第10話

「もー、梅雨なんて日本からなくなっちゃえばいいのに!」


頬杖をつきながら、沙月が窓の外に向かって恨み節を唱える。


天気予報で梅雨入りを宣言してから1週間。今日は朝から冷たい雨が降っていた。


「出た出た、沙月のそのセリフ」


あたしは笑った。

少しクセっ毛の沙月は髪の毛がまとまらなくて大変とかで、毎年梅雨になるとこのセリフを言うんだ。


「春と夏の間に一旦寒くなるってのも絶対におかしい!」


今日はかなり肌寒く、衣替えして半袖シャツになったばかりだというのに、女子のほとんどはカーディガンを羽織ってる。うんうんと頷くあたしも、例外なく。


「梅雨ってこんなに寒いんだっけ?毎年経験してるのに忘れちゃう」


花音ちゃんは、手をカーディガンの裾ですっぽり覆った。そんな仕草はやっぱり可愛くて、この間の言葉がまるで夢の様。


「雨が降っても野球部はお休みにならないしね」


それは、雨でも凌空とデート出来ないことを指してるのかな。

と同時、バーベキューのことを蒸し返されてるような、今までだったら感じなかったトゲを、ほんの少し感じてしまう。


野球部は雨が降ったからってお休みになるような生ぬるい部なわけなくて。冷暖房完備の室内練習場があるし、そこでの練習に変わるだけ。


"野球は太陽の下で"、がモットーの広田監督だから、どんなに暑い日も寒い日も、基本グラウンドで練習なんだけど……。


「野球部に雨得がなくて残念」


花音ちゃんがチラッとあたしを見た。そこに笑顔はない。わざとなのか無意識なのか、ずっとそんな調子。


「……うん、そうだね」


雨得、それは彼女が……って意味かな。あたしは花音ちゃんの気持ちに沿うよう眉毛を下げた。

あたしも……6月の雨は嫌いだな。

ザーッと降ってカラッと晴れる夏の雨とは違い、ジメジメしてうっとうしい。視界を悪くする窓の外のグレーは、あたしの気分まで沈ませた。




その日の午後は、体育館でバスケの授業があった。男子は外でサッカーの予定だったけど、雨のため体育館を共有しての授業。心なしか、女子が浮足立っている。


「ペアを作って10分間パス練習」


先生からそんな指示が飛ぶ。ペアか。じゃあ沙月と……。


「沙月、一緒にやろっ!」


あたしが沙月を探すよりも早く、そんな声が聞こえた。見ると、花音ちゃんが沙月の腕を取っていて。


……あ。

前までは、ペアを作るとき沙月と組むのは自然だった。


でも3人で行動してる今、それはもう暗黙ではないんだと思うと同時、花音ちゃんが沙月を選んだことに、無意識に傷ついてるあたし。


準備体操をしていた並びからすれば、花音ちゃんからはあたしの方が近いのに。そんな感情を抱きつつ周りを他を見渡しても、ペアは完成していてあたしが組める相手はいない。

……女子は奇数なんだっけ。

……どうしよう。


「結良!3人でやろうよ」


察した沙月が手招きしてくれて、そこに混じろうとしたとき。


「結良ちゃん、まだペア組んでない?」

「あ、うん……」

「あたしとやろっ!今日ウチのクラスひとりお休みで足りないんだあ」


そう誘ってきたのは、2組の美咲ちゃんだった。体育は、1.2組合同で行っている。去年同じクラスだったし、いまでも廊下で会えば手を振り合う仲。


「いいよっ!」


あたしは答え、沙月にも大丈夫だよと合図を送る。

沙月は指でオッケーサインを作り、花音ちゃんとパス練習を始めた。


「あたし運動苦手だからヘタくそだけどごめんね?」

「あたしもバスケ苦手だし!」

「じゃあお互い様だねっ!」


ふたりで笑いあいながらパス交換をしていると。


