7-4. 何者にもなれない
*
夜十一時。
エアコンをつけずにいたため、部屋の室温はどんどんと下がっている。
狐との電話は、不快感しかなかった。
電気も点けず、ソファに腰掛けながら、煙草をふかしていた。
ソファの足元に乱雑に置いた、血のついたタオルの塊。その血の色は、暗がりの中でも黒っぽく変色しているのがわかる。
わざわざ自分へこれを見せに来た、蠍。
その蠍に、このセーフハウスの存在を教えた狐。
歯軋りが出そうなほどの、腹立たしさ。
スマートフォンをシャツの胸ポケットに入れようとすると、何かが突っ掛かり、収まりが悪い。
舌打ちして、ポケットの中身を漁る。ライター、煙草の箱、そしてチョコレート。
チョコレートのカラフルな色のパッケージを見た瞬間、溜め息が出る。
スマートフォンのバイブレーションが鳴る。
表示されている名前に、一瞬、脈が跳ね上がるのがわかる。
『どーも、こんばんは』
電話越しだが、フチノベ ミチルの声は、随分と元気そうだった。
『内臓は傷ついてなかったらしいです。あと一ミリ、ズレてたらアウトだった、とは言われましたけど』
いつも通りの声のトーン。
ほんの一、二時間前まで、布団の中で弱々しい姿を見せていたとは思えない。
『さっき、傷口を縫ってもらったところです』
「……それは良かったな」
あの弱った姿を見た後、しかも、あんな話をした後だという陰鬱さは欠片もない。
その切り替えの速さに、脱力感すら覚える。
『というわけで、点滴が終わったら、この診療所を脱け出そうと思っています。……なので、できたら、迎えに来てくださるとありがたいです』
傷の処置をして早々なのに、フチノベ ミチルが頼んできたのは、脱走の協力。
「馬鹿。とんでもない馬鹿」
頭が痛くなるほど、馬鹿な話だ。
『でもこれが戦争の真っ只中だったら、手当てが終わったらすぐに戦場へ戻れ、って言うでしょう?』
フチノベ ミチルはおかしそうに笑っている。
「お前は本当に……何者なんだ」
まるで戦場を見てきたかのような言い方が、癪に障る。
『私は何者でもないです。きっとこれからも、何にもなれない』
フチノベ ミチルは急に声を落とし、独り言のように言う。
「哲学的な回答は要らない。……何のために、診療所から脱け出したいんだ?」
おとなしく療養していればいいものを、どうしてこんなに焦っているのか、理解に苦しむ。
『あなたを一番苦しめる方法と言ったら、何が思いつきますか?』
フチノベ ミチルは、こちらの質問には答えないまま、質問を投げかけてきた。
「くだらないお喋りに付き合わされることだ」
無意識に、眉間に皺が寄る。
『容赦ないなぁ。……何をしようとしているのかは、私にもわからないんですけど、あなたの目の前で、
フチノベ ミチルは淡々と話し続ける。
怒りや嘲りといった感情はなく、ただ純粋に推測を述べているだけの調子だ。それがむしろ、不気味だった。
『あなたに、何もできなかった、という記憶を刻みつけるために』
その言葉を聞きながら、足元に転がるタオルの塊を見る。
『たぶん、蠍がやりたいのは、かつての意趣返しです』
「……知ったような口を」
まともに受け取るつもりがないフリをして、実はその説に説得力を感じていた。
蠍がしてきた、度を超した嫌がらせのやり方は、フチノベ ミチルの推測を裏付けるものではある。
『だから私は、あいつをことごとく邪魔してやろうと思って』
フチノベ ミチルの発想はシンプルだ。
自分の周りにいれば、いずれ蠍と対面するだろう。
蠍の思い通りにさせないため、できることを考えて、この結論だ。馬鹿馬鹿しい。
『あなたは
と言ってから、フチノベ ミチルはこちらをフォローするように、接近戦もできるんでしょうけど、と付け加えた。
『私が蠍を足止めできるのは、少しの間です。けど、そこを一発で仕留めればいい』
フチノベ ミチルに、接近戦の技量がどれだけあるのか、自分にはわからない。
ただ、少しの間は止められる、と言い切るのは、フチノベ ミチルが実際に蠍と対面した経験から得た判断だ。信用には足る。
「……それで死んでも、知らないからな」
燃え尽きかけた煙草を、灰皿代わりの空き缶に押し付ける。
『もちろん、いいですよ。恨みっこなし』
フチノベ ミチルは、とても気軽に返事をしてくる。
こちらは、蠍から腹の立つ嫌がらせをされ、狐には情報を横流しされ、フチノベ ミチルからは無茶なお願いをされ、頭が痛いと言うのに。
渋々だが、重い溜め息を肺の奥から吐き出して、腹を決めた。
「……お前がいる診療所は、どこにあるんだ?」
『マップ情報、送りますね』
フチノベ ミチルはすぐに、マップ情報を送ってくる。まるで、そうなるのを予期していたかのような、スムースさ。
「そこへ、いつ頃、迎えに行けばいい」
スマートフォンを耳から離し、マップの位置を確認する。
この状態でも、この部屋の静けさなら、相手の声はそれなりに聞こえる。
『あと三十分くらいで点滴が終わります。それくらいのタイミングで、よろしくお願いします。それでは!』
フチノベ ミチルは一方的に言い放つと、通話を切った。
人の話を断ち切って通話を切るのは、いつも自分がしていることだ。
いざ自分がやられると、こんなにも腹が立つのだと気づく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます