第3話

 颯たちが息を切らして駄菓子屋ベルに飛び込むと、軒下に寝そべっていたミツバが迷惑そうに目を上げた。

「騒がしくてごめんね」

 志乃がはあはあ言いながらミツバを撫でる。奥から音もなくミツばあちゃんが出てきた。友広は狭い店の中をぐるぐる歩き回っている。どんなヒントも見逃すまいと目をこらしていた。

「ドーナツ四人で食べたことはさっきなんとなく思い出したけどさ、買ったときはいたっけ?やっぱり神社の中だけだったんじゃねえの?」

 なにも思い浮かばないようで、弱気になっている。颯も、神社から出てきてしまったのが失敗だっただろうかと思えてきた。

「赤いセーターの女の子なら、来たことあるよ」

 ぽそぽそと喋る、かすれ声が聞こえた。誰かと思ってキョロキョロすると、まっすぐこちらを見ているミツばあちゃんと目が合った。いつもはほとんど閉じている目を、しっかり開いている。

「え?赤いセーターの女の子って……」

 颯はミツばあちゃんが喋ったことにも、その内容もよく飲み込めずに口をはくはくさせた。

「赤いセーターに、白いスカート。焦げ茶色の髪の毛の神社の子。わしらは、トウコちゃんと呼んどったがね」

 体の奥が熱い。心臓がばくばくして、頭の中に弾けるように映像が浮かぶ。はみ出しそうな笑顔でミツバを撫でる女の子。今は、はっきりと顔も思い出せる。手を伸ばせば触れそうなほど、鮮明に思い出したのだ。

「ミツばあちゃん!ミツばあちゃんも、友達だったの!?」

 ミツばあちゃんはおごそかにうなずいて、目を閉じた。今日はもう喋りそうにない。

 友広と志乃が、颯を支えるように立っていた。

「顔も姿も思い出したのに、名前だけが思い出せない」

 颯がつぶやく。大きな収穫はあったが、肝心の名前が思い出せない焦りの方が大きかった。

「いや、よく思い出せたよ颯。おれは、まだ、顔も……」

「私もそうだよ、思い出してくれてありがとう」

「仕方ない。名前だけは思い出せないけれど、忘れてなんかないって伝えるしかなさそうだね」


 こっくりこっくりと舟をこぎ始めたミツばあちゃんに小声でお礼を言って、ベルを出た。佐乃帰神社への道を引き返す。

 道の先に、見覚えのある二人が歩いていた。

「ねえ、あれ、颯のお母さんと風ちゃんじゃない?」

 志乃が指差すちょっと前に、颯は気づいていた。気づいていたが、言わなかったのだ。

 気づかず通りすぎてくれ、との颯の願いもむなしく、風ちゃんは大きく腕を振りながら駆けよってきた。

「お兄ちゃーん!なにしてるのー?」

 近づいて友広と志乃の姿を認めると、より一層嬉しそうに声を張り上げる。

「志乃ちゃん!友広くん!学校じゃあんまり会えないから嬉しい!」

 お母さんもゆっくり歩いてきて、風ちゃんの手を取った。

「久しぶりね、二人とも」

「お久しぶりです」

「風ちゃんも久しぶりだね」

 友達がこれ以上家族と話すのを遮りたくて、颯はお母さんに少し怖い顔を作って詰めよった。

「図書館に行くって言ってたじゃん、なんでこんな早く帰ってきたんだよ」

「行ったんだけどね、館内に雀が入ってきちゃったとかで臨時休館になったのよ」

「おクぎのかたはポストにどうぞ、だって!」

「図書館が閉まったすぐ後にきたおじさんが、残念そうな顔してポストに本を返していったのよねぇ」

 おクぎ……?風ちゃんがなにを言っているのかはわからなかったが、何が起こったのかはわかった。小学一年生の風ちゃんは、ひらがなとカタカナは習ったけれど、漢字は読めない。そのために、漢字の中のカタカナに見えるパーツを無理やり読んでいるのだ。

(ぼくたちも、「献」が読めなくて「みなみいぬ」ってことにしたからな……。さすがきょうだい、似てるなぁ)

 颯の口に、苦笑いがにじむ。

(それにしても、おクぎ、おクぎのかたは、ね……。もしかして、『お急ぎのかた』?)

