トロン蜂起編
第1話
午後の陽光が、大隊兵舎に設けられた広々とした貴族士官用ラウンジの大きな窓から、柔らかく差し込んでいた。
磨き上げられたテーブルがいくつも並び、それぞれにはラウンジ付きの侍従が手際よく用意したティーセットが置かれている。
私はその窓際の席で、銀色の短い髪をした彼女。
ヨレンタ・カレンタと相席している。
私の同期であり、貴族である私の側付きを命じられるという不運に見舞われた平民出身の女性だ。
ラウンジには他にも数組の貴族士官たちが思い思いに談笑したり、書物を読んだりして過ごしており、穏やかな空気が心地よい。
今日の供はラウンジで提供される焼き菓子の中でも、私が特に気に入っている素朴ながらも風味豊かな逸品と、同じくラウンジで供される香り高い紅茶。
この組み合わせは、私にとって至福のひとときだ。
私がうっとりと焼き菓子を頬張っていると、向かいに座るヨレンタが小さなため息と共にぽつりと言った。
「ご立派な貴族様」
その声には抑揚こそないが、明確な皮肉の色が滲んでいる。
ヨレンタは基本的に貴族という存在を好ましく思っていない。
彼女の出身地であるヒャルタルベルグ伯爵領の評判は決して良くないのだから、仕方のない事だろう。
「当然だ。私より美しい貴族はいないだろう?こうして茶菓子を食べる姿は絵画のようだと思わないか?」
「絵画というよりは、冬眠前の熊のようですね」
ヨレンタの言葉は鋭く、余計な飾りを削ぎ落としている。
一語で核心を突くその話し方は、しばしば誤解を生む事があるが彼女に悪気がない事を私は知っている。
だからこそ、私もこうして軽口で返せるのだ。
現に彼女は、どこか楽しげに口元を綻ばせている。
翼紋章人にとってティータイムは、身分を問わず穏やかさを享受できる時間。
この時ばかりは、どんな
「シグリッド・ハイザ殿! シグリッド・ハイザ小隊長殿はいらっしゃるか?!」
だというのに、至福のひとときを打ち破るような大声がラウンジに響き渡った。
声のした方を見れば、見慣れない小柄な男性の当番兵が入り口で慌ただしく辺りを見回している。
「なんてこったヨレンタ、私のファンかな?」
私が小声で隣のヨレンタに囁くと、彼女は温度のない視線を私に向けた。
「その発想に至る思考回路が、私には理解できません」
全く、可愛げのない奴だ。
この私、シグリッド・ハイザの美貌をもってすれば、熱烈なファンの一人や二人、この第二連隊にいたとしても何ら不思議ではあるまい。
しかし、残念ながらその男の様子はただただ焦りに駆られた使者のようにしか見えない。
周囲の視線をものともせず、彼は私を見つけるや否や、早足でこちらへ向かってくる。
その動きは粗削りで、いかにも場慣れしていない兵のものだった。
ユサール軍において男性兵士は非常に珍しい。
彼も緊張しているのか、その表情は硬い。
肩をいかにも不自然に張りながら、彼は周囲の貴族士官達に恐縮したように軽く会釈しつつ、迷わず私のテーブルへ進んできた。
その表情には焦りの色が見て取れる。
「貴殿はここを何処と心得る? ここは秩序と静寂を重んじるべき場だ。男子がそのように、はしたなく声を荒げるものではないぞ」
私が窘めると、隣のヨレンタが、くすりと喉を鳴らした。
「その時代がかった貴族の真似事を、よくもまあ臆面もなく」
その小さな呟きに、私は眉をひそめる。
「何がだ?」
「全てが、です」
ヨレンタはそう言うと、楽しそうに口元を綻ばせた。
私は貴族として、そして軍人として当然の事を言ったまでなのだが。
そんな私達のやり取りを見て、当番兵の彼はますます困惑した表情を浮かべている。
いけない、彼に罪はない。
「すまない、当番兵殿。それで、要件は何だ?」
私が声をかけると、彼ははっとしたように顔を上げ、緊張した面持ちで敬礼する。
「も、申し訳ありません、シグリッド・ハイザ小隊長殿! ミレナ・エンケル連隊長殿がお呼びです! 至急との事です!」
「はぁ?」
軍には厳格な階級の序列がある。
小隊長の私が、連隊長に直々に呼び出されるのは異例だ。
今は戦時ではなく平時、しかも午後のティータイム。
翼紋章人にとってティータイムは、一日の中で最も優雅で身分を問わず穏やかさを享受できる時間のはずだ。
それを理解していないはずはない。
「自業自得、という言葉をご存じで?」
ヨレンタはそう言い、空になった菓子の皿を指さした。
まさか、ヨレンタは私がお菓子の食べ過ぎが原因で呼び出されたとでもいうのか。
そんな馬鹿な話があるものか。
確かに周囲を見渡せば、私ほど菓子を口に運んでいる者はいないかもしれない。
それに、茶葉を自室まで持ち帰るのも、私以外に見た事がない。
いやまさか、それが理由なのか?
