人工意識の囁き
かしゆっか
第1話『引っ越し先の部屋』
この話は私が大学四年の頃のことだ。
就活も終わり、社会人になる前の夏休み。私は一人暮らしのアパートから、そろそろ引っ越しをしようと考えていた。内定先の会社が今の場所から少し遠かったのと、正直このアパートにはもう飽きていたからだ。
そんな時、大学の先輩から物件の紹介があった。場所は内定先から自転車で15分くらい。家賃も手頃で、駅からも近い。
「今、空いてるとこがあるんだけど、見に来ない?」
先輩は不動産の営業をしていた。学生時代のバイト仲間で、今でも時々飲みに行く間柄だ。最近は不動産屋として独立して、自分の店を持っていた。
「珍しく良い物件が空いたんだよ。こういうのすぐ決まっちゃうから」
そう言って、私をその物件に案内してくれた。
築10年ほどのマンション。オートロック付きの鉄筋コンクリート造で、部屋は3階の角部屋。日当たりも良く、室内も綺麗に保たれていた。
「前に住んでた人、すごくキレイ好きだったからさ。壁とか床とかピカピカに磨いて出てったんだよ」
確かに、築10年とは思えないほど室内は清潔だった。床には傷一つない。キッチンの壁も、ピカピカに磨かれている。
「なんで、こんないい物件が空いてるの?」
私が聞くと、先輩は少し考え込むような表情を見せた。
「まぁ、前の住人が急に出てったんだよ。家賃も相場より安くしてあるし」
その言葉に少し引っかかりを感じたが、部屋の良さに気を取られて深く考えなかった。
「じゃあ、この部屋で」
契約は翌週には済ませた。引っ越しも順調で、その日のうちに荷物の整理も終わった。
夜。
新居での初めての夜を迎えた。
窓の外からは街灯の明かりが漏れている。部屋は3階なので、木々の梢越しに月が見えた。
ベッドに入って、スマホでSNSを見ながらうとうとしていると、ふと、音が聞こえた。
キュッ、キュッ。
何かを擦るような音。
最初は気のせいかと思った。でも、確実に音は聞こえている。
キュッ、キュッ、キュッ。
音は廊下の方から聞こえてきていた。
玄関を入って右側の廊下。そこの壁から、まるで誰かが必死に何かを磨いているような音が聞こえる。
私は電気をつけて、恐る恐る廊下に向かった。
木目調のツルツルとした合板の壁に手をかざしてみる。触れてはいないが、壁から異常な熱を感じた。
キュッ、キュッ。
音は続いている。でも、壁には誰もいない。
その時、玄関のドアをノックする音がした。
ドンドン、ドンドン。
深夜の訪問者。チャイムではなく、扉を叩く音。
私は息を潜めた。
「開けて。開けてよ」
女性の声だった。若い女性の声。
「私の部屋なのに。私の、きれいな部屋なのに」
声は続く。しかし、ドアスコープを覗いても、そこには誰もいなかった。
「なんで入れてくれないの?」
声が、少し甘えたような調子に変わる。
キュッ、キュッという音は、まだ廊下の壁から聞こえ続けていた。それなのに、その声は確かにドアの外から。つまり、二つの場所に同時に...
「ねぇ、開けてよ」
「だって、私まだ、掃除終わってないのに」
声が、廊下の壁の方へと移動していく。
私は恐る恐る、壁に目を向けた。壁には誰もいない。でも、その表面が、どこかテカテカと光っているような。
スマホのライトで照らしてみると、壁は確かに濡れていた。まるで誰かが...汗をかきながら必死に磨いていたみたいに。
その夜、私は玄関のドアの前で一晩中、震えながら座り込んでいた。外に出る勇気もなく、かといって部屋の中に居たくもなく。
朝になって、やっと外に出ることができた。日が昇っているから、そこまで怖くはない。
エレベーターに乗って一階に降りると、郵便受けの前で管理人らしき人が立っていた。私の姿を見ると、「あぁ、303号室の新しい入居者さんですか」と声をかけてきた。
私が昨日引っ越してきたことを伝えると、管理人は「そうですか」と小さくつぶやき、何か言いたげな表情を浮かべた。
そして、ポツリと一言。
「気をつけてくださいね。あの部屋の前の人、すごく綺麗好きな人でね...まだ時々、夜中に掃除してるみたいなんです」
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