第9話
それから数日が経ち──
隼人は、凌空があたしにしたキスのことについては何も触れてこなかった。
だから……あたしも自分の口からなにも語ることはできなかった。
「嫌なら、断ってくれてもいいからな」
夕飯を食べ終わった頃。部活を終えた隼人から、【家に寄る】とメッセージが来て。
凌空を引き連れてあたしの部屋にやって来たんだけど、さっきから、このセリフの繰り返し。
凌空はあたしのベッドに寝転び、また漫画の続きを読んでいる。
「で、何を?」
断るもなにも、本題が見えないんだからどうしようもない。
そんな風に連呼されると、よっぽど恐ろしい要求なのかなって不安でしょうがないんだけど。
「実はさ、
「えっ!?仁藤くんが!?」
仁藤くんというのは、野球部に居るただひとりの3年生マネージャー。
入院だなんて心配で、声が上ずった。
「元々、体があんまり丈夫じゃなくて、選手になりたいのを我慢してマネージャーやってんだよ」
「うん、そうだったよね」
その話なら、チラッと聞いたことがある。
小学生の時に少し野球をやっていたみたいだけど、体が弱くて続けられなかったみたい。
それでも選手に負けないくらい野球の知識と情熱はあって、部員を支えたいという強い意志を持っていたから、即マネージャーとして採用されたんだ。
「で?」
「まぁ……っていうか、マジ断ってくれていいから」
「それもう100回くらい聞いた!」
「100回は言ってねえ!」
「結良にマネージャーやってくれないかって、広田のおっさんが」
揚げ足取りになるあたしと隼人の会話にしびれを切らしたのか、凌空がズバッと割り込んだ。
「えっ……!?」
「おい凌空っ!」
隼人は焦ったように凌空を窘めたけど。
マネージャー……って……?
「聞いてるこっちがイライラしてくるわ。とっとと言えっての」
凌空は漫画から目を逸らさずに呆れたように言った。
「しかもおっさんじゃねえし、監督だからな!!」
「ヘイヘイーい」
あの。マネージャーって……。
広田監督が、あたしをマネージャーに推薦してくれたってこと?
「……や、やりたいっ!」
あたしはまっすぐ手を上にあげた。だって、元々マネージャーを志願してたんだもん。甲子園への夢が、部員として叶えられるかもしれないワケでしょ?
それは願ってもないこと。
なのに、あたしの勢いとは反対に。
「……マジかあああああ」
隼人はガックリうなだれた。
その様子からは、あたしがやりたいっていうのが分かっていたみたい。
で、断ってもいいからなって連呼してたってことは、あたしにやらせたくないんだ。
……どうしてだろう。
「あたしがマネージャーやると、都合悪い?」
「いや、そういう訳じゃねえけどよ……」
その割には、全く歓迎されてない気がする。そして、念を押される。
「マネージャーってマジ大変だぞ?」
「知ってるよ」
「ハッキリ言って雑用だ。掃除したり洗濯したり買い物行かされたり」
「そういうの得意!」
「夏は暑くて焼けるし、冬は寒くて手足しもやけだらけだぞ」
「覚悟はできてる!!」
「休みのたびに遠征につき合わされんだぞ」
「願ってもない!!!」
だってほんとだもん。隼人の言葉に対抗するようになっちゃったけど、そのどれもに耐えられるくらいあたしは野球に関わりたい気持ちが強いの。
女だからって排除されてきた今までを思うと、それすら嬉しいこと。
「隼人の負けだな」
漫画を放り投げた凌空が、笑いながら隼人の肩をポンとたたく。
「結良がやりてーって言ってんだから、いいじゃんか」
「凌空はだまってろ」
「俺も一応部員なんだから口挟む権利はあるだろー」
凌空の言葉にあたしもうんうんと頷く。
「なんだよ、結良は俺より凌空の言うことを聞くのか?」
「はあ?大人げないこと言ってんなよ」
口を尖らせた隼人に、凌空が笑う。
「大人じゃねーし」
「都合のいい時だけ大人ぶりやがって」
「うるせーよ」
隼人は本気で拗ねちゃったみたい。プイッと横を向いて、その表情はよくわからない。……なんでそんなにイヤなの?