だが、軍規にラウンジの備品の持ち出しを禁ずる明確な規定はなかったはずだ。
問題はないはずだ。
「えぇ。その食欲と、お持ち帰りの習慣のことです」
ヨレンタが言うように、貴族としては行儀が悪かったかもしれないが、卑しいと言われるほどではないだろう。
「あ、あの・・・、小隊長殿? い、いかがされましたか?」
当番兵が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「い、いや、何でもない! 伝令ご苦労。すぐに向かう」
平静を装ったものの、内心の動揺は収まらない。
もし、お菓子や茶葉の件でなければ、一体何が理由なのか。
北方のアブラカワや東方の大津で大規模な軍事衝突でも発生したのか。
だが、それならば個人的な呼び出しではなく、連隊全体。
あるいは兵舎全体に非常招集がかかるはずだ。
この私一人だけが呼び出されるのはどう考えても不自然だ。
とはいえ、心当たりは茶葉の件しかない。
「ヨレンタ、すまんな。少し席を外す」
「えぇ、どうぞ。せいぜい、お菓子の食べ過ぎで叱られてきてください」
ヨレンタめ、そのにやけ顔は何なのだ。
それだけではない。
周囲の士官達も肩を揺らしながらくすくすと笑っている。
私の困惑が、彼らの格好の娯楽になっているらしい。
軍服の襟元に手をやり、冷静を装ってみるが、どうにも居心地が悪い。
逃げるようにラウンジを後にし、連隊長室へと向かった。
第二連隊の兵舎は、首都スタルボルグの西側に位置している。
石造りの建物は質実剛健そのもので、華美な装飾は一切ない。
廊下は静まり返り、規則正しく響くブーツの音だけが静寂の中に反響する。
すれ違う兵士達は皆、引き締まった顔つきで敬礼をしていく。
ユサール王国では兵士のほとんどが女性だ。
先ほどのように、男性の兵士というのは珍しい。
連隊長室の前で立ち止まり、深く息を吸う。
呼び出しの理由はわからないが、連隊長直々の呼び出しだ。
無視するわけにはいかない。
扉をノックする。
「入れ」
落ち着いた声が響いた。
静かな中にも、確かな芯の強さがある。
連隊長の声だ。
直接会うのは、これで三度目。
入隊時と、小隊長拝命時の二度。
背筋を伸ばし、扉を開け、一礼して室内へ進む。
「第3大隊第2中隊第4小隊長、シグリッド・ハイザ。入室いたします」
整然とした執務室だった。
壁にはユサール王国の詳細な戦術地図が広がり、第二連隊の輝かしい戦歴を示す連隊旗が誇らしげに飾られている。
余計な装飾は一切なく、軍務以外のものを排した簡素な空間が、ここがただの執務室ではなく、戦場を知る者だけが座する場である事を物語っていた。
その主は、大きな執務机に向かい、丹念に書類を確認している。
動作は無駄なく、規律が染み付いた者のそれだった。
連隊長はミズスレットル子爵家の分家筋の出身だと聞いている。
貴族とはいえ、その暮らしぶりは平民に近く、そこから実力一つで連隊長の地位にまで上り詰めた。
幾度もの戦場をくぐり抜けた、生粋の女騎士。
年齢はすでに五十を超えているはずだが、その背筋は若い兵士のようにまっすぐに伸び、立ち居振る舞いには一切の隙がない。
厳しい訓練と数多の実戦経験がその身に刻み込んだ、揺るぎない風格がそこにはあった。
王妃近衛重装長槍騎兵第二連隊の連隊長、ミレナ・エンケル。
「随分と早いな、小隊長。貴殿ほどの由緒ある家柄なら、悠然と構えて紅茶の香りでも楽しんでから現れるものだと思っていたんだがね。だが、どうやら貴殿はその優雅さよりも実務を重んじるらしい。まあ、それはそれで悪くない。貴族の伝統というのは、時として悪習と化して、無意味な儀礼ばかり増やすものだからな。重要なのは形ではなく、結果だ。貴殿が余計なしきたりに煩わされず、仕事を優先するなら、それは軍務にとってむしろ好ましい事だよ」
