやすい。そう思って気にせず掃除を続けていたら、次第にその音が近づいてくる気がした。
「トン、トン、トン。」
明らかに階段を下りてくる音だ。でも、アパートの外階段は部屋の窓から見える位置にある。Tくんが何気なく外を見ると、階段には誰もいない。
「変だな」と思いながら耳を澄ますと、足音は1階の廊下まで来たところでピタリと止まった。そして、今度は別の音が聞こえてきた。
「カチャ、カチャ。」
隣の102号室のドアを開ける音だ。
「え、隣って空き部屋じゃなかったっけ?」
Tくんは不動産屋からもらった資料を確認した。確かに102号室は「入居中」と書いてある。でも、さっきアパートに着いた時、隣の部屋の窓は閉まっていて、カーテンも動いていなかった。人が住んでる気配がなかったのだ。
気味が悪くなったTくんは、急いで掃除を済ませてその場を後にした。
次の日、不動産屋でそのことを店長に話してみた。
「松風荘の102号室って、入居してるんですか?昨日掃除してた時、隣から鍵を開ける音が聞こえたんですけど、誰もいないみたいで…。」
店長は少し困ったような顔をして、こう言った。
「ああ、あそこね。入居してるよ、してるけど…まあ、あんまり気にしないでいいよ。古いアパートだから変な音がすることもあるさ。」
曖昧な答えにTくんはモヤモヤしたけど、それ以上追及するのはやめた。ただ、その日から「松風荘」に行くたびに、何か見られているような感覚が拭えなくなった。
数日後、今度は403号室の内見案内を頼まれた。依頼者は電話で「今すぐ見たい」と急かしてきたらしい。Tくんは店長から鍵を受け取り、夕方5時頃にアパートに向かった。
内見希望者はまだ来ていなかったので、先に部屋を確認しようと4階に上がった。403号室のドアを開けると、中は意外と綺麗だった。畳が新しく、壁紙も張り替えたばかりのようだ。ただ、窓からの日差しは少なくて薄暗く、部屋全体に重い空気が漂っていた。
部屋の隅に立って資料を整理していると、またあの音が聞こえてきた。
「トン、トン、トン。」
今度は明らかに上の階からだ。
「え、4階が最上階なのに?」
Tくんは一瞬固まった。足音は階段を下りてくるように続き、3階、2階と近づいてくる。そして、1階の廊下で止まった。
「カチャ、カチャ。」
またしても、どこかの部屋のドアが開く音。
その瞬間、Tくんのスマホが鳴った。内見希望者からだ。
「すみません、今アパートの前に着いたんですけど…。」
慌てて階段を下りて入口に向かうと、30代くらいの男性が立っていた。内見はつつがなく終わり、男性は「検討します」とだけ言って帰っていった。でも、Tくんはその後も足音のことが頭から離れなかった。
バイトを始めて1ヶ月が経った頃、Tくんは店長に勇気を出して聞いてみた。
「松風荘って、なんか変じゃないですか?4階の上が鳴ったり、誰もいないはずの部屋から音がしたり…。」
店長はしばらく黙ってから、ため息をついて話し始めた。
「実はな、あのアパート、昔は5階建てだったんだよ。20年くらい前かな、上の階で火事があってさ、5階に住んでた人が全員死んじゃった。それで危ないってんで、5階部分は解体して4階までにしたんだ。でもな…。」
店長はそこで言葉を濁した。
「でも、なんですか?」
「いや、なんでもない。変な噂があるだけだよ。気にしないでくれ。」
その「変な噂」が何かは教えてくれなかったけど、Tくんにはもう確信があった。あの足音は、存在しないはずの5階から聞こえてくるのだ。
その夜、Tくんは夢を見た。
「松風荘」の階段を上っている夢だ。4階まで登りきると、なぜかさらに階段が続いている。薄暗いコンクリートの階段を一段ずつ上っていくと、焼け焦げたドアが並ぶ廊下に出た。5階だ。
廊下の奥から「トン、トン、トン」と足音が近づいてくる。Tくんが振り返ると、そこには誰もいない。でも、足音はどんどん大きくなり、すぐ背後まで迫ってきた。
「カチャ、カチャ。」
何かがドアを開ける音がして、Tくんは目が覚めた。
汗だくだった。時計を見ると深夜2時。夢にしてはあまりにもリアルで、心臓がバクバクしていた。
翌日、Tくんは不動産屋に辞めることを伝えた。もう「松風荘」には行きたくなかった。店長は「わかった」とだけ言って、特に引き止めなかった。ただ、最後に一つだけ頼みがあると言われた。
「松風荘の403号室の窓が開けっぱなしになってるって連絡があってさ。閉めてきてくれないか?昨日内見した人が開けたまま帰ったみたいなんだ。」
断りたかったけど、最後だからと渋々引き受けた。
夕方6時頃、アパートに着いた。日はもう沈みかけていて、空はオレンジと紫が混じった不気味な色だった。階段を上り、403号室のドアを開けると、確かに窓が全開になっていた。冷たい風が部屋に入り込んでいて、カーテンが揺れている。
窓を閉めようと近づいた時、ガラスに映る自分の姿の横に、もう一つ人影が見えた。
振り返っても誰もいない。でも、窓ガラスには確かに誰かが立っている。ぼんやりしたシルエットで、顔は見えない。
「トン、トン、トン。」
また足音が聞こえてきた。今度は4階の廊下からだ。ゆっくり、でも確実にこちらに近づいてくる。
Tくんは慌てて窓を閉め、鍵をかけて部屋を出ようとした。ドアノブに手をかけた瞬間、
「カチャ、カチャ。」
ドアの外から、誰かが鍵を開けようとしている音がした。
「誰!?」
思わず叫んだが、返事はない。音だけが続く。
「カチャ、カチャ、カチャ。」
ドアノブが小刻みに揺れ、Tくんは恐怖で動けなくなった。
すると、突然音が止んだ。
静寂が訪れ、Tくんは意を決してドアを開けた。廊下には誰もいない。階段も静かだ。
急いで1階まで駆け下り、アパートを飛び出した。振り返ると、403号室の窓がまた開いているのが見えた。
その日から、Tくんは「松風荘」に近づくことは二度となかった。
バイトを辞めて数ヶ月後、サークルの飲み会でその話をした。すると、同じ不動産屋で働いたことがある先輩がこんなことを言った。
「あそこさ、5階がなくなった後も、住人から変な報告が来るんだよ。夜中に上の階から足音がするって。管理人も知ってるけど、誰も何もしない。だってさ、5階にいた人たち、入居者名簿に載ってなかったんだよ。火事で死んだはずなのに、誰だったのか誰もわからないんだ。」
先輩は笑いものだろ、と軽く言ったけど、Tくんは笑えなかった。
今でも時々、あの足音とドアの音が耳に蘇るらしい。そして、夢の中で「松風荘」の階段を上るたび、5階の焼け焦げた廊下が近づいてくる気がしてならないそうだ。
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