9-4. 終わりの始まり
*
煙草が吸えないせいで、シャツのポケットに溜め込まれていたチョコレートに手を出していた。
安物のパイプ椅子は、体を動かすと軋む。その音が耳障りで眉間に皺が寄る。
消毒薬の臭いが鼻を衝く、病室。ベッドで眠る女が、小さく身じろぐ。
そして、黒い眼を開けて数秒。
天井を凝視した後、じっくりと周りを確認する。その流れで自分と目が合う。
フチノベ ミチルが、クガの息がかかった医療機関のベッドで目を覚ましたのは、運び込まれて半日経った頃だった。
もうすぐ日付が変わる。
「お腹、空いた」
起きて一言目が、これだ。気が抜ける。
点滴のチューブが何本も、そしてモニターに何台も繋がれて、重傷なのは明らかだった。
「一ヶ月は確実に入院だと」
医師や看護師は、嫌な顔一つせずに治療に当たってくれた。だが、こんな状態で連れてこられて、さぞかし迷惑だったろう。
「うーん……入院費が払えない」
「そういう問題じゃない」
とはいえ、入院費はクガが払うだろう。それを返すために、この女はアルバイトを増やす。
今までこうやって、クガは何かと恩を売って、フチノベ家との繋がりを持ち続けたに違いない。
「明日退院できないですかね」
「この状態見て、よくそんなこと言えるな」
明日にでも退院したいとは、本気で言ったわけではないだろうが、半分は本気の発言だと思う。
そこで会話が途切れ、窓の景色を眺めるしか、やることがなくなった。
この診療所は、表向きは医療機関の看板を掲げているため、喫煙はできない。
意識を取り戻したのを確認したのだし、煙草を吸いに外へ出てもいいはずだ。
それなのに、足が重く感じて動けないのは、話をしたいと思っていたからだ。
「蠍は、あなたの前で死にたかった。……そうやって、記憶に残ろうとした」
フチノベ ミチルは目を閉じながら、唇が動かした。その表情からは、何も窺えない。
「その通りになって、私たちは蠍の思う壺」
目を瞑ったまま、フチノベ ミチルはおかしそうに笑った。
蠍は馬鹿だ。
こんなことをしなくても、ぽろぽろと涙を流していた蠍の顔は、自分の脳の中に焼きついて消えやしない。
無性に煙草が吸いたくなって、胸ポケットに手を伸ばして、ここでは吸えないのだと諦める。
胸ポケットを漁った時に違和感があり、その違和感の正体を探し出すと、泥がついている四角い何かだった。
「やる」
その四角い、小さな物体を指で弾いて投げる。
「うわ、溶けてる……」
枕元に軽い音で着地したのを、フチノベ ミチルは左手で拾い上げて、軽く顔を顰める。
ホルスタイン柄の包装された小さなチョコレートは、フチノベ ミチルからどこかのタイミングで渡されたチョコレートだ。
「腹減ったんだろう? 包装紙剥けば食える」
人が死んでも腹は減る。
「えぇぇ……」
包装紙を剥がした後のチョコレートを指で摘んで、フチノベ ミチルは難しい顔をしている。しかし空腹には勝てなかったのか、口に入れた。
「ほら食えるだろ」
「空腹には勝てないぃ」
フチノベ ミチルは呻きながらチョコレートを食べている。その姿は、芝居がかっている。
口の中のチョコレートを味わいながら、フチノベ ミチルは剥がした包装紙を両手の指先で広げ、しげしげと眺めている。
「何もしないで、私のことを見捨てても良かったのに」
いつの間にか、視線は包装紙から自分に向いていた。
「見捨てるって言い方は、助けに来ると思い込んでいる証拠だ」
フチノベ ミチルの手から包装紙を取り上げ、ゴミ箱に捨てる。
「サバちゃん、周りから面倒臭い人って言われたことない?」
その言葉は、狐からよく言われた。だが、今その話をする気には、なれなかった。
「蠍が死んだ時」
フチノベ ミチルは何度目かの天井を見た。
「びっくりするくらい、何も感じなかった」
そう話しながら、ゆっくり瞬きを繰り返す。
「怒りとか、かわいそうとか、達成感とか、いろんな感情が沸くのかなって思ったのに。なーんにも」
目的を果たしたその後、何を思うか。
この女は何も感じなかった。そしてそれは、自分も同じだ。
「復讐だの報復だのは、そんなものだろ」
蠍は、生きてきた時間の半分くらいを人を殺すことに懸けてきた。
その最期にしては、自分たちの感情はあまりにも素っ気ないのかもしれない。
血で血を洗って生きた者はきっと、生きてきた時間への言葉や、生きていた時間に対しての評価といったものを、与えられないのだ。
しばしの沈黙の後、フチノベ ミチルの黒い瞳はこちらをじっと見つめてくる。
「……もし、あなたが死んだら」
囁くような、静かな声。
自分は視線を逸らさず、小さく動く唇の動きを視界の端で追う。
「悔しくて、悲しいですよ」
ごくわずかに震えた言葉。反面、瞳は揺るがない。
明日には掌を返していたって、責める筋合いはないのだ。
自分とフチノベ ミチルの間には、その程度の信頼しか生まれていない。
返す言葉が、思い浮かばない。
「……そうだな」
適当な相槌を返したものの、その時にはフチノベ ミチルは眠り込んでいた。
そんなに長い時間黙っていたつもりはなかったのだが。
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