10-2. 縁を切ったはずの男


         *


 夜が明ける、ほんの少し前。

 眠り続けるフチノベ ミチルを置いて、クガの診療所を出て数分。

 夜中の街なかの片隅で、ひっそりと煙草を吸っていた自分の前に、それは気配もなく、音もなく、現れた。

 

「よぉ、元気?」

 赤毛で榛色の眼をした、整った顔立ちの男。――リーシャロ

 身なりのいいスーツは、今日も一分の隙がない。磨き上げられた革靴が、街の灯りを反射している。

 穏やかで品のいい笑顔。だが、これは作り物の笑顔だ。

 

「お前とは縁を切る、と言ったはずだが」

 目の前にいる男は、蠍に自分のセーフハウスの場所をリークした。これまでに、情報をさんざん提供し合ってきたというのに、随分な仕打ちだ。

 

「俺は縁を切った覚えがない」

 狐は品のいい笑顔を崩して、ニヤニヤとしながら言う。どこまでも悪びれない、この肝の据わり方だけは見習いたい。

 

「クソったれが」

 ああ言えばこう言う。狐とまともに会話するのは疲れる。

 

「ミシェルは元気?」

「お前のことだ、どこにいるかも知っているし、どんな容態かも知っている」

 クガの診療所の近くで、こうして待ち構えていたのだから、少なくとも居場所ぐらいは知らないはずがない。

 

「そうなんだけどね。ま、挨拶として聞いただけ」

 狐はニヤッとした笑いを見せたまま、こちらの表情や眼の色を窺っている。

 何も答えず、煙草の煙を淡々と吐き続けていると、居心地が悪くなったのか、狐は眼を泳がせる。

 

 無言の時間がしばらく流れた後、燃え尽きかけた煙草を口元から離した。

 その瞬間、眉を下げて困り顔をした狐が、口を開いた。

 

「お前には悪いことしたな、って自覚があるから、教えておくんだけど」

 狐が言う「悪いこと」は、蠍にセーフハウスの場所を教えた件だろうか。それとも他に、まだ隠していることがあるのだろうか。

 それともこうやって、自分を疑心暗鬼にさせたいだけか。

 

「イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキーが日本に来てる」

 聞いた覚えのない名前。

 残念ながら自分は、もとより人の名前を覚えるのが苦手で、過去に聞いた名前だったとしても覚えていない。

 貴重な情報をもたらしてやった、と言わんばかりの狐の表情は、なぜか誇らしげだ。

 そこからは何も読み取れない。瞳すら揺るがない。どんな意図で、この情報を与えてきたのだろう。

 

「そいつは何者だ」

 聞き馴染みのない名前に説明を求める。

 

「ミシェルから聞いてないとは言わせないよ? っていうか、本当に聞いてないなら、ミシェルに聞くべきだ」

 だが、にこやかな笑顔のまま、狐は首を横に振る。

 

「質問は、そのイヴァンとやらが何者かと聞いている」

 煙草の吸殻を地面に落とし、つま先で踏み躙る。

 自分が苛立っているのを察した狐は、静かに鼻で笑った。

 

「フチノベ ユウコ……ミシェルの母親の、元恋人。有名な大物武器商人で、ロシア人のいけ好かない爺さん。気難しいところと、眼の色がお前とよく似てるよ」

 こちらを指差して、狐がおかしそうに言う。

 

「イヴァンは今、箱根の高級旅館を一棟貸し切りにして一週間前から泊まってる。武器商人って、大物になると金持ちだね」

 狐はご丁寧に、居場所まで教えてくる。

 だが、イヴァンとフチノベ ミチルとの関係を教えるつもりはないらしい。舌打ちが出た。


「面白い話を聞かせてくれたな。礼を言う」

 新しい煙草に手を伸ばし、火を点ける。

「だが、二度とその面を見せるな」

 フィルターを噛み締め、吐き捨てるように言うと、

「はいはい、わかってるよ」

 狐は嬉しそうに手を振り、背を向けていく。こんなに憎たらしい背中は見たことがない。

 雑踏に消えていく狐を目で追い続けていると、一瞬だけこちらを振り返る。

 眼が合った。榛色の眼は、冷たく鋭い。

 

 せっかく吸っていた煙草の味が、しなくなる。



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