第5話

新暦1527年8月18日。


特務中隊長室の執務机は、羊皮紙の山に埋もれていた。

報告書、兵員リスト、そして今、私が頭を抱えている軍務庁施設局に提出するための厩舎設置要望書。

インクの染みと格闘しながら、普段使い慣れない時候の挨拶や、回りくどい定型句に眉を寄せていると、指先まで凝り固まってくるようだ。


「書類、書類、書類・・・。一体これは本当に中隊長の仕事なのか? 書記官の仕事ではないのか?」


ペンを叩きつけるように机に置き、私は盛大にため息をついた。

剣を振るい、槍を構えていた方がよほど性に合っている。

だというのに、中隊長という立場は私をこの机に縛りつけるばかりだ。


「なあ、ヨレンタ。貴殿もある程度は読み書きができるだろう? この厩舎の要望書、書いてくれないか?」


愚痴混じりにそう言うと、向かいの席で同じく書類の山と格闘していたヨレンタが顔も上げずに淡々と言った。


「無理ですね。領民が鼻水垂らして納めた税金で、贅沢ついでに高価な教育を受けられた貴族様とは違いますので。その程度の仕事は、民を守る貴族の義務というものでしょう」

「鼻水って・・・、あんなに本を読んでいるのにか?」


私の素朴な疑問に、ヨレンタは初めて帳簿から顔を上げた。


「確かに書類仕事に励むご立派な貴族様のおかげで、平民の私には到底手の届かないような高価な本を、毎日飽きるほど読ませていただいております。その点については、心から感謝していますよ」


そこまで言うと、彼女はふっと息を吐いた。


「ですが、物語を読んで文字の形を覚えるのと、いざ白紙を前にしてあの画数の多い漢字を思い出して書き出すのとではまったく別の話です」


その言葉に、私はぐうの音も出なかった。

この国では、誰もが文字を自由に読み書きできるわけではない。

貴族と平民の間には、生まれながらにして教育という見えない壁が存在する。

ヨレンタの冷静な指摘は、その事実を改めて私に突きつけていた。


「ペンが止まっていますよ、中隊長」


促され、私は再びペンを手に取った。

しかし、どうにも集中できない。

そんなとき、ふと窓の外から聞こえてくる喧騒に気づいた。

第一連隊兵舎に満ちているのは、普段は張り詰めたような静寂と規律の音だけだ。

だが、今日の騒がしさはどこか種類が違う。


来客のようだ。


書類仕事から逃れたい一心で、私は椅子から立ち上がり、窓辺へと向かった。

窓から外を窺うと、見覚えのある一行が物々しい雰囲気でこちらへ向かってくるのが見えた。

掲げられている連隊旗は、第二連隊のものだ。

先頭を歩いているのは、第二連隊連隊長ミレナ・エンケル大佐。

その両脇を固めるのは、第一大隊大隊長エレオノール・ニーストレム中佐と、第二大隊大隊長アウスディース・フンフフン中佐。

いずれも歴戦の勇士として名高く、第二連隊の顔とも言うべき面々である。


彼女たちを迎えに出ているのは、第一連隊の第一大隊大隊長エリン・オルソン中佐と、第二大隊大隊長エリス・ベックストレーム中佐。

だが、その表情は、歓迎の名にそぐわないほどの硬さを帯びていた。


来月9月15日に予定されている第一連隊と第二連隊の大規模合同演習。

その最終的な打ち合わせのために、彼女たちはわざわざ第二連隊兵舎から足を運んできたのだ。


だが、その場の空気は共同で一つの目標に臨もうとする者たちのものとは程遠い。

とりわけミレナ連隊長の表情は険しく、その瞳には隠す事を忘れたかのような露骨な不機嫌が滲んでいた。


無理もない。


姉上(第一連隊長イングリッド・ハイザ)と、その腹心たる連隊副官ラーニャ・ステン中佐は、明後日8月20日から第二王妃ヘンリエッタ様の護衛任務のために王都を長期間離れることになっている。