思い切って聞いてみる。
「隼人は反対なの……?あたしがマネージャーやること」
さっきの念押しだって、やめるように誘導してるとしか思えなくて。そうだとしたらちょっと悲しいな……。
「…………イヤだ」
「はいっ、本音出ましたー!」
凌空はパチパチと手を叩くけど、あたしの顔は強張る一方。
「なんで……?」
どうしてイヤなの?心の中に暗雲が掛かる。昔は一緒に野球の真似事もした仲。
あたしが高校野球を出来ないって知った時も、一緒に悲しんでくれた。
ようやく、同じ野球部員になれるチャンスをもらったんだよ……?
「足手まといになるって思ってる?」
そりゃあトロいし気が利く方じゃないし、仁藤くんには敵わないけど。あたしだって一生懸命頑張る覚悟はあるのに。それでも沈黙を貫く隼人に変わって、凌空が言う。
「イヤに決まってんだろ。自分だけの結良が、野球部みーんなの結良ちゃんになっちまうんだから」
「……っ!?」
え。
隼人がイヤがる理由って……。そ、そういうこと……?
瞬間、かぁぁぁぁっと顔があつくなる。
隼人に目を向けると、否定するでもなく拗ねた姿勢を崩さない。
「じゃあお邪魔虫は消えるから、結良ちゃん、隼人をやさーしくなぐさめてあげなっ」
凌空はそう言い残すと、自分の家に戻って行った。残されて、妙に気まずいあたし達。
隼人が否定しないのを見ると、そうなの、かなぁ……。
「あの……」
恐る恐る声を掛ける。隼人の顔は日焼けとは違い、少し赤らんでいた。
「……結良が野球部に入るのは、すげーうれしいのに」
「……」
「なんか、面白くねえ……」
……それって……嫉妬してくれてるの……? 心の中が、熱くくすぐったくなる。
でも、それと同時に隼人のあたしへの想いの強さも感じて……複雑な想いが入り乱れる。
ちゃんと隼人を見るって決めたのに、凌空が花音ちゃんと付き合い始めたことに心はざわついて。
教室内でも楽しそうにふたりが会話してる姿に、胸がズキンっと音を立てるの。
自分の気持ちが、自分でもわからない……。
どこにたどり着くか分からない、ふわふわ浮いてる風船みたいに。
「でも……」
ゆっくり隼人が顔をあげる。
「結良が本気で野球が好きなのも、マネージャーに憧れてたのも知ってるから……。俺が、それを邪魔することなんて出来ねえよな」
噛みしめるように言うと、諦めたように笑い。
「……キツかったら、ちゃんと言えよ」
「……うん」
「生半可な部じゃないし、それこそ男の世界だから、いざ中に入ったらすげーツライかもしれない」
「……はい」
さっきみたいにめちゃくちゃに部のキツさを訴えていた時とは違って、真剣な目。本当に厳しい世界なんだ。背筋がグッと伸びる。
「……それと……」
「……?」
「他のヤツ、見んなよ……」
またそっぽを向いた隼人は、ほんのり顔を赤らめた。……普段口にしない隼人の想いがそれだけで伝わって、心が揺さぶられる。
「……うん。ありがと……」
マネージャーになることを認めてくれた寛容さと。心配してくれる優しさと。
……こんなあたしを想ってくれて……ありがとう……。すべてに感謝しながら、あたしは頷いた。
「えー、以前から言っていたように、仁藤が不在の間、3年の川瀬がマネージャーを引き受けてくれることなった」
それから数日経って。野球部の練習が始まる前、広田監督にそう紹介されて、あたしは小さくなりながら前に出る。
約80人の部員が整列する中、あたしはかちこち。手と足が一緒に出てしまう。
クスッと笑う凌空が見えて、ちょっとだけ緊張がほぐれた。
「か、川瀬結良ですっ。至らない点も多いと思いますが、一生懸命頑張りますっ、よろしくお願いします」
ちょっと噛みながらも、声を張り上げて言うと。
「礼っ!」
主将の向井くんが号令をかけて。
「お願いしますっ!」
約80人の一糸乱れぬ声がワッと前から押し寄せてくる。80人もの男子の声を一身に集め、圧倒された。
それからみんな、ランニング~キャッチボール……とメニューをこなしていく。
7月から始まる夏の大会に向けて、それぞれが練習を積む。楽しみながらいきいきと、でもどの顔もそれは真剣で。きっとこの光景は、フェンス越しに見ていた10年前と同じなんだろうな。
今、その中に入っていることが、たまらなく嬉しく感慨深く、目頭が熱くなった。
「これは仁藤からだ。じっくり目を通すといい」
「はい」
広田監督に渡されたのは、数冊のノート。使い込んでいるのか、かなり年季が入っていた。
表紙には、"野球部マネージャー 仁藤純一"と名前が書いてある。
仁藤くんのノート……?
