11-3. 醜い紛い物
みちるの視線は、診療所一階の入り口に向いている。
暮れ始めた陽に照らされた入り口、しかしロビーは逆光で薄暗い。
そのロビーを、人影がゆっくりと進んでくる。
背の高い、すらっとしたスーツ姿の男。
みちるは、視線を逸らさずに、静かに拳を握り締める。
「やぁ」
人影は手を上げ、愛想良く声をかけた。
「……
みちるは日本語で、嫌味たらしく言う。
「В чужой монастырь со своим уставом не ходят(郷に入れば郷に従え)、私の苦手な言葉だ」
人影が喋るのはロシア語。
ロビーには、古ぼけたソファがある。ところどころほつれたソファに、腰掛けた。
「君は、ロシア語を流暢に話せるはずなのに、わざわざ日本語で話すのは、私への意地悪なのか?」
そこにいるのは、銀色の髪を綺麗に撫で付け、上質なオーダースーツを着こなすロシア人の男。――イヴァンだ。
「ささやかな反抗」
みちるは鼻で笑う。
男の身なりに比べて、みちるは病院着で包帯だらけだ。あまりにも情けない。
「今日は何をしにいらしたんですか」
無表情なまま、イヴァンを睨みつけている黒い眼は、冷たい。
睨みつけられたイヴァンは、静かにみちるを見つめ返す。
冷たく、重い沈黙が二人の間に舞い降りる。
しばらくして、イヴァンは持っていた紙袋をみちるの方へ差し出した。
「お見舞いだよ」
差し出されたのは、有名なチョコレート菓子店の袋だった。
「毒でも入ってます?」
みちるは、迷惑そうな顔で袋を受け取ろうとしなかった。
「それは食べてみなければわからない」
イヴァンが小さく笑って答えると、みちるはあからさまに顔を顰める。
「嘘だよ。ビスクドールが、君のために用意したギフトだ。信頼していい」
イヴァンから、ではなく、ビスクドールから、と言えば、まだ受けがいい。
「ビスクドールのお土産は、センスがいいですね」
みちるは、渡された袋の中身を覗き込むこともせず、受け取るだけだった。
「今ちょうど、玖賀の息子から電話があったところです。あなたの秘書が、玖賀の舎弟を殺したと」
携帯電話のマークが貼られた壁のそばから、みちるは動こうとしない。
「あぁ、そんなことを聞いたような気がする」
イヴァンの脳裏の片隅に、ビスクドールが運転しながら言っていた言葉を思い返す。
クガの手下から梟の話を聞き出した時、苦労したと言っていた。みちるが言っているのは、おそらく、そのことだろう。
「クガの配下は、君の友達でもなんでもないだろう? 所詮は末端のマフィアだ。同情の余地はない」
真人間でもない、大物になれる器もない、使い捨ての人材。そこにかける情けが、どこにあると言うのか、とイヴァンは言う。
みちるは眉間に皺を寄せて、こめかみを押さえる。
携帯電話使用エリアに佇むみちると、ソファに座るイヴァンとは、物理的にも心理的にも距離がある。
「そうやって、どれだけの人を踏み躙ってきたんだか」
みちるは吐き捨てる。そんな態度を見たイヴァンは、少し首を傾げている。
「で、ビスクドールはどこに」
みちるは無表情だったが、瞳には怒りの色を滲ませている。
そこに見えるのは、露骨な苛立ちだ。
「外で待っている。クガに言いつけてもいい」
イヴァンは余裕たっぷりの態度で、入り口を指差す。
そこにビスクドールの姿はないが、入り口近くにいるのはわかる。
みちるは大袈裟に肩を落として、ため息をついた。
「ところで、リエハラシアの特殊部隊出身の狙撃手から、何を聞き出した?」
梟と同じ色の眼をした男は、鋭い眼差しでみちるを威圧する。
「何も」
みちるは、抑揚のない平坦な声音で短く答える。
感情の見えない黒い眼で、イヴァンを真っ直ぐ射抜いている。
イヴァンはソファから立ち上がる。ソファが軽く軋んだ。
「君と私は、大事な人を失った」
みちるの目の前に立ったイヴァンの灰色の眼は、少しだけ潤んでいる。
「その喪失感を乗り越えるために、私たちは手を組んでいいはずだ」
イヴァンとみちるの喪失感。
その正体は、渕之辺 優子という存在。
「手を組む? どうして」
みちるは顔を強張らせ、唇を一文字に結ぶ。
「ユーコが命を懸けて守ろうとしたもの。……リエハラシアが開発した、画期的な新兵器」
リエハラシアの名前が出た瞬間、みちるの眉がくいっと上がる。
「その新兵器を、君と私とで守ろうじゃないか。それが、私からすべてを奪ったこの世界への、最大の復讐だ」
イヴァンは今にも溢れそうな涙を堪えながら、みちるへ訴える。
だが、
「くだらない話はやめてもらっていい?」
イヴァンの言葉を聞いたみちるは、鼻で笑った。
「守ろう? 馬鹿言わないで。素直に、貴重な売り物だから寄越せって言った方がいいですよ」
みちるは、言葉の合間にくすくすと笑い声を漏らす。
その態度は、イヴァンの悲しみがまるで小芝居だと言わんばかりだ。
「あの日、リエハラシアでユーコが死ななくてならなかった理由はなかった。こんなこと、私は許せない」
イヴァンは首を横に振り、奥歯を噛み締めながら言う。
「君だって、ユーコの死に報いたいと思っているはずだ」
イヴァンの声が、低く押し殺した声になるのは、感情を込めすぎているからだ。それを芝居だと言い切るのは、早計ではある。
「私に協力するなら、いくらでも助けてやる。君がやろうとしていることを、叶えてやる」
熱く語るイヴァンとは裏腹に、その眼に映るみちるは、虚ろだ。
「私は、あなたを利用してもいいと思っています。けど、協力したいとは一ミリも思っていない」
みちるは笑いを堪えながら、イヴァンの方へ手を伸ばす。そして、肩を軽く叩く。
「その小さな頭で、よく考えろ。君ができることと、私ができることは差がありすぎる」
みちるの手を振り払い、イヴァンは興醒めした顔で吐き捨てる。
「ユーコの復讐には、私の後ろ盾が必要になる」
有力な武器商人であるイヴァン。
その後ろ盾は強大なはずだ。何をするにしても、媚びて損はしない。
「あなたの手を借りるほど、無力ではない」
しかしみちるは、決して首を縦に振らない。作り笑顔で、拒絶する。
「……ならば、君も、私の復讐の標的だ」
静かながらも、イヴァンは怒りを露わにしている。
「大丈夫。覚悟はとっくにできてる」
平然と、みちるは言い返した。
殺気立った瞳とは裏腹に、笑顔の仮面は頑なに崩れない。
「君は死ぬ間際、私の申し出を断ったことを後悔するだろう」
掠れた声で、イヴァンは言う。蔑みのこもった眼が、みちるを睨みつけている。
「後悔ならもうしてる」
みちるは満面の笑みで、左手で拳銃を模したポーズをして見せた。
「ここに
虚勢の中にある、芯の強さ。
それは、イヴァンが愛してやまない人がよく見せていた姿だ。
だが今、イヴァンの目の前にいるのは、愛しい人ではない。
――渕之辺 みちる。
笑い方は、少しも似ていない。だが、イヴァンの愛しい人と、話し方や顔立ちがよく似ている。
それがより一層、憎たらしかった。
似て非なるもの。
愛しいあの人の面影を残す、醜い
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