第12話

足には湿布と大げさな包帯。体育祭で怪我したわけでもないのに手当してもらって悪いと思いつつ、そのまま救護本部の中で最後の種目を見ることになった。


「お待たせしました。いよいよラストの種目、選抜男子による色別対抗リレーです!!!!」


アナウンスがグラウンドいっぱいに響き、みんな総立ちで入場してくる選手を出迎える。隼人と凌空の姿も見えた。


ドクンッ。


ふたりに対しての異なる感情で、胸の奥が大きく動いた。あたしを救護本部へと連れてくると、凌空はすぐにそこを離れてしまった。


結局、何も聞けずに……。……どうして、あんなこと……。


第一走者の凌空。スタートラインに並ぶ凌空を直視できない。


"逃げて"

"ごめん"


そう言った凌空は、なにを思ってあんなことしたんだろう……。


まるで5年間前と同じ。でも5年前と違うのは、お互いに恋人がいること……。

罪悪感が生まれる。花音ちゃんにも、隼人にも……。


「位置について、ようい!」


パンッ!


空に放たれた乾いた音と共に、4人の選手が一斉に飛び出した。さすがトップを任されるだけあって、どの選手も見事なロケットスタート。コーナーを曲がり終えると、4人の距離に若干のばらつきが出始めた。凌空は白組の人とほぼ同率1位で、次のコーナーを曲がっていく。


それを目で追うあたしの心は……。苦しかった。苦しくて苦しくて、はちきれそうだった。


どうして。どうしてキスしたの……。気まぐれでしたと言われた5年前のキスを、ようやく忘れられそうだったのに……。ひどいよ、凌空……。


凌空はそのまま1位で、第2走者にバトンをパスした。そこからも、赤組は抜きつ抜かれつを繰り返して……。アンカーの隼人には、2位でバトンが渡された。


「ラストだあああーーーー!」

「頑張れーーーー!」


観衆は総立ちだった。応援の太鼓がドンドンと響き渡り。どのクラス旗も、大きくはためいている。最高の、クライマックス。


「隼人ーーーーー!!!」


足の痛みも忘れて、思わずその場に立ち上がった。グイグイと腕と足をのばして前へ進む隼人は、もう少しで1位の人に追いつきそう。コーナーを曲がると、隼人の表情が良く見えた。歯をグッと食いしばりながら、目に力を込める気迫あふれる姿は、マウンドに立っている時と一緒。そんな隼人の頭に巻かれたハチマキは、あたしのもので。


前へ、前へっ……!不思議と、あたしまで一緒にトラックを駆け抜けているような気がした。ちょうどあたしの目の前を横切ったところで、1位の人に隼人の姿が重なる。あっ、抜かせるっ……。


「いけっ………!!」


大きく腕を振りまわしたとき。隼人が風と共にゴールテープを切った。


「わあああああああああっ!」


大歓声がトラックを包む。


「赤組、逆転勝利です!!!!」


マイクが割れるような勢いのアナウンス声が、耳に響いた。


「やったああああっ!」

「川瀬さんっ!無理しちゃ駄目だって!」


救護係は実行委員の子だから顔見知り。飛び跳ねたあたしを、慌てて椅子に座らせた。


「あはは、痛みも忘れてた」


ふぅ。暑くなりすぎちゃった。でも仕方ないよね。今日一番盛り上がった場面なんだから。

その主役は、あたしの彼氏……。


そう。彼氏……。……なのに、あたしは凌空とキスしちゃったんだ。

その罪悪感が、勝利の喜びに影を落とす。


砂埃をあげながら、選手たちがトラック内から退場し始めた。ぼんやりと隼人の姿を目で追っていると、座席に向かわず別の方向に歩いているのが見えた。


どこ行くんだろう……?そのまま追い続けていると、隼人の姿がだんだん近づいてきて。


えっ、なんで。もしかしてこっちに来るっ……!?どうしようっ。

そわそわし始めたところで、時間は止まってくれなくて。


「よっ」


隼人は救護本部のテントをくぐって、あたしに笑顔を見せた。


「お、お疲れさま……」

「見ててくれた?」

「もちろんっ。1位おめでとう…」


腰を浮かせながら、同じように笑顔を作る。罪悪感から、隼人がまともに見られない。どうしてここにいるのが分かったの?

……凌空から……聞いた……?