パラパラと開いてみると、そこには選手のクセや、注意することなど、主要メンバーひとりひとりの注意事項がこと細かに記されていた。
「わあ、すごい……」
その仕事ぶりに、ただただ感服。青翔がここまで結果を残せるのも、仁藤くんみたいな縁の下の力持ちがいるからなんだ。
感激しているあたしに、広田監督の痛切な声。
「残念だが、仁藤の入院は秋頃までかかるらしいんだ」
つまりそれは。もう野球部のマネージャーとして戻って来れないことを意味している。
「……そう……なんですか……」
仁藤くんの無念を思うと、言葉が見つからない。隼人と同じように、甲子園を目標にがんばっていたから。
やるせない気持ちで他のノートをパラパラめくると、あたしのためにマネージャーの仕事を記してくれた引き継ぎノートまであった。とても丁寧な字で、わかりやすく。
「ありがとう……仁藤くん」
呟いて、そのノートを胸にギュッと抱く。
あたしは、仁藤くんみたいなマネージャーになれるだろうか。夏の大会が始まるではもう2ヶ月を切っている。
マネージャーが変わったから環境が悪くなったなんてことがないように、がんばらないと。
少しでも仁藤くんに近づけるように。
愛情と熱意のこもったそのノートに気持ちが引き締まり、より一層マネージャーとしての意識が高まった。
マネージャーになって、1週間が過ぎた。外から見てるのと中に入るのでは随分違うと身をもって痛感した1週間だった。
慣れるなんてとんでもない。
マネージャーと一言で言っても、備品の管理や遠征の日程調整という総務のような仕事から、部室の清掃、練習の補助まで、めまぐるしい忙しさ。
仁藤くんの引き継ぎノートのおかげで、なんとかこなしてる感じだった。
もちろん朝練から参加するわけで、朝は6時起き。家に帰ればもうクタクタで。
夕飯を食べてお風呂に入ったらすぐベッドに潜り込むという生活が続いていた。
「結良~大丈夫?」
机に突っ伏したあたしに、心配そうな沙月の声。
「……うーん……」
授業と授業の間の5分休みは、つかの間の休息。沙月や花音ちゃんとお喋りすることもなく、最近はこうして休息に時間をあてていた。
「ほら、つぎ移動教室だから」
沙月はあたしの体を起こし、机の中から次の授業の教科書を取り出してくれる。
「うーん…ありがとう」
なんとか頭を起こしたけど、まだ半分夢見ごこちで頭はグラグラしてる。
眠いときって、ほんっとにどうにもならない。
以前眠そうにしていた凌空に、起きなさい!って喝を入れてた自分がものすごく鬼に思えた。
凌空、ごめん……。
今ならわかるよ、その気持ちが……。
そんな凌空は、授業中にあたしがうっかり寝てしまっても無理に起こすこともなく、それどころかあとでノートを写させてくれるという優しさ。
「次の化学実験も後でまとめて渡してあげるから、テキトーに休んでなよ」
そんなあたしを労わってくれる沙月の優しさも身に染みる。
「結良ちゃん、そのノート何?」
少し遅れて化学のテキスト一式を抱えてやって来た花音ちゃんが、あたしの机を覗き込んだ。
目線は、数学のノートに紛れて置かれてる古びたノート。
「ああ、これね。選手のデータとか色々書いてあるの」
仁藤くんから引き継がれたノートで、さっきの授業でこっそり読んでたんだ。
マネージャーとして選手を知るのは当然。
ほんとは自分の目で見て覚えなきゃいけないけど、今はもう時間がないから仁藤くんの力を借りている。
「マル秘データってやつだね」
「そう。覚えることたくさんあるんだよ~」
大あくびをしながら、ノートを鞄にしまう。今は、とりあえず勉強は二の次。
部活の間に引き継ぎノートなんて見てられない。だから授業中に目を通すしかないの。
そして休み時間は寝て……と、あたしの一日は、野球で埋め尽くされていた。
その甲斐もあって、だんだんとマネージャーらしく振舞えるようになってきて、昨日の初めての遠征は、緊張しながらもしっかり自分の仕事が出来た。
サポートできたか自信はないけど、今あたしの出来ることは一生懸命やったつもり。
その前日に、2人があたしのために、庭でバーベキューをやってくれたんだ。色々と環境が変わったあたしを、リラックスさせてくれるためだったんだと思う。
『いまの結良には心の休息が必要だからな』
『うまい肉いっぱい食って、ゆっくりして心を休ませろ、な?』
『結良は、グラウンドに居てくれるだけで意味があるんだよ』
