第14話
鹿車は激しく揺れ、その衝撃が脇腹の激痛を容赦なく掻き立てる。
手綱を握る手に力が入らない。
肋骨が折れているのかもしれない。
息をするたび、肺が悲鳴を上げ、視界が
どれほど走らせただろうか。
それらは遠ざかり、代わりに聞こえるのは馴鹿の荒い息遣いだけ。
馬のような疾走感はない。
それでも馴鹿は私の意思を感じ取り、懸命に駆けてくれている。
前がよく見えない。
瞼が重い。
体に力が入らない。
「シグリッド、しっかりするんだ! ちくしょう、タマエさん!シグリッドが返事をしない!!」
月比古の切羽詰まった声が、まるで水底から響くように遠く聞こえる。
誰かが私の体を支えようとしている気がする。
朦朧とする意識の中、二人の声が断片的に耳に入ってきた。
「ああ、そうだね!もうだいぶ離れたはずだ!ひとまずここで休もう!月比古さん、鹿車を止めれる!?」
これはタマエの声だ。
「ダメだ、姉さんの意識がない!僕は馬だって乗った事がないよ!どうすればいい?」
こっちの焦った声は月比古だ。
「手綱を引くんだ!いきなり引くんじゃないよ、ゆっくり引くんだ!」
「えぇ?引くって?引っ張ればいいのかい?」
「そうだよ!できるかい!?」
「やってみるさ!」
鹿車の速度が落ちていく振動を感じた。
子供の声がうっすらと聞こえる。
何を言ってるかはわからない。
きっと声の主はヤヨイかフミツキだろう。
だが、もう答えるだけの力がない。
私の中でどんどんと暗闇が広がっていく。
この感覚には覚えがある。
命の終わりを告げる時のものだ。
姉上の攻撃は凄まじかった。
私はどれだけ吹っ飛ばされたのかも分からない。
ただ、あれだけの勢いで殴られたのだ。
肋骨が複数折れているのは間違いない。
呼吸が難しい事から、肺にも損傷があるだろう。
このままでは私の命は終わってしまう。
以前、この感覚を味わったのは何処だったかな。
あの時は周囲に医者がいたから助かった。
でも今度は難しいだろう。
そうだ、こんな所が私の終わりなのだ。
『そう悲観する事はない。私には月比古がいるではないか。彼の臣下になって王命を使ってもらえば、私の傷も回復するし、イングリッド姉上にも勝てる力が手に入る』
そうだな、それがきっと一番いい。
『では、起き上がって紋章を変えようではないか。彼の臣下になろう』
私の言うとおりだ。
翼紋章から、一角獣紋章に変えるべきだ。
無理にでも目を覚まして月比古に、いや我が王に臣従を誓うべきだろう。
それが一番良い。
「あてぃしは翼紋章を捨てるわ。シグリッドちゃんも一緒にどうかしらぁん?」
不意に、姉上の声が響いた。
三年前、トロンで私を打ち負かした後に投げかけられた言葉だ。
何故、今思い出したのだろうか?
私も翼紋章を捨てるからだろうか?
「翼紋章を捨てる?誰が?私が?」
今、私は何を考えているんだ?
何故そんな事を思ったんだ?