目的地はステインヴィーク侯爵領、帰還予定日は9月13日だという。

すなわち、演習準備が本格化するこの重要な時期に第一連隊の最上級指揮官二人が不在となる。

実質的に両連隊の幹部が顔を揃えて協議できるのは、今日と明日の二日間しかない。

この日程こそが、ミレナ連隊長の機嫌を損ねている最大の理由だろう。


護衛任務そのものに異議があるわけではあるまい。


だが噂によれば、ミレナ連隊長はこの合同演習そのものに懐疑的な見解を抱いているらしい。

ユサール王国を取り巻く情勢は、決して平穏とは言えない。

北のアブラカワ人民共和国、東の大津国といった隣国との間には常に緊張の火種が燻っている。

特に大津国では最近になって大規模な徴兵が開始されたという不穏な情報が、軍務庁にもたらされていた。

そうした状況下で、国境付近での演習によって敵国を牽制するのならば理解できる。だが、国境から700kmも離れたこの王都で、しかもわざわざ大規模な演習を行う意義とは一体何なのか。

ミレナ連隊長の疑問は、軍人として至極もっともなものだった。


「大隊長の方々に、お会いにならないのですか?」


背後からかけられた声に、私は現実へと引き戻された。

ヨレンタは私がミレナ連隊長に会いたくない理由を知っているくせに、わざと意地の悪い質問を投げかけてくる。


「会ってどうするんだ? 私の不甲斐なさでもご報告しろと?」


吐き捨てるように言い、私は窓から身を離して執務机の椅子に深く沈み込んだ。

特務中隊長に就任してから、もうすぐ一月。

私は私なりに、中隊長としての職務をまっとうすべく努力してきた。


なんとか馬の確保には成功したが、それとてハイザ家の名を使い馬政庁に無理を言って融通してもらったに過ぎない。

だが肝心の厩舎は手配できず、結局は第一大隊の厩舎の片隅を間借りしているのが現状だ。


第一大隊の兵舎は王都の外れにある。

有事の際には使い道もあるだろうが、平時の訓練においては結局この第一連隊兵舎にいる47頭の馬を、百人の中隊で使い回しているにすぎない。


これには、第二小隊長のあのアラウネ・ヴァッシェンが黙っているはずもなかった。『満足に馬も用意できん七光りが!』という彼女の怒声は、練兵場だろうが食堂だろうがお構いなしに兵舎の至る所から私の耳に痛いほど届いてきた。

その結果、特務中隊は満足な馬術訓練ができないばかりか士気は地に落ちていた。


「私に士官の才能はないな」


ぽつりと漏らした私の弱音に、ヨレンタは間髪入れずに同意した。


「無いですね」

「はっきり言うな、貴殿は」

「事実ですから。ですが、それよりもです。できない事を嘆くより、できる事をすべきでしょう。これ以上の士気の低下は、中隊の崩壊に繋がりかねません」


「第一小隊は問題ないだろう。あのアニカ・ベルグリンドは、よくやっていると聞く」

「そうですね。アニカ小隊長は、実によくやっています」


ヨレンタは帳簿から顔を上げず、淡々と続ける。


「小隊というのは、隊長の気風を色濃く受けるものです。第一小隊は隊長に似て賢く、現状をよく理解しています。それに、そもそも小隊の関心事は訓練よりも、小隊長の恋愛事情に向いているようでして。それが結果的に士気というよりは奇妙な結束力を高めていますが、軍隊組織としては問題かもしれませんね」


「分かる話だ。知ってるか? アニカ小隊長と恋人のミハイル殿は、小隊長が暴女に襲われていたミハイル殿を助けたのが出会いのきっかけらしいぞ」


「ええ、有名な話ですね」

「今日日、歌劇でもそんな陳腐な展開は見ないというのに凄いじゃないか」


私の興奮ぶりに、ヨレンタは心底呆れたというように肩をすくめた。


「その話題で盛り上がったのは去年の話ですけどね。最近はもっぱら、お二人の恋の行方が話題の中心です」


「身分の違いか?庶民とはいえ、騎士爵があればアシュワース家も不満は無いだろう。アニカは私に劣るが顔も悪くないし、私よりは賢い」


ヨレンタの眉がぴくりと痙攣し、その整った顔が僅かに引きつった。


「どこからその自信が湧いてくるのか。まあ、貴方の顔がいい事は認めますし、アニカ小隊長が貴方より賢いのもそうです。ですが、そういう話ではなくミハイル様は病弱でして。最近は特に、お屋敷にこもりがちだと伺っております」

