8-5. 幸運を祈る
*
明け方、午前五時。ベッドから見える窓からは、朝陽が昇り始めて、夜の青さが薄まっていく空が見えていた。
日本の夜は静かだ。爆撃機が突然、爆撃を仕掛けてくることもなく、砲撃が飛んでくる音もしない。ベッドで起こった嬌声だけが、耳に届く夜。これが平和。
狐は、隣で静かに寝息を立てる女を一瞥すると、スマートフォンを手に取った。
届いたメッセージを開く。すぐに連絡先をスクロールし、ある名前をタップする。
コール音が鳴る。数回の呼び出しの後。
「よぉ、クソガキ」
通話へ出た相手を、名前でもなく蔑称で呼んだ。
『……んだよ、クソジジイ』
相手は、忌々しそうに舌打ちをしてから、また蔑称で呼び返す。低くもない、高くもない、中性的な声音。――蠍だ。
舌打ちをしてから言葉を続けるのは、梟の真似だな、と狐は思う。
「お前、今どこにいんのー?」
『梟のセーフハウス。待ってるのに現れない』
苛ついた口調で話す蠍の声は、途中からくぐもる。煙草を咥えたのだろう。
蠍が、ソファしかないあの部屋で、一人でひたすら待っていたのかと思うと、狐はほくそ笑んでしまう。
「だろうね。フチノベ ミチルを、あのタイミングで襲撃したのは悪手。あと、セーフハウス周辺にウロついたりしただろ」
狐はそう言いながら、昨日の夜、梟からかかってきた電話の内容を思い出している。
蠍が、梟のいないタイミングで何かをして、梟が珍しく激怒していた。
おそらくだが、蠍がセーフハウスの場所を知ったとアピールするようなことをして、それを見た梟が怒りに震えたのではないか、と狐はぼんやり思っている。
「そんなことするから、あいつの警戒心が跳ね上がった。大失態だ」
隣で寝ている女が、寝返りを打つ。狐は女を起こさないように、声のトーンを落とす。
蠍は黙っている。注意を受けて、機嫌が悪くなったのだろう、と狐は察する。
「あまりにお前が不利だから、大事な情報、渡してやろっか」
狐の言葉に、電話の向こうの蠍が息を呑む音が聞こえた。
『何を掴んだ?』
急に生き生きとした声になった。
「フチノベ ミチルとその親が、武器商人やってた頃に使ってた倉庫。今、場所送ってやったから見ろ」
その言葉の通り、狐は通話しながら、マップ情報を送信する。
『……へぇ』
マップを確認したのか、一呼吸置いてから、相槌にも似た声が聞こえてきた。
狐はその反応を聞きながら、緩く笑った。
「止めたところで行くんだろうけど、行くの?」
狐は髪を掻き上げ、苦笑混じりに尋ねる。
『だって、ここへ来い、ってことだろ?』
蠍は、不満げな口調だった。狐の態度が納得いかないのか、少し尖った声で返してくる。
「逆にお前がここで動かないでいたら、そのうち痺れを切らして出てくるはずなんだよ」
狐はくすくすと笑い出す。
「この倉庫には、フチノベ ミチルが武器商人だった頃の在庫がまだある。対してお前は、ロクな装備もないのに乗り込むわけだ。勝算がなさすぎる」
人間など、当たりどころが悪ければ、簡単に死ぬ。
生身の人間は弱いものだと自分たちは身をもって知っているだろう、と狐は付け加えた。
「もう少し待てばいい」
そう言って、狐は窓の外を見る。明け始めた空は、どんどんと白んできている。陽の光を浴びたビルの窓が、光を反射していた。
『待つのは嫌いなんだよ。さっさと終わらせてやる』
狐の予想通り、蠍は待つことを選ばない。狐の口から、思わず、大きな溜め息が漏れた。
「その判断が、お前を殺すからな」
長年、特殊部隊の諜報担当として生きてきた男からすれば、蠍の無鉄砲で堪え性のない態度は目に余るものがある。
蠍のそういう点を、狐はずっと注意し続けてきた。そして今日もまた、故郷にいた頃と同じように注意していた。
いつもであれば、こう言うと、蠍が食ってかかってくる。
だが、今日はそうではなかった。
『……俺の肩を持つ気?』
心底意外そうに、少し戸惑った声音で、尋ねてきた。
狐は、蠍が珍しく聞く耳を持ったことに驚いて眼を見開く。が、すぐに元に戻ると、軽薄な笑みを浮かべた。
「いや全然。勝てる相手に、勝てる方法で向かっていかないのを見ると、イラっとするだけ」
『俺とお前は違う』
そう言い放った蠍の声は、いつもの喧嘩腰だった。
一瞬しおらしく見えた蠍が、また生意気な青年に戻ったと、狐は苦笑いする。
「たしかに。それが真理だね」
お互いに理解し合えないが、それがこの二人の関係性なのだ。いまさら変わるわけでもなく、続くわけでもない。
「幸運を祈るよ、クソガキ」
狐は、その言葉を言って、通話を切る。
隣で寝ている女が、もぞもぞと寝返りを打とうとした。狐は、その体に覆い被さって、耳元にキスをする。
そのキスで目を覚ました女が、うれしそうな顔で、狐の首に腕を回した。
女の体を抱き寄せながら、狐はさっきの蠍との電話を何度も思い返す。
――本気で祈ってなどいない幸運は、どこまで通用するのだろうか。
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