おくれてきた天使
風待葵
Ⅰ
ゴールデンレトリバーのストラップを、右手で握りしめていた。先週末、イオンモールに行ったときに買った。携帯よりもおおきいじゃない。母はあきれ顔だった。綿がぱんぱんに詰まったレトリバーは、二本の前足を行儀よくならべて座っている。
わたしの高校には、制服も校則もない。ジーンズのポケットに携帯電話を入れて、ストラップを外にぶらさげると、ちょうど握りやすい位置にくる。
したくちびるを噛んだ。眼のまえにある扉を叩くまで、あと何分かかるだろう。廊下のどんつきにある国語準備室に、生徒は寄りつかない。準備室の手前が階段なので、たいていは、通りすぎるだけだ。準備室は先生が仕事をする部屋だけれど、職員室とのちがいは、よく知らない。
きのうは、現代文の授業を休んでみた。そのぶん、放課後に個別で補習をしてもらえる。
チャイムが四限の終わりを告げたとき、先生は、放るようにチョークを置いた。神経質そうな指先が、白く汚れていた。手の甲で眼鏡を押しあげ、黒板を一瞥する。シャツを着た背中は、背骨を挟んで、左右にゆるやかな起伏を描いていた。黒板消しを、行頭からまっすぐ、したに走らせる。腕を上下させるたびに、ライトグレイのストライプが歪んだ。わたしが声をかけたのは、先生が、腕をいっぱいに伸ばした瞬間だった。右足の踵が、床から浮いていた。
国語準備室に来てください。場所はわかりますか。二階です。
それだけ言うと、また、黒板に向きなおる。午後の陽差しが、先生の黒髪をすべっていった。光を浴びた髪に、虹がかかる。教室を出しなに、教壇のほうを窺うと、チョークの消しあとが、罫線のように残っていた。
先生は、恋人の有無を訊くと、秘密、と答えたし、歳を訊くと、百歳、と答えた。お調子者の生徒が茶化すからだと思うけれど、わたしには、訊ねる勇気すらない。恋人の有無はともかく、歳は知りたかった。先生が子年だったら、うれしい。十二歳うえの俳優や歌手の写真と、先生の顔とを、見くらべてみた。ありえる。
今年から、現代文の担当が変わった。一年生のときは、田坂という先生で、声は朗々としていたけれど、板書の文字が読みづらかった。いまの先生は、板書の字こそ整っているが、話しかたは単調だし、午後の授業では、寝ている生徒も多い。
「千明?」
呼ばれて顔を向けると、右肩にリュックサックを引っかけた雪乃が、廊下を歩いてくる。声が通るので、少し離れたところからでもよく聞こえた。軽く手をあげて応える。雪乃は、ショッキングピンクのセーターに、黒いレザーのミニスカートを合わせていた。稲妻型のピアスが両耳で揺れる。高い位置でポニーテールに結った金髪が、ひとすじ、肩にかかっている。彼女は数学が得意だ。高校入学後の模試で、学年一位を獲った。
「残ってるなんてめずらしいじゃん、駅まで一緒に行こうよ」
雪乃が髪をうしろに払った。
「これから、現代文の補習あってさ。きのう休んだから」
眼を軽く細め、眉までしかめて、だるさを装う。雪乃は、もう片方の肩紐に左腕を通しながら、えーっ、と声を張った。
「べつに受けなくてよくなあい。一学期とか学年一位だったじゃん、余裕だよ、一回くらい出なくても」
彼女の伸びやかな声は、準備室のなかに届いてしまっただろう。
「まあ、いちおうね、出ようかなって」
とりあえず、笑っておく。
「えらいね。じゃ、また明日」
ひらりと手を振って、ニーハイブーツの踵を鳴らしながら、階段をおりていく。うちの学校には、校則も制服も、さらには上履きもない。土足だ。
ふっと息を吐いた。準備室の扉を二回、ノックする。先生の真平らな声が応えた。
「失礼します」
少しずつ扉を開けていくと、ふうっと、コーヒーの香りがただよってくる。入口の真ん前の椅子に、先生の背中があった。シャツの襟から伸びたうなじが、わたしの眼より低いところにあって、思わず眼をそらした。まぶしい。首よりも、頸という字が似あう。
「それ、犬、ですか」
先生の声が聞こえて、顔を向ける。うなじが見えないかわりに、まなざしとぶつかった。
「あっ、えーと、そうです。ゴールデンレトリバー」
先生が、授業に関係のないことを話すとは、想像もしていなかった。
「重くない?」
「重いけど、かわいいから」
先生は、釈然としない表情でうなずいた。
準備室に入るのは、はじめてのことだ。たぶん、進路指導室と同じくらいの広さだけれど、棚に囲まれているせいか、かなり狭く感じた。ガラスの引き戸の奥には、本の背表紙がびっしりならぶ。入り口から見て右奥にある窓には、黄ばんだレースカーテンがかかっており、渡してある落下防止の棒が透けてみえた。デスクはぜんぶで五台あり、置いたというより、無理やり詰めこんだというほうが正しい。
「宮沢先生の椅子を借りましょう。右隣の」
