12-4. 密談
*
狐が泊まっているシティホテル。
イヴァンは颯爽とした足取りで、その廊下を進む。
イヴァンの後ろを、ビスクドールが足音を極力立てないようにしながら歩いている。
柔らかな絨毯には、二人が歩いていた痕跡はわずかにしか残らない。
狐が指定した部屋の前に立つと、イヴァンはスマートフォンを取り出し、ワンコールだけ鳴らす。それが合図だった。
すぐにドアが開く。
香水の匂いが鼻へ届くのと同時に、穏やかなトーンの声音で「ようこそ」と聞こえてくる。
部屋の中へ案内されたイヴァンは、躊躇いもなく窓辺の椅子へ掛ける。
ビスクドールはゆっくりとした足取りで踏み入り、部屋の隅々に視線をやる。
エメラルドグリーンの瞳が、最後に狐へと吸い寄せられ、鋭く細まる。
「ホントに信用されてないなぁ」
ビスクドールの様子を見た狐は、苦笑いを噛み殺す。
「ビスクドールは、いつも手を抜かない。私の優秀な秘書だからね」
イヴァンは、自慢げな表情でビスクドールを見る。名を呼ばれたビスクドールは、小さく頷いた。
「さっき、あの小娘に会ってきた」
イヴァンはテーブルに頬杖をつき、指先で木目をとんとんと叩く。
不機嫌なのを隠す気は、さらさら無い声だった。
「え」
イヴァンの対面に座った狐の声が、そこで裏返る。その瞬間だけは、顔を曇らせ、困惑を隠さない。
「……そういうのは、会う前に一度連絡くださると」
愛想笑いを見せているが、狐ははっきりと迷惑そうにしている。
「どうして? 私が何をするかは、私が決める」
イヴァンは灰色の眼をギロリと動かし、狐を威圧する。
だが、
「こっちもいろいろ策を練っているんで、番狂せがあると困るんですよ」
狐は怯まず、肩を竦めてみせる。
イヴァンと狐の間に流れる、剣呑な空気。
その空気を察したビスクドールは無言で、そっとジャケットの下に隠した
ビスクドールが拳銃に手をかけたことで、場の空気が張り詰める。
狐は鼻を鳴らし、ビスクドールを冷たい視線で牽制する。
ビスクドールはそれに応じて、指先をピタッと止める。
「逆に聞こう。お前は今の今まで、何か成果をあげたのか?」
イヴァンは顔色を変えず、薄く笑った。
「リエハラシアの特殊部隊……たしか、『
イヴァンの微笑みには温度がない。言葉に刃をこれでもかと詰め込んでいる。
「言葉には気をつけましょうよ。チクチク言葉は良くない」
それに対し、狐も笑顔で応える。この程度の嫌味など慣れ切っている、といった風だ。
「お前は、新兵器のデータの行方も、サハラの行方も何一つ掴めていない。……いや、掴んでいるのに勿体ぶって、出そうとしていないのか」
話すたびにテーブルを叩くイヴァンの指先は、だんだんと力がこもっていく。
「それはどちらでもいい」
不意に、指先が止まる。狐の視線が、イヴァンの指先から顔に向く。
「どちらでもいいんだ?」
情報を出し惜しみしていることを、イヴァンがどちらでもいいと叩き切ったのを、狐は面白がっている。
「そろそろ、お前の真の目的を話したらどうだ?」
イヴァンは身を乗り出し、狐の顔を下から舐めるように覗き込んだ。
「お前が、祖国の新兵器を武器市場へ売り出そうとするのは、目先の金だけの問題じゃないだろう」
イヴァンの眼は、軽蔑の色を滲ませている。
「そう、たとえるなら、祖国への怒りや憎しみだろうか」
曲がりなりにも元軍人という、イヴァンの性分が、祖国が開発した兵器を売ろうとしている狐を咎めようとしている。
「うーん、ちょっと違うかな」
だが、狐は飄々とそれを躱した。
それから、この光景を警戒し続けるビスクドールの方へ、静かに手を上げ「動くな」とジェスチャーする。