「サンキュ。走りながら結良がここにいるのが見えたんだ」

「えっほんと?」

「コーナー曲がってる時に。やっぱコレ、目立つな」


そう言って自分のシャツを引っ張りながら笑ったけれど、すぐに顔をしかめる。


「足どうなんだよ」

「えっ……」

「さっき聞いてびっくりした」


隼人は足元にしゃがみ、大袈裟に巻かれた包帯を見てから、あたしの手の上に優しく手を重ねた。


「そんなにひどかったのかよ」

「た、大したことないの。これはちょっとオーバーに巻いてくれて……」

「気付けなくてごめんな」


なんで隼人が謝るの……。ものすごく申し訳なさそうな表情を見せる隼人に、ぎゅうう……と胸が押しつぶされそうになった。


「痛かっただろ……?」


手のひらに伝わる温もりが、苦しいほど温かい。


「実行委員だからって、無理してたのか?」


隼人の優しさが……痛かった。


「今日も一日キツかっただろ」


だって、あたしは……。


「終わったらすぐ病院に行こうな」


……ごめんなさい。

ーーポタッ……。我慢できなくて、手の甲に、涙の滴が落ちた。

泣いたって消えるわけじゃない。5年前のキスは時効だとして。今回のキスは許されない。

確かに唇が重なったあの時間は、戻せないんだから……。


「足、痛むのか?」


ちがう、ちがうの。優しい言葉を掛けられるほど、胸が苦しくなる。我慢していた嗚咽まで一緒に漏れて。


「ううっ……うっ……」


ひたすら涙を落とす。


「川瀬さん、大丈夫……?」


係の子がオロオロと声をあげる中、突然、隼人があたしを抱え上げた。


「この足じゃ閉会式も無理だな。中に連れてく」


隼人は係の子にそう言うと、泣きじゃくるあたしをそのまま校舎の中へ連れて行った。



静まり返った校舎の中は、薄暗くてひんやりしていた。外の熱気がウソみたいに。隼人は昇降口から一番近い1年生の教室に入ると、机の上にあたしを優しく降ろした。

正面に、隼人が立つ。


「一気に汗が引いてくな」


あたしはうつむいたまま、何も言えずにいた。

このままでいいの?

隼人に秘密を持ったまま、なにもなかったようにするの?


「体育祭もこんだけ暑いと大変だよな」


ようやく、5年前のキスから解放されたのに。このまま黙って、何もなかったように過ごせないっ……。


「あたし、凌空にっ……」


顔をあげた瞬間。隼人の唇が重なった。


あたしは目を見開いたまま体が固まる。

もしかしたら見られてた? それとも、誰かが伝えた?

まさか、凌空が……。


それなのに。

優しい、優しいキスだった……。


「んっ……」


唇を離されて、ごめんなさいの想いで涙が溢れる。


いつだって、こうやって隼人は優しかった。はじめてかもしれない。……隼人を好きだと思った。隼人のキスを、嬉しいと思った。愛しいと思った……。


いつだって、隼人はあたしを見ててくれた。考えてくれた。想ってくれた。

だから、あたしはこんなにも安心して隼人の隣に居られたんだ。


「あたしっ……あたしっ……」


好き……。

溢れそうになった想いを、初めて言葉にしようとしたとき。


「いいよ、何も言わなくていい……」


隼人はそのままあたしをきつく抱きしめた。


「……」


ずるいかもしれないけど。今はただ、隼人のぬくもりだけを感じていたかった。何も考えずに、ただ。


この時、隼人が何を思ってあたしにキスをしたかなんて知りもしないで。ただ、あたしはその温かい胸に体を預けていた。


外ではマイクを通して赤組の優勝が告げられ、グラウンドは大歓声で包まれていた。



実行委員は後片付けなど最後までやることが沢山あったけれど、あたしはそれらを免除してもらい、このまま病院へ直行することとなった。制服に着替え、隼人と一緒に昇降口へ向かう。


