3-2. コードネーム


「サバちゃんの本名は?」

 スマートフォンをボトムスのポケットにしまっていると、掌に四角いチョコレートの包みを乗せた女の手が差し出された。

 

「記録が残ってない」

 欲しいわけでもないのに、受け取らざるを得ない流れに釈然としない気分にはなったが、とりあえず受け取った。

 

「孤児院で適当に名づけられた。コードネームの方が馴染みがある」

 チョコレートの包みを開けていた女の手が、ピタッと止まる。

 

「俺と同じくらいの世代は戦災孤児ばかりだ」

 何と答えるべきか逡巡している様子で、フチノベ ミチルは黙っている。

 

「……孤児院では、なんて呼ばれて?」

「忘れた」

 咥えていた煙草の灰をアスファルトの上に振り落とす。

 軍に入隊した時から、孤児院でつけられた名前は呼ばれることはなかった。教える意味はない。

 会話が途切れたところで、改めて周囲を見回してみる。

 

「ところで、お前の家はどこだ」

 当初の目的は、フチノベ ミチルが実際に生活している住居を特定することだった。

 この女が何を考え、どう行動するかによっては、事前に住処を特定しておくことが重要だと思ったからだ。

 

「ホントにうちへ来たかったんだ?」

「違う」

 フチノベ ミチルは、こちらの意図は理解しているだろうに、知らぬ顔をする。そして、体ごと傾けて、ある建物を指差した。

 

「あそこです。上がります? 来ても何もないけど」

 黄土色の古ぼけた壁の、二階建て集合住宅。ディスクシリンダー錠で木製ドア。周囲の建物の中でも古さが際立っていた物件だ。

 

「あの建物に? 正気か?」

「二階の一番奥の部屋。家賃格安、2万円」

「正気じゃなかった」

 フチノベ ミチルが言う部屋は、ポストにチラシや郵便物が溢れている部屋の真上にある。

 いくらなんでも、どうしてそんな物件に住もうと思うのか。

 何を考えているのかわからない、何も考えていないのかもしれない。

 

 今日だけで普段の何十倍の濃さの時間が流れていて、頭が痛くなる。

 

「俺は今度こそ本当に帰る」

 フチノベ ミチルに背を向けて、来た道を戻ろうとした瞬間、シャツの袖をしっかりと掴まれる。

 布越しとはいえ、突然触れられた手の感触に驚いて、反射的に振り払おうとした。

 

「蠍が来たら」

 淡々とした口調で囁くような声。ひんやりとした黒い眼と視線が絡み合って、振り払おうとした手の動きを止める。

 

「すぐ教えて」

 わざわざ自分を追ってここまで来た、あの綺麗な顔の男と出くわして、そんな悠長なことができるかと言われると怪しい。

 

 なるほど、自分と蠍の潰し合いとは言い得て妙だ。狐に言われたことがいまさら面白くなってしまい、口元が緩んでしまった。

「生きてたらな」

「わぁ、やっぱ笑うと不気」

「黙れ」

 やはりこの女、失礼にも程がある。



 

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