そんな風に言ってくれて。ふたりの言葉が、あたしの心にゆとりを持たせてくれたから。
自分に余裕がなくて、誰かのサポートなんて出来るわけないってことに改めて気づかされた週末だった。
「わー、それなんかキュンってきた!やっぱ持つべきものは幼なじみだねっ」
週明けのお昼休み、早速バーベキューのことを沙月と花音ちゃんに話していた。あまりにも嬉しくて感動的な出来事だったから、ふたりにも聞いて欲しくて。沙月は興奮気味に騒いでいたけど、反対に花音ちゃんは曇り顔。
「野球部の人とつき合ったら、デートなんて出来ないって聞いてたんだけど」
「えっ」
あたしの緩んでいた頬は凍りつき、浮き足立っていた気持ちまで停止する。夢にも思わなかった言葉に、動揺して。
「なのに、幼なじみとバーベキューやる時間はあるんだね」
花音ちゃんは面白くなさそうな顔をして、お弁当のおかずをつつく。
「あ、あの……」
そんな返しは夢にも思っていなくて、あたしはお弁当どころじゃなくなる。
花音ちゃんは、休む暇もない野球部員、凌空の彼女。野球部の人と付き合うとデートは中々出来ない。確かにそんなニュアンスの会話をしたことがあるけど……。
花音ちゃんからすれば、少しでも時間が空いたら自分にあてて欲しいと思うのは当然だよね……。
沙月も、花音ちゃんのまさかの言葉に口をポカンと開けている。
「……そういうつもりじゃなかったんだけど……。ごめんね……」
あたしにとってはすごくうれしいことでも、花音ちゃんにとっては面白くないのは当然で、迂闊だったと思い謝る。
動揺を隠せずに、少し腰を浮かせながら。
「……あー、もしかしてそれってやきもち~?」
沙月が若干顔をひきつらせながらもフォローしてくれるけど。
「べつに」
小顔で可愛い花音ちゃんのツンとした顔は、その胸中をさらけ出す威力が充分にあって。ものすごく悪いことをしちゃった気分になる。
「幼なじみって、なんだかんだ大事にされていいね」
可愛い顔には似つかない、すごく冷たい物言い。大人しいと思っていた花音ちゃんは、好きな人が出来たら積極的に推すと宣言していた通り、恋愛事情が絡むと強気な一面がでるのかな……。
きっと、あたしと凌空が仲がいいのが面白くないんだよね。
なにを言っても気分を逆なでするだけだと思い、あたしは口を閉ざすしかなくて。
花音ちゃんの気持ちはわかるけど……。楽しかった思い出が、灰色に霞んだ。
……隼人と凌空が、せっかく時間を割いて開いてくれたバーベキューが……。
部活の方は、順調だった。隼人や凌空の励ましや、時折もらえるメンバーからの「ありがとう」は、確実にあたしに力を与えてくれた。
単純そうに思えて、やっぱり人の心を動かし救うのは、人なんだって強く思った。
肩の力を抜いてみたらすごく楽になって笑顔も自然と増え、1、2年生も気軽に声を掛けて来てくれるようになって。
あたしも野球部の一員なんだって実感がわいた。毎日が忙しいのは変わらないけれど、だんだんと自分のペースをつかんで仕事が出るようになって来ていた。
部活が忙しいのに比例して。最近友達づきあいがうまくできてないな、と思う。
それは、お昼の時間に一番現れる。花音ちゃんが話題にするのは、放課後沙月と遊んだときの面白い出来事だったり、あたしにはわからないネタが多く。
テレビの話をされても、ほとんど帰って寝るだけ状態だからわからず。一日に唯一3人で集まるお昼時の会話さえ、ついて行けなくなることが多くなった。
だからと言って、野球部の話をするのも花音ちゃんの手前どうかと思い、あたしから話題を振ることもあまりない。
休み時間は、実行委員の資料に目を通したり、仁藤くんからもらった引き継ぎノートを熟読したりして過ごしている。
沙月や花音ちゃんの所に積極的に話しに行くわけでもなく、マネージャーと実行委員を中心に回してるあたしにも責任があるのは分かってるけど。
"幼なじみってなんだかんだ大事にされていいね"
この間の発言が起爆剤になったのか、なんとなく花音ちゃんの態度にもよそよそしさが見える。沙月とふたりで居る時は楽しそうなのに、あたしが入るとそうでもないように思えて。
……被害妄想かな。
でも、沙月とは間違いなく仲良くしたいっていうのは、ものすごく感じるんだ……。
「ごちそうさま……」
今日もほとんど会話に入れないまま昼食が終わった。お腹も満たされ更に思考がぼうっとしてくる。
ブレザーに当たる陽の光が背中を温め、余計に眠りに誘う……。
自分の席に戻って休んでようかな。そう思ったとき。