「うわっ!」


突然、目の前でサッカーボールが大きくバウンドした。ぶつかる!と思い咄嗟に顔をガードすると、腕に当たりボールは勢いを失って足元に転がる。


わー、びっくりしたあ。どうやら男子の陣地からサッカーボールが飛んできたみたい。


「わりーわりー」


蹴ったのは凌空だったようで、こっちに向かって走ってくる。


「顔、大丈夫か?」


背の高い凌空が、少し屈んであたしの顔を覗き込んだ。


「うん。抜群な反射神経のおかげで咄嗟にガードしましたから」

「そりゃよかった。鼻血ブーかと思って焦ったわ」

「ちょっと! 言い方!」


あたしは笑いながらボールを拾って凌空に返す。


「ぼーっとしてると怪我するから気をつけろよ」


受け取った凌空は、あたしの髪をクシャクシャっと撫でた。


「うん、ありがとう」


去っていく凌空を目で追ったあと、何気なく視線を横に走らせると。花音ちゃんと目が合い……サッと逸らされた。

……あ。

なんか気まずい。また気分を害しちゃうかな……。


「今の人でしょ? 噂の帰国子女って」

「えっ? う、うん」


前を向くと、美咲ちゃんがボールをパスしてきた。


「で、手塚さんとつき合ってるんだよね?」

「うん」


本人たちが隠しているわけでもないし、頷いて、美咲ちゃんの元へパスを返す。

花音ちゃんと沙月が練習しているところから距離はあるから、会話は聞こえないはず。


「でもさ、乗り換えるにしても相手が親友ってのもどうなの?」

「えっ?」

「ま、結良ちゃん的には安心か」


乗り換える?誰が? で、どうしてあたしが安心なの……?

話が見えなくて首を傾げるあたしを、美咲ちゃんが不思議そうに見る。


「桐谷くんと矢澤くんて親友なんでしょ?」

「そう……だけど……?」

「手塚さん、矢澤くんにずっと片想いしてたの知ってる?」

「えっ…………」


手からボールが滑り落ち、バウンドした球を美咲ちゃんが拾う。そして、再びパスしてきた。


「あ、やっぱ知らないんだ。あたし、1年のとき2人と同じクラスだったんだけど、結構積極的に押してたっぽいよ?あ、まだ結良ちゃんともつき合ってなかった時の話ね」


会話が会話だけに、どんどん距離が縮まり至近距離でのパスが続く。


「手塚さんと仲いいみたいだから、知ってるかと思ったんだけど」


……知らない。そんなの初耳。


「最初は手塚さんが結良ちゃんと仲良くなってるの見て、大丈夫なのかなーってひやひやしたんだけど、そしたら桐谷くんとつき合い始めたからびっくりしちゃって」


頭の中がこんがらがってくる。花音ちゃんは、隼人を好きだったの……?

どういうこと……? いまは凌空が好きなんだよね?

あたしが凌空と接触してるのをよく思ってない……それが証拠でしょ?


「でも、矢澤くんがダメでも桐谷くんと付き合えるなんて、やっぱ可愛い子は得だよねー。羨ましいっ」


ピーッ。そこへちょうど、終わりの合図を告げる笛が鳴り。


「あ、終わっちゃった。じゃ、またね!」


美咲ちゃんは手を振って2組の人たちの元へ走っていく。ボールを胸に抱えたあたしは、その場に立ち尽くした。美咲ちゃんの話が本当なら。

いつまで花音ちゃんは隼人を好きだったんだろう。


───"ふたりでいるときもあんな感じなの?"

───"矢澤くんから告白したんだ?"


仲良くなり始めの頃、あたしと隼人について色々聞いてきた花音ちゃんは、隼人のことがまだ好きだったの?


花音ちゃんの恋愛観を、あたしはよく知ってる。熱く語ってくれたから。それはもしかして、あたしへの皮肉も含まれてた?

実はあたし、ライバル視されてた?


……そっか。なんとなく分かってきた。

花音ちゃんの今のあたしへの態度は、凌空だけのことじゃなく、隼人を好きだった頃のことも繋がってるんだと。そして、隼人に相談したとき、あたしに謝って来た理由も。


隼人は、花音ちゃんがあたしに見せる態度は自分も関係してるって思ったんだ。

フった相手とあたしが仲良くなって、隼人はずっと気を揉んでいたに違いない……。

凌空が花音ちゃんとつき合うという報告を受けたとき、すごく驚いていたのはそのせいか。


……どんどん深くなっていくグレー。


そんなあたしの想いを知ってか知らずか。開いた体育館のドアから見える外の雨は、いっそう激しさを増していた。



体育祭があと3日後に迫り、今日の午後はその準備や練習にあてられた。競技の練習以外にも、クラスでやらなきゃいけない大きな仕事がある。それは、2メートル四方の布でクラス旗を作成すること。


体育祭ではクラスの応援に使い、秋の文化祭でも展示物の一つとして校門の周りを飾る物なので、どのクラスもかなり気合いを入れて作成する。


動物をモチーフにしたクラス旗を作るクラスが多く、あたしたち1組も例外じゃない。美術部に所属する男の子が、リアルな立派な龍を描いてくれて、あとは色づけのみ。


パーツごとに鉛筆で色の指示が書かれているから、みんな真剣に筆を動かしている。全員がクラス旗の作業をしているわけじゃなくて、10人11脚の練習をしているグループもある。


部活も大会目前でハードになってるけど、この時間だけは疲れたなんて言ってられない。実行委員として、あちこち移動しながらみんなの作業や練習を見て回っていると。


「えー、ほんとに?」


教室の隅から花音ちゃんの可愛らしい声が聞こえてきた。


そこは10人11脚の練習場所で、今は休憩中なのかグループの子たちが楽しそうにワイワイお喋りしている。


その中に、花音ちゃんと隼人もいた。ふたりは隣あっている。今までは、ふたりをただのクラスメイトとしか見てなかったから、気にならなかっただけかもしれない。

でも、あの話を聞いた今は……。


「やだあ、矢澤くんってば」


花音ちゃんが隼人の腕に触れ、満面の笑みを見せた。


───え。


思わず、眉が寄る。クラスメイトなんだから、花音ちゃんが誰と喋ろうがそれは自由。

だけど、凌空のことで花音ちゃんがあたしに牽制をかけるから、極力自分から凌空の話はださないようにとか気を使っているのに、花音ちゃんは隼人にそういう態度で接するの?


それに。美咲ちゃんの話がほんとなら、隼人は前に好きだった相手。

花音ちゃんの考えてることが分からないよ……。

なんとなくモヤモヤして、目を逸らす。


「凌空は?」


そう言えば、取り仕切ってくれるはずの凌空の声がさっきから聞こえない。誰にともなく聞くと、忙しそうに手を動かしながら沙月が教えてくれた。


「クラスTシャツが届いたとかで、職員室に取りに行ってるよ」


ああ、そっか。遠藤先生が今朝言ってたっけ。ひとりで持てるのかな?言ってくれればあたしも行ったのに。

クラスTシャツは、これもまたデザインが得意な女の子が考案してくれて、生地の色は、ショッキングピンク。


『赤組だからって、ただの真っ赤じゃつまらないでしょ?』と言った彼女の選択は正しかった。


見本で見せてもらったらすごくオシャレで可愛く、男子が着てもバッチリはまるはず。うちのクラス、目立つだろうなぁ。クラス旗の周りを歩きながら見ていると。


「赤がもうないんですけどー!」


あたしに向かって男子がポスターカラーの容器を振ってきた。


「え、本当!?」


龍の体のメイン色だから、ないのは困るけど。実行委員の会計さんからは、備品はケチケチ使うように指導されてるんだよね。絞り出してでも使えって。体育祭では、クラスTシャツも含め、予算はどのクラスも均一。

文化祭ほど予算も出ないし、ポスターカラーのほとんどは、去年の文化祭のあまりものを使用している。


「下の方で固まってたりしない?」


お願いすれば新しいものをもらえるだろうけど、出来ることはやってみようと打診すると。


「じゃあ、ちょっと水入れてみようぜ」


ひとりの男子がそう言い、チューブの口から、スポイトで水を少し流し入れ容器をシェイクする。


「これで出たっぽくね?」


キャップを外し、思いっきり後ろから押したとき。


ブシュ―――文字で表現するとしたらほんとにそんな音だったと思う。


「……ッ」


寸前で目を瞑ったけど。


……ううっ。顔と体が冷たい。……思いっきりかぶっちゃたね……。


「ヤベ……」


正面からは、やっちゃった感丸出しの男子の声。恐る恐る目を開けて、自分の姿に驚いた。


「ひ、ひいいいいっ!」


作業のために着ていた体育着の胸元が、真っ赤に染まっていた。顔もきっと……同じ状態になってるはず。


「か、川瀬ごめんッ!」

「ちょっと誰かタオルタオル!」


うわぁぁぁ。最悪だよ、コレ。


騒ぎ出す周りとは対照的に、あたしがなすすべもなく突っ立ていると。


「殺人事件みたいじゃね?」


男子のひとりがそんなことを言い、


「結構インパクト大だよな。あ!コレ秋の文化祭で使えない?」

「だな!お化け屋敷で出てきたらビビるっしょ」


……は? 死体役ってこと……? 慌てていた周りの子たちもそれ面白いかも、なんて言いだして。


「ちょっと川瀬さん、倒れてみ?」


京介くんまでが悪ノリする。そして文化祭の参考に!……なんて懇願されて。


「じゃ、じゃあちょっとだけ……」


顔だけ軽くふいてもらった後、あたしは渋々その場に倒れてみた。……どう?


「あー、いいいい!それっぽい!」

「迫力満点っ!」

「これが懐中電灯で照らされたらチビるって!決まりじゃね?」


ま、まぁ、文化祭のヒントになったのならそれは良かった。お化け屋敷をやるとしても、あたしはこの役ごめんだなぁなんて思いながら、冷たい床から体を起こそうとしたとき。


「───結良っ…!?」


叫ばれた声に目を開ければ。段ボールを抱えている凌空が目に入って。の瞬間、それを投げ捨て、血相を変えてあたしに駆け寄ってきた。


……え?


「大丈夫かっ!?」


倒れたあたしに馬乗りになる。あの、えっと……。


「うわっ、騙されてるし!」

「てことはかなりイケるってことじゃね?」


教室のあちこちからはクスクスと笑う声。


「……」


あたしに触れた凌空の手の力が弱まり、真剣な瞳が次第に曇っていく。

あっ……。


「こ、これはねっ」


ガバッと起き上がり、乱れた髪を耳にかける。


「ポスタカラーが出ないってなって、水入れて振って、思いっきり出したらあたしにかかっちゃって……」

「ポスター、カラー…?」


凌空が、あたしと赤を見比べる。


「なんか殺人事件みたいだろ?文化祭のお化け屋敷で使えるんじゃないかって、ちょっとそれっぽく倒れてもらったんだよ」


男子のひとりがそう説明すると、凌空の眉間にさらに皺が寄った。


「……ふざけんなよ」


普段ノリのいい凌空の真剣な表情と声に、教室の空気もピリピリする。


え、やだ、どうしよう……。率先してお化け屋敷なんて言ってた男子も、バツの悪そうな顔をして自分の持ち場に戻ってしまう。


「ご、ごめん……」


凌空はきっと、本気であたしが倒れてると思って心配してくれたんだよね……?

狙ったわけじゃないけど、ドッキリみたいになっちゃったわけで。凌空を無駄に心配させちゃったのには間違いない。

だけど……いつもの凌空なら、「なんだよ~驚かすなよ~」って笑い飛ばしそうなのに。

どうしてそんなに怒ってるの……?


「いい加減にしろよっ……」


凌空はとどめを刺すように言い放つと、くるりと背を向けドアに向かう。


「どこ行くのっ」

「Tシャツ、もうひと箱あるし……」

「じゃああたしも」


凌空の背中を追いかけようとすると、


「そんな格好じゃ行けないでしょ?」


あたしの前に立ちはだかったのは花音ちゃん。はじめて見るような、鋭い目で。


「……っ」

「凌空くんの気持ちを弄ばないで」

「えっ……」

「わかってないなら尚更ムカツク」


その目にグッと力を込めると、花音ちゃんは凌空の後を追った。



その場に残されたあたしは、放心状態で突っ立つ。

凌空の気持ちを弄ぶ……って? どういう意味……?