「そうなのか!?」

「貴族様とは噂話が好きな生き物のはずですが、どうして中隊長はそうも一周も二周も情報が遅れているのですか」


ヨレンタの容赦ない指摘に、私はばつが悪そうに視線を逸らした。


「そういえば、貴方は休日でも中隊長室に籠っておいでですね。ひょっとして、私以外にご友人がいないのですか?」

「馬鹿を言うなこの書類の山を見てみろ、この仕事量で休みなどあるものか」

「その割には、一向に進んでいませんが」

「いや、私のことはいい!それに小隊長の色恋沙汰もだ。問題は第二小隊だろう。あの猪はどうしたらいいんだ」


私は話を逸らすように声を荒げた。ヨレンタは涼しい顔で言葉を返す。


「猪どころか、第二小隊は隊そのものが柵を突き破った猪共の集まりですよ。血気盛んで、今にも何かに突進しそうです」

「あの手の輩は故郷にも多いからよくわかる。あれは“前線症候群”だ」

「前線症候群?聞かない言葉ですね」

「戦場が忘れられない連中の事だ。戦い続けなければ、自分の存在意義すら見出せない。戦うために生まれ、戦うために生きてきた。そういう連中だ」


「なるほど。でしたら、戦ってさしあげたらよろしいのでは?」


ヨレンタの思わぬ言葉に、私は眉をひそめた。


「なんだって?」

「戦いが望みなら貴方が戦ってさしあげたらいい、と申し上げたのです。当面、馬不足という厳しい現実からは目を逸らすことができるのではないでしょうか?」


「なんでそうなる」


「あの猪ことアラウネ小隊長を、貴方が完膚なきまでに叩き伏せれば、彼女の有り余る闘志は今度は貴方を倒すという新たな目標に向かうでしょう。そうなれば馬術訓練ができない不満よりも、槍や剣術の訓練に精を出すはずです。当然、彼女の小隊もそれに巻き込まれますから、隊全体の不満の矛先を逸らすことができます」


「そんな無茶苦茶な」

「私は、そうは思いません」


その鋼色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「私は確かに、貴方には士官の才能はないと思っています」


その言葉は、いささかも揺るがなかった。


「ですが、槍でも、剣でも。武において、貴女はこの王国で最強だと、私は信じています。だからこそ、知恵で足りない部分を補う役として、私を副官に選んだのでしょう?ならば、その“最強”という事実を、あの猪にも見せてあげてはいかがですか?」