「はっ?」
思わず息を呑み目を瞬かせた。
何の前置きもなく始まったミレナ連隊長の饒舌に圧倒され、あっけにとられる。
状況がすぐには飲み込めず、一瞬固まってしまった。
「至急と伺いましたが?」
ようやく声を絞り出し、反射的に問い返す。
するとミレナ連隊長は大笑いし、肩を軽くすくめて執務机から立ち上がり、手振りで応接用の机へと促してきた。
「そうか、それはすまなかった。どうやら彼は張り切りすぎたようだ。女の園たる兵舎では、男というのは何かと肩に力が入りすぎるものだ。緊張のあまり至急と伝えたのだろう。どうか彼を許してやってほしい」
ミレナ連隊長はそう言うと、ゆったりと椅子に腰を下ろし、傍らのティーポットを手に取って琥珀色の液体をカップに注ぎ始めた。
「ティータイムを妨げたお詫びだ。貴殿も嗜むと良い。これは私の故郷の茶葉で私のとっておきだ。もっとも、ソルトラン公爵領育ちにはいささか香りが強すぎるかもしれんが」
微笑みながら差し出されるカップを受け取る。
促されるまま椅子に腰を下ろし、ひと口すする。
途端に濃密な甘い香りが広がり、鼻腔をくすぐった。
これは何の果物だろうか?
普段飲み慣れているものとは異なり、強い芳香がする。
カップをそっと置き、改めて口を開いた。
「それで、私はどのようなご用件で呼ばれたのでしょうか?」
私が尋ねると、ミレナ連隊長は手にしていた自身のティーカップを静かにソーサーに戻した。
先ほどまでの笑みが消え、真っ直ぐに私を見据える。
その深い色の瞳には、何か複雑な感情の影が揺らいでいた。
それはまるで、言いにくい事柄を切り出す前の、一瞬の逡巡にも見える。
「シグリッド小隊長。貴殿への辞令が届いている」
「へっ?はっ?辞令、でありますか?」
予想もしなかった言葉に、私はわずかに目を見開く。
ユサール王国軍の人事は春先に内示があり四月一日付で発令されるのが通例だ。
今日は七月二十一日。
この時期に、しかも連隊長直々に辞令を言い渡されるとは一体どういう事なのだろうか。
まさか、本当に茶葉を持ち帰った事が問題視されたのか?
私は名門貴族、ハイザ家の三女だ。
左遷が決まっているとしても、通常の人事命令で済むはずがない。
だからこそ、ミレナ連隊長が直々に辞令を伝えるのではないか?
だが、たかが茶葉ひとつで左遷だなんて、そんな馬鹿な。
それではハイザ家の名に傷がつく。
まずい、姉上達に怒られるどころの騒ぎではない。
「ああ、貴殿は王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊への異動となる。本日付だ」
「へっ?はっ?えっ?第一連隊へ、ですか?」
私は自分の耳を疑った。
茶葉の件で左遷ではなかった事に安堵しつつも、告げられたのは第一連隊への異動。
次姉イングリッド・ハイザが連隊長を務める、王国軍最強の精鋭部隊だ。
同じ王妃近衛重装長槍騎兵連隊でも、第一連隊と第二連隊ではその性質が大きく異なる。
第二連隊は、軍規に縛られすぎる事なく、柔軟な機動力を活かした運用を重視する部隊。
一方、第一連隊は王妃の護衛をはじめとする重要任務を担う、まさに王妃直属の近衛部隊だ。
軍における最上位組織といっても過言ではなく、その権限と影響力は時として軍務庁の決定をも凌駕するほどだ。
そんな場所に、私が異動になる?