 突然、颯の脳裏にふわっと風景が浮かんだ。小学校一年生の秋頃の、颯の姿だ。


 佐乃帰神社の石段の下に、友広と志乃と一緒に立っている。階段の上の、鳥居の真ん中に掲げてある額を、首を目一杯上に曲げて見上げているのだ。前髪が秋風に揺れる。

「なあ颯、この漢字読める?」

「わかんない。だってぼくたち、漢字の勉強始まったばっかじゃん。『山』と『川』と『木』だけしか知らないよ」

「おれは友広って漢字で書ける」

「わたしわかるよ、最後の二文字は『神社』って書いてあるの。それに、上から二番目の字はわたしの名前、志乃の乃だよ。こないだパパに習ったんだ」

「じゃあ上の三文字はナントカ、の、ナントカってことだね」

「乃の字ってさ、この左っかわの部分がカタカナのノに見えるからのって読むんじゃね?」

「たしかに、そう見える!」

「じゃあ、左側だけ読むと……いちばん上の字はイで、三番目の字はリだね」

「イノリ……イノリ神社、いい名前じゃん」

「ほんとはちがうかもしれないけれどね」

 志乃がすまして付け加えた。

「それならぼくたちだけの呼び名にしよう、今日からここは、イノリ神社」

 そう宣言して、軽い足取りで石段を登りきると、鳥居のかげからあの子が顔を出す。

「初めましてだね!私、イノリっていうの!一緒に遊ぼ!」 


全てを思い出した颯の心臓は、痛いくらいに高鳴っていた。

 足に力が入らない。膝からくずおれそうになるのを我慢して、友広と志乃の顔を見る。

「思い出したんだな、颯」

 友広がすぐに察する。志乃も大きく頷いた。

「詳しく聞きたいけれど、神社に向かうのが先だね」

(そうだ、時間が)

 なんのことかわからない、という顔をしたお母さんの腕時計を覗き込む。一時五十分。ブランコの木が切られるまで、あと十分しかない。

「走れ!」

 友広が叫んだ。その声に押されるように、颯は走り出す。後ろから友広の足音と、志乃が早口でお母さんと風ちゃんにあいさつするのが聞こえた。

 ベルから神社までは、のんびり歩いて十五分。走ったらじゅうぶん間に合うはず、でも、業者の人が早く着いて、早く作業を始めてしまったら……。

 颯は一心に足を動かした。一度は忘れてしまっていたのに、またイノリを失ってしまうと考えると息がつまるようだった。


 石段の下に着いた。顔は燃えるように熱いのに、耳はちぎれそうなほど冷たかった。志乃は咳き込んでもいた。膝に手をつき、ぜえぜえ息をしながら石段の上を見上げる。赤い鳥居の横棒が見えた。

「颯!志乃!行くぞ!」

 荒く息をつきながらも、友広が颯の腕をつかんだ。そのまま、二人で支え合うように急な石段を登る。

「颯、おれ、まだ思い出せないんだ。あの子の名前」

 前髪から汗を垂らしながら友広がぼそりとつぶやいた。志乃も肩で息をしながら、前を行く颯を見上げた。颯がどう返事しようか考えあぐねている間に、石段を登りきった。颯はしゃがみこんだまま、鳥居を指差した。

「佐乃帰神社。ぼくたちを、呼んだのは、左側の友。佐乃帰っていう、漢字の、左側、つまりへ﹅ん﹅を、見るんだよ。漢字が読めなかったぼくたちがつけた、ぼくたちだけの神社の呼び名」

 息も絶え絶えになっている颯をよそに、友広は鳥居を見上げて、志乃は口元を押さえて固まった。二人の頭の中で、イノリがにっこり微笑んだのだと颯にはわかった。

「あ、お、おれ、おれ……、思い出した」

 友広が我に帰るのと、颯の息が整うのと、志乃が立ち上がったのが同時だった。

 鳥居の裏にあの子はいない。三人はまたかけ出した。石畳を踏みしめ、手前から三本目のもみじの木を右へ。色とりどりの落ち葉に覆われた広場にブランコの木が現れた。その周りに、黄色い立ち入り禁止テープ。白いヘルメットを被った作業服姿のおじさん二人が、そのテープで囲まれた木に向かって歩いていく。そばには神主さんもいる。作業員さんの手には……チェーンソー。