「結良ちゃん、これ先生から」
クラスメートにプリントを渡された。
受け取って、目を落とすと。“体育祭反省会のお知らせ”の文字。一緒に、体育祭の反省を書くプリントも付随されていた。
「まだ体育祭終わってないのに反省会のお知らせかあ……」
「最後の最後まで仕事が盛りだくさんだね。てかさ、一番実行委員やっちゃいけないの結良だったよね。忙しすぎるじゃん」
沙月はそう言ってプリントを奪い取る。
「うん。でも実行委員になったのはマネージャーやる前だったし、仕方ないよ」
とりあえず終わりは見えてるし、今は、ここまで準備してきた体育祭を成功させたい思いでいっぱい。
忙しいけど、裏返せば充実してるってことだから。
……チラッ、と花音ちゃんに視線を送る。
やっぱり、というか……。花音ちゃんは会話に入ってこない。
鏡を取り出して、前髪直しに余念がない。
……あたしに関することは興味ないって顔だね……。あからさまなそんな態度に、杞憂するまでもなくて。
「書けるとこは書いちゃおうかな」
ブレザーの胸ポケにさしてあるシャーペンを取る。まずは名前……っと。
自分の名前に続けて凌空の名前も記入すると。
「……それは凌空くんに書いてもらったら?」
ボキッ。プリントの上で、シャーペンの芯が折れた。
花音ちゃんが放った思いがけない言葉に、手元が狂ったのだ。
「……え」
ハッとして顔をあげる。あたしのことなんか見てないと思ったのに。
……凌空の名前を書いたから?
「だって、結良ちゃんばっかり仕事してるんでしょ?まとめくらいやってもらえばよくない?」
あたしの為に言ってくれてるような言葉なのに、ニコリともせずに。むしろ、言葉の端端にトゲさえ感じる。
「あ、うん。でも……」
委員会にはあれからほとんどあたしひとりで出席していた。部活が忙しくても2人とも欠席するわけにはいかないし、マネージャーと選手、どちらかが……ってなれば、あたしが委員会に出るのが自然な流れで。
その代わり、クラスでの話し合いや種目の練習の時は凌空が率先して仕切ってくれていたから、仕事としては5分5分だと思ってる。
「凌空は部活で大変だろうからいいの。それに、凌空はこういう作業が苦手だし」
……言ってから、後悔した。花音ちゃんの顔が、更に変化したから。キュッと結んだ唇を軽くつき出し、視線を斜めに落とす。
……あ。
またやっちゃった。
……知ってるような口きいたら面白くないよね……。
「だ、だよねっ。凌空はめんどくさいことやらなそうだもんねっ」
慌てた沙月の同調の声が、更に逆なでするようで。カラカラに乾いていく口内に、感じている焦りがもっと現実に近づいていく感じがした。
「ご、ごめんね」
どう言うのが正解だったか分からないけど、一言謝り続きを書こうとシャーペンをカチカチ押してみるけどいくら押しても芯が出てこない。
あれっ、あれっ……。
折れた芯で終わっちゃったのかな。
「ほら、これ使いな」
沙月が自分のペンケースからシャーペンを渡してくれる。
「うん、ありがとう。……あ、コレ可愛い」
「でしょー?駅ビルの雑貨屋さんで買ったの」
「いいなあ」
はじめて見る沙月のシャーペンは、青系の水玉がちりばめられたデザインのもの。本体は細いけど、すごく書き心地がよかった。
「おそろで買ったんだよね」
すると、いつもの笑顔に戻った花音ちゃんが、自分のペンケースからシャーペンを取り出す。同じデザインで、ピンク系の水玉。
……そうなんだ。ざわざわっと渦巻く、グレーな感情。予感が、現実にさらに近づく。"お揃いは、仲良しのしるし"
サブバッグだったり、キーホルダーだったり。物を共有して、測る友情。
それは自分たちの満足度だけにとどまらず、あたしは○○ちゃんと親友なの!と、他の子にアピールをしたい心理も含まれているだろう。
いつか感じた疎外感が、大きくなって戻ってくる。
開いた花音ちゃんのペンケースには、沙月とのプリが貼ってあるのも見逃さなかった。
あたしはマネージャーを頑張ってるからいいの。だから気にしないと強気でいたはずなのに、軽くショックを受けている自分に気づく。
シャーペンを握る手が、微かに震えた。
「色のバリエ結構あったから、結良もおそろにしようよ」
「……うん、そうだね……」
明るく提案する沙月の声に、なんとか頬をあげてみたけれど。
……どこからズレちゃったんだろう。花音ちゃんが凌空とつき合い始めたころから……?あたしがマネージャーを始めたころから……?