「それは褒めているのか?」

「ええ、もちろん」


きっぱりと、ヨレンタは頷いた。

私は深い、深いため息をついた。

彼女の言う通りだ。

私は指揮官としては半人前以下だ。

書類仕事も根回しも政治的な駆け引きも何もかもが苦手で、ヨレンタに頼りきりだ。

だが、ひとたび剣を握れば話は別だ。

この腕だけは、誰にも負ける気がしなかった。


「分かった、やろう」


そう言って私は書類仕事を投げ出して、中隊長室を飛び出した。

ヨレンタが何か叫んだ気がしたが、あえて聞かないふりをした。


第一連隊兵舎の西側に位置する練兵場は乾いた土の匂いとぶつかり合う木剣の鈍い音、そして荒い息遣いに満ちていた。


特務中隊第二小隊。


その隊員たちは隊長であるアラウネ・ヴァッシェン小隊長の号令の下、汗まみれになって訓練に打ち込んでいる。

馬術訓練ができない鬱憤を、すべてぶつけるかのように誰もが鬼気迫る表情で木剣を振るっていた。


ユサール王国にとって、馬とは単なる家畜ではない。

建国王カイトが天上の世界よりもたらした、王国の力の源泉であり誇りそのものだ。

特に王妃近衛重装長槍騎兵という、王国軍最高の名誉を冠するこの部隊に所属する者たちにとって、馬への想いは格別だ。

彼女たちの多くは、疾駆する騎兵の勇姿に憧れ、愛馬と共に戦場を駆ける事を夢見て軍人になったと言っても過言ではない。

苦しい新兵訓練に耐え、血の滲むような努力を重ね、ついに掴んだ王妃近衛の騎士という栄光。


それは、すなわち自由に馬を駆る権利を手にした証でもあったはずなのだ。

だというのに、現状はどうだ。

与えられたのは、美人な指揮官の不手際による馬不足という理不尽な現実と、ただ地面を踏みしめるだけの退屈な日々。

そのやり場のない怒りと失望が、彼女たちを突き動かしていた。


その中心で、一際大きな雄叫びを上げながら両手剣を振るっているのが、アラウネその人である。

筋骨隆々とした彼女の身体から繰り出される一撃は、訓練用の木剣でありながら凄まじい風切り音を立てていた。


「おやおや、これはこれは。七光りの中隊長様のご登場とはね! お嬢様の訓練ごっこか、それとも観戦かい?」


私に気づいたアラウネが、下卑た笑みを浮かべて言い放つ。

その言葉に、第二小隊の兵士たちの視線が一斉にこちらに突き刺さった。

敵意、侮蔑、好奇心、さまざまな感情が混じった決して好意的とは言えない視線だ。

私はアラウネの挑発を意に介さず、彼女を素通りして訓練用の武器が並ぶ棚へと向かう。


「貴公には、実に申し訳ないと思っている」


静かな声で告げると、アラウネは意外そうに眉をひそめた。


「なんの話だ?」

「満足な訓練環境を用意できていない事だ」

「なんだ、ようやく自覚できたのか?七光りにしては上出来じゃないか」


私は棚から頑丈な円形の木盾と片手用の木剣を手に取った。


「ヨレンタによれば、貴公と私はよく似ているらしい」


アラウネの声に、明確な不快感がにじむ。


「正直、私自身も納得はしていないがな」

「珍しく、意見が一致したな」

「だが、実の所そう違わぬのかもしれん」


アラウネは両手剣を肩に担ぎ、面白そうに口の端を吊り上げた。


「どの辺がだ? 言ってみろ」

「頭をこねくり回すより、身体を動かす方が性に合っているという点だ」


木剣をアラウネに突き付ける。


「満足な訓練を与えられなかった非礼の詫びだ。代わりに私が直々に鍛えてやる」

「直伝の稽古とは恐れ入ったねぇ! そいつはさぞかし、ハイザ家直伝の御大層なもんなんだろうな? 私を失笑させるなよ!」


アラウネが吼える。

その声に応えるように、第二小隊の兵士たちが鬨の声を上げた。

まるで闘技場の剣闘士でも見るかのような、野蛮な熱気が練兵場を包み込む。


私は深く息を吸い込み、左腕に木盾を手際よく装着する。

革のバンドを力強く締め付け、盾が腕と一体となる感触を確認すると挑発するように眼を鋭くし、無言で「来い」と宣戦の意を示した。


その瞬間、アラウネは全身の力を込めて地面を蹴り上げた。

一歩踏み出すだけで、練兵場の乾いた土が砕け、砂塵が舞い上がる。

猛然と突進する彼女は、私の手に握られた木剣を嘲笑うように睨みつけ、激怒の咆哮をあげた。


「その頼りねぇ木剣で挑むつもりか!?実剣もなくして私と戦えると思ってんのかッ!?ままごとならすぐに引け、中隊長ッ!!」


私は冷ややかな笑みを浮かべ、ただ静かに挑戦を受け入れる態度を示す。


「木剣か、そうだな。持ってみたが使う事があるといいな小隊長」


私の挑発にアラウネの顔は怒りに赤く染まり、更なる激情で突進の勢いを増した。

その勢いはまるで城壁を粉砕する破城槌のごとく、あらゆる物を押し流すかのようだ。

彼女が放つ大剣の振り下ろしは、斬撃とは思えないような巨大な鉄塊が落下するような威力を伴い、まともに受ければ木盾ごと私の左腕は使い物にならなくなるだろう。


だが、動じる事はない。


重心を極限まで低く構え、一撃の瞬間を黙々と待つ。

右手に木剣はまだ握られているが、今日の戦いでは盾のみが私の意思を伝える武器だ。

轟音とともに迫る大剣。

その軌道を冷静に見極め、盾をわずかに傾ける。

盾の湾曲した縁が、振り下ろされた剣の側面を捉えると、木と鉄が擦れ合う甲高い軋みが練兵場に響く。


ズシャァッ!