ごつごつした指がデスクを指す。宮沢先生は、たしか、古文を担当している。机上が片づいているところを見るに、きょうは休みなのだろうか。土曜日にも授業があるので、先生たちは日曜日以外にもう一日、休日がある。
「金曜日は、僕以外でここを使う人がいないんですよ」
言いながら立ちあがって、隣のデスクから、キャスターつきの椅子を転がしてきた。先生はデスクの左半分に自分の椅子を寄せたが、サイドワゴンが邪魔をして、身体がわたしの斜めうしろにくる。
「ええと、綱島さんは五組だから」
先生が足を組み、教科書を腿に載せてひらく。リュックサックを床に置き、現代文のノートと教科書、筆箱を出した。眼のまえに、コーヒーの入ったマグカップがある。残りは半分ほどで、湯気は見えない。
「ちょっと、ノートを見せて」
前々回の授業で書いたページをひらいて、先生に手わたす。眼鏡の奥の瞳が、くっくっと動いて、わたしの字を読んでいる。板書は残さずとっているが、落ちつかない。
「はい、ありがとう」
読める向きで、ノートを差しだした。わたしが筆箱からシャーペンを出すのを待ってから、先生は教科書を一段落ぶん音読する。文字を追いながらも、左耳に神経がいく。教室よりもおさえた声が、新鮮に聞こえた。先生にしてみれば、こちらのほうが、ふだんの声といえるのかもしれない。大勢のまえで何かを話す、それも毎日と考えると、教師はなかなか変わった仕事なのではないか。
音読を終えると、B5のノートをひらいて、わたしの左手の横に置いた。板書をまとめたものらしい。細いボールペンの筆蹟が、眼にしみる。黒板で見るよりも、さらに端正な字だった。行頭をペンのお尻で指しながら、テキストに解説を加えていく。うなずきながら、一行一行、写しとる。
「ここまでが、昨日の三限でやったところ」
ずいぶん早い気がして、腕時計を見る。まだ、三〇分しか経っていない。五〇分かけて授業するところだが、はしょったのか、さっと終わらせてしまったらしい。
「四限の内容もやってしまいますか。時間がなければ、来週でもいいですが」
二年生からは、選択授業が増える。大学で困らないようにとの配慮らしい。選択必修の科目は、二コマずつで取らなければならないので、一度欠席しただけでも、追いつくのが大変だ。
「また、三〇分くらいで終わりますか」
用があるわけではないが、訊ねてみる。
「綱島さんなら、終わるでしょう」
ノートから眼をあげて、先生のほうを振りむいた。
「関係あるんですか」
「そりゃあ、生徒によって、どのくらい噛みくだくか、ちがいますからね。綱島さんは、ちょっと言えばすぐにわかるし、そもそも、ちゃんと聴いているじゃないですか」
言いながら、耳のうしろを掻いた。眼鏡が、わずかにがたつく。
「ふつうだと思います」
わたしが答えると、先生は薄く微笑んだ。運動部のかけ声が、かすかに聞こえてくる。現代文が唯一の得意科目なのはほんとうだけれど、その理由が、聴くことに長けているからだとは思えなかった。
「じゃ、進めましょうか。もう一限ぶん」
先生が、教科書のページをめくった。わたしは、居ずまいをただして、さきの内容を音読する声に耳をすます。
「では、つぎの段落は綱島さんが読んでください」
先生の手が伸びてきて、うえからマグカップをつかんだ。長い指先が、UFOキャッチャーのアームのようだ。眼の端で、先生をうかがう。スラックスを穿いたひざがしらが見えた。布が骨のかたちに沿っている。ひざのかたちは、人によってちがいがおおきいらしい。視線をはがして、机に置いていた教科書を手に取る。息を浅く吸った。読んでいるあいだ、ときおり、先生がカップをくちびるに持っていく気配を感じる。
言われたとおり、補習は、三〇分を少し過ぎたところで終わった。のどが乾いて、リュックサックから水筒を出す。なかみは黒豆茶だ。家の飲みものは、母の好みと気分によって、ときどき変わる。黒豆茶のまえは小豆茶、そのまえはルイボスティだった。口に含みながら、空いた手でノートを閉じる。
「綱島さん、ちょっといい」
お茶があふれそうになり、口元を押さえる。くちびるを離すのが早すぎた。わたしがうなずくのを待ってから、「あのですね」と切りだした。
「学校案内のパンフレットに、在校生の文章をいくつか載せることになって。学校生活がどんな感じかとか、好きな授業とか、中学生に向けた内容で、書いてみてくれませんか」
先生のまなざしが、心なしかやわらかい。
「いいです、けど」
断ることなどできないのに、けど、なんてよけいな言葉をつけてしまう。
「そう。よかった」
先生は、見たことがないほど、やさしく笑った。つりあがりがちの目尻が、すうっとさがる。鎖骨のあたりから、湯気が立ちのぼるような感覚があった。
「原稿用紙一枚におさまるくらいでお願いします。いちおう、何枚か渡しておきますから、自由に使ってください」