「ふざけるな!!!私は、違う!」
私は心の底から叫んでいた。
「私は翼紋章人だ! ユサール王国王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊連隊長でリンゲン伯爵のシグリッド・ハイザだ!!! 断じて他の紋章に変える気などない!」
はっとして意識が浮上する。
目の前に、大きな動物の鼻先があった。
ざらりとした、生暖かい舌の感触が頬を撫でている。
「うわぁ」
びっくりして情けない声が出た。
状況が飲み込めず混乱していると、大きな茶色い瞳が心配そうに私を覗き込んでいた。
私が手綱を握っていた、あの道踏みだろうか。
私を心配してくれてるようだ。
「おや、シグリッドさん! 目が覚めたのかい!?」
すぐそばから、安堵と喜びに満ちたタマエの声が聞こえた。
見ると、いつの間にか夜になっており、私達は小さな焚火を囲んで野営しているようだった。
空には満月に近い月が煌々と輝き、ブリガンテ平原の夜を照らしている。
「あぁすまない、心配をかけたようだ」
私が体を起こそうとすると、脇腹に激痛が走る。
思わず顔を顰めると、タマエが慌てて私の肩を支えた。
「無理しちゃいけないよ。アンタは空を舞うほど吹っ飛ばされたんだ」
タマエはそう言って、私の様子を気遣うように顔を覗き込む。
「しかし、驚いたねぇ。獣紋の民でもないのに、この道踏みにこれほど懐かれるなんて初めて見たよ。あんたが気を失ってから、ずっとそばを離れずに心配してたんだ」
この子が私を?そうだったのか。
私は戸惑いながらも、心配そうに私を見つめる道踏みの頭をそっと撫でた。
「ありがとう」と 小さく礼を言うと、馴鹿は穏やかな目で私を見返した気がした。
焚火の周りには、ヤヨイとフミツキ、そしてタマエの子供たちの姿があった。
さらに、私たちと同じ方向へ逃げたウホルチークの家族もいた。
彼らも心配そうな顔で私を見つめている。
「それで私はどれだけ寝ていたんだ?」
「驚いたことに、3時間ぐらいかな?」
声の主は月比古だった。
焚火越しにその姿が見える。
いつものようなへらへらした態度はなく、真剣な眼差しをしている。
あんなことがあったのだから、無理もない。
それでも、月比古の存在が、急に不気味なものに思えた。
あんな夢を見たせいだろうか。
紋章を変えることができるという話は聞いたことがあった。
ユサールの古い文献にも、いくつかの事例が残されている。
ただ、なぜ私があんな夢を見たのだろう。
いや、そもそも、あれは本当に夢だったのか。
月比古は、王であることは間違いない。
王命は、すべての
王は、地上に降りた時、民を造る。
それはつまり、民を創造し生み出すのではなく、他の紋章人を自身の紋章人として取り込むということではないだろうか。
夢の中で、私は私とは思えない思考をした。
自身の王ではなく、この得体のしれない腑抜けを王と認め、その臣下になろうとしていた。
こんな馬鹿な話があってたまるものか。
だが、もしあのとき、否定しなかったら・・・。
目が覚めた時に月比古に臣下にしてくれと懇願していたかもしれない。
「さて、姉さん。いやシグリッド」
彼の声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
それはまるで、王であるかのような威厳すら感じた。
夢を引きずっているのだろう、だからそう感じてしまうのかもしれない。
今は、夢の事は忘れよう。
それよりも、月比古は私に聞きたい事があるようだ。
当然と言える。
私には二人の姉がいて、そのうちの次女イングリッド・ハイザ。
彼女はブンタ達、獣紋の民を蹂躙した。
私は姉上の事を答える責任がある。
「僕はね、本当なら君たちに深く関わらず、日本に帰る方法を探すつもりだったんだ。異世界なんて、まったくもって馬鹿げてると思っていたからね。だから君のお姉さんの話も深く聞こうとはしなかった。これは、僕の落ち度だろうね」
月比古は、私の返事を待たずに話を続けた。
その瞳は真っ直ぐに私を捉え、逃がさない。
まるで尋問を受けているような気分だ。
しかも、月比古は尋問に慣れているような気がする。
