1-3. しょうもない嘘

         *


 

 東京の冬は、故郷に比べたら寒くないと思った。

 一年前のあの夜に比べたら、全然マシだ。

 ネットニュースで見た天気予報では、今年の冬は暖冬だと書いてあったので、本来の寒さではないのだろう。

 

 アスファルトの上では、人々が夜でも昼でも行き交う。

 その中で人間が一人増えたり減ったりしたところで、誰の気にも留まらない。

 

 集団の無関心は便利で、誰にとっても都合がいい。誰の記憶にも残らない代わりに、防犯カメラが記録している。

 だが、それも新しいデータが増えれば消えていく。


 それでも確実に、距離を離しても食らいついてくる存在がいる。

 和食料理の店を出てから、ずっと尾けてきている。


 ――最初は、クガとやらの手下かと思った。

 しかし、それにしては気配の消し方が見事で、よほど注意して察知しないと、見つからない。

 

 まるで、訓練を受けた兵士のような。


 クガが、成果を上げない手下に業を煮やして、手練れを連れてきたのかもしれない。


 そんなことを思いながら、繁華街の細まった路地をジグザクに進む。

 そうしながら、身を隠しやすそうな雑居ビルを探す。

 

 栄えているビルと寂れているビルが隣り合っているのを見ると、商売というのは立地だけの話ではないのだと思う。

 

 寂れている方のビルに入り込み、廊下に何故か散乱している段ボール片を踏みながら非常口のドアに向かう。

 ドアノブを回した瞬間、ビルの入り口に気配がした。もう追いつかれたのだ。思わず舌打ちが漏れた。

 

 非常階段を二段飛ばしで上り始めると、背後にカンカンと甲高い音が聞こえてきた。

 

 ヒールの高い靴の音。

 

 歩幅は一段飛ばしだったのが疲れてきたのか、一段ずつ上る音に変わっていく。

 

 上には逃げ場がないのに登る、ということは、待ち構えられても構わないという意思か。

 さすがに無策でここまできているとしたら、浅はかすぎる。

 

 屋上につながる、南京錠一つしかかかっていないスチールの柵の扉の前で、扉に背を向けてステップに腰かける。

 

 息を切らして、気配を殺すこともままならないヒール音の主は、階段の手前の踊り場で、両膝に手をついて地面に頭を下げている。

 息苦しそうに。

 

 そして、自分が思うにはゆっくりと、当の本人からすれば急いでだろうが、頭を上げてこちらを見た。


 一年と少し前に見た姿とさほど変わらない、その佇まい。

 長い黒髪と血色の悪い肌、街の明かりを反射する真っ黒い瞳の若い女。

 

 フチノベ ミチル。

 この姿を二度と見たくないと思っていたのに、結局こうなったか、と溜め息も出る。


 目が合ったとわかると、フチノベ ミチルはにっこり笑って見せた。

「お久しぶり」

 そして一年前と同様、英語で話しかけてきた。

 

「前会ったことあるんですけど、覚えてます?」

 顎にまで汗が垂れて落ちてきても構わず、顔をしっかりこちらに向けていた。

 こちらの一挙手一投足を、見逃さないようにしている。

 

 これは警戒ではなく、情報を掬い取ろうと必死な眼差し。

 居心地の悪い視線に苛立ちながら、胸ポケットから煙草の箱を出す。

 

「ご無事で何より。また、お会いできて良かった」

 覚えていると答えていないのに、フチノベ ミチルは覚えている前提で話を続けている。

 否定も肯定もしなかった自分が元凶なのだが。

 

「俺は会いたくなかった」

 煙草に火をつけ、吸い込んでから日本語でつぶやいた。

 

「日本語勉強してたんです?」

 こちらが日本語を喋ったことに気づいて、目を見開いて驚きを隠さない。

 

「もともと喋れる」

「おん? あの時も?」

 フチノベ ミチルは、気の抜けるような声を漏らす。

 

「そういうのは早く言ってくださいよね、そしたらもっとスムースに」

「そうやって日本語で絡まれると思ったから、言わなかったんだ」

 ぶつくさ言われているのも面倒なので、適当にあしらうしかなかった。

 

「どうして追いかけてくる」

 語気を強くするつもりはなかったのだが、この言い方は質問ではなく詰問だった。

 

 フチノベ ミチルはスッと真顔になると、小さく息を吸い込んだ。

「あなたが逃げるからですよ。とりあえず、今は再会を喜ぶところでしょ」

 そう言って、口元を笑う形に歪める。作り笑いするための所作だ。

 

 追いかけるのは尾行をまこうとしたからだ、と女は言う。

 だが、こちらが聞きたいのはそういうことじゃない。


「知り合いのジャパニーズマフィアを駆使してまで追うのは、どういう目的だ」

 試行できるありとあらゆる手段を使って、日本へ来た自分のことを探ろうとしていることについて、だ。


「私の幼馴染のお父さんなんですよ。親の代から付き合いがある」

 フチノベ ミチルは作り笑いのまま、そう返す。

 

「俺の忠告は忘れたか」

 フチノベ ミチルは、あの時のことは日本に戻ったら全て忘れろ、と言ったはずだ。

 少なくとも、何もしないように釘を刺した。

 

 女は目を細めて、柔和に微笑んだ。

「忠告ですよね、命令じゃない」

 瞬間、ピリッとした空気に変わる。

 表情はとても穏やかなのに、漂うものはあまりにも重たい。

 口を開くな、と言わんばかりの圧力すら感じる。

 

「詭弁だ」

 何を言っても聞こうとしない女の頑固さに、煙草のフィルターを噛む。

 まるで自分の方が、余計なことを言ってしまったと錯覚するような空気だ。完全にペースを巻き取られている。

 

 煙草の灰を手摺の隙間から振り落とすと、風に煽られた灰が街の上に散っていく。

 

 真っ直ぐこちらを見つめてくる瞳から、視線を逸らす。

 フチノベ ミチルの向こう側にある、雑多な街並みを見た。

 

 冷え冷えとした気温を感じる、湿気のない風。

 無数の車列の灯りが光の道を作り、背の高いビルが煌々とそびえ立ち、地面と夜空の境目は光に照らされて白んでいる。

 

 

 当然だが、あの車の窓から見えた夜空とは、別物だった。

 故郷の空は寒くて、空気が澄んで星が綺麗に見えていた。

 何の星座の、何という星なのかも知らない光が点々と連なっていた。

 

 思い出と言えるほど古くもない記憶。

 焦げ臭い臭いと死臭混じりの光景。

 

 ――自分がもう二度と見ることはないだろう、故郷の空。


 

「……あなたは日本に、何をしに来たんですか」

 フチノベ ミチルの言葉は疑問形ではなく、問い詰める語尾。

 先ほど自分が女に対して発した言い方と同じで、責められなかった。

 

 ごく真っ当な質問に、どう答えようか、頭を巡らせた。

 そして出した答えは、

「観光」

 だった。

 

「びっくりするほど悪びれなく嘘つく」

 フチノベ ミチルは、苦笑いを噛み殺していた。

 

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