「待って!」

 颯はたまらず叫んだ。振り返った神主さんと目が合う。神主さんは困ったように眉毛を下げた。

「残念だけどね、枯れてしまってはもう残しておけないよ。危ないんだ」

「枯れてないよ!本当に、本当なんです!」

 作業員の二人も困り顔でこちらを見ている。

「颯、招待状は!?」

 志乃が颯のポケットを指差した。颯は慌ててポケットから四つ折りの紙を取り出して開いた。

「来たよ!招待してくれてありがとう!イノリ神社の、イノリちゃん!」

「イノリー!」

「イノリちゃーん!」

 そのときざあっと風が吹いた。広場に敷きつめられた赤や黄色の落ち葉が舞い上がる。目を開けていられなくなって、みんなが手や服の

そでで顔を覆った。

 風が止んだとき、颯の目の前に広がったのは、真っ赤な葉を茂らせたブランコの木だった。青空の下で太陽の光を浴びて、金色に輝いている。さっきとは違う優しい風が吹き、ほてった頬を心地よく冷やしていく。

 そして、木の下に、一人の女の子が立っていた。赤いセーターに白いスカート。肩までの焦げ茶色の髪の毛を揺らして、こちらに大きく手を振っている。

 颯と友広、志乃は顔を見合わせた。思い出したとおりの、イノリの姿がそこにあった。

 誰はともなく走り出した。呆然と立ち尽くす大人三人の横をすり抜ける。

「そんな、ありえない……」

 作業員さんのつぶやく声を尻目に、テープを踏み越えて一直線に木の下へ走った。

「来てくれて、ありがとう」

 女の子の声は少しハスキーがかった芯のあるもので、強い楓の幹を思わせた。

「ちょっといじわるしちゃったけど……。ばんそうこうにも気づいてくれて嬉しかったよ」

 少し照れたように歯を見せて笑うイノリを見て、颯は力が抜けたように座り込んでしまった。それを見て、明るい笑いが弾けた。

「座って。ドーナツ食べよう」

 志乃が提げていたポシェットからミニドーナツを取り出した。いつもの四つ入り。

「今日のはパパが買ってくれたやつだから、お返しはいらないよ」

 ビニールの包装を開けて、それぞれがもらい受ける。ドーナツをかじると甘味が口に広がった。友広は一口で食べきり、口をもぐもぐさせている。

「走った後だからか、みんなそろってるからか、特別うまいな」

 言ってから、少し恥ずかしそうに手をズボンで払った。

 青い空の下、楓の木の根本に腰掛けて、木漏れ日を頬に浴びる。となりには大切な友達がいる。こんな時間がずっと続けばいいなぁ。心地よくあくびをしながら、颯は思った。

 その時、視界の端で何かが動いた。イノリが立ち上がったのだ。

「じゃあ、私はもう行かなくちゃ」

「……えっ?」

「三人と遊べるのは今日が最後。子どもの間だけのお友達だからね。みんな、大人になっていくんだもん」

 イノリはくちびるをとがらせて、すねたような、困ったような顔をした。颯は言葉が出なかった。一度は忘れていた彼女を思い出し、もう二度と失わないようにと決めたのに。別れるための再会だったなんて。

 絶望を感じ取ったように、イノリがほほえんだ。

「大丈夫、また葉は色づくよ。毎年、毎年ね。忘れないでいてくれたら、嬉しくてもっともっときれいな色にしちゃうかも」

 真っ赤な葉のすき間からもれる光がイノリの顔の上できらめく。なんだか、泣いているみたいに見えた。木々は静まり返り、イノリの声に耳を傾けているようだった。

「志乃ちゃん」

 志乃は手のひらほどの大きさの葉を握り、静かに涙をこぼしていた。

「会えなくなっても友達って思っててもいいかな。わたし、颯と友広とイノリが、特別なんだ」

「もちろん」

 イノリは力強くうなずいた。

「友広くん」

 友広は怒ったように口をへの字に曲げていた。立ち上がり、ベストのポケットを探っておみくじを取り出すと、イノリに渡した。

「大吉だから。イノリにもいいことあるよ」

 なにか続けて言おうとして、なにも言わずにくちびるを噛んで下を向いた。

「ありがとう」

 イノリはおしいただくように受け取った。

「颯くん」

 颯は右の手のひらをイノリに見せた。四年前の颯がすり傷を負った右手。イノリがばんそうこうを貼ってくれた右手。さっき転んで、イノリを思い出すきっかけをくれた右手には、少し土がついていた。

