第2話
第二王妃ヘンリエッタ様からの辞令、王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊への異動の内示を受けてから早くも四日が過ぎた。
私の胸は、憧れのイングリッド姉上の元で働けるという高揚感と果たして私にその大役が務まるのだろうかという不安とで揺れていた。
落ち着かない日々が続いていたが、ついに待ち望んでいた知らせが届いた。
ヨレンタの第一連隊への異動と昇進が正式に承認されたのだ。
ミレナ連隊長の迅速な手配に感謝しつつ、私はヨレンタへの辞令書を手に取り、逸る気持ちを抑えきれず彼女の部屋へと急いだ。
扉をやや強めにノックし、返事を待つ間もなく、いや、待ちきれずに勢いよく開け放った。
「喜べ、ヨレンタ・カレンタ曹長!」
室内にいたヨレンタは、読んでいた本からゆっくりと顔を上げた。
私の勢いにも眉一つ動かさず、淡々と一言だけ返す。
「また何か、面倒事を押し付けに来ましたか? それに、私は軍曹ですが」
「本日付で貴殿は王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊、連隊長直属特務中隊付きの曹長に任じられたのだ」
私は得意満面で辞令書を彼女の目の前の机に置いた。
ヨレンタは静かにそれを手に取り、指先で紙の質感を確かめるようになぞった。
視線を落とし、ゆっくりと文面を追っていく。
僅かに眉を寄せ、一字一句を逃すまいと慎重に読み進める。
やがて顔を上げ、じっと私を見据えた。
「全力でお断りします」
「ちなみに私は昇進して中尉となり、その特務中隊の中隊長となった」
私はさらに自分の辞令書も示しながら、胸を張って告げた。
「私の意思はどこにあるのでしょうか?」
「残念ながら、この辞令書の中にはない」
きっぱりと言い切ると、ヨレンタは心底不満そうな顔をした。
「なんだ? 不満そうだな。昇進したのだぞ?」
「ええ、大いに不満です」
ぶっきらぼうな返事とは裏腹に、彼女の瞳の奥には微かな喜びが宿っているのを、私は見逃さなかった。
「何故だ? 私の側付きであることは変わらない。曹長といっても仕事はそう変わらないぞ? なのに給料は増える。いいことじゃないか」
「給料が上がれば、貴方の起こす面倒事の後始末も増える、という事でしょう。割に合いません」
言葉とは裏腹に、その声色と瞳にはわずかな諦めとそれに紛れた微かな喜びが滲んでいた。
彼女が私の側付きとなって、もう二年になる。
最初は嫌味な奴だと思ったが、いつの間にか気が合うようになっていた。
ただひねくれているだけの人間なのだと気づいたときには、彼女の言葉の裏にある本音を拾うのにも慣れてしまっていた。
「それは失礼した。では、これからもよろしく頼む」
私がそう言うとヨレンタはわざとらしく大きなため息をついた。
「はぁ。昇進しても、結局は貴族様のお守り、ということですか」
そう言いながらふっと口元を緩め、悪戯っぽく微笑んだ。
やはり満更でもないようだ。
「ところで、特務中隊長殿? その『特務』とは一体、どのような任務を?」
ヨレンタの問いに、私ははたと思考を巡らせた。
確かに、特務とはなんだろうか?
