第4話
第一連隊に異動してから、気づけば三週間が過ぎようとしていた。
ようやく与えられた中隊長室にも慣れ、殺風景だった部屋には少しずつ物が増え始めている。
しかし、そのほとんどは書類の束ばかりだ。
もはや書類が主で、私が居候なのではないかとすら思えてくる。
「それにしても、嫌な感じですね」
向かいで書類の山と格闘していたヨレンタが、ふと手を止め不意に呟いた。
「何がだ? この書類の山の事か? 全くだ、私もそう思う」
「演習の話です」
的外れな返答に、ヨレンタは視線を書類へ戻し淡々と続けた。
「お忘れですか?大規模な演習が決定したでしょう?第一、第二連隊の第一、第二大隊が参加する。これほどの規模の演習は決して珍しいものではありません。問題は、その時期です」
ユサール王国の常備軍、すなわち職業軍人の数は大陸でも類を見ない約6万人とされている。
そのうち、王都スタルボルグとその直轄領には約24000人が駐屯している。
この数だけでも、並の国家なら容易に攻め滅ぼせるほどの戦力だ。
さらに、国家存亡の危機ともなれば全諸侯領で総動員がかかり、その兵力は十数万にも達すると試算されている。
とはいえ、そこまでの規模となれば兵站が追いつかず、統率も難しくなるだろうが。
今回の演習に参加するのは、王妃近衛重装長槍騎兵の第一連隊と第二連隊。
それぞれの第一大隊、第二大隊が動員されるため、単純計算で約4000の兵士と馬が一堂に会する事になる。
このような大規模演習は決して珍しいものではない。
むしろ、大部隊を連携させ指揮系統を高度に機能させる事で部隊を意のままに動かす。
その練度の高さこそが、我がユサール軍の神髄なのだから。
問題は、そこではない。
「姉上が不在の時期に、って事か?」
「その通りです」
ヨレンタの短い肯定が、私の疑問を確信へと変えた。
「姉上たちの出発は20日だったな」
「はい。第二王妃のヘンリエッタ様の護衛としてステインヴィーク侯爵領へ。例の四天王も同行するそうです」
第二王妃の護衛任務には、姉上の腹心である「四天王」も同行するという。
筆頭は事実上の副連隊長でもある副官ラーニャ・ステン 。
そして残りの三名は、ラーニャが率いる特殊遊撃部隊の小隊長たちだ 。
王都からステインヴィーク侯爵領までの750kmもの長旅では、王妃が暗殺される危険も決して小さくない。
王国の歴史において、遠征途上で王妃が襲われた例は枚挙にいとまがないからだ。
ゆえに、この重要任務を姉上が自ら指揮するのは当然の処置と言えた。
だが、ヨレンタが懸念しているのはそこではなかった。
姉上と、その代理となるべきラーニャまでもが王都を離れ、第一連隊の指揮系統が最も手薄になる。
これほどの大規模な演習が、よりにもよってまさにその期間を狙って計画され、承認されている。
その異常さこそが問題なのだ。
何かを勘ぐるには、十分すぎる状況だった。
「私は一応貴族だが、政治には疎い。それに、難しい話は苦手だ」
「そうですね。貴族様が気にすべきなのは、それ以前の問題ですから」
はて、それ以前の問題?
ヨレンタは政治的な話よりもっと手前の、私自身に関わる問題を指摘している。
姉上が不在であることによって、私に降りかかる問題とは一体何だろうか?
そうだな・・・。
姉上は、紅茶を選ぶセンスがとてもいい。
どこから見つけてくるのか、茶菓子も常に一級品だ 。
特に先日いただいたクッキーは、まるで宝石箱のようにきらびやかで、舌の上でとろける絶品だった。
あれを当分いただけなくなるというのは、確かに由々しき問題だ。
私の士気に関わる。
その事だろうか?
いや待て、姉上の茶会にヨレンタは招待してなかったから、それを怒っているのか?