間違いなく今の3人の関係は、花音ちゃんを軸に回っていた――。
その日の夜。いつものように隼人が投球練習をしている音が聞こえてきた。あたしは、家を出てその様子を眺めていた。投球練習に集中している隼人は、あたしに気づかない。
邪魔にならないように、少し離れた場所から練習を見守る。
隼人が見ているのは、正面だけ。まるで、その先にバッターが居るかのように真っ直ぐ前を見据えて。この目がすごく好き。
迷いのない、自信にあふれた目。普段の優しい隼人とは、べつの隼人に出会える瞬間。
自分の部屋でボールの音を聞いたり眺めたりするのもいいけど。こうして、同じ高さで夜の練習を見るのも好きだった。
それは付き合う前も後も変わらない。
「おっ、結良……」
隼人が気づき、あたしはさらに近づいた。
「お疲れ様。今日もがんばってるね」
持ってきたスポーツドリンクを手渡す。
「サンキュ。ちょうど一息入れようとしてたとこ」
隼人は表情を緩めると、木製のベンチへ座った。このベンチも、隼人のお父さん手作り。昔は3人でここに座って、アイスを食べたりしていたんだ。
「調子はどう?」
「うん、変わらない」
隼人は前かがみで膝の上に手を置くと、息を吐いた。背中が大きく動いている。相当投げ込んだみたい。
「そっか、良かった」
春季大会では準優勝にも貢献したし、どこも悪いところはなさそうだった。
ずっとその調子を保ててるなら、絶好調なんだよね?
「実はソレ、あんまよくないんだけどな」
「え?そうなの……?」
「変わらなくてもいいモノと、変わらなきゃいけないモノがあるからな」
……ということは、後者のようで……。
「変え……たいの……?」
「変えたいんだけど、なかなか変わらない……」
顔だけをあたしに向けて、フッと笑う。
「このままだったら、甲子園に行けない去年までの俺と同じだ。……凌空に言われた」
「凌空に……?」
「自分を越えろって。きっと、まだまだ先にある、俺の限界……。それが見えたら、また少し甲子園に近づける気がして。それを探ってる途中」
そんな深い話だと思わず、軽々しく調子なんて聞いた自分を後悔する。
"変わらないからそれでいい"
あたしの頭で整理出来るそんな単純な話じゃなくて。想像をはるかに超えた、高いレベルで野球をしているんだ。オトナだな、隼人は……。
張り巡らされた緑のネットを見ながらそんなことを思っていると、タオルで汗を拭った隼人が話題を変えた。
「結良、今困ってることあるだろ」
「え!?……な、なにもないよっ……!?」
心当たりがあり過ぎて、途端に動揺する。
本当はあるもん。友達関係。……もしかして、バレてるの……?