特務とつく以上、何か特別な任務があるということは分かる。
だが・・・。
「特務ってなんだ?」
私が素直に疑問を口にすると、ヨレンタは心底呆れたという表情を隠そうともしなかった。
「貴方が中隊長としてご存じない事を、なぜ平民の私が知っていると?」
もっともだ。
私は苦笑しながら、ヨレンタに「それもそうだな」と言った。
今ここで考えたところで答えが出るわけでもない。
軽く笑ってみせると、肩の力が少し抜ける気がした。
「その無計画さ、ある意味尊敬に値します」
「そうか? ありがとう」
「嫌味です」
ヨレンタの言葉に、私は肩をすくめた。
こんなやりとりも、すっかり馴染んだものだ。
互いに遠慮なく言葉を交わせるのは、長い付き合いゆえだろう。
「王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊連隊長直属特務中隊。つまり姉上の直属だ。そう悪い任務でもなかろう」
私は気を取り直して、期待を込めて言った。
「それこそが最大の不安要素です」
「不安?」
「貴方のお姉様、市民には人気がありますが軍部での評判は最悪ですよ」
ヨレンタの言葉に、私は思わず納得した表情を浮かべた。
姉上の評判が良くないのは、別に驚くことではない。
そもそもハイザ家の評判が良くないのは今に始まったことではないし、公爵家というものは疎まれる存在なのだ。
「そうだな。姉上は少し変わった話し方をなさるから、誤解されることが多いのかもしれない。だがあれで本当は優しいお方なのだぞ」
「それは貴方に対してだけでしょう。貴方のお姉様が軍部で何と呼ばれているかご存じで?」
「黒陽の連隊長だろう?」
先日、ミレナ連隊長から聞いたばかりだ。
「アストリッド姉上は陽だまりの王妃、だったな。二つの太陽が王国の未来を照らしているということだろう? 素晴らしいことだ」
私にとって、二人の姉上は誇りだ。
長女は王妃、次女は王国の精鋭部隊の連隊長を務めている。
これほど胸を張れることはないだろう。
思わず声を弾ませ、姉上たちがいかに立派かを語る。
ヨレンタはいつものようにそっけなく短く相槌を打った。
私が姉上達の事を語り、ヨレンタが聞き流す。
この二年間、幾度となく繰り返されてきた光景だ。
「どう考えても皮肉にしか聞こえませんが」
まったくヨレンタは、いつも物事を斜に構えて見ている。
陽だまりは、アストリッド姉上らしい二つ名だ。
黒陽、黒い太陽なんて、かっこいいイングリッド姉上にぴったりな二つ名だと思う。
だが、彼女にはそうは聞こえないらしい。
「それより、私の二つ名はサンカノレイキとかどうだ?」
「二つ名というのは、ご自分で名乗るようなものでしたか?」
「言われてみればそうだな」
ヨレンタの冷静な指摘に、私は少し考えた。
「それに」
「それに?」
「漢字がさっぱり分かりません」
「燦然と輝く華のような、麗しい姫君。私にふさわしいと思わないか?」
私はうっとりとした表情で、自分の二つ名案に酔いしれた。
「貴方の容姿が優れていることは認めますが」
「けど?」
「少々、子供じみていませんか? その二つ名は」
自分のセンスを馬鹿にされ、私は少し落ち込んだ。
「言いたい放題だな」
私は唇を尖らせた。
今日のヨレンタはいつにも増して口数が多い。
どうやら機嫌がいいらしい。
「今からでも、この話は無かったことにできますが?」
ヨレンタが悪戯っぽく笑った。
「いや、貴殿でないと困る」
私は即答した。
彼女がいなければ、私は小隊長すら務まらなかっただろう。
「でしょうね」
ヨレンタは得意げな、そして自信に満ちた顔で頷いた。
「ところでヨレンタ、貴殿は士官学校は出たか?」
「十五から貴方様のお世話をしておりますが、今更何を?」
もちろん、答えなど分かりきっている。
ヨレンタが士官学校など出ていないことも、彼女が十五の歳からずっと私の傍にいてくれたことも。
それでも聞いてしまうのは、これから始まる第一連隊での任務、そして『中隊長』という重責に対する不安の表れなのかもしれない。
「それもそうか」
私は分かっていながら、とぼけた返事しかできなかった。
本当は、そんなことが聞きたいのではなかった。