ビスクドールは唇を噛み、手持ち無沙汰になったままの手を握り締めた。
「ぶっちゃけ俺は、あの国を祖国だとか思ったことがないんで」
その言葉に、イヴァンは呆れの混じった笑いを漏らす。
「お前は何を考えているのか、わからないな」
イヴァンはビスクドールに顔を向けた。
「ビスクドール、もういいよ」
イヴァンはその短い言葉で、ビスクドールに警戒を解くよう指示する。
ビスクドールは、少しだけ意外そうにしたが、眼を伏せ、イヴァンの言葉にただ従う。
「お前は、金に執着しているわけではない。だが、祖国への反抗心というほどの熱量もない」
再び狐に、冷たい笑みを向けたイヴァンは、
「お前の中にある欲望はなんなんだ?」
そう尋ねる。
狐は首を傾げ、少し悩む素振りを見せる。
「んー? 世界中の女の子にモテたい、ですかね」
狐から出てきた言葉は軽薄なもので、とても本心ではない。
「その顔でよく言う。そんなことは簡単に叶うだろう?」
イヴァンは狐の言葉を真に受けはしない。
目の前にいる、目鼻立ちの整った男はイヴァンから見ても「スマートで野心家の成功者」の顔をしている。女受けがいいのは間違いない。
「じゃあ、そうだな……。南の島でも、買いたいかな。こんな業界はさっさと引退して、のんびり暮らしちゃう」
ヘラヘラと笑う狐は、軽薄な夢を口にする。
どこまでも、本心を見せようとはしない。
「それは楽しそうだな」
イヴァンは口では穏やかに言うが、眼はまったく笑っていない。狐の瞳を射抜くように、見つめている。
「でも、そうはいかないんでしょうね」
狐は微笑みながら視線を落とし、テーブルの上にあるイヴァンの指先に視線をやる。
「血腥い獣は、綺麗な場所では生きていけないですから」
獣とは、狐自身のことが、イヴァンのことか、それとも2人まとめてのことか。それは、この場の誰にも答えはわからない。
「獣は、生涯、他人の生き血を啜って泥まみれになるのが似合いなんですよ」
狐は鼻で笑って、イヴァンの顔を見る。
お前もそういう風にしか生きられない者だろう、と言わんばかりに。
「私はそうは思わない」
イヴァンは首を横に振る。
「あ」
狐は不意に、何かを思いついたような声を上げた。
「欲望。一つ、欲しいものがありました」
うれしそうに、狐は前のめりになって言う。イヴァンと狐の顔の距離は、息がかかるほどの近さだった。
それを見たビスクドールは、眉間に皺を寄せた。
「別に願いを聞いたところで、それを叶えてやるつもりはないんだが」
何か要求されたら困ると思ったのか、イヴァンが予防線を張る。
すると狐は、おもむろに、ビスクドールを指差す。
「あなたの秘書さんが欲しい」
狐がそう言った瞬間、ビスクドールが体を強張らせた。
同時に、イヴァンの顔が険しくなる。
「引き換えに、俺が握っている大事な情報をタダで譲ります」
それを聞いたイヴァンは、舌打ちを漏らす。
最初からそのつもりで、この男は情報を出し惜しみしていたのだろう、と気づいたのだ。
それにまんまと引っかかったことが、とても腹立たしい。
「何の情報だ? くだらない内容だったら、この場で殺す」
イヴァンは苛立ちを隠さない。
狐の足元を掬うのに必死で、駆け引きの基本――相手の弱みを掴む――をすっかり忘れていた。
狐は、イヴァンが顔を曇らせているのを満足そうに眺めていた。
そしてゆっくりと、口を開く。
「サハラが持っていった、機密情報の隠し場所」
瞬間。
空気が張り詰める。
部屋は静まり返り、かすかに呼吸の音や鼻息が聞こえるだけになる。
イヴァンは、テーブルの上に置いた手を握り締めた。その手は既に、力がこもり過ぎて、かすかに震えている。
「確証はないものの、サハラなら、そこに隠すだろうなってところ」
