6-4. 秘密の価値


         *

 


 午後二時。昼間の外を歩くのは久しぶりな気がした。


 道には、よく目を凝らせば見える程度の血痕が点々と続いていた。

 自分は、意図せずその血痕を辿るように歩いていた。――つまり、血痕が続いている方向が、目指す場所だったのだ。

 

 最寄駅から徒歩10分。墓地の向かいの二階建て集合住宅。家賃二万円。

 鍵は、道具さえあれば簡単に開くタイプ。セキュリティーもクソもない。今日はそれで助かった。


 道具を使って、ドアを開ける。

 

 まず目に入ったのは、足元に広がる赤黒い染み。

 その次に見たもの。

 ――部屋に頭を向ける形で、まるで捨てられた人形のように、うつ伏せで倒れる女。

 

 死んでいる、と思ったが、息はしていた。

 部屋へ運び、畳んであった布団を敷いて寝かせる。顔色が真っ青なのは、出血が多かったからだ。

 

 他人の家は、応急処置ファーストエイドキットがあるのかないのかも、わからない。

 仕方なく、棚を漁ってタオルを何枚も使って止血に使った。

 

 それによって、出血はある程度収まったものの、蠍の使うナイフは刃渡りが長い。内臓を傷つけていてもおかしくないサイズだ。

 

 自分の怪我よりも、この女の怪我の方がよっぽど深刻だった。



 

 陽が暮れても、フチノベ ミチルは起きなかった。

 胸がかすかに上下していたが、まだ目を開ける気配はない。

 

 キッチンの水道で、血塗れの手を洗いながら、殺風景な部屋を見る。

 

 ベージュ色の壁に、古いシンクキッチン。簡素な換気扇に、自炊している形跡のないコンロ。

 曇りガラスを模したプラスチックの板が嵌められたドアの向こうにあるのは、ユニットバスだろうか。

 カーテンは紺色。

 部屋の片隅に置かれた小さなテーブルには、化粧品の並んだカゴが置いてある。

 

 若い女が住む部屋にしては、飾り気がなさすぎるとは思う。ただ単に、物を置きたがらない性格なのかもしれないが。

 

 

 かすかに呻き声のようなものが聞こえた気がして、急いで蛇口を締める。

 布団の近くに寄ると、フチノベ ミチルの瞼がぴくぴくと動いているのが見えた。

 あと一歩で目を覚ましそうだ、と思った。

 こんな時、どんな言葉をかければいいのか、自分にはよくわからない。

 

「……馬鹿かお前は」

 怪我人が意識を取り戻す瞬間にかける言葉としては、少々きつかったかもしれない。

 フチノベ ミチルが眼を開け、まだ意識がはっきりしていないのか、ぼんやりとした動きで、こちらを見た。

 

「……え?」

 フチノベ ミチルは一度瞬きをしてから、もう一度瞬きをする。

 目の焦点が合うと、ようやく状況を理解したらしい。

 

「玄関入ってすぐのところに、血塗れで倒れていた」

「やだ、下着見られた……勝負下着じゃないのに」

 タオルを巻くためにはだけさせた服を直しながら、フチノベ ミチルはぼそりと言う。

 勝手に家に入っていることよりも、そちらの方が心配だったらしい。

 

「心配するのはそこじゃない」

 ジョークなのはわかるが、今それを言っている場合じゃないだろう。


 ゆっくりとした動きしかできないフチノベ ミチルを見て、隣に座る。布団を少しめくって、怪我の様子を確認した。

 

 包帯の代わりに撒いたタオルは、真っ赤に染まっていた。

 

「クガの診療所だかに連絡しろ。……内臓が傷ついていたら、洒落にならない」

「あぁ……勝手に傷口が塞がるとか、ないですかね」

「馬鹿を言うんじゃない」

 貧血状態のこの女を起こして、クガの診療所へ連れて行くのは厳しい。しかも今、自分には車もない。

 ここは、クガに頼るしかないと判断した。


「思ってたより早く、私の前に現れましたね」

 フチノベ ミチルは単語を一つずつ、ゆっくり話す。この様子だと、本当は話しているのも、やっとなのではないか。

 