「隠したってわかる」
「うっ……」
「結良の彼氏だから」
野球をしている時とは違う、柔らかい表情をあたしに向ける。
「ごめんな。毎日毎日切羽詰まったように投げてばっかりの俺に、話せなかったよな?」
あたしは思いっきり首を横に振った。ちがう、そんなんじゃない。
「こういう限界は超えないで。限界に達する前にちゃんと発信して欲しい」
ミシミシッ……と、胸の奥が音を立てた。優しさに触れて、もろくて弱い心が顔を出す。
「もっと頼れよ、俺を」
今度はボールと向き合っている時のような、真剣な瞳。
味方がいる。
あたしのことを、心の底から心配してくれてる。
それだけで、世界が少し広くなった気がして。
「……ん……。友達関係が……ちょっとうまくいってなくて」
ごめんね、隼人。大切な大会前に、こんなくだらない弱音を聞かせて。
しかも野球部にまったく関係ないこと。でも強がっていた分、口にすると怖いくらいリアルなことに思えてきて。
「女子の3人グループって、難しいんだ……」
3人グループが厄介っていうのは知ってた。2対1に分裂していく女子たちを今まで何度も見てきたし。
理由は単純。自分がひとりになりたくないから、どちらかを取りこむんだ。
ずっと沙月と仲良くしていたあたしには、今までこういう悩みは皆無だった。ようやくその洗礼を受け、戸惑っているのもあるけど。ただ3人だからうまくいかないんじゃなくて。
……花音ちゃんが、明らかにあたしを敵対しているような気がしてならないの。
理由はおそらく……"凌空の幼なじみ"というポジションが、面白くないから。
「……あたし……花音ちゃんによく思われてないかもしれない……」
今日は学校で凌空と喋っていたら、ものすごい形相であたしを見ている花音ちゃんと目が合った。
「凌空と幼なじみなのが、気に障るみたい……」
これはもう思い過ごしじゃない。言いながら、膝の上に揃えた手が震えた。
「それに最近、沙月と花音ちゃんがどんどん仲良くなっていって……。最近忙しくて友達付き合いがちゃんと出来ないっていうか……そのうち、沙月まであたしのことキライに───」
「結良」
その上に、隼人の手が重なった。気持ちが先走るあたしを止めるように。
「中村を信じろよ」
「……」
「女子のそういうのよくわかんないけどさ。中村は、部活を一生懸命がんばってる結良を裏切るようなヤツじゃないと思うけど?」
……あ。そうだね。沙月はそんな子じゃない。
誰かに合わせて人の悪口を言ったりする子じゃないって、あたしが一番よく知ってるんだから。
「手塚と合わないなら、無理に合わせようとしなくていいんじゃないか?手塚に気を使って、結良が凌空を避けるのも違う気がする」
「……あ……うん……」
意外だった。隼人の性格上、花音ちゃんともうまく出来る方法を考えるのかと思ってたから。
その後に小さく聞こえた声。
「……結良……ごめん」
えっ……。
隼人は少し苦しそうな表情で、あたしの頭の上に手を乗せた。
「どうして隼人が謝るの……?」
マネージャーをお願いしたこと……? それとも他になにか……?
わからなくて尋ねたけど、隼人は曖昧な笑みをこぼし。
「とにかく。結良は悪いことをしてないんだから、堂々としてればいいよ」
そんな言葉に、また胸がチクリと痛んだ。
……悪いことをしてない。
あたしは素直に"うん"って言える?
凌空とのキスが隼人に知られて、もう隠しごとはないように見えるけど。
本当はまだ、隠してる。……心の奥底にある……あたしでさえ不透明な感情を……。
凌空への……想いを……。
花音ちゃんは、それを見抜いてるのかもしれないな。
「またなんかあったらすぐに言えよ。結良はためこむのが悪いクセ」
いつもの笑顔に戻り、おでこを人指し指で軽く弾かれる。
「う、うん……。ありがとう……」
打ち明けてよかった。苦しくてもその中で信じられる人がひとりでもいたら、明日からまた頑張れる力になるから。
大げさに聞こえるかもしれないけど、大げさじゃない。
高校なんて、ものすごくちっぽけな世界。その世界の中で、友達関係がうまくいっていない"だけ"。でもそれは、世の中の終わりと感じるくらい、重要で大切なもの。
所詮、その世界しか生きる場所がなく、その世界しか今は知らないんだから……。
「でも……難しいのは女子だけじゃないよ……」
隼人がポツリとつぶやいた。
「えっ……?」
ふいに落とされた言葉に、隣の隼人を見上げる。
「3人は……難しい……」
感慨深く言って、少し悲しげに笑った隼人に。
「……」
……あたしは……分かってしまった。
隼人の指す3人、は。……隼人とあたしと凌空だ。
……もしかして隼人は。揺れ動くあたしの気持ちに気づいている……?
そんな言葉を隼人に言わせてしまったことに罪の意識を感じ。あたしは何も返せずに、ただ俯くだけだった。
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