剣先が逸れ、空を切り裂く。

受け止めるのではなく、彼女の力をそのまま流し無に帰すのだ。


「なにぃ!?」


勢いを失い、体勢を崩したアラウネの驚愕の叫びが場内に轟く。

その隙を見逃すことはなかった。

私は流れる勢いを逃がすと同時に体ごと回転し、次は横薙ぎに振るわれた剣を盾の中心、硬い鉄製の突起部で真正面から弾き返す。

ゴッ、と鈍い衝撃音が響き、アラウネの巨体がまるで岩壁に激突したかのように揺れた。


「ぐっ!?」


予想をはるかに超える反撃に、アラウネの表情は驚愕から激しい苦痛へと変わる。

これまで、盾をこれほど攻撃的かつ効果的に利用された経験が彼女にはないのだろう。

盾とは単なる防具ではなく、攻防一体の武器。

相手の攻撃エネルギーを倍返しにして打ち返す、究極のカウンターなのだ。

私は剣に頼らず、左手の盾だけでアラウネの猛攻を静かに捌き続ける。

彼女の一撃一撃の衝撃を足裏で大地へ逃がし、そのエネルギーを盾に蓄え、的確に跳ね返す。

時には盾の縁で剣の軌道を逸らし、時には盾の広い面で彼女の体勢を崩させる。

そして、わずかに生じた隙に盾の鋭い角を容赦なく彼女の顔面や剣を握る手首へと叩き込んでいく。


防御しているはずなのに、次第にその反撃は積み重なりダメージだけが確実に蓄積される。

理解しがたい現実を目の当たりにし、アラウネの焦燥は手に取るように明らかとなった。

呼吸は荒く冷静さを失った彼女は、ただ力任せに剣を振り回す獣のように変貌していく。

盾は、単なる防具ではなく守りの要であると同時に相手の攻撃を殺し、自らの攻撃へと転換する起点。

盾術の神髄は、相手の力をいかに利用するかに尽きる。


それを、私はこの猪に骨の髄まで叩き込んでやる覚悟だ。


武人として剣を使われないのはさぞ屈辱的な事だろう。

業を煮やしたアラウネが、獣のような咆哮と共に、渾身の力で両手剣を振りかぶった。

最後の一撃に全てを賭けるつもりだろう。


私はその動きを冷静に見据え、半身になってその一撃をいなす。


がら空きになった胴体。

その中心、鳩尾へ向けて、私は一直線に盾を突き出した。


盾が、風切り音を置き去りにしてアラウネの鳩尾に突き刺さる。


「がゥはッ!?」


蛙が潰れたような、くぐもった悲鳴。


アラウネの巨体が"く"の字に折れ曲がり、その手から鉄の大剣が滑り落ち甲高い音を立てて地面に転がった。

彼女は両膝から崩れ落ち、ぜえぜえと苦しげに喘ぎながら信じられないものを見る目で私を見上げていた。

私は、そんな彼女を冷たく見下ろした。


「持ってみたが木剣を使うまでも無かったな、小隊長。貴公の強さは本物だが・・・、脆い。全てを一撃に賭けるその戦い方はあまりに正直すぎるな。大振りな攻撃は読みやすく対処も容易い」


私は右手の木剣を軽く振って見せる。


「そして、盾の価値を侮りすぎたな。これはただの防具ではない。相手の攻撃を受け流し体勢を崩し、時にはこうして剣よりも確実な一撃を与える武器にもなる」


戦いとは、力のぶつけ合いだけではない。駆け引きと、知恵と、そして相手の力を利用する術を知ってこそ、真の強者となれるのだ。


「その猪突猛進の勇猛さ、無駄にするな。基本から鍛え直すがいい」


ヨレンタの言った通りにやったが、少しやりすぎたかもしれない。

アラウネの私を見る目は怒りを通り越して修羅のそれだ。


内心反省したその瞬間だった。


「あらぁ? なんだか面白い事してるじゃないのぉん?」


場違いなほど甘く伸びやかな声が、練兵場の熱気を一瞬で凍らせた。

声のした方に視線を向けると、そこに立っていたのは姉上だった。


「姉上ッ!? あ、いえ、イングリッド連隊長!」


私は咄嗟に動きを止め、敬礼した。

アラウネも、そして周りを取り囲んでいた第二小隊の全員が弾かれたように姿勢を正し一斉に敬礼する。


「やだぁ、お姉ちゃんって呼んでくれなきゃ拗ねちゃうわよぉん」


イングリッドはそう言うと、片目を瞑って舌をぺろりと出す。

そのあまりにも場違いな仕草に、私は内心で『えぇ・・・』とドン引きする。


「いえ、職務中でありますので。連隊長こそ、第二連隊との合同演習に関する会議の最中では?」

「んー? 抜け出しちゃった」


悪びれる様子もなく、姉はそう言ってのけた。


「ねね、シグリッドちゃん!お姉ちゃんはね?みんなが言うほど賢くないのよぉ・・・。シグリッドちゃんと一緒。貴方にヨレンタちゃんがいるように、あてぃしにはラーニャがいるの。難しい事ぜーんぶ、ラーニャに任せて、あてぃしは」