「結良ちゃん、大丈夫?これでちゃんと顔拭いて」


クラスの子が鏡と濡れタオルを持ってきてくれる。


「かなり派手にいったよねえ。体操服は新しく買わなきゃダメかもねえ」


放心しているあたしの顔を拭いてくれるのは沙月。


「更衣室に着替えに行こっ」


あたしの制服を持ち、手を引っ張った。



……モヤモヤが胸の中を渦巻く。凌空の表情も気になるし。花音ちゃんの言葉も気になる。


"尚更ムカツク"……


友達だと思っていた子に浴びせられた言葉は、思うよりショックで。

それは今始まったことじゃなくて、もうとっくにあたしにムカついてたことも示していて。


「……ごめん、沙月」


繋がれた沙月の手をそっと離すと、あたしは教室を飛び出した。



この時間はどのクラスもクラス旗を作成していて、廊下には机や椅子が出されている。歩きにくいその合間を縫って、凌空が向かったであろう職員室を目指した。


「うっわっ!」

「ななな、なんだよっ……」


あたしの姿は何人もの生徒を驚かせた。……それは当然。

死体役が成功したその姿で廊下を歩いてるんだから。顔だってちゃんと拭ききれてないだろうし、胸元の赤は自分でも見ても恐ろしく感じる。

でも、そんなの構わず突き進んだ。職員室に行ってみたけど、凌空の姿も花音ちゃんの姿もなく。


……ふたりでどこかに行ったの?


意味もなく、焦り出す胸。職員室の先は、この時間は使われていない専科のフロアになる。引き寄せられるように静まり返ったそのフロアに足を踏み入れると。誰もいないはずの化学室から、微かに話し声が聞こえてきた。

ほんの少し開いたドアから中をのぞくと。


……凌空と花音ちゃんがいた。


「凌空くん……ここ、赤いのついちゃってる」


ジッと立ったまま動かない凌空のシャツに触れる花音ちゃん。

───あたしがつけた、赤。


「すぐに洗えば落ちるはずだよ……」


言った後、反応のない凌空を見て花音ちゃんは口元を少し緩めると、ボタンに手を掛けた。

……っ。


息をのむあたしの目の前で。ひとつ、ふたつ…と花音ちゃんは凌空のシャツのボタンをはずしていく。

洗うためだと分かっていても、躊躇いのないそんな行為にあたしが落ち着かなくなる。


凌空はやめろというでもなく、突っ立ったままで。花音ちゃんはボタンを開け終え、両腕から丁寧にシャツを抜き取った。

露わになる、凌空の上半身。

───ドクンッ。

"制服で隠されたその下には、鍛えられた固い肉体があるのかも"いつだったかそんな想像をした体。

思った通り、逞しくて筋肉質な上半身。

……こんな形で目の前にさらけ出されて、直視出来ないよ。

それでもあたしはの足は凍りついた棒のようになって、逃げ出すことが出来なかった。


花音ちゃんは手早く水道でシャツを洗うと、窓辺に吊るした。その間も、凌空はジッと窓の外を見つめて動かず。


「凌空くん……」


花音ちゃんは……背伸びをして凌空にキスした。


「……っ」


思わず、口を手で抑える。

全身の血が逆流したように、すごい勢いであたしの体内を駆けめぐる。

ドクドクドクと、その動きがわかるほど。

ふたりは恋人同士なんだから、キスなんて当たり前かもしれないけど……。

あまりに自然すぎる花音ちゃんの行為に、初めてじゃないって分かるけど……。


……こんなの、見たくなかった……。


追いかけて来たのを後悔した。

やだ、もう。


カタンッ……。


そのとき、動揺したあたしの上履きの先が、ほんの少し扉に当たって。あっ、と思ったときには、花音ちゃんがうっすら瞳を開けた。


「……っ」


ちょうど花音ちゃんの視線の先にはあたしがいて。ハッとしたような目をした後……その大きな瞳でジッとあたしを見つめながら、見せつけるように、凌空の腰に手を回した。


……花音ちゃんの可愛い顔のむこうに悪魔がみえた。まるで挑発のような仕草に、背中がゾクリとする。


どうして……? あたしがなにかした?