「イノリに、いつも助けられてた。三人といられなかったら、ぼくはもっともっと自信がないままだったと思うよ。……絶対忘れないから」

 震えそうになるくちびるに精いっぱいの力をこめて。目の奥は熱く、今にも涙がこぼれそうなのを必死でおしとどめた。今が別れのときならせめて、胸を張っていようと思った。

 イノリは目を細め、嬉しそうにうなずいた。三人をぐるりと見回し、楓の幹に手を置いた。

「あ、そうだ、行隆ゆきたかくんにも、よろしくね」

 不思議そうに顔を見合わせる三人を見てイノリは声を上げて笑った。

「ほんとにそれじゃあね!素敵な大人になってよね!」

 その瞬間、また強い風が吹いた。颯はなんとか目を開けていようとしたが、顔に大きな葉が張り付いて、前が見えなくなった。


 風が止んだ。葉っぱをひきはがして顔を上げる。イノリの姿はなかった。

「イノリ……忘れないよ!」

「大人になっても覚えてるから!」

「わたしたち、素敵な大人になるよ!」

 三人の声が、高く澄んだ秋晴れの空に吸い込まれていった。

「会えたんだね」

 優しい声に振り返ると、神主さんが立っていた。

「まさかこんなに綺麗な葉がつくなんて。業者のお二人も、下見のときは確かに枯れていたんですけどねぇ、なんて言っていたよ」

 志乃は下まぶたを赤くしていた。

「神主さん、行隆さんって知ってます?」

 ずっとほほえみを絶やさなかった神主さんが目を見張った。

「私の名前だよ」

 颯は、そうじゃないかと思っていた。神主さんに告げる。

「あの子が、行隆くんにもよろしくって言ってたんです」

 神主さんの顔がくしゃっとなった。笑っているような、泣いているような顔。

「トーコちゃん、覚えてくれてるんだね……。私は、素敵な大人になれたかな」

「神主さんは素敵な大人だよ!」

「そうそう、おれたちにチャンスをくれたし」

「あの業者のおじさんたちが作業にとりかかるの、ちょっと時間かせぎしてくれてたんでしょう?」

 神主さんはいたずらがばれたような顔をして笑った。イノリの笑い方に少し似ていた。

「さあ、私は神社の掃き掃除でもしようかな。君たちは、その葉っぱは掃かれてしまわないように、大事に持っておくんだよ」

 さくさくと足音を立てて去っていく神主さんを見送りながら、さっき顔に張り付いた葉に目をやる。赤から黄色を経て緑へ変わるグラデーションの葉。よく見るとそこには、木の枝でひっかいて書いたような文字が並んでいた。


 ご招待、受けてくれてありがとう

 いつでも君の左側の友 イノリ


 さっき堪えた涙はもう止めることができず、目の奥から次から次へ溢れ出てきた。

 友広には真っ赤な葉。志乃には緑がかった黄色の葉。

「なんだか、わたしたち三人にぴったりの色合いだね」

 鼻を赤くした志乃が、誰に言うでもなくつぶやいた。


 秋が終わり冬がすぎ、颯たちは春から中学生になった。

 予定通り、友広はスポーツ推薦で、志乃は受験をして、それぞれ颯とは別の学校に入学した。

 新しい生活は少し怖いけれど、友広、志乃、そしてイノリに大切なことを教わった。

 美術室の真新しいキャンバスを前に、今度佐乃帰神社でスケッチをするのもいいな、なんて思いながら、颯は鉛筆を研ぎはじめた。


おわり

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もみじ神社への招待状 和邇メイカ @buri-saba

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