そこで、イングリッドの纏う空気が一変した。

甘く蕩けるようだった雰囲気が霧散し、剃刀のような鋭利な気配が迸る。

琥珀色の瞳の奥に、底知れない光が宿った。

全身の肌が粟立つのを感じる。


「全て、斬り伏せるだけよ」


冷たく、静かに響いたその声は、絶対的な強者のそれだった。

イングリッドは氷のような視線を、今度はアラウネに向けた。


「ところで、アラウネちゃん?」

「ハッ!」


「あてぃしの可愛い可愛い、シグリッドちゃんを、ずぅぅいぶんど舐めちゃってたわね? 舐めていいのは、このあてぃしだけなのに」

「い、いえ、その、これは訓練でありますので!」


「いいのよぉん。さっきの打ち合いで、よーく分かったでしょ? 貴方じゃあ、シグリッドちゃんの足元にも及ばないわ」


イングリッドの言葉に、アラウネは悔しそうに顔を歪める。

納得がいかない、という感情が全身から滲み出ていた。


「連隊長、そのような言い方は」


私の制止も聞かず、イングリッドは楽しそうに笑うと、近くの棚から私と同じように木剣と木盾を手に取った。


「シグリッドちゃん、見ない間に強くなったわね。でも、相手が弱くちゃ、シグリッドちゃんの訓練にはならないわ。だから、このお姉ちゃんが直々に稽古をつけてあげる」


その言葉が発された瞬間、姉上の姿はあっという間に消え失せた。


いや、正確には"消えたように見えた"。


私と姉上の間は、もともと五十メートルほどあるはずだった。

しかし彼女は、その距離をただの一歩で粉砕してしまった。


「なっ!?」


地面を蹴る激しい轟音とともに、姉上が猛然と私の懐へ飛び込んできた。

木剣を横一閃に振るうその動きは、常識を遥かに超えた速さを誇っていた。

咄嗟、私は盾を構え一撃を受け流すがガギンという鈍重な衝撃が左腕に走り、痺れを覚えさせられた。


受け流しきれない。


だが、姉上の攻撃は止まらない。


横薙ぎの勢いをそのままに、彼女はまるで回転するコマのように鋭く旋回し、流麗な回し蹴りを繰り出す。


次の瞬間、私は木剣を振り上げ、姉上の蹴りをかすめようと試みる。

しかし、姉上はその速さをも活かし宙を舞いながら美しい一回転を決め、軽やかに足元へ戻る。


「すごーい! すごいのよぉ! シグリッドちゃぁん、思ってたよりずぅぅぅぅっと強いわぁ!あはぁ!! こんなに嬉しい事ないわ!」


その狂おしい歓声とともに、姉上は狂乱ともいえる笑みを浮かべ、戦場の中央でくるくると舞い始めた。

普段は余裕をたたえ、すべてを見通す威厳ある姉上が、今は戦いの快楽に溺れ、まるで無邪気な子供のように楽しんでいる。

その微笑みと、どこか無邪気な殺意を伴う眼差しが、私に奇妙な恐怖と絶望を同時に植え付ける。


「ムチを入れるわ!」


姉上の動きがさらに加速する。

視界から輪郭が消え、ただ空気を裂く鋭い音だけが、絶え間なく耳を打つ。

上下左右、あらゆる空間が姉上の剣に占められ、私は見えぬ刃の檻に閉じ込められたようだった。

木剣と木剣がぶつかるたびに走る衝撃が、腕から全身を貫く。


一撃ごとの威力はそれほど強くない。


だが、姉上のその尋常ならざる速度は確実に私の体勢と呼吸、思考を削っていく。

上段から振り下ろされた一撃を盾で受け流し、反撃の突きを繰り出そうとしたときには、姉上の姿はすでにそこにない。

代わりに足元を掠める斬撃が届き、それを弾けば今度は背後から盾を狙う一撃が迫る。


一息のあいだに飛び交う連撃は、三つや四つでは数えきれない。

私はただ、目前の剣閃を捌くのに精一杯だった。

一瞬でも気を逸らせば、守りは簡単に崩れる。


攻防はもはや舞ではない。


刃の上で踊るような、生と死のぎりぎりの応酬に変わっていた。

姉上の瞳は無邪気な喜びに輝き、私は滲む汗を拭う余裕すらない。


その均衡が、ついに崩れた。


姉上の突きを盾で外へ逸らした、その瞬間。

私の内側へ、姉上が踏み込んでくる。

まるでこちらの動きを予見していたかのようだった。


やられるッ!?