「おう!」


その途中、これから部活へ行く向井くんに会った。体育祭のあとでも、県大会を3週間後に控えた野球部に休みなんてないんだ。あたしは……お休みさせてもらうから心苦しい。


「俺さ、今日部活休むから」

「はっ!?どうした!?どっか調子悪いのか!?」

「俺じゃない。結良が昨日の練習で足怪我したから病院に連れて行く」

「えっ、マジで?」


大げさすぎるあたしの足首を見た向井くんは納得したように頷いて。


「そういうことなら了解。川瀬、お大事にな」


そう言い残しグラウンドへ向かった。


「行くよ」


話がついたようで、隼人はあたしを促すけど。

ちょっと、待って……。了解、じゃなくて。


「えっと……病院なら、あたし一人で行けるけど?」


隼人が一緒に行くとは思ってなかった。あたしの記憶では、隼人は自分の都合で練習を休んだことなんてない。

部活で怪我をしたマネージャーの付き添い、ということであれば、サボり扱いにはならないだろうけど。

エースの隼人にそんなことさせられないよ。


「ホントにいいよ、ここで大丈夫だから」

「連れてくよ」

「でも……」

「連れてくっつってんだよ」

「……」


いつにない隼人の強い口調に、それ以上何も言えなかった。


連れて来られたのは、野球部のメンバーが好意にしてもらっているという整形外科。学校の前からバスに乗って20分くらいのところに、その病院はあった。

診断結果は打撲。


骨には異常がなくてホッとした。でも、すぐに適切な処置をしなかったことや無理をしたせいで、悪化しているのは間違いなく。走ることは禁止されてしまった。


走れないマネージャーって……。……はぁ……。


「ごめんなさい。部のみんなに迷惑掛けちゃうね」


迷惑を掛けないように無理することが、余計に迷惑をかける。凌空の言った通りだった。


「もともとマネージャーがいなくなるところを、結良が補ってくれてんだろ?走らなくても必要な場面は沢山あるし、今の結良に出来ることをやってくれればそれでいいから」

「……ありがとう」

「休んでて、って言えないのが悪いけど」


隼人が申し訳なさそうに眉根を下げるから、あたしは首を振る。


「ううん」


グラウンドに出なくても、やるべき仕事は沢山あるし。それをがんばろう。



バス停に着くと、隼人は時刻表を確認して。


「行ったばっかりだな。次のバスまで20分もある」


あーー、っと残念そうに空を仰いだ。


「タイミング悪かったね」

「しょうがねえ。あそこで座って待ってよう」


バス停にはベンチはなく、すぐ隣にあった公園のベンチで待つことにした。夕方の公園は、とても賑わっていた。半分が遊具、半分が広場になっていて、広場では小学生の男の子がキャッチボールをしている。