頭の中が真っ白になって、そのまま静かに後ずさり。


そのあとは、一直線に突き当たりの非常階段まで駆け抜けた。



階段に座って膝を抱えて丸くなる。涙がジワジワ溢れてきた。花音ちゃんの視線に傷ついたから……?


凌空が花音ちゃんを抱きしめてキスしてたから……?


わかんない。わかんないけど。さっきのは、あたしにしたようなおままごとみたいなキスじゃなくて。


凌空は男なんだって目の前で見せられて。頭と……心の中が……グジャグジャなの……。


「───結良っ!」


涙で濡れた顔をあげると……沙月がいた。


「どうしたのっ!?」


あたしの顔に驚いたのか、階段を駆け降りてくる。前にしゃがみ、手を握った。


「……凌空と、花音ちゃんが……キス、してた……」


そんなの当たり前なのに。つきあってるんだから、おかしくなんかないのに。言ったらまた、涙が出てきた。


「…………そっか。よーしよしっ」


沙月はあたしの言葉をそのまま受け入れ、頭ごと抱えて抱き締めてくれた。生徒たちの声がどこから響いてくる中、あたし達はしばらくそのままでいた。



やがて、あたしの呼吸が落ち着いてきたころ。


「ずっとさ、聞こうと思ってたんだけど」


言いにくそうに沙月が口をひらく。あたしは濡れたままの頬で、沙月を見た。


改まった口調……。なにを聞かれるんだろう……。


「結良は凌空のこと、男として好きなの?」

「……えっ!?」


まさかの質問に、心臓が浮き上がる。


「前に聞いたことあったじゃん、2対1の幼なじみで、凌空のいない間に隼人と付き合ってゴタゴタはないのかって」

「…………あ、うん……」

「あの時は凌空と隼人がバトるって意味で言ったんだけど、肝心の結良はどうなのかな……って思ったからさ」

「……」


あたしの……気持ち。


自分の中で、凌空に対してふわふわした気持ちがあったのは確か。でも。好きなのかと初めて聞かれ、意外にも心が熱く反応しないことに気づいた。


「あのね、実は……」


思い切って、凌空にキスをされた5年前の話をした。もう時効の、気まぐれの、キス。


「なるほどね、そんなことがあったんだー」


からかわれると思ったのに。

あっけらかんと言う沙月は、あたしの隣に移動してくる。


「不思議なものでさ、昨日までなんとも思ってなかったクラスメイトに好きって言われたら、その日から意識しちゃうでしょ?」

「かも……ね」


経験はないけどなんとなく想像してみて、同意する。


「凌空にキスされた結良は、潜在的に凌空が特別になってたんだよ。それが好きとかどうかじゃなくて、人として、気になる」


ね、と顔を振る沙月に、思わずうなずいてしまう。


「それは結良が思ってる以上に、結良の中にきっと強烈なインパクトを残したの。それが凌空の狙いだったら大成功だけど」

「狙い、なんて……」


凌空がそんなことを狙う意味がわかんない。……だって、ただの気まぐれだもん。


「そして5年ぶりに、凌空が再び目の前に現れた。さあどうなる?」


却下したかったあたしの言葉を流し、なぜか強気な姿勢であたしに答えを求める沙月。


「えっとぉ……」

「やっぱり意識しちゃってどうしようもなかったんじゃない?」

「……」


凌空がクラスに転入してきて、あたしの隣の席に座って。うれしい気持ちだけじゃない、凌空に対して抱く、戸惑う感情がいくつもあった。凌空を見るたび、胸が騒いでどうしようもなかった。


それらを思い出して、素直にうなずく。


「凌空を男として好きじゃなくても、どこかで意識して。そんな凌空に彼女が出来て、ちゃんと彼氏やってるのを見て、心の制御が利かなくなっちゃんだよ。結良は純粋すぎるの」