「むしろ、公爵家のご令嬢である貴方が、どうして行かれなかったのですか」
ヨレンタの言葉に、私はふと何かを考えるように視線を宙に彷徨わせた。
そして、少し間を置いてから、どこか誇らしげに、しかしヨレンタには直接語りかけるのではなく、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「姉上も母上も士官学校なぞ、行っていない。そもそもハイザ家で士官というのは珍しいのだ」
「公爵家なのに、ですか?」
「我が家はユサール王国の戦略兵器と呼ばれているからな」
「戦略兵器、ですか。ずいぶんと物騒な御家ですね」
ヨレンタは心底不思議そうな顔をした。
「母上なぞ、湖を割り、山を割るそうだ」
私の言葉に、ヨレンタは呆れたような、信じられないものを見るような目で私を見た。
「信じていないな?」
「えぇ、微塵も」
「まぁ要するに、ハイザ家は最前線で槍を振るう家系なのだ。指揮だのなんだのは得意じゃない」
それなりの誇りを込めて言ったものの、どこか言い訳じみているのは自分でも分かっていた。
本当は、指揮の未熟さを認めるのが悔しいのだ。
だからこそ、戦場で槍を振るうことこそが自分の本分だと言い切る事で、その不安を打ち消そうとしていたのかもしれない。
「それは日々の言動でよく分かります。ですが中隊となれば、三から六個小隊を率いることになりますよ? 貴方にその指揮が?」
気にしてる事をはっきりと言われた。
ヨレンタの言葉は的を射ていて、反論の余地すらなかった。
正直なところ、今の私では小隊の指揮すらまともにこなせているとは言いがたい。
そもそも、そうしたことを深く考えるのは苦手だ。
歴代のハイザ家の者たちのように、最前線で槍や剣を振るっているほうが性に合っている。
だからこそ、異動は断りたかった。
だが、軍隊とはそういうものではない。
命じられれば、従うしかないのだ。
「だから貴殿が必要なんだ。いつも通り頼むぞ、曹長」
私はヨレンタに頭を下げた。
「はぁ、まったく。貴族というのは、どうしてこうも手がかかるのでしょう」
深いため息をつきながらも、その口元には、いつもの諦めたような、そしてどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
ヨレンタとの会話を終え、部屋を出ると、私の小隊の部下たちが待っていてくれた。そればかりか、彼女たちは気を利かせて第一連隊への引っ越しに必要な荷馬車まで手配してくれていたのだ。
「我らの小隊長殿は、どうせこういう手配はお苦手でしょうから」などと口々に言われ、私は苦笑した。
まったく、その通りだ。
こうした細かい段取りは昔から不得手なのだ。
とはいえ、彼女たちはただ文句を言うのではなく、甲斐甲斐しく荷物を運び出している。
私よりもよっぽど頼りになる彼女たちの手際は見事なものだった。
口は悪いが、本当に頼れる部下たちだ。
その働きぶりには、心から感謝せずにはいられない。
一緒に過ごしたのは、たった二年。
だが、その時間は濃密だった。
戦場では互いに背中を預け合い、日常ではこうして軽口を叩きながら助け合ってきた。
だからこそ、異動によって彼女たちを手放すことが惜しく思えた。
私も彼女たちと共に荷馬車へ荷物を運び込み、せめて感謝の印としてラウンジの美味しいお茶菓子でも届けさせようと考えた。
彼女たちにとって荷物の積み込みなど造作もないことらしく、作業はあっという間に終わった。
皆で一息ついていると、ふと背後から声がかかった。
「お引越しかしら? ずいぶんと微笑ましい光景ですこと」
振り向くと、そこには一人の女性士官が静かに立っていた。
細やかな刺繍が施された濃紺の軍服は、その整然とした佇まいと見事に調和している。
肩に飾られた装飾が大隊長としての格を示し、手袋を嵌めた指先は無駄な動きを許さぬかのように品よく組まれていた。
ユサール王国王妃近衛重装長槍騎兵第二連隊第1大隊大隊長。
エレオノール・ニーストレム中佐。
彼女は手入れの行き届いた亜麻色の髪を優雅にまとめ、その佇まいには長年の軍務経験からくる落ち着きと、生まれながらの気品が漂っている。