先生は椅子から立ちあがり、こちらに背を向けて、棚の抽斗のひとつを開けた。紙のこすれる音が聞こえる。そのあいだに、教科書とノートをリュックサックにおさめた。先生のマグカップに、コーヒーが残っている。立ちあがると、水面がかすかに揺れた。たぶん、ブラックだ。
「いつから、ブラックで飲んでるんですか」
振りむいた先生は、不思議そうな表情を浮かべたが、カップを見て、合点がいったように「ああ」とつぶやいた。
「二十歳になって、すぐかな。間に合った、と思ったから」
「間に合った?」
先生が原稿用紙を差しだす。
「会食でね、コーヒーしか、えらべなかったんです。その少しまえに、やっとブラックで飲めるようになったところだったから」
会食といわれて思いつくのは、親戚の集まりくらいだ。とはいえ、飲みものの種類が少なかったことはあっても、えらべなかったことはない。二十歳というと、大学生だろうから、アルバイト先などだろうか。
「や、暗くなってきた。このごろは日が短いな。綱島さんは電車でしたっけ」
先生が窓に眼をやった。カーテンが夕陽に染まっている。
「国分寺です」
「じゃあ、吉祥寺から中央線か」
吉祥寺駅から井の頭公園を越えたところに、高校はあった。駅に着くころには、もっと暗くなっているだろう。クリアファイルに原稿用紙をしまって、リュックサックに入れる。先生は、わたしの支度が終わるまで待っていた。
「僕も、コーヒーを取りにいきます」
マグカップを手に、準備室の扉を開ける。職員室は一階だ。ならんで階段を降りる。夕方の校舎は、よそよそしい。いつもより、遅めに歩いた。話したいことがいくつも浮かんで、いそいで歩いたら、はちきれそうだ。職員室が見えてきて、右手でレトリバーを握る。
「お願いした原稿、来週中に出してもらえると助かります」
先生は、ドアノブに手をかけた。わたしがうなずくのを見とどけて、「さよなら」と背を向ける。白い頸は、薄暗い校舎でもまぶしかった。少しのあいだ、閉まった扉を見つめていた。口のなかで、さよなら、と答える。
一足飛びに、先生に追いつくことができたら、先生と同じだけの時間を経験していたら、こんなふうに、息を詰めなくてもいい。
十代なんか、さっさと終わってしまえばいい。
スニーカーのつまさきが痛い。そういえば、親指の爪を切りわすれていた。宵闇が追いかけてくる通学路を、早足で歩いた。
リュックサックのサイドポケットから、iPod Touchを取りだす。本体に巻きつけたイヤホンをほどきながら、校門を出た。斜めうしろで、女の子たちの明るい笑い声があがる。中学のときから聴いているロックバンドが、先月、あたらしいアルバムを出した。学校の行き帰りに、くりかえし聴いている。
玉川上水沿いを歩くと、気持ちが翳る。水位は低く、流れもほとんど感じないけれど、川べりにうっそうとそびえる木々が、空を半分ふさいで、いつもじめじめと暗いのだ。川を過ぎたら、小さな広場に出る。中央には、大蛇のようにうねる道があり、右手には公衆トイレ、左手にはベンチが置かれている。朝でも薄暗く、あるのはカラスの姿ばかりだ。校門から広場までの道のりは、あまり好きではない。
中学生のわたしは、たくさん笑ったものだった。この学校は、小学校から高校まである一貫校だが、小中高のどこからでも、受験して入学することができる。わたしは、中学受験で「外部生」として入学し、高校に進んで「内部生」となった。中学校は四クラスだったが、高校では六クラスに増えた。
あのころ、たしかにあった光は、どこかに消えてしまった。話し相手がいないわけでもなく、かといって、楽しいこともなく、ただ、家と学校を往復するだけの毎日だ。二年生にあがるときのクラス替えに、ひそかに期待を寄せていたけれど、わたしの周りは、雲で覆われたように薄暗いままだ。
祖父にもらった、古いラジオを触ったときのことを思いだす。つまみをゆっくり回していくと、ざあざあという雑音が消える瞬間がある。少しでもずれると、話し声は嵐に飲みこまれてしまう。そんなに、むずかしいことだろうか。誰かと話したり、笑ったりしたいだけなのだ。つまみを右に左にひねりながら、わたしは、ずっと、雑音から逃れられない。
住宅街から急な坂道をおりると、井の頭公園に出る。平日の夕方とあって、人通りはあるものの、混雑はしていない。明日は土曜日だから、公園はたくさんの人でにぎわうだろう。土曜日は、授業が四限で終わる。昼どきの公園は、毎週ひどい混雑で、通学路として使うだけの身としては、うっとうしいこと、このうえない。濁った池に浮かぶスワンボートたちを尻目に、わたしはいつも急ぎ足だ。
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