これは、その証。と、沙月はあたしの涙に触れた。


「言いかえれば、依存みたいな感じかな?仲のいい男友達に彼女が出来て、ちょっとモヤモヤするーなんて、あるある的な感情でしょ?それとおなじ。それは隼人を裏切ってるでもなんでもない普通のことだよ」


凌空を男として好きなワケじゃない……。自分の心と沙月の言葉。


……そ……っか……。ダブルでそれを証明できた気がして、モヤモヤがスッと晴れる。


「今まで、よくひとりで抱えてたね」


今度は隣から、頭を撫でられた。


「もー、凌空の確信犯的行動のせいで、結良をこんなに悩ませて!だったらちゃんとケリつけてから花音ちゃんと付き合えっての。あー、でも隼人がいるから無理かー…」


沙月は階段下に向かってボソボソ意味の分からないことを呟く。


「……確信犯、て?隼人がいるから…って?」


「んー?わかんないならわかんないままでいいんじゃない?」


なんか腑に落ちないけど……楽しそうにニコニコ笑う沙月を見て、今更"あっ"と思う。


「そうだ。沙月はどうしてここに?」

「あ……、だってほら、さっき教室でさ、花音ちゃん随分なこと言ってたじゃない?」


"尚更ムカツク"


驚いたのは、あたしだけじゃないはず。

あーー…と、思い出してうつむいたあたしに。


「感じてたよ、あたしも。……なんていうの?ギスギスした雰囲気を……さ」

「ごめんね……あたしのせいで」


いろんな場面でフォローしてもらってたのは感じてたし、中立な沙月はやりにくかったよね。


「え?結良のせいじゃないでしょ。花音ちゃんの嫉妬が原因だよ。あたしこういうのイヤなんだよねー。彼氏が好きで大事なのは分かるけど、そこで友達と火花散らしたり、話しただけで目の敵にしてくるの。そういうの面倒くさくない?」


鬱憤でも晴らすかのような沙月に唖然。


「あたしなら京介が他の女の子と話してたって何も思わないよ。だったらあたしも隼人や凌空と喋れないってことでしょ?そんなのイヤだもん。逆にそんなことで怒られたら冷めちゃう」


でもさっぱりした性格の沙月らしい考え。


「てかさ、幼なじみを目の敵にするのが間違ってんだよ」

「ふふふっ」

「なに笑ってんのー」


思わず笑ったら、棒読みで突っ込まれた。だって安心したんだもん。


「沙月は、花音ちゃんの味方なのかなって思ってたの」

「へっ?」

「だって、あたし最近忙しくて付き合い悪いでしょ?昼間だってぼーっとしてるし、放課後だって遊べないし……。そのうち、あたしハブられちゃうかもって心配してた……」

「やだ、そんなこと思ってたの?」


沙月は目を丸くする。


「えっ……」

「ばか結良っ!」


そして頭に手を落とされた。もちろん暴力的なモノじゃなく、愛情を込めた手のひらで。


「あたし達の仲は、そんなことで壊れるような薄っぺらいもんじゃないでしょ?」


それからほっぺをムニューとつまんで、


「実行委員もマネージャーも、一生懸命頑張ってる結良が大好きだよ」


ぎゅうううっとあたしを力いっぱい抱きしめた。

沙月の胸の中は、温かくて柔らかかった。心の中まで柔らかくなった気がして、すごく落ち着く……。


「ありがとうっ……」


隼人の言ってた通りだった。お揃いのモノを持つことで安心感を得たり友情を測ろうとするより。肝心なのは、心が通っているかどうかだよね。


相手があたしを必要としてくれて、あたしが相手を必要としているか。

誰に見せつけるわけでもなく、あたしたちの仲は、あたしたちだけが知っていればいいことで。

沙月を信じていれば不安になる必要なんてなかったんだ。

あたしは沙月が大好きで、沙月もあたしを好きでいてくれる。

その事実だけが、なにより確かなモノ……。


「教室もどろっ!」

「うんっ」

「あ!その前に結良、着替えに行かなきゃだよっ」

「わわっ、そうだねっ」


自分の体操着に目を落として。


「ふふふっ」

「あははっ」


頭と頭をくっつけたあたし達の笑い声が、非常階段に響き渡った。

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