「……誰が」

「あ、蠍の話です」

 自分が思ったよりも早く現れた、と言われた気がしたのだが、蠍のことだったらしい。

 

「蠍は……『これは梟が一番苦しむ方法じゃない』って言ってました」

 天井を見上げて口を開いたフチノベ ミチルの口から出た言葉は、頼んでもいないのに、蠍の様子を伝えてくる。

 

「そうか」

 自分には、これ以上の反応のしようがない。

 

「過去に、何があったんですか」

 天井を見ていた黒い瞳が、こちらを見た。


「お前には関係ない」

「そう言うと思った」

 小さく笑い声を漏らしたかと思うと、フチノベ ミチルは時間をかけて起き上がろうとする。

 自分はそれを、手助けをするでもなく、見ているだけだ。

 

「蠍とあなたが直接対決して、あなたが死んだら、蠍はもう日本にいる意味がなくなる」

 布団から起き上がったフチノベ ミチルは、眉間に皺を寄せ、肩で息をしながら言う。

 

「あいつは、きっと満足げな顔をして、リエハラシアへ戻る」

 フチノベ ミチルは、掛け布団を手で握り締め、痛みに耐えているようだった。

 

「……だったら、あなたに勝ってもらった方が、いい」

 そう言って顔を俯かせると、くすくすと笑い出す。どういう感情で笑っているのか、自分にはわからない。

 反応に困っていると、フチノベ ミチルはこちらに顔を向けた。眼が血走っていた。

 

 そして、

「あなたは、蠍にどうしてそこまで、憎まれているんでしょうか」

 横に座っていた自分の胸倉を掴んだ。

 振り払うのは簡単だったが、怪我人を力任せに振り払うほど、自分は無情ではない。

 されるがままにしておいた。

 

「死ぬ前に、一度聞かせてほしい」

が死ぬ前に、だ」

「私が、です」

 フチノベ ミチルは自分が置かれている状況をよくわかっていた。起き上がったことによって、傷口に撒いたタオルから、血がぽたぽたと滴り落ちていた。

 

「くだらないことを言っていないで、さっさとクガに連絡しろ」

 シーツや床へポタポタと落ちていく血を見ながら、言い聞かせる。フチノベ ミチルは、意地悪そうな笑みを見せた。

 

「話してくれたら、連絡します」

「……その話が、お前に何の関係がある」

「ないですね。関わった以上、聞いておきたいだけです」

 堂々と関係ない話だと言っておきながら、聞こうとする度胸は褒めるべきだろうか。

 それはどうでもいいのだが、この女は早く病院へ連れて行った方がいい。それだけはたしかだ。


「……説明してやる」

 胸倉を掴む手を剥がし、布団へ寝かせる。体に振動が伝わるたび、フチノベ ミチルは荒い息を吐く。

 

「ただし絶対、誰にも話さないと約束しろ」

 フチノベ ミチルは何も言わないが、真っ直ぐこちらを見つめ返す眼は、しっかりとしていた。

 

 逃げ出したいような気持ちになる中、煙草へ手を伸ばす。

 ガスを補充した後のライターは、すんなり着火する。こんな時だけは、なかなか点かずに手間取って、時間を稼いでも良かったというのに。

 

「あいつが『六匹の猟犬シェスゴニウス』……特殊部隊の名前だ。その『六匹の猟犬』へ加入する直前……七年前だ」

 蠍はまだ十一歳の少年だった。

 軍の下部組織で幼いころから育てられ、その期間さまざまなテストや訓練を最優秀の成績で合格してきた、期待の少年だった。

 

「……これからする話は、生涯、誰にも話すな。この話は今日限りだ」

 もう一度、念を押す。

 これは、付き合いの長い狐にすら言わなかった話だ。



 

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