「そうだ。貴殿が驚くのも無理はない。私自身、これほど異例の人事は聞いた事がない」
ミレナ連隊長はそう言いながら、ティーカップを手に取り、軽く紅茶を回す。
淡く立ち昇る湯気の向こうで、その表情は穏やかに見えつつも、どこか探るようなものがあった。
「時に、シグリッド・ハイザ小隊長。貴殿は姉君達をどう見ている?」
突然の問いに、一瞬言葉が詰まる。
なぜ今、姉上達の話題が出るのか。
しかし、問いを受けた以上、正直に答えるべきだろう。
「姉、ですか? 私には姉が二人おりますが、長姉のアストリッド姉上も、次姉のイングリッド姉上も、心から尊敬しております」
ミレナ連隊長はゆっくりと頷き、淡々と言葉を紡ぐ。
「アストリッド様は、確かに素晴らしいお方だ。聡明であられ、何より慈愛に満ちておられる。貴族とは本来、そうあるべきなのだろう。だが現実はそうではない。実際はそうではない者のほうが圧倒的に多い。私は貴族を名乗ってはいるが、貴族社会の華やかさとは縁遠い世界で生きてきた。その中でアストリッド様は、決して遠い存在であられる事なく、その温かさで人を包み込む」
ミレナ連隊長がアストリッド姉上の名を口にした瞬間、厳しかった表情がわずかに和らぐ。
その敬意に偽りはないのだろう。
「妹として、アストリッド姉上のご活躍は誇らしく思います」
私も心から同意する。
アストリッド姉上は知的で穏やか、その立ち居振る舞いは常に気品に満ちており、貴族として、そして王妃としての理想像そのものだ。
ただ、ミレナ連隊長はわざわざ「アストリッド様は」と区切るように強調した。
もちろんわざわざ区切る理由に心当たりはある。
次姉のイングリッド姉上の評判は芳しくない。
昔からイングリッド姉上は周囲から疎まれる事が多かった。
あのような性格なのだから、それも仕方がないのだろう。
しかもミレナ連隊長は第二連隊の連隊長で、イングリッド姉上は第一連隊の連隊長。
イングリッド姉上に対しては、立場上思う事もあるのだろう。
ミレナ連隊長は短く微笑むと、ティーカップをゆっくりと口に運ぶ。
紅茶はまだ香りを保ち、ほのかに湯気を漂わせていた。
「最近では、アストリッド様を『陽だまりの王妃』と呼ぶ声もあるそうだ。まさに的を射た呼び名だろう」
「それは・・・、初めて聞きました」
ミレナ連隊長はティーカップを置き、書類に目を走らせた。
その動作には、重い話題へと移る前の、短い沈黙が漂っているように感じられた。
「ちなみにだが、第一連隊長。イングリッド殿は『黒陽の連隊長』と呼ばれているそうだ」
圧倒的な力強さを感じさせる、姉上らしい二つ名だ。
知性と優しさのアストリッド姉上が陽だまり。
武功に優れたイングリッド姉上が黒陽。
では、私に二つ名がつけられるとしたら何だろうか。
二人よりも私は美人だから、燦華の麗姫とでも呼ばれるのだろうか?
