九 『役目』 遠藤 隼人 刃根/不入坂/02時34分

 刃根に到着して間もなく銃声が鳴り、咄嗟に逃げ出してしまったせいで、大輔とはぐれてしまった。

 まずい……また一人だ。刃根の奥深く、草木に身を隠していたが、先ほどから何度も銃声が鳴り響き、とても日本とは思えない状況だ。大輔は大丈夫だろうか? 武器を持っていたとはいえ、木製バットでは銃には勝てない。ならば助けに行けばいいと思われるかもしれないが、俺は彼ほど体格が良くないし、喧嘩すらしたことがない。この場から出たところで、無駄に死ぬだけだ。それなら、来たるべき時に自分の役割を果たせばいいじゃないか。


 だって、人間には必ずそれぞれの役目があるのだから――。


 と、自分に言い聞かせ、この場から動く必要のなさを正当化しようとしていた。


 すると突然。


 生ける屍のように、力なく道を歩く男の姿が目に入った。俺は息を殺し、じっと様子をうかがう。片方の耳から血を流し、体じゅうに弾痕のような穴が開いている。着ていた衣服は元の色が分からないほど赤黒く染まっていた。虚ろな目はまるで死体のようだったが、その肌は異形のように白くはなく、人間としての肌の色をしていた。


 やった! 生存者だ!


 俺は喜びのあまり、茂みから飛び出してしまった。その瞬間、男は姿勢を低くし、こちらに向かって拳銃を構えた。反射的に手を上げ、後ずさる。戦場なら、もう死んでいただろう。しかし、男はじっと俺を見つめ、力のない声で問いかけた。


「生きてる人間なのか……?」


「は、はい! 人間です! 化け物なんかじゃありません!!! だ、だから、そ、その、たすけ……殺さないでください」


 男は自分が銃を向けていたことに、今さら気づいたようだった。申し訳なさそうに警戒を解いたが、同時に、骨が抜き取られたかのように膝から崩れ落ちた。


「だ、大丈夫ですか!?」


 俺は急いで駆け寄り、男の顔色をうかがう。これだけの出血だ、奴らほどではないにせよ、その顔色は青ざめていた。しかし男は再び顔を上げ、俺の肩を掴み、無理やり起き上がろうとする。


「おい、兄ちゃん。少し手伝ってくれよ……この先へ行きたいんだ……」


 俺の視線は、不入坂いらずざかの先へと向かっていた。


 このまま肩を掴まれ続けるのも重くて痛いし、仕方なく彼の腕を肩に回し、牛歩ではあるが坂の先へと進んだ。


「ここは昔から、禁足地だったんだ……」


 道中、男が聞いてもいないのに、低く呟く。『無理しないでください!』と声をかけるが、無視して話し続ける。誰かに向けて話しているのではないようだ。


「ガキの頃から、そう言われ続けていた。あぁ、そうか……そうやって、大人の隠し事が気に食わなくて、真実を求めるようになったのか……!」


 男は勝手に納得したように、満足げに笑った。気にする意味もないので、俺は黙って彼とともに坂を登る。


 やがて、終点が見えてきた。そこには巨大な岩が、『ここから先には通さんぞ』と言わんばかりに道を塞いでいる。その大岩には、ほんの微かに壁画のようなものが描かれていた。男はゆっくりと岩を見上げ、目を見開く。


「これはっ……!」


 彼はこの画を知っているのか。虚ろだった目が輝きだし、再び話し始める。


「あの場所で、信者たちが崇めていたのは、この画だったのか……!」


 男は急いで手帳を取り出し、メモを取ろうとした。しかし、満身創痍の身体は言うことを聞いてくれず、手にしていた拳銃と、手帳に挟まれていた手紙のようなものを落としてしまう。


 彼が拾ってくれと懇願するので、慎重に拳銃と手紙を拾い、彼に渡した。男は大切そうに手紙を受け取ったが、拳銃には目もくれない。俺の手には、銃の重みがまだ残っている。


「そいつは、てめぇにくれてやるよ。それで自分の身を守りな」


 困惑する俺を察して、男が言った。

 そして、彼は手紙を眺め目に涙を浮かべ俺の横を通り過ぎ、大岩に寄りかかるように座り込み、ゆっくりと瞳を閉じる。


「すまんな……ゆ■■……」


 人の名前だろうか? 聞き取れないほど小さな囁きだった。彼は、まるで眠る猫のような穏やかな顔をして、そのまま動かなくなった。

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