「さて、君はお姉さんを探していると言った。だが、昼間のアレは何だ?君のお姉さんは、君を探していなかったようだね。いやそれ以前に、あの様子だと君がここにいることを知らなかったようだ。つまり、彼女の狙いは最初から君ではなく、獣紋の民だった。このタイミングで獣紋の民を標的にするとなれば、普通に考えればダークネスシャイン帝国の仕業だろう。ということは」
月比古はじっと私を見つめ、言葉を途切れさせた。
わざと間を置いている。
私に考える時間を与えるためなのか。
それとも、じわじわと追い詰め、逃げ場を奪うためなのか。
「君のお姉さんは今、帝国に所属しているか、あるいは協力しているということになる。そうだろう?」
私は力なく頷いた。
なるほど、これは間違いなく尋問だ。
月比古は、おそらく疑っているのだろう。
姉がダークネスシャイン帝国軍に所属していることを知っていたのではないか、と。
あれほどの力を持った人物がダークネスシャイン帝国に協力していたのに黙っていたな、と。
だが、私にもわからない。
何故、姉上がダークネスシャイン帝国に協力しているのか。
「とすれば、いくつか確認したい」
月比古は続ける。
「この世界では、紋章によって国や民族が分かれている。それで認識は合っている?」
「概ね、その認識で間違いないだろう」
「そして、ユサールと帝国は国交がなかったはずだね?」
そもそも、ダークネスシャイン帝国と国交のある国など聞いたことがない。
かの邪知暴虐とまで呼ばれるダークネスシャイン帝国は、話が通じるような国ではないとされている。
そもそも、紋章の異なる人間を受け入れる紋章国家自体、ほとんど例がない。
ダークネスシャイン帝国に限らず、異紋章の者を受け入れることは難しいのだ。
姉上が国を裏切ったあの事件も、その根本的な原因はそこにある。
異なる紋章を受け入れることができなかった。
それが、すべての始まりだったはずだ。
それなのに、なぜ姉上はダークネスシャイン帝国に加担しているのか?
私にだって理解できない。
「なぜ、翼紋章を持つ君のお姉さんが、剣紋章の帝国のために動いているんだ?」
随分と回りくどく聞いてくるな。
胸の奥で、ため息が漏れそうになる。
もっと率直に聞けばいいものを。
だが、この苛立ちは月比古に向けたものではない。
月比古は私に配慮しているのだ。
すれ違いがないよう、慎重に確認している。
それを煩わしく感じるのは、私に負い目があるからだろう。
だが、どう聞かれようと、答えはひとつしかない。
「私にもわからないんだ。」
そう答えるしかなかった。
「わからない?」
月比古は訝しげに眉をひそめる。
私は頷き、タマエの方へ視線を向ける。
「道踏み達も疲れているし、シグリッドさん。アンタもその怪我で動いちゃいけないよ」
タマエは私の意図を察してくれたようだった。
しかし、どこから話せばいいのか。
私は昔から、イングリッド姉上の考えていることが分からなかった。
尊敬していたし、姉上も私に優しかった。
それに、誇らしく思っていた。
長女のアストリッド姉上は第三王妃。
次女のイングリッド姉上は、王国最強の部隊を率いる隊長。
街を歩けば、二人を称賛する声があちこちから聞こえてくる。
私が二人の姉に勝る点があるとすれば、せいぜいこの顔ぐらいだろう。
アストリッド姉上のような賢さも、イングリッド姉上のような強さも、私にはない。
だが、劣等感よりも憧れの方が強かった。
だからこそ、イングリッド姉上が隊長を務める第一連隊への転属を告げられたときは、心の底から嬉しかったのだ。
ようやく、姉上のそばにいられるのだ。
ずっと遠くに感じていた姉上の背中を、少しでも近くで見られる。
剣を交えることもできるかもしれない。
姉上の戦い方を間近で学ぶこともできる。
そして何より、姉上が何を考え、何を望んでいるのかを知る機会が得られるかもしれない。
姉上の世界に、ほんの少しでも近づけるのだ。
私を姉上に認めてもらえる機会が訪れたのかもしれない。
そう思うと、嬉しさが込み上げてきた。
だが、すべてが狂い始めたのは、その日からだ。
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