「さて、黒陽の連隊長たる、イングリッド殿は二十歳の若さで連隊長に就任された。貴殿も理解しているだろうが、軍の人事というものは、時として剣よりも政が鋭く振るわれる」
さて、どうしたものか。
正直、ミレナ連隊長が何を言ってるのかさっぱりわからない。
貴族らしい言い回しなのだろうが、私も貴族社会の華やかさとは縁遠い世界で生きてきた。
そうした事は全部姉上達にまるなげして、幼少期の私は家に籠っていた。
そのつけか、貴族的なふるまいや言動には疎い。
おそらく、イングリッド姉上が連隊長に就任された際に、政治的な駆け引きがあったという事だろう。
私とて一応は貴族の娘、それぐらいの事は察しが付くが・・・。
「いえ、当時はまだ幼く、詳しい事情は知りません」
ミレナ連隊長はふと息を吐き、紅茶の湯気が揺れる向こうでわずかに視線を落とした。
その仕草は、言葉にすべきか否かを逡巡する者のそれだった。
「先代の第一連隊長は、貴殿の母君、ヴィグディス・ハイザ殿だ。軍史にその名を刻むほどの名将であったが」
ミレナ連隊長はかなり深いため息をつき、視線をゆっくりと天井へ向けた。
そのまましばし沈黙し、再びこちらに視線を戻し、静かに続ける。
「その反面、規律という言葉に対しては驚くほど寛容な方だった」
母上の武勇伝は数知れず、王国最強の戦士とまで謳われた。
だが、その奔放すぎる性格と型破りな行動が、問題視されていたという噂をきいた事はあった。
ミレナ連隊長は静かに首を傾けると、淡々と言葉を紡ぐ。
「貴殿の母君について語るべき時が来るかもしれんが、だがそれは今ではない。それに娘に語るには、余りにも複雑な話だ」
ミレナ連隊長は、紅茶をゆっくりと口に含んだ。
その動作には、幾度となく軍務の理不尽に揉まれた者の、静かで重い諦念が滲んでいる。
母上も姉上も、この人に並々ならぬ苦労をかけたのだろう。
その事実が、嫌というほど伝わってくる。
「さて、シグリッド小隊長。軍というものは時として、必要とされる人物を作り出す。適任か否かではない。求められる形をした者が、その場に据えられるのだ」
結局、何の話をしているのだろうか。
ミレナ連隊長の言いたい事が分からない。
「イングリッド殿は、その才と武功において疑う余地のない人物だ。彼女が連隊を率いる事に、軍務上の正統性を問う者はいない。戦場においては比肩する者も少なく、その指揮はまさしく卓越している。しかし軍とは戦場にのみ存在するものではない。指揮とは才覚だけで成せるものではなく、秩序と信頼をもって初めて成立するものだ。彼女の戦闘指揮に異論を挟む者はいないが、その統率は決してすべての者に受け入れられているわけではない。自由奔放な振る舞いと言動は、宮廷貴族の思惑とは相容れず、軍部においても彼女の存在を疎む者は少なくない」
真剣にミレナ連隊長の言葉を聞いてみたものの、頭が痛くなってきた。
おそらくだが、イングリッド姉上を批判しているのだろう。
だが正直、何が言いたいのかよくわからない。
とはいえ、黙っているわけにもいかない。
少しでもまともな返答をしようと、頭の中で言葉を必死に組み立てる。
とにかく姉上の事を聞かれているのだから、それらしい事を言えばいいはずだ。
「姉上はその、少々、いえ、かなり激しい気性の方ですから。周囲の方々が大変な思いをされているのは、お察しいたしますが」
ミレナ連隊長は紅茶を傍らに置き、ふっと小さく息を吐いた。
「激しい気性か、なるほど、面白い表現だな。だが、実の妹にすらそのような評価を受ける中で、貴殿はこの時期に異動を命じられたわけだ」
私はようやく、ミレナ連隊長の言葉の真意を掴みかけた。
この異動は単なる人事ではない。
つまり、これは――。
「それはありえないでしょう。私はまだ小隊長です」
ミレナ連隊長は、この人事が私を第一連隊の連隊長へと導く布石である事を示唆しているのだ。
もちろん、異動命令が即座に連隊長就任を意味するわけではない。
「そうだ。貴殿は若干十七歳で小隊長に任命されたばかりだ。まぁ、貴殿の年齢で小隊長というのもあまり前例がないのだがな」
皮肉めいた口調に困惑する。
