マロンの後悔(2/4)
「進展も何も…!
先輩ほんっとに隣の実験棟から出てこなくて…
同じ研究室なのに、最近見かけてすらないよー!」
「心中お察ししますわ…。
この研究室、研究バカ多いよな…。」
暗い顔をしてコーヒーをちびちび飲むハルを横目に、アールははぁーとため息をついてソファに深く座り直した。
「進展…ね。
…マロンさんにとって俺は、
いつまでもコーヒー淹れにくる他人な気がするよ…。」
それを聞いたハルがにこっと笑って言った。
「…そうでもないんじゃない?」
***
なんだかさっきアールを見た時、心臓がざわっとしましたね…。
稀に起こる現象…アールにしか起こらない気がしますが…。
マロンは実験棟に向かって歩きながら、先ほどのやりとりを反芻していた。
『今日も可愛いですね』『好きです』
マロンはくすりと笑う。
…変な人です。
よくあんなに色々な冗談を思いつくものです。
アールみたいな人は周りにいない。
それで他の人と違う感じがするのでしょう。
…でも何か、それだけでは説明がつかないような…。
そう、まるで実験中に大事な見落としをしてる時みたいな感覚…。
「…なぁ
あの栗色の髪の女ってどこの誰?
ほら、よく実験棟に籠ってる。」
「あぁ、俺の隣の研究室の子だよ。マロンとかってあだ名の。
あの子の親、別の大学の結構有名な教授らしーよ。医学系の。」
「へぇ〜すげ。」
研究棟と実験棟をつなぐ無骨な渡り廊下で二人の男が話している。
マロンはとっさに柱に姿を隠した。
私の話をしている…?
「あの子はたしか…香料…なんかニオイの研究してる。」
「へぇ。あの子顔かわいーけどさ、
いつ実験棟行ってもいるから怖えんだよな。」
「それわかるわ。
前、どうしても実験結果確認しときたい時あってさ、
深夜、飲み終わりにここ寄った時もいたぜ。
もはや大学に住んでんじゃね?」
「女子でそれはやばすぎでしょ。」
「でも親が教授で、あんだけガチな割に、成果とか聞いたことねーな。」
「まぁ…それはほら、そう言うことなんじゃね。」
「親の七光りとはいかなかったわけね。」
はは、とかわいた笑いが無骨な渡り廊下に反響した。
2人の男はそのまま軽い雑談を交わしながら、実験棟に向かって行った。
マロンは、青い顔をして立ち尽くしていた。
周りに知られてるんだ。お父さんのこと。
私に、研究の才能がないってことも…。
しばらく立ち尽くしていたマロンの顔から表情が消え、瞳の光も消えた。
…大丈夫。
成果を出せばいいだけ。あんなの別になんでもない。
私としたことが、気が緩んでいました。
嘆いている時間も休んでいる時間もないです。
もっと集中しなければ。もっと全部捧げなければ。
研究に必要ないものは全部…
「マロンさん?」
切り捨てないと。
「どうしたんですか?こんなところで立ち止まって。」
廊下を歩いてきたアールが不思議そうに、マロンの顔を覗き込んだ。
「もしかして体調崩したとかですか?」
優しい顔。柔らかい声。
コーヒーの香り。
マロンの顔が小さく歪んだ。
「…アール。もう研究室には来ないでください。」
「え?あぁ、俺、今日はもう帰るんで、だい」
「今日だけじゃなくて、もう二度と、です。」
マロンがかぶせるように言った。
アールは突然のことにきょとんとしている。
「研究の、邪魔。
…なので。
…っ…では、これで。」
マロンはそう言い残すと、実験棟へ走り去っていった。
ひるがえる白衣と、窓の外の雪がやけに灰色がかって見えた。
***
数日後の研究室。
ハルが電子レンジでコンビニのおにぎりを温めている。
するとよろよろのマロンが入ってきて、自席に積まれた資料の山の上に突っ伏した。
「わ、マロンさん!
な、なんかやつれてません…?
ちゃんとお家帰れてます?」
「3日前には…。」
「えぇ〜⁉︎」
心配ですよーと後ろからハルが言う。
マロンは寝不足の頭でぼんやり考えていた。
…ここのところ変です。
研究だけに集中できているはずなのに、成果は上がらないし。
私自身もなんだか、とても疲れていて。
いつもならこのくらいのハードさ、なんでもないはずなのに…。
マロンは顔を上げて、研究室を眺めた。
なんだかもう研究室まで違和感を感じます。
何か、足りないような…。
マロンは窓から降りしきる雪の中を歩く学生たちを見下ろした。
寒そうに寄り添い歩く女子学生たち。
その手には学内にあるカフェのコーヒーカップが握られていた。
それを見たマロンは、あ、と思った。
あぁそうか。
コーヒーの香りがしない。
…アールが、いないから。
私が邪魔だと、言ったから。
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