そう思ったときにはすでに、腹部に強烈な蹴りが叩き込まれていた。

私は後ろに吹き飛び、肺から空気が一気に押し出され、視界が揺れる。


その隙を姉上が逃すはずもない。


死を覚悟したそのとき、私は思考よりも速く動いていた。

本能が身体を突き動かす。

自ら体勢を崩し、背中から地に倒れ込む。

地面に叩きつけられた反動を殺さず、そのまま右足を上へ突き出した。


姉上の胴を、足裏で蹴り上げる。


彼女の顔に、初めて驚きの色が浮かんだ。

とっさに後方へ跳んでかわす。

その一瞬の隙を逃さず、私は地を蹴って跳ね起き、体勢を立て直した。


「イングリッドッ!!!」


鼓膜を破らんばかりの怒声が、練兵場に響き渡った。

声の主は、連隊副官のラーニャ・ステン。

鬼の形相で、こちらにずんずんと歩み寄ってくる。


その声に、私とイングリッドは弾かれたように後ろへ跳び、再び剣を構えた。


「もうバレちゃった。あてぃし、今いいところだったのにぃ」


「いいところ、ですって!?私だってまだ、シグリッド様とおままごと・・・。いえ失礼。イングリッド連隊長!」


おままごと・・・?


「貴女という人は!第二連隊の方々をお待たせして、一体何を遊んでいるのですか! 会議の途中で抜け出すのも大概になさい!」


ラーニャは有無を言わさぬ勢いでイングリッドの首根っこを掴むと、そのまま引きずっていく。


「いやぁん、ラーニャのいじわるぅ!シグリッドちゃん、また今度ゆっくり遊びましょ。次はもっと、もぉっともぉぉっと楽しいことしましょぅねぇ!」


ひんひんと謎の擬音を発しながら泣き真似をする姉上は、ラーニャに引きずられて連れていかれた。

私とアラウネ、そして第二小隊の面々はただ呆然と見送るしかなかった。

嵐が去った後の練兵場には、気まずい沈黙だけが残された。

最初に口を開いたのは、アラウネだった。


「中隊長殿。いや、シグリッド殿! この私とした事が、とんだ見当違いだったようだ! すまなかったな、詫びる!」


彼女は、深々と頭を下げた。

その潔い態度は、彼女が根っからの武人である証拠なのだろう。

そして顔を上げると、今度は興奮を隠しきれないといった表情で、目を輝かせながら続けた。


「だが、それにしてもだ! とんでもねぇな! あの連隊長閣下と正面からやりあって、一歩も引かねぇとは! あれはもはや訓練などという生易しいもんじゃない、神話の戦そのものだ! ちくしょう、これじゃあ私の出る幕はねぇ! 見事だ、シグリッド殿ッ!!」


第二小隊の兵士たちも頷いている。

彼らの目には、先ほどまでの侮蔑の色はなく、ただ純粋な尊敬と興奮だけがあった。ヨレンタの狙い通り、第二小隊の士気は回復しただろう。


だが、私の中にその言葉は空虚に響くだけだった。


互角? とんでもない。

あれが互角に見えたというのか。


冗談ではない。


姉上は言葉通り、ただ私と遊んでいただけだ。

あの底なしの強さ。

あれこそが、王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊連隊長、リンゲン伯爵イングリッド・ハイザ。

私の姉にして、本当の王国最強と呼ばれる女性の姿なのだ。

もし姉上が本気を出していたら、私は一撃で終わっていたに違いない。

あれは戦いですらなかった。

ただの、圧倒的な強者による戯れだ。


つい先ほど、私はアラウネに「基本から鍛え直すがいい」などと、偉そうに言い放った。

盾術の神髄がどうのと、知ったような口を利いた。

なんという驕りだったのだろうか。

私は、自分の足元すら見えていなかった。


王国最強とヨレンタは私をそう呼んだ。

だが、それはあまりにも皮肉に聞こえる。


私ではない。


この未熟で、驕り高ぶった、半人前の私では断じてない。


絶望的なまでの差を、骨の髄まで思い知らされた。

強くなりたいのではない。

強くならなければ、姉上の隣にすら立てない。

私の心に、初めて本当の意味での焦燥と、そして恐怖が深く刻み込まれた。

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