「お忘れですか? 我が隊も、その演習に参加するんですよ」
「そうだな。それがどうしたんだ?」
ヨレンタは呆れたように、わざとらしく深いため息をついた。
「馬が足りませんよ?」
「あー・・・・、そういえばそうだな。実際にどのぐらい足りないんだ?」
「現在、この第一連隊兵舎の厩舎にいるのは47頭ですね」
「中隊は100人いるんだぞ? 全然足りないじゃないか」
「えぇ、足りません。単純に頭数を揃えるだけでも53頭不足しています。しかし、騎兵は行軍中の負傷や疲弊に備え、予備の馬を連れていくのが常識です。一人につき二頭と計算すれば、必要な馬は合計で200頭。つまり、今いる47頭を差し引いても、新たに153頭を確保しなければならない計算になります」
ぶふぅっ!
思わず飲んでいた紅茶を噴き出してしまった。
「ひゃ、153頭だと!? そんな数の馬、この兵舎には到底入りきらんぞ! それに、なぜそんなに必要な馬がいないんだ! 上官はいったい何を考えて・・・」
「お忘れかもしれませんが、貴族様。貴方がその上官の中隊長ですよ?」
ヨレンタの冷ややかな一言が、鋭く胸に突き刺さる。
「貴方の特務中隊は連隊長直属のため、どの大隊にも所属していません。つまり、その153頭の馬と、それを収容する場所を手配するのは、すべて特務中隊長である貴方の仕事です」
私は唖然とし、言葉を失った。
顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
「そ、その数の馬をどうやって用意しろと? 第一、場所が・・・」
「ですから、それを考えるのが貴方の仕事です、シグリッド中隊長」
「えぇ・・・」
ヨレンタは冷静に続けた。
「この数週間、貴方がやった事といえば、新しい部屋をウキウキしながら模様替えし、先日破壊された扉の修理依頼に、そして二個小隊の視察だけしかしていませんでしたね。貴方の事だから、どーせ何も考えていないだろうとは思っていましたが」
ヨレンタはわざとらしく肩をすくめ、軽く溜息をつく。
そして、少しだけ間を置いたあと静かに言葉を続けた。
「本当に何も考えていなかったとは」
ヨレンタの正論に、ぐうの音も出ない。
私は恐る恐る、一番聞きたくない質問を口にした。
「まて、まず予算は・・・、あるのか?」
「特務中隊の予算はこちらになります」
ヨレンタが差し出した一枚の羊皮紙に目を通す。
そこには、私が想像していたよりもずっと慎ましい数字が記されていた。
「少なくないか?」
「いえ。特務中隊とはいえ新設の部隊です。それも通常の半分である二個小隊しか保有していない事を考えれば、むしろ破格の予算が組まれています。結局のところ、これが貴族社会の本質ですよ、貴族様」
私は天を仰ぎ、深いため息をついた。
「貴殿が貴族を嫌いなのは十分に伝わったが・・・。それで、どうしたらいいんだ?」
私の情けない問いに、ヨレンタは今度こそ深いため息をついた。
その顔には、「諦めた」とでも書いてあるようだ。
「そうですね。まずは厩舎を手配しなければなりません」
「厩舎もないのか、我が中隊は」
「第一連隊の兵舎にも厩舎はありますが、本来は連隊長直属の特殊遊撃部隊のためのものです。今はその一部をお借りしているだけの状態です。ちなみにこちら、第一連隊の兵站部から届いた『厩舎が手狭になっている件に関する善処のお願い』です」
ヨレンタが差し出した抗議文は、驚くほど丁寧な言葉遣いだった。
しかし、その行間からは烈火のごとき怒りが滲み出ている。
「王都には文才に長けた者が多いな。とんでもなく遠回しな嫌味と怒りが伝わってくる」
「給仕係からも同様の抗議文が届いていますが、目を通されますか?『我々の厨房は、貴殿らが美食を貪るための食堂にあらず』と、これまた見事な書き出しですよ。なんでも例の第二小隊長が食事やティータイムについて我儘を言ったとかなんとか」
「あの猪め。問題しか起こさないのか・・・、もういい。はぁ、まずは厩舎の確保か」