笑い声を滲ませながら言う榛色の眼が、イヴァンのすぐ後ろで微動だにしないビスクドールを見る。
ビスクドールは、声に出さず口だけを動かし、「
「金なら出す」
イヴァンの申し出を、
「いいえ。あなたの秘書が欲しい」
狐はビスクドールと睨み合ったまま、断る。
「身を切る思いをしないで、なんでも金で解決できると思ってちゃダメだよ、イヴァン」
イヴァン、と呼び捨てにしたのを聞いた瞬間、ビスクドールはジャケットから銃を引き抜く。
そしてその銃口を、狐へ向ける。
「ビスクドール」
怒気を孕んだイヴァンの声が、ビスクドールを呼ぶ。
「やめなさい」
簡潔な言葉での制止。
ビスクドールは渋々、銃を下ろした、
「じゃあ、あなたはここから出て行って。あなたの秘書に、その情報をくれてやるから」
狐は顎で部屋のドアを指し、イヴァンを出て行かせようとする。
ビスクドールとイヴァンが同時に、反論しようとした。
だが。
「今はあなたの秘書と、楽しく過ごしたいんだ」
狐の言葉はそれを遮る。
椅子から立ち上がった狐は、銃を持ったままのビスクドールの手を持ち、その甲へ口付ける。
ビスクドールの眉間に、深い皺が寄る。イヴァンの握り拳の震えは止まらない。
「終わったら、あなたに連絡しますよ」
ビスクドールの手を持ったまま、狐は空いた方の手でドアから出て行くように促す。
イヴァンは逡巡したのち、立ち上がる。
ビスクドールがその姿を、名残り惜しそうに目で追うが、イヴァンは敢えて無視していった。
イヴァンは、不機嫌そうに床を踏み鳴らしてドアへ向かう。
ドアノブに手をかけたイヴァンは、ゆっくりと振り返る。
ビスクドールは一瞬、目を見開き、瞳を揺らす。イヴァンは何かを言おうとしたのか、唇を僅かに動かした。
捨て台詞の一つでも吐くかと、狐は身構えた。しかし、何も言わずにドアから出て行く。
ドアが閉まる音。
イヴァンがいなくなったドアを、狐とビスクドールは見つめている。
一人は悲しげに、一人は冷めた眼で。
「かわいそうに。情報と引き換えに売られちゃったね」
穏やかに、労わるような笑みを向け、狐はビスクドールに言う。
ビスクドールは狐の方へ顔を向け、
「別に、初めてではありませんから」
無表情で言い放つ。
「うわ、イヴァンもゲスだなぁ」
「本当のゲスは、あなたのような醜い人間です」
ビスクドールは、狐の手を振り払う。
そうして払われた狐の手は、一瞬のうちにビスクドールの手にあった銃を奪い取る。
まるで手品師だ。
ビスクドールは驚きで目を丸くする。
「まぁいいよ。とりあえずルームサービスでも頼もっか」
一方、平然とした顔の狐は、ベッドの縁に腰かけ、サイドテーブルに置かれているメニューを手に取る。
「……結構です」
警戒心を剥き出しにしたビスクドールは、後退りながら壁に背をつける。
「俺はね、自分から脱いでくれない女の子を抱く趣味はないの」
締めていたネクタイを緩めながら、狐はため息をつく。
「どこからくるんですか、その自信は」
呆れるほど自信家の男に、ビスクドールは思わず顔を顰めた。
無意識に奥歯を噛み締めているのを悟られまいと、唇を固く結ぶ。
「この顔が俺の自信」
狐は自らを指差し、にっこり笑う。
人が良さそうな笑みの奥に、底知れない嫌味と腹黒さが滲んでいた。
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梟の佇む夜の果て -My Funny Valentine- 卯月 朔々 @udukisakusaku
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