7-2. 理解者
*
一方その頃。
蠍はシティホテルの一室を訪ねていた。
指定された部屋のインターフォンを押すと、応答の前にドアが開く。
「よう、クソガキ」
穏和な笑みでドアを開けたのは、赤毛の男――狐だった。
「……色ボケジジイが」
狐の顔を見るなり、蠍の顔は歪む。
彼が狐を指す呼び名を出す時、吐き捨てるような口調になる。
狐は部屋の窓辺のテーブルへ座るが、蠍はドアを背に佇んでいる。
「
ドアから離れようとしない
「いなかった。あの部屋、本当に梟が住んでるんだろうな?」
蠍は腕を組み、窓辺でにこやかに微笑む狐を疑るような眼で見る。
「いるってば! 俺が用意してやった部屋なんだから」
狐は肩を竦め、わざとらしく両手を広げてみせた。その動作とは裏腹に、声のトーンは落ち着いている。
蠍は、視線の先にいる、得体の知れない男を睨んだ。
「あんたはさぁ、なんで俺に手を貸すわけ?」
「おいおい、勘違いするなよ。お前がちゃんと金払ったから、情報を売ってやっただけ」
かつて、蠍と同じ部隊で諜報担当をしていた男は、情報屋として、蠍にも梟にも情報を売り歩いている。
蠍は、狐の言い分を鼻で笑った。そんな蠍を、狐は愛想笑いで見つめている。
「……俺と組むつもりは?」
蠍は、片側の口角を上げ、据わった眼で狐を見る。
「なーい」
狐は首を何度も横に振る。
「クソジジイが」
「俺は、生き残った方と手を組む予定だから」
そう言うと、狐は両手をパン、と叩く。静かで密閉率の高い部屋の中に、手を叩く音が反響した。
「そうだ、せっかくだから、お前に聞いておこう」
そう言った狐の眼は、蠍を頭から爪先までじっくり観察している。
「総帥から玩具にされてた、って話、マジ?」
その言葉に、蠍の眉がぴくりと歪む。赤い唇を噛み、荒くなる呼吸をどうにか抑える。
「……誰から聞いた」
震えながら、蠍は口を開いた。
蠍の脳裏に、生涯に一度だけ、それを打ち明けた人物の姿がよぎる。
梟が狐へ言ったのだろうか、と思った蠍は怒りが込み上げてきていた。
「総帥に玩具にされてからPTSD患っちゃって、退役させられちゃった子から、昔聞いた」
だが、狐が言う情報源は、梟ではなかった。
そう聞いた瞬間、湧き上がっていた怒りの温度が、すっと冷める。
「……へぇ」
視線を宙に
「その反応はマジって」
言い切る前に、狐の左眼にナイフの刃先がちらついた。
蠍はあっという間に間合いを詰め、ナイフを狐の眼前へ突きつけていた。
その刃先は、あと一ミリの距離で、狐の眼球を潰そうとしている。
「……はいはい、聞いちゃいけない話なのね」
刃先には、部屋の照明が反射している。その光を見つめ、狐は薄く笑う。悪びれる素振りもない。
蠍は舌打ちする。
「なぁ、蠍」
蠍を呼ぶ狐は、優しく微笑む。
一方、怒りに震える殺気立った青い眼は、狐を刺すようだった。
「
労わるような言葉、声音。
梟にかけられたかった言葉を、あれから何年も経て、狐から、かけられる。
「なんでお前なんかに!」
蠍は顔をくしゃくしゃに歪ませる。今にも泣き出しそうな――否、その眼には、もう涙が溜まっている。
蠍の手からナイフが滑り落ちた。
狐は、床に敷かれた絨毯へ落ちていくナイフの行方を、眼で追った。
「あいつはっ……わかって、くれなかったのに……っ!」
蠍の眼から涙がぼろぼろと零れていく。
その涙が、蠍の美しい顔立ちにより一層の華を添えていて、綺麗だった。――少なくとも、狐はそう思った。
「……まぁ、涙拭けよ」
子供のように涙を流して、歯を食いしばる蠍へ、狐はハンカチを差し出す。
蠍は引っ手繰るようにして、ハンカチを取る。
癒えない傷を抱えて生きてきた蠍を労ったのは、慕っていた男ではなく、嫌っていた男。
この現実は、蠍にとってはあまりに不条理だった。
「……お前はなんで、梟を追って、日本に来た」
蠍は涙を拭ったハンカチを握り締めながら、狐へ尋ねる。
「やることなくて、暇だったから」
狐は眼を閉じて笑う。
蠍の目つきが途端に険しくなった。
「……っていうのは嘘。ちょっと調べものがあったから」
すっ、と真顔になった狐は、窓の外へ視線を遣る。
夜の闇の中、ビルの電灯と家々の灯り、看板の照明、車列が見える。それらの光が、暗がりに浮かぶようだった。
「何を調べに」
蠍は眉間に皺を寄せ、わずかに首を傾げる。
「知り合いの居どころ」
狐の指先が、窓ガラスをなぞる。その動きは、曲線を描いたり、渦巻を模したり、脈絡がない。
「知り合い? ……それは、誰だよ?」
「んー、まぁ、重要人物には違いない、とだけ」
蠍には視線を向けず、狐は小さく笑い声を漏らした。ガラスに反射する狐の顔は、含み笑いだ。
「それを調べて見つけたら、大統領から熱烈歓迎してもらえるはずなんだよね」
一年前のあの夜。
部隊のメンバーの生き残りで、誰よりも早く逃げ出したこの男は、故郷へ戻るのを夢見ている――蠍はそれが意外だった。
「お前は、大統領に頭を下げてからじゃないと、国へ戻れねぇよ」
そう言った蠍の中には、狐の淡い願望を打ち砕いてやろう、と意地悪な感情があった。
「あのクーデターは、お前が立案したんだから」
蠍は口元を笑う形にし、嘲るように笑った。
「……そのクーデターは、お前のせいで大失敗した。だから、俺はお前が大ッッッ嫌いだ。憎んでいると言っても過言じゃない」
窓から振り返った狐は、感情を見せない
言い返してやろうとした蠍を、狐の視線は威圧してくる。
蠍と狐は短くない付き合いだが、こんな眼で睨まれたのは、初めてだった。
「でもな、クソガキ」
狐は穏やかな声で、話しかけてくる。
「あんまり死に急ぐなよ。死体の始末が面倒だから」
優しい気遣いの言葉かと思えば、結局は自分の心配だった。
「順番考えろよ。ジジイの方が先に死ぬだろ」
一瞬でも、優しさに期待した自分を、蠍は心底恥じた。
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