「はい。ですが、問題はそれだけではありません」
「まだ何かあるのか!?」
驚きのあまり思わず立ち上がってしまった。
「えぇ。兵站の問題です」
「兵站? なぜだ?」
「我が特務中隊は独立した部隊ですので、補給小隊や補給班が配備されていません。第一連隊では、各大隊に所属する中隊のうち一つが補給中隊としての役割を担っていますが、私たちはその枠組みに入っていないのです」
「つまり?」
「つまり、このままでは演習どころか、一歩でも兵舎を出た瞬間に食料も槍も尽きて飢え死にする、という事です」
バンッ! と力任せに机を叩きつけ、私は勢いよく立ち上がった。
「問題しかないじゃないかッ!?」
悲鳴じみた叫びが静かな中隊長室に響き渡り、私はがっくりと椅子に座り込んだ。
「ですから、そう申し上げております」
ヨレンタは心底呆れきった顔で、それでも冷静に私を見据える。
「それに」
「それに?」
「私はこうなる事が分かっていたので、最初にお断りしたのです。貴方のそのずぼらさは、小隊長だった頃に十分見てきましたからね」
「だから最初に私は貴殿を呼んだのだ。で、どうしたらいい?」
私の力ない問いかけに、ヨレンタは深いため息をひとつ吐くと、おもむろに立ち上がった。
そして、壁際に立てかけてあった作戦説明用の黒板を私の机の前まで引きずってくると、慣れた手つきでチョークを手に取った。
「いいですか、おクソ貴族様。パニックになっている暇があるなら、まず問題を整理しましょう」
「一言余計だ」
私の言葉を綺麗に無視して、ヨレンタは黒板に向き直る。
コツ、コツ、とチョークが小気味よい音を立てる。彼女は驚くほど綺麗な字で、三つの課題を書き出した。
一、厩舎の確保
二、軍馬の調達
三、兵站機能の確立
「問題は、大きく分けてこの三つです。ひとつずつ片付けていくしかありません」
「言うのは簡単だがな・・・」
「では、まず一つ目。厩舎です」
私の弱音を軽く受け流しながら、ヨレンタは黒板をトンッと指し示した。
「選択肢は二つ。一つは、王国工兵隊に新しい厩舎の建設を依頼する事。もう一つは、財務庁に追加予算を申請し、王都内の民間厩舎を借り上げる事です。どちらにせよ、まずは軍務庁の施設局に掛け合い、軍用地の空き状況を確認するのが筋でしょう」
「工兵隊や財務庁が、新設の中隊ごときに耳を貸してくれるとでも?」
「そこで貴方のその『ハイザ』という名前が役に立つのです。ただの中尉からの陳情と、ソルトラン公爵家の三女からの『お願い』とでは、役人の対応も変わってくるでしょう?」
ヨレンタは平然と言い放つ。
その言葉には、貴族社会への痛烈な皮肉が込められていた。
「貴方はまだ実感がないようですが、ユサール王国の盾たるソルトラン公爵家の存在があるからこそ、諸侯も北方も静かなのです。その公爵家のご令嬢が率いる部隊に、馬が足りないなどという事態は、王国軍ひいては公爵家の沽券に関わる大問題です。馬政庁も、その状況で馬を出さないなんて選択肢はないでしょうね。貴族様の名前に逆らって面倒事を抱えたいほど、お役人も馬鹿じゃないでしょうから」
「まったくどこまでも、家の名か・・・」
私の口から、落胆のため息とともに言葉が漏れた。
実力ではなく、家名によって物事が動く。
その現実に、言いようのない無力感を覚える。
第二小隊長のアラウネ・ヴァッシェンが七光りと私を罵るのも理解できる。
「それが貴族社会というものでしょう? 」
ヨレンタは淡々と続ける。
「ただ、最も厄介なのが三つ目。兵站です。我が中隊には補給部隊がありません。これは部隊の存続に関わる致命的な欠陥です。演習までに軍務庁の兵站総局へ我が中隊の独立性を訴え、正式な補給ルートを確立するよう強く陳情しなければなりません」
「それは私の仕事なのか?軍務庁の兵站総局との交渉は中隊長の仕事ではないんじゃないのか?もっとこう事務方の仕事じゃないのか?」
「貴方がその事務方の最高責任者です」
ヨレンタが突きつけたあまりにも正しく、そしてあまりにも面倒な手続きの数々に私は思わず呻いた。
