実験棟の香り姫
朱峰(あかね)
マロンの後悔(1/4)
あぁぁまた実験失敗…!
雪のちらつく大学の研究室棟で1人の少女がうめいている。
…これで仕込んでいたサンプルは全滅。
午後からの実験の予定も組み直さないとです…。
少女は大きなため息をついて、
両腕に抱えていた大量のノートや実験器具をどさどさと机に置いた。
全部やり直すとして…え?
報告会は3日後です…よね?
え?今日帰れます?
という私寝られます?
栗色の瞳と、くるんと癖づいた栗色のポニーテールが印象的なその少女は、スケジュール表と実験手順の書かれているノートを交互に見て、いつ終わるともしれないこれからの道のりに愕然とした。
その時、コーヒーの香りが彼女の思考を止めた。
大好きな香りに、少女はぱっと後ろを振り返った。
「アール!」
「お疲れ様です。マロンさん。
コーヒー淹れましたけど、飲みますか?」
マロンと呼ばれた少女は、
給湯室のようなスペースでにこやかに笑う少年、アールを見つけた。
細身で背の高い少年は、爽やかな雰囲気を纏っており、この無骨な研究室にはいささか不釣り合いに見える。
「アール…あ、はいっ飲みます!」
マロンは、アールの近くへぴょんと移動した。
アールはすっとマグカップに淹れたコーヒーを手渡す。
マロンは待ちきれないとばかりにすぐに口をつけて、ほーっと息を吐き出した。
「ありがとうございます。やっぱりアールの淹れるコーヒーは一級品ですね。バイト経験が活きてるのでしょうか?」
「いやぁ、カフェのバイトではここまで丁寧に淹れないですよ。マロンさんのためなら特別です。」
「そうですか。それはありがとうございます。」
アールは何か言いたそうにしたが、研究室に戻ってきたマロンの同期や後輩の声にかき消された。皆アールに軽く挨拶をしていく。アールも軽い会話や挨拶を返す。マロンはそれをコーヒーを味わいながら眺めていた。
「…みんなアールが研究室にいること、もうなんとも思っていませんね。本当は部外者は立ち入り禁止なんですが。」
「はは、俺はど文系ですしねぇ。まぁ一応、父親がいますんで。ギリ関係者ってことで。」
「そうですね、責任者が黙認しているならそれに倣いましょう。それにしても最初に教授がアールのお父様と知った時は驚きました。雰囲気が全然違いますからね。」
「親父は結構ふざけた人間ですからね。」
「私は結構好きですよ。研究室全員あだ名ルールとか、なかなか面白いです。」
「息子の俺すらここではアールって呼ばれますもん。」
アールはやや呆れ顔で言った。マロンは小さく微笑んでみせた。
それを見てアールはちょっとだけ目を見開き続けて言った。
「マロンさん今日も可愛いですね。」
「はは、それはどうでしょう。」
「好きです。マロンさん。」
「はい、ありがとうございます。」
不満そうなアールを尻目に、マロンは自分の席へ歩を進めていた。
心ここに在らずなその様子から、すでに脳内で実験スケジュールを組み立てているのだろう。
早速作業に取り掛かろうとする様子を見て。アールは後ろから声をかけた。
「そうだ、マロンさん。一緒にイルミネーション見に行きません?」
「うーん…。」
マロンは席に着き、パソコンの画面から目を離さず空返事をする。
「みなとみらいの駅前でまだやってるらしいんですよ。夜、研究終わった後でデートしませんか?ここからすぐですし。」アールが後ろから椅子に手をかけながら言う。
「うーん、そうですねぇ、今ちょっと忙しくて…。」
マロンがアールの方を見上げると、思ったよりも間近にアールの顔があった。
端正な顔立ちが際立つ微笑みを浮かべている。
マロンは何故か、アールから目が離せなかった。
その時、ピピピピと大きな音を立ててアラームが鳴った。
マロンが朝早く仕掛けておいたものだ。
「あ!次の測定の時間です!
実験棟に戻らないと…アール、コーヒーご馳走さまでした。」
「あ、マロンさ…。」
マロンはノートや資料をがばっと抱き抱え、走り去るように研究室を出ていってしまった。
その姿を見送るしかなかったアールは呆然とし、近くにあったソファにぼすんと座り込んだ。
その時、後ろからふふっと笑い声が聞こえた。
「アール、今日もやってるね〜。
うちの大学のミスターがあんな扱いなんて
みんなが知ったらびっくりだろうね。」
桜色の髪をボブにして、白衣を着た女の子が立っていた。
「ハル…お前…こそこそ盗み聞きなんて趣味わりーぞ。」
「こそこそなんてしてないし!
ここは私の研究室でもあるんだから。
あ、コーヒーだ!
もらうね〜!」
「はーい、どーぞ。
ていうか他人のことよりお前こそ先輩と進展ないのかよ。」
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