ミレナ連隊長は立ち上がり、執務机に散らばった書類の山にめをやると、その中から一枚を抜き取った。
「これを見たまえ、小隊長。この辞令は軍務庁を経由していない」
そう言いながら、その紙片を私に差し出した。
そこには確かに、第二王妃ヘンリエッタの名義で発令された辞令が記されている。
軍務庁の印ではなく、王妃個人の印章。
「王妃直属の第一連隊、そして第二連隊とはいえ、人事権は軍務庁が握るものだ。王妃が軍を動かす権限を持つ事は疑いようもないが、それが軍の規則を超越するわけではない」
ミレナ連隊長は紅茶を傍らに置き、書類を軽く叩くように指先を乗せた。
「それにもかかわらず、今回は第二王妃ヘンリエッタ様個人の名義で発令された。一兵士の異動命令に王妃の直接介入など」
彼女はそこで一拍置き、ゆっくりと私を見つめる。
「この異例さの意味、貴殿も理解しているはずだ」
いや、さっぱりわからない。
「おめでとう、シグリッド・ハイザ小隊長。貴殿はその若さで第一連隊の連隊長候補に選ばれのだ。まったく、これでは昇進というよりも、もはや飛翔と呼ぶべきだろうな」
ミレナ連隊長が言いたい事はなんとか理解できる。
どうやら私を第一連隊の連隊長にさせようという動きあるという事だ。
だが、理解はできない。
何故なら、それは無理な話だからだ。
「ですが、私には連隊長になれるほどの実績がありません。いくら私がハイザ家の三女と言えども、何の実績も無しに第一連隊の連隊長になれるはずがありません」
アストリッド姉上は第三王妃として、確かな政治力がある。
イングリッド姉上は現在の第一連隊の連隊長だ。
だが、私はどうだ?
なんの実績も武功もまだあげていない。
いくら名門であるハイザ家の人間といえども、私は三女だ。
姉達がすでに活躍してるのに、私を担ぎ上げる理由がわからない。
まして、イングリッド姉上を下ろし私を連隊長にするなど考えられない。
私の言葉にミレナ連隊長は呆れたように眉をひそめた。
「実績がない? 小隊長、貴殿は自分の歩んできた道を、本気でそう評価しているのか?」
その言葉が放たれた瞬間、シグリッドの背筋がピンと伸びた。
まるで鋭い剣が目の前に突きつけられたような感覚。
圧倒され、思わず息を呑む。
ミレナ連隊長の静かな語調に余計な力はないのに、それがかえって威圧感となってのしかかる。
どう答えればいいのか、一瞬で言葉を失った。
「アブラカワの国境沿いで、密輸団の密輸を阻止した作戦に参加したはずだ。あれは、決して凡庸な兵士に与えられる任務ではなかったはずだが?」
「お言葉ですが、私は一兵卒として参加しました。作戦を立案したわけでもありませんし、軍功を立てた覚えはありません」
ミレナ連隊長は短く息を吐き、僅かに肩をすくめた。
「だが貴殿はその功績が認められ、小隊長に抜擢されたのだぞ」
私は思わず息を飲む。
「初耳でした。私には過分な評価です」
「謙遜も度が過ぎれば聞き飽きるものだな、小隊長」
その言葉の意味を噛み締める暇もなく、ミレナ連隊長は続けた。
「貴殿も貴族なら、そろそろ政治も学ぶべき頃合いだろう」
ミレナ連隊長は暗に大人になれと私に言ってるのだろう。
どのみち、辞令が出ている以上、拒む事はできない。
いくら私に連隊長の器がないと思っても、これは決定事項なのだ。
ならば、せめて私よりも賢い彼女を巻き込もう。
「わかりました。ですが連隊長殿、一つお願いがございます」
「ほう?」
「ヨレンタ・カレンタを一緒に連れて行ってもよろしいでしょうか?」
ミレナ連隊長が意外そうな表情を浮かべる。
「ヨレンタ・カレンタ? 貴殿の側付きに任じられた者だな。貴殿との関係はあまり良好ではないと聞いているが」
「彼女は誤解される事が多いですが、私の事を誰よりも理解してくれています。私にとって彼女は半身のようなものです」
半身という言葉は、何も大げさに言っているわけではない。
私は戦う事ならできる。
剣を振るう事にも、敵を倒す事にも迷いはない。
だが、それだけでは部隊は動かせない。
指揮が問われると、自分の力だけではどうにもならない事を痛感する。
