8. All the best

8-1. 空から降る



 雑居ビルと雑居ビルの合間に、細い道がある。

 その道の奥には、二階建ての古ぼけた建物が、ひっそりと存在していた。

 看板は色褪せて、元の字が読み取れない。外壁は至る所が変色し、廃墟に見えなくはない。

 

 それは、診療所、と呼ぶにはあまりにも怪しすぎる外観の建物だった。

 

 だが、一階の電気が全部屋に点いており、時折、複数人が発する怒号のようなものが聞こえる。

 人がいるのは確かだ。

 

 フチノベ ミチルが送ってきたマップの情報によれば、ここが「クガが懇意にしている診療所」だ。


 敷地の中に入ったら、正面から見て左側に回ってほしい、とメッセージアプリで連絡がきていたので、その指示通りにしている。

 

 一階の窓は明るく、人の気配がする。だが、二階の窓は灯りがついていない。

 

 すると、真っ暗だった二階の一室の窓が、開いた。自分のちょうど真上にある部屋だった。

 

 白っぽい布が、窓が開いた部屋から下ろされる。シーツかカーテンか、この外の暗さでは確認できない。

 

 ――嫌な予感がした。


 案の定、フチノベ ミチルはそれを伝って下りてくる。

 かと言って、その布は大した長さも稼げない。

 フチノベ ミチルは、布を掴んだまま、壁を強く蹴る。

 反動で一瞬、体がふわりと浮く。そのタイミングで布から手を離した。

 

「は?」

 思わず声が出た。

 フチノベ ミチルは――こちらへ飛び込んでくる。

 

 考える暇もなく、フチノベ ミチルの腰を咄嗟に抱いた。

 そして衝撃と共に、体ごと地面に倒れ込む。


「馬鹿じゃねぇの……」

 我ながら情けない呻き声だった。

 脱け出す、と言っても、非常口から出てくるのかと思っていた。

 まさか、飛び降りてくるとは聞いていない。

 

「まぁ、馬鹿ですね」

 フチノベ ミチルは、くすくすと笑いながら身を起こすと、自分の手を取って立ち上がらせようとする。

 非常階段にクガの手下がいたからだ、とかなんとか言っているが、もっと方法を考えろ、としか思えない。


 フチノベ ミチルは、真新しい服に着替えていた。この診療所へ行くにあたって、自前のものを持っていくほどの余裕があったとは思えない。クガに用意させたか。

 

 しかし、身なりといい、動きの軽さといい、とても怪我人には見えない。

 

「はい、どーぞ」

 フチノベ ミチルは着ていた上着から、チョコレートを取り出して差し出してくる。

 

「このチョコレートは、なんの意味がある?」

 掌には二、三個乗っていたが、そのうちの一つだけを手に取った。

 

「美味しいから配ってます」

 わかっていたが、この女がチョコレートを渡してくるのに、大した理由はない。

 

「なんなんだ、お前は」

 チョコレートをポケットにしまいこみ、服についた汚れを叩く。

 

 フチノベ ミチルは気配を殺しながら、この診療所の敷地の外へ出る。自分もそれについていく。

 瞬間、「いなくなった」と叫ぶ声が聞こえてくる。


 診療所にいるクガの手下に見つかる前に、雑踏に出て姿を紛れさせる。

 東京の街は、夜でも人通りが多い。身を隠すには最適だった。


 追っ手らしき姿はなく、あまりに簡単に撒けたことに拍子抜けしてしまう。

「追いかける気がないのか、クガは」

「ないですよ。私が病室から抜け出さないように、非常口で見張っているだけ。逃げられたのか、って手下の人が責められるとかわいそうだから、非常口を使わないで出てきた」

 診療所にいたクガの手下は、フチノベ ミチルに言わせれば、「病室でおとなしくしているか見ておけ、と言われているだけで、逃げたら追いかけろ、とまでは言われていない人たち」らしい。

 

 一度外へ出てしまえばこちらのものだ、と勝ち誇ったように笑ってみせた。

 

 クガからすれば、やりにくい相手だろうな、と思う。

 それに、世話を焼きたいクガに対し、距離を置いて接するフチノベ ミチルという、微妙な関係性は、いまだに腑に落ちないものがある。

 


 とりあえず、診療所から離れるルートを選んでいるだけで、どこへ向かっているわけではない。

 大通りから離れていくにつれ、人の流れは少なくなっていく。

 

「クガとお前はどういう関係だ」

 歩きながら尋ねる。

 

「父です」

 フチノベ ミチルは、薄く微笑んで答えた。

 

「……あぁ」

 たしかに、狐から以前聞いたことがある。

 フチノベ ミチルの母親と、クガという日本のマフィアは、以前恋人だった、と。

 納得していると、すぐに、

「いや、めちゃくちゃ嘘。すっごい嘘」

 真顔になったフチノベ ミチルから否定が入る。

 

「玖賀さんは母の元恋人で、お互い別の人と一緒になってからも、家族ぐるみで付き合いが続いてたんです」

 それは、狐の情報と相違ない。

 

 クガが、フチノベ ミチルの面倒を見たがりながらも、手元に置くほどの強引さを見せないのは、元恋人の娘という微妙な立ち位置のせいか。

 

「なら、お前の父親は?」

 フチノベ ミチルの父親は、クガではない。

 一年前のあの夜、リエハラシアへ一緒に来ていたのは母親。

 では父親は、どこへ?

 

「生物学上の父親は、知りません。育ての父ならいます」

 夜道の中、煌々と光る自動販売機の光が眩しい。その光が、フチノベ ミチルの横顔を照らしている。

 

「また複雑そうな背景だな」

 言葉にするには軽すぎるかとも思ったが、フチノベ ミチルは、特に気にした様子もない。

 生物学上の父親、という表現には、仄暗いものを感じ取れた。

 

 そして、ここでまた、一つの疑問が生まれてくる。

 フチノベ ミチルの口から、育ての父の話は一度も聞いていない。そして、こんな事態になっても、育ての父の姿が出てこない。

 

「じゃあその、育ての父はどうした?」

 あまりに影のない、育ての父について尋ねてみる。

 

「行方不明です」

 フチノベ ミチルは、諦め混じりの笑みを浮かべて、軽い口調で答えた。

 

「……は?」

 予想していなかった回答に、虚を突かれてしまう。

 

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