「もっとちゃんと投げろって」

「取れないおまえが悪いんだろー」

「コントロールが悪いからだ!そんなことじゃ甲子園なんて行けないからな!」

「うるせえ!絶対行ってやるし!」


ふふふ。まるで、昔の隼人と凌空みたい。懐かしい……。文句を言い合いながらも投げ合う男の子の姿に、隼人も目を細めている。


「座ろう」

「うん」


隼人はあたしをベンチに座らせると、その右隣に座った。


「凌空さ、甲子園に出るために日本に帰って来たらしい」


自分たちに重ねているのか。男の子たちを見ながら隼人が切り出したのは、凌空の帰国理由だった。


……隼人も知ってたんだ……。


なんとなく言い出しにくかったし、お母さんにも知らないフリしてって言われてたから話題にしなかったんだ。


「うん……あたしもお母さんから聞いた」


隼人だっておばさんから聞いてて当然だよね。


「そっか。やっぱ結良も知ってたんだ」

「……すごい決断だよね。甲子園を目指すためにひとりで帰ってくるなんて」


さっきのキスは、ダメだけど。そう思う気持ちにウソはないから。なかなか出来ることじゃないし、野球にかける想いを絶賛してそう言ったけど。


「俺が情けえねえからな」

「え……」

「今まで4度も甲子園のチャンスを逃してんだし」

「……」

「凌空には敵わねえよ」


下を向いて、自嘲気味にフッと笑う。……隼人はそんな風に思ってたんだ……。

それが悲しくて、隼人の目を見つめながら大きく首を横に振った。


「そんなことないっ!あたしは知ってるよ?どんなときも隼人が一生懸命だったこと」


情けないなんて言わないで。青翔は甲子園を目指せる位置に居るかもしれないど、それでも甲子園に行くなんてものすごく大変なことだもん。


だって、県でたったの1校。その夏一度も負けなかったチームだけがその権利を得る。沢山の試合のうち、時には運が左右することもある。

運も強さのうちとは言うけど……。


「甲子園に行けなくても、あたしは青翔野球部を……隼人を……弱いだなんて一度も思ったことはないよ……?」


何十回と試合を見てきたあたしだから間違いない。

隼人は、強い。あたしが保証する。肩で息をしながら力強く話すあたしに、隼人は目を丸くして。

ありがとうとでも言うように、頬を緩めて軽くうなずくと。


「俺さ、甲子園に連れて行くなんてカッコイイこと言っときながら……じつは、結良の力借りて甲子園行こうと思ってた」


ドクンッ。


「甲子園に行くんだ……っていう強い気持ちだけはあるのに、全然結果がついてこなくて。何が足りねえんだうって、考えた……」


行き交うボールの音を聞きながら、過去を回想するように、隼人がゆっくり言葉を紡ぐ。


「出した答えが、結良だった」

「あた、し……?」

「結良が側にいてくれたら、俺はもっと頑張れる。結良の為に、俺はもっと強くなれるって」

「……」

「だからあん時、結良に告白したんだ」


……うれしかった。


でも、その直後に襲ってきたのは、チクリと刺す胸の痛み。理由は。あたしはそんな隼人に、力を貸してあげられてなかったから。


「でも、そういうことじゃないんだよな」


隼人が顔をあげる。


「結良に頼って甲子園に行こうだなんて思ったのが間違いだった」


……隼人……?


「それでも、俺は甲子園に行きたい。絶対に行く」


何かを吹っ切ったように言った隼人は、空を見上げた。さっきまで青かったはずの空は、茜に色を変えていた。


隼人が、息を吸う音が聞こえた。空からあたしへと視線を移す。


「だから、別れてほしい」



今、なんて……?


別れ……


「……」


さっきまでの話の内容からは想像も出来ない言葉に思わず絶句。


「頭ん中ゼロにして、もう一回、野球だけと向き合いたいんだ」


聞こえてくる声は、まるで知らない人のモノみたいで。


瞬時に頭をよぎる、凌空とのキス。隼人は、きっとあたしと凌空のキスを知っている。

だからっ、それでっ……。


「さっきのことならっ」

「結良」


意地でもその先を言わせない隼人は、


「勝手でごめん……」


立ち上がって、頭を下げた。


「はやっ……」


掴もうとした手は、宙に浮かせたまま行き場をなくして。


イヤだ。そう叫びたいことすら、拒絶されている気がした。

……ううん。


隼人を裏切って、凌空とキスしたあたしは。隼人の決意を拒否する資格なんてないんだよね……。


「別れたとしても、俺達の関係は変わらないよな」


隼人は優しく言う。


「……」

「幼なじみ、だろ?」

「……」


隼人の中であたしとの付き合いは、最後まで幼なじみの延長だったんだね。そう思わせたのはあたしだし、実際、そうだった。


だから、改めて解消したところで、なにも変化はないって。隼人はそう思うんだよね……。


ブォォォン……


「バスが来たよ」


隼人は、あたしの足を気づかうように立ちあがらせる。


「……っ」


バランスを崩して、隼人に支えられた。……フラフラするのは、足が痛いからじゃない。


「大丈夫?」


大丈夫じゃないって言ったら、どうする……? ……言えるわけない。

コクリとうなずいて、バスが止まるのを目で追う。


ーープシュー……ドアが開いて……


「乗って」


背中を軽く押され、振り返る。


「え、隼人は……」

「送れなくて……ごめん」


その目は……悲しそうに見えた。……隼人……?心が泣いているようなその目を伏せると、押し込めるようにあたしの背中を押した。

あたしと隼人を遮断するように、ドアが閉まる。


「お掴まりください」


そんなアナウンスに無意識に吊り革を掴むと、バスは発車した。


「隼人っ……」


我に返って名前を呼ぶけど、隼人はどんどん小さくなって。

……やがて、見えなくなった。


「……っ……」


あたしは力なく、目の前の空いていた席に座る。



たったの20分。バスを待っているこの20分で、ものすごいことが起きたような気がする。


「ふっ…ふははっ……」


込み上げてくるのは笑い。気が抜けて、まともにこの状況を受け入れられない。そのあとには悲しさが襲ってきて、両手で顔を抑えた。

隼人がさっきのキスを見たとして。キスをしてきた凌空を責められない。今までの積み重ねが、今日に繋がったんだよ。

バチが当たったんだよ……。



ねぇ、隼人。もう遅い?

あたし気づいたんだよ。隼人が好きだって。


なのに、なのに……。



隼人を好きだとはっきり気づいたその日に。一度も隼人に好きだと言えないまま。


───あたしは失恋した。

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