私が小隊長として部隊を率いてこられたのは、彼女がいたからだ。
兵士達への指示も、作戦中の判断も、すべて彼女の助言を受けて形になっていた。
決して軍才があるわけではないし、戦況を冷静に読めるわけでもない。
自分一人なら戦える。
だが、自分一人で戦場を動かす事はできない。
そんな私が連隊長など務まるはずがない。
だからこそ、彼女が必要なのだ。
「残念ながら、この人事は私の手にない。第二王妃の御名義で発令された以上、私がどうにかできるものではない。貴殿がどのような条件を提示しようとも、それを考慮する権利すら私にはない。決定はすでに下されており、覆す余地はないのだよ」
ミレナ連隊長が申し訳なさそうに首を振った。
しかし私も引き下がれない。
ここで引き下がってしまっては、絶対に苦労する事になる。
小隊の指揮すらまともにできない私が、連隊の指揮などできるわけがない。
そうだ。さっきミレナ連隊長が言っていた言葉があるじゃないか。
「ですが、連隊長殿。先ほど政治も学ぶべき頃合いだろうと仰られましたよね? 名門ハイザ家の三女が貸しを作ろうとしているのですよ。これほど食べやすく、味の良い料理もそうそうございません。どうです? パンも添えておきましょうか?」
ミレナ連隊長はその言葉を聞くと、一瞬目を細め、それから豪快に笑った。
思わず目を瞬かせる。
笑われるような事を言ったつもりはない。
真剣に考えて、貴族っぽい言い回しでいってみただけなのに。
『貴族なら、そろそろ政治も学ぶべき頃合いだろう』と言ったのはミレナ連隊長だ。
だから、その言葉を受けての発言なのに、なぜこんな反応になるのか分からない。
混乱する頭の中で、ミレナ連隊長の笑い声だけが響いていた。
「いや失礼。貴殿、思ったより面白いな。貴族の務めを心得ているではないか。政治とは、こうして築くものだ。ソルトラン公爵領のパンは実に美味いと聞いた事がある。貸しを作るなら、確かに食べやすく整えるべきか。なるほど、貴族の流儀というわけだな」
笑いの余韻を残しながら、ミレナ連隊長は書類をまとめ直し、静かに言った。
「いいだろう。ヨレンタの異動はなんとかしてみよう」
「感謝いたします、連隊長殿」
ミレナ連隊長はそこで一旦言葉を切り、机の上の書類を閉じた。
「さて、話は以上だ」
私は椅子から立ち上がり、敬礼をして部屋を出ようとした。
しかし、その瞬間、ミレナ連隊長が低く静かな声で呼び止める。
「いや待て、小隊長」
足を止め、振り返る。ミレナ連隊長は執務机へ向かい、引き出しを開けた。
そして、一冊の革製の日記帳を取り出し、無造作に手に取る。
「本音を言えば、貴殿にはこの第二連隊に留まってもらいたかった」
私は思わず瞬きをする。
ミレナ連隊長は短く息を吐き、静かに言葉を続けた。
「書類上の評価では、貴殿は規律を重んじ、堅実に職務を遂行する兵だと認識していた。もっとも、噂ではいささか奔放な気質もあるとも聞いていたが・・・」
それはひょっとして茶葉の件を言っているのだろうか?
ばれているのか?
「指揮官として、貴殿のような人材を手元に置きたいと考えるのは当然の事だ。だが、貴殿はハイザの人間だ。貴族としてその名を背負う以上、果たすべき役割がある」
ミレナ連隊長は中央のテーブルへ戻ると、一冊の本を前に置いた。
私はゆっくりと本を手に取る。
革は硬く、開けば白紙のページが並んでいる。
どうやら日記帳のようだ。
「これは?」
「昇進祝いだ。餞別とでも思っておけ」
日記帳を手に取り、一礼して部屋を出た。
まさか、第一連隊への異動が突然決まるなんて思いもしなかった。
でも、頭にあったのは「茶葉の件で怒られなくてよかった」ということだけ。
廊下を歩きながら、ふと手の中の日記帳に目を落とす。
なぜ日記帳なんだろう?
この機会に日記でもつけてみろという事だろうか?
まぁ、深く考えることでもない。
昇進祝いとして贈られたのだから、そういう習わしなのだろう。
それよりも、茶葉を自室に持ち帰るのはやめよう。
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