役人との交渉など、考えただけで頭が痛くなる。
もっと単純な方法はないものか。
「そうだ、ヨレンタ。ならば話は早い。兵站がないなら、作ればいい」
「はぁ?」
私の唐突な閃きに、ヨレンタが怪訝な顔でこちらを見た。
「第二小隊を、まるごと補給小隊として運用すればいいじゃないか。そうすれば、部隊の運用も補給も、すべて我が中隊内で完結できる。完璧な作戦だと思わないか?」
我ながら名案だと思った。
だが、ヨレンタはこめかみを指で押さえ、天を仰いで、今度こそ本気で深いため息をついた。
その顔には『この人は本当にどうしようもない』という絶望がありありと浮かんでいる。
「中隊長。本気で、本気で仰っているのですか?」
「もちろんだ。何か問題でも?」
私の自信満々な問いに、ヨレンタは冷え冷えとした視線を突き刺した。
「問題しかありません。まず、仮に第二小隊を補給小隊に任命したとしましょう。では、その補給する物資は、一体どこから湧いて出るのですか?」
「むぅ・・・」
「食料も、槍も、馬の飼料も、無から生み出す事はできません。それらを国家規模で調達・管理し、各部隊に分配するのが兵站総局や各大隊の補給中隊の役割です。我々にはその大元となる調達ルートも、備蓄倉庫もないのですよ?」
ヨレンタの指摘は、的確に私の計画の穴を突いていた。
「それに」と彼女は続ける。
「特務中隊は連隊長直属の精鋭部隊として新設されたはずです。その貴重な戦力である100名のうち50名を、荷馬車を引かせるためだけに使うと? それこそ税金の無駄遣いだと、今度は財務庁から『貴族の道楽も大概にせよ』という、皮肉や嫌味すらない直球の抗議文が届くでしょうね」
「うぐぅ」
「そして何よりも、です」
ヨレンタは一拍置き、まるで言い聞かせるように静かに、しかし断固とした口調で言った。
「あのアラウネ・ヴァッシェン小隊長に『今日から貴官の部隊は戦闘小隊ではなく、誉れ高い補給部隊だ』と、そう命令するのですか?」
脳裏に、扉を蹴破って乱入してきたアラウネの姿が蘇る。
正直に言えば、私は彼女が苦手だ。
武力で劣るとは微塵も思っていないし、本気でやり合えば負ける事はないと自負している。
それに、総合的に見ても私のほうが優れている。
何より私は彼女より顔がいいしな。
だが、あの豪快すぎる性格と何より耳元で怒鳴られるような大声は、どうにも受け付けなかった。
ヨレンタは続ける。
「"一番でなければ気が済まない"と豪語するあの方が、どう反応なさるか。想像するだけで頭が痛くなります。今度は扉だけでは済みませんよ。"ソルトミルルの猪"の異名の通り、命令を拒否して練兵場どころか町中で暴れまわるのが関の山でしょう。そうなれば、中隊長の権威など地に堕ちたも同然。演習の前に、指揮系統の崩壊という、もっと面倒な問題に対処する羽目になります」
私は顔をしかめた。
彼女が兵舎で暴れまわる姿が、容易に目に浮かぶ。
そうなれば、事態の収拾にどれだけの手間がかかるか。
考えただけでうんざりする。
「ですから、申し上げた通りです」とヨレンタは結論づける。
「部隊は単独で動けません。補給ルートの確立が絶対条件です。小手先の編成変更で解決できる問題ではありません。まずは軍務庁へ出向き、正式な支援体制を取り付ける必要があります」
「はぁー、わかった」
私は腹を括った。
逃げていても何も始まらない。
「まずはどこからだ?」
「そうですね」
ヨレンタは少し考えると、にやりと口の端を上げた。
「そうですね。まずは礼儀正しく怒りの抗議文を送ってきた、第一連隊の兵站部へ謝罪行脚といきましょうか」
「何故、私がそのような事を・・・」
「それが中隊長の職務というものですよ、貴族様」
私の悲痛な叫びに、ヨレンタは心底楽しそうに肩を揺らした。
おかしい、私は前線で槍を振るう軍人になったはずなのに。
これからやる事はまるで商人じゃないか・・・。
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