貴族の家柄に生まれた者ならではの洗練された振る舞いが、細やかな動作の端々から伝わってくる。
何よりも、その涼やかな淡褐色の瞳は、ただの貴族ではないことを物語っていた。
私も公爵家の出身であり、貴族としての格だけを見れば彼女より上の立場だ。
それでも、彼女の佇まいには、私にはないものがあると感じる。
振る舞いの端々に染み付いた気品、隙のない所作、そして何よりも、貴族としての自覚と誇りを、ごく自然に備えているように見えた。
私にはまだ、その余裕がないのかもしれない。
そんなことを、彼女を見ながらふと思う。
直属の上官ではないものの、その名は第二連隊の者であれば誰もが知る存在だ。
今日この時間に私たちが荷物を運んでいることを知っていて、わざと様子を見に来たのだろう。
「小隊長。いえ、確か昇進なさったのですね?」
大隊長の楽しげな声に、私は一瞬驚き、慌てて荷物を下ろして敬礼した。
「はっ、エレオノール大隊長。第一連隊に異動となり、特務中隊の中隊長を拝命しました」
「そう、中隊長。おめでとうございます。ヨレンタを連れていくのね? 貴方も昇進を?」
大隊長はヨレンタにも視線を向けた。
「恐れ入ります、大隊長殿。曹長を拝命いたしました」
ヨレンタは冷静に答えた。
「あなたたちは目立っていましたからね」
大隊長の言葉に、私とヨレンタは顔を見合わせた。
確かに、私たちは良くも悪くも目立っていたかもしれない。
「ところで、それは?」
大隊長の視線が、私が大事そうに抱えている日記帳へ向けられた。
ミレナ連隊長から餞別として贈られたものだ。
「それ、とは。これでしょうか?」
「えぇ」
私は日記帳を両手で持ち、誇らしげに見せた。
「こちらは昇進祝いにと、ミレナ連隊長から頂いたものです。私は日記などこれまでつけたことはありませんでしたが、書いてみると悪くないものですね」
すると、大隊長の表情が僅かに変わった。
「えっ、書いたの?」
思わず声を上げた彼女に、私は戸惑う。
「え?」
連隊長から頂いた日記帳だ。
使わねば失礼に当たると思い、筆を執ったのだが・・・。
もしかして、こういう品物はむしろ使わずに飾っておくものだったのだろうか?
「いえ、そうね・・・」
大隊長は何かを考えるように一瞬視線を落とした後、言葉を続けた。
「日記を書き残しておくと、後で振り返るときにすごく助けになるわ。中隊長、あなたがどんな文章を書いているか分からないけど。日記は人に見られて恥ずかしい内容は隠したくなるものよね。例えば透明なインクで書くとか・・・」
大隊長の言葉の意図はよくわからない。
これは先人としての助言なのだろうか、それとも試されているのだろうか?
だが、私はすでに中尉に任命された身だし、貴族としてもここでは堂々と答えるべきだ。
「私に恥ずべき事は一切ありません」
大隊長はちらりとヨレンタへ視線を送る。
ヨレンタは、何かを察するように小さく首を振った。
二人の微妙なやり取りに、私は首を傾げるしかなかった。
一体何なのだろうか?
大隊長は、軽く肩をすくめて微笑んだ。
「そうね、あなたはとても素直でいい子だわ」
もう、それでいいのだと諦めたような声音だった。
どうやら、私は何かを勘違いしているらしい。
しかし、日記はすでに書き始めてしまった。
今さら飾るだけの品にするのも、なんだかおかしな話だろう。
「中隊長、第一連隊での活躍を期待しています」
大隊長はそう言って、美しく敬礼した。
「ありがとうございます」
私も慌てて敬礼を返した。
「ヨレンタ・カレンタ曹長」
「はっ」
ヨレンタは姿勢を正し、改めて綺麗に敬礼する。
「とても、とても——」
大隊長は言葉を区切り、大きく息を吸った。
「とても、大変だと思います。ですが、頑張ってください。本当に」
「二年間、世話をしてきました。十分に理解しております」
ヨレンタは力強く頷いた。
その返事を聞き、大隊長は満足げな笑みを浮かべる。
本当に、一体何なのだろうか?
どうやら二